中村 光夫『時代の感触―時のなかの言葉』(文芸春秋) | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

中村 光夫『時代の感触―時のなかの言葉』(文芸春秋)



中村 光夫
時代の感触―時のなかの言葉』(文芸春秋)

あるものを愛しつづけるのは、それが一生のこととなると、なかなかむづかしいので、文学の世界がどれほど広大であっても、これを養分として精神を生き生き保つのは、若いころ思っていたほど簡単なことではありません

中村光夫がかくいってのけることに驚愕しつつ、続きを読んでみる。

それを本気で心がけている者のひとりとして、この小著が僕と同じくらいな年齢の人になにか役立てばと思います。
 現代で一番切実に文学を要求するのは、──本文でもふれた通り──人生から一歩退く時期にさしかかった人達と思われるからです


59歳の中村光夫が書いているのは、いうまでもなく「文学の世界」から「精神を生き生き保つ」「養分」を「本気」で得ようとすることである。いいかえれば、「本気」でその世界を生きようとすることである。

かつてジャンボ鶴田が全日本プロレス入団の記者会見において、「全日本プロレスに就職します」といったことは周知のとおりだが、おそらく中村にいわせれば、現在の日本における「文学」なるものを志す人間も「文学に就職します」といったものでしかないだろう。

かつての「文学」とは、そのかたちはそれぞれで異にせよ、つねに被害者として書き綴られたものであった。世間や家族、国家といった圧迫への追従であったり諦念や闘争だったわけだが、そういった条件はすでに存在しない幸福な時代が到来している。そのなかで「文学」を生きるとはいかなる事態なのか。

中村は技術としての文学を非常に意識している批評家である。それは「文学」に携わる以上、ある意味で当たり前のことなのだが、そういったことを問う前に、「文学」を生きるということがすでに不可能になりつつある現代、つまり生としての文学から余暇としての文学へと変容した現代において、そこから「養分」なるものを獲得するとはいったいどういったことなのか。

おそらく「精神を生き生きと保つ」「養分」なるものは「文学」には存在しないかもしれない。しかし、あたかもそれが存在するかのように錯覚を生きること。しかし、その生きられる錯覚を可能にするがごとき「文学」自体が、もはや現代ではありえないのではないか。文学とは生ではなく或いは何かのやむをえない切迫によって営まれるものでもない。それがたとえ就職口のひとつであろうと、養分をもたらすような「嘘」を書く「技術」すらろくにもちえない人間が犇くことへの静かな嘆き。

中村は、文学にきわめて高きを望む。それに応えることを難しいかもしれない。しかし彼がいうように、生きること自体がすでに不幸であり、それへの反応として文学が書かれてきたのであるならば、現代でそれが果たして不可能であるかと問うことは一興だろう。

書く必要がない人間までが「文学」に「就職」することはない。おそらく、いまほど「文学」が必要とされていない時代は、かつて存在しなかったのだから。

購入金額:300円。於:世田谷区古書店。
★★★★☆