1963年 『ホンダとモズライト』
テーマ:セミーモズレーの過去セミー・モズレーがヴェンチャーズと握手をし、モズライト・ヴェンチャーズ・モデルの量産化に向けて、日々悪戦苦闘していたのが1963年でした。
そのベイカースフィールドから北東にあたるモハヴェ砂漠の端の方、カリフォルニア州とネヴァダ州の州境の山々に沿うように、デス・ヴァレーと呼ばれる幅のある長い谷があります。そこは、塩湖が干上がった後の谷で、アメリカでも1番、世界でもまれな高温地帯としても知られていて、56.7度というとんでもない高温の記録があるそうです。谷のほとんどはカリフォルニア側で、今では全米最大のデス・ヴァレー国立公園となっています。
1963年の夏、この谷を通る1本のルートを、疾駆する小さな日本車2台がありました☆(あったはずです)この世界に知られた恐ろしく暑いといわれるアメリカの谷、デス・ヴァレーを全力疾走していたのは、米国仕様左ハンドルの2台のホンダのSだったはずです☆
ホンダは第9回(1962年)の東京モーター・ショーでホンダ・スポーツと呼ぶ2座席車S360とS500を発表。S500は翌年発売され、テストと宣伝写真の準備に2台をホンダ・アメリカに送ったと伝えられています。
当時ホンダは、アメリカで死の谷を走るSの写真を国内パンフに載せ, この米国テストの直後、発売されたばかりのS500を606ccに排気量アップし、S600へと生産を移行する決定をしたのではないかと思われます。とすると、テストで送られた2台とはS500とS600各1台の可能性がありますね☆
さて、このホンダの2座席スポーツカーS500のエンジンにはニードル・ローラー・ベアリングが使用されていました。組み立てクランクのビッグ・エンド(大コンロッド)やカム・シャフト等に使っていたらしいです。本田宗一郎は『このエンジンはみんなニードル・ローラーだ!』と説明したとか?
セミー・モズレーの創り出したモズライト、そのヴィブラート・ユニット『VIBRAMUTE』も『MOSELEY』にも、軸受けにセットされていたのはやはり『ニードル・ローラー』だったのです。
ニードル・ローラーとは主に高回転のシャフトの軸受けに使われるレベルの高いベアリングです。言葉通り針かピンのような細いコロが軸の周りを取り囲んでいるのです。ホンダのDOHCエンジンの高回転狙いは目的から当然としても、セミーはどうして使ったのでしょうか☆
憧れの速弾き師匠レス・ポールを越えるため、このベアリングを使った自製のユニットを組み込んで、師匠にも絶対不可能な目にも留まらぬスーパー・スピードのハイパー・アーミングを実現するつもりだったのかもしれませんね☆
セミーによれば、このニードル・ローラー・ベアリングを採用したのは、6本の弦を同時に回転させる軸位置を下げることを考えたのがそもそもの始まりだったそうです。
それは回転軸の中心から、各弦の位置をそれぞれ設定することにより、全体の音程をホールドしたまま変化させられると考えていたからでした。
しかし、それまでのしっかりした大きなローラー・ベアリングを使用すると、その直径の関係でシャフトの軸中心が高くなってしまう事、軸径が大きいと軸中心からの距離に制限が出来、微妙な音程変化のアジャスト・スペースを上手くとれない事、さらに、ネックとボディの納まり具合の設定では、ボディのトップに穴を掘って軸受け部のベース・ユニットを埋めざるを得ない場合も生じます。
他にもスプリングでバランスをとるのに摩擦を考えたり。。。と、実際いろいろあったようなのですが、これらを何とかしたいと考えたんですね☆
軸をしっかり保持させたいので、コンパクトで直径よりコロ軸受けの長さが長いもの。そして、これまで以上にフリクション、つまり接触抵抗の少ない物に的を絞って探した結果、入手した物は航空機用の部品となり、高速回転するシャフトを滑らかに滑らかに受け止めるべく造られた当然の高級品でありました。
それについて、セミーは余剰物の放出品(軍の?)を手に入れた!と語っています☆
探せば、きっとボールでも小軸径のものがあったはずですし、ローラーなら小軸径で長いものがあったはずなのですが、セミーはそれを使わずあえて別のものを探したようです。
そしてそれは、すでに市場にあったものより良い結果を引き出す可能性が高いと予想されるものに絞ったからでしょう。ベター・ギターへのセミーの希求は、誰もやっていないことを実現しようとした本田宗一郎の精神に通じるようにも思えるのですが、いかがでしょうか☆☆
ついでに書いちゃいます☆
1963年は2輪で世界の頂点に立ち始めたホンダが、アメリカでも正当に認められる事となって行った絶好調の年でした。
この頃カブのヴァリエーションは、ポートにハンター、スポーツといろいろ増えていたはずで、今考えると正にCMソング?の『リトル・ホンダ』がチャート・インしたのは翌年の1964年です。インしたのはビーチ・ボーイズではなくてホンデルスだそうで、やっぱりCMソングだったのかな?。カブとは別のペダル発進モデル(戦後のエンジン付自転車の超進化版?)が『リトル・ホンダ』という名で日本で出たのは、もう少し遅れて最初のエレキ・ブームの後、つまりあれはもうGSの頃になっていたかな?ちょっと元気な女子高生が、サックスとかピンクとかホワイトのメットかぶっての通学風景は、今も覚えています。
YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA
TOMORROW’S GUITAR …TODAY! MOSRITE
これが60年代の前半だったんですね。










