ジャーマンカーブは誰が呼び始めた??
テーマ:セミーモズレーの過去『 ジャーマン・カーヴは誰がつけた名前? 』
『 それは私です。』とセミーは答えた。
モズライト・ギターの多くに見られるその特徴的な段差的なトップ・エッジの形状は、現在では一般に『ジャーマン・カーヴ』と呼ばれています。
モズライトの場合、ホーン(ツノ)の部分に達したそれは、先端へと左右から寄って行き、そこに3次元的な立体を形成し、他方、ボディの主たる部分はたおやかな曲線と溶け合って、その全体は、観る者に何か芸術的な素晴らしいものと対峙しているかのような感覚を呼び覚ましますよね。これが、セミー・モズレーのファビュラスなギター・センスなんです☆
セミーがギターを造り始めた50年代、そして大発展をした60年代、この様なトップ・カーヴは、当時から各社で既に存在していたのに、一般的な共通呼称はありませんでした。
70年代の前半、セミーが新型のギターを発表した時、トップ・カーヴを『ジャーマン・カーヴ』と呼んで紹介したのが、実は全ての始まりだったのです☆ご存知でしたか??
どうしてセミーはジャーマン・カーヴと呼んだのでしょうか??
セミーの本格的ギター造りの母体となったのは、ポール・バースが率いていたリッケンバッカーの製造工場であり、そこに東からやってきたロジャー・ロスメイスルのドイツ的・ギター・デザインが加味されていますね。
ロジャーは60年代にリッケンバッカー社を辞め、次にフェンダー社の各種ギター製造を指揮しています。また、自らもドイツ的デザインの高級フルアコ・ギターをフェンダーの名の下に造っています。その彼がドイツへ戻っていったのは、70年代の半ばに差し掛かった頃と言われています。それは、セミーがモズライトの新型を出した頃でした。
おそらくセミーは、自分にギター・デザインのレクチャーをしてくれたロジャーの功績を、何らかの形で残したかったのでしょう。だから、ちょうどこの頃から積極的に『ジャーマン・カーヴ』といい始めているのです。
決して『モズレー・カーヴ』とか『モズライト・カーヴ』とは呼びませんでした。『ロスメイスル・カーヴ』と呼ばなかったのは、ドイツのデザインを教わったということをアメリカ人の名誉として、誇りを持ってそれを表現したのでしょうね。
名誉と誇りは大切です。50年代に少年に伝えられたドイツのギター・デザインが、アメリカの地でもしっかりと根付き、さらにはギター製造の世界でひとつの呼称を持って生き続けてほしい、そんな気持ちがあったのでしょう。
このセミーの努力の結果、それ以来約40年が経過した21世紀の今では、モズライトを筆頭に、このようなギターのトップ・カーヴは、部分にしろ、全体にしろ、ほぼ『ジャーマン・カーヴ』と表現されることとなりました。セミーの努力は今ここに実ったのです☆
ここで『ジャーマン・カーヴ』の本質を知りたいと思われた方のために、サイトをひとつ紹介しておきます。セミーのベター・ギターのマインドに、何らかのインフレンスを与えたと考えられるドイツ製ギターのデザインを楽しめる宝箱のようなサイトです。http://jazzgitarren.k-server.org/menu2.html








1 ■そういえば
モズライトのモデルで「コンボ」というセミアコース
ティックギターと、ジョー・メイフィス・ホロウボディ
等のモデルが、リッケンバッカーがかつて生産し
ていたホロウボディモデル「コンボ」と同じボディの構造らしいですね。ボディ材を裏からくり抜い
てチェンバー構造にして、同じ材の板で裏側から
そのくり抜いた後を塞ぐという構造が、モズライト・
コンボの造りと同じだという事を書籍で見た事が
あります。レイ・ボートライト卿とロジャー・ロスメイ
スルが、セミーのギター作りに多大な影響を与え
たという点で非常に興味深い所です。
話は変わりますが、私の周りの、いわゆる「オヤジバンド」の中では、インクブルーのモズライト
の人気がパールホワイトに次いで高いみたいで
す。まだラインナップの中に無いようなので、是非
加えていただければマニアは喜ぶのではないか
と思います。それからレアカラーのストロベリーレ
ッドや、チェリーサンバースト(中央が赤一色の別
名ブラックチェリー)をコレクターズエディションや
オプションで加えるのも面白いかもしれません
(これらのカラーは文献で存在が確認されています)。
さらに1ピックアップ、2ピックアップのベースの発
売にも期待したいところです。
一日も早いトラブルが円満に解決して、再びカ
リフォルニアの空の下で生まれたモズライトが世
に送り出される事を願っています。