不安の効用

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不安になるのは、悪いことではない。

不安は、将来起こるかもしれない悪いことを、予防する効果がある。

 

学生時代に、大変成績のいい同級生がいた。この人は、試験日時の3ヶ月も前から、不安でたまらなくなると言っていた。

 

早くから一生懸命勉強していて、普通の学生が、ぼつぼつ試験のことを考えようかというときには、試験対策はとんど終わりかけていた。

 

不合格になるのではないかという不安が、勉強に駆り立てたのである。

 

不安の軽い人は、まだ大丈夫と安心しているうちに、間に合わなくなって試験に落ちることになる。

 

だから、不安が起こったときには、自分は何が不安なのかを考えて、不安なことが現実にならないように準備すればよい。

 

不安そのものをなくそうと考えるのではなく、不安の元になっているものを、解決すればよいのである。

 

不安に対して対策を立てるのではなく、不安の元になっている物に対して行動を起こすのである。

 

山道で熊に出会った場合はどうであろうか。

 

このときは、かまれるのではないかという恐怖が起こる。

 

精神医学では、何が恐いのかその対象がはっきりしている場合を恐怖といい、対象のはっきりしない恐れを不安という風に区別するが、一般での使い方は、かなり曖昧である。

 

ここでは、曖昧な使い方をする。

 

熊が恐いということは、熊に襲われたくないないからである。

 

ここでも、不安、恐怖に対して対策を立てず、熊にやられないようにするには、どうしたらよいかを考える。

 

自分より熊が強いと思えば、逃げた方がよい。あらかじめ、上手な逃げ方を学んでおくことである。

 

立ち向かわずに逃げるということも、身の危険を回避する大事な方法である。

 

欲求の程度を下げるという方法もある。

 

私は、大学受験の時に、担任の先生から、「森岡、行きたい所ではなく、行ける大学を選べ」と言われた。

 

自分の能力に合ったところを選ぶことによって、何年も浪人するとか、ついには諦めてしまうというようなことを免れることができる。

 

不安にを有効に使うには、不安の元になっているものに対して、対策を立てる。

 

力をつけて克服するか、逃げるか、諦めるかである。

 

ストレスの多い職場で働いていて、耐えられそうにないと思っている場合も、この3つのどれかから選べばよいのではないだろうか。

 

思い切って退職するのも、決して悪い方法ではない。

 

何を恐れているのかよくわからない漠然として不安もよく起こる。

 

これに対しては、感じるままにしてなんの対策も立てない。不安は感情の一種で、起こってもやがて消えるという性質があるからである。

 

不安を感じるままにして、今やっていることを続ける。通勤の途中であれば、そのまま仕事に行く。洗い物としていれば、それを続ける。ソファに座っていれば、ただ座っていればよい。

 

時間がたてば、いつの間にか消えているのに気づくはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不安常住

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不安のない人はいない。

 

一つの不安が消えたとしても、そのうち新たな不安が起こる。

 

不安なときは、ただ不安でいるしかない。心の中でやりくりをして、不安をなくそうとすると、ますます不安になって、収拾がつかなくなる。

 

不安で悩む人は、不安が起こることは悪いことであって、不安はなくすべきだと思っている。

 

そうすると、不安が起こると、悪いことが起こったと判断して、不安をなくそうとするので、ますます不安が強くなる。これは大変だと思って、さらに不安がますという悪循環を起こす。

 

不安はなくそうとしないで、ただ不安を感じているままにするのが一番よい。感じるままにして、今やるべきことをやるのである。

 

そうするとやがて消えてしまう。

 

森田療法では、不安をなくそうとはしない。不安に対する態度が変わることを目指す。

 

不安はあって当たり前、驚くことではないという心構えを作ることである。

 

初めて受診する方は、不安をなくしたい、軽くしたいと思ってやってくる。

 

しかし、不安をなくしたいという、その考えを変えることが、治るということだと言われて、受け入れがたく思う人も多い。

 

希望したことと、医師に言われることが違うのである。

 

考えてもいなかったことを言われて、どう受け止めるかで、治るかどうかが決まる。

 

今までの自分の考えを捨てて、新しい考えを受け入れられるかどうかである。

 

早い人は、1回の診察で、ぱっと理解されて、次の診察の必要のない人もいる。

 

遅いと、何ヶ月たっても心構えが変わらず、不安が起こるととたんに、まだよくなっていない、治っていないと心配が増す人もいる。不安は悪いことであるという、考えを変えられないのである。

 

医師は、治った状態を説明することはできるが、その心構えにしてあげることはできない。

 

自転車の乗り方を教える人は、乗ってみせることはできるが、乗れる能力を与えることができないのと同じである。

 

 

 

 

 

 

恐いものは?

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エドガー・アラン・ポーは、1800年代前半を生きた、アメリカの作家である。40歳の時に、泥酔状態で発見され、謎の死を遂げた。

 

彼の短編小説に、「黒猫」がある。

 

明日、刑が執行される死刑囚が、自分の魂の重荷をおろしておきたいというので書いたことになっている。

 

主人公は元来情け深い性質で、生きものをかわいがるのが大好きだった。

 

若くして結婚し、妻とも性があった。妻は主人公の生きもの好きを知って、いろいろな生きものを手に入れてくれた。

 

最後のものは、利口な大きな黒猫だった。主人公はこの猫をとてもかわいがり、猫はいつも彼と一緒だった。

 

数年間は、仲良く暮らした。

 

やがて主人公はアルコールに親しむようになり、酒癖が悪くなった。かんしゃく持ちになり、妻にも手を上げるようになった。

 

近づいてくるあらゆる動物をいじめ始めた。

 

ついに黒猫までもいじめるようになった。深酒した帰宅したときに、猫が自分を避けたような気がして怒り狂い、片目をえぐり取ってしまった。

 

猫は主人公を避けるようになり、彼の心はますます邪悪になっていった。

 

とうとうある朝、黒猫を木につるして殺してしまった。

 

その日の晩、家が火事で丸焼けになり、彼は、全財産を失った。

 

1カ所だけ焼け残ったところがあったが、そこは、首に縄をつけた猫の形をしていた。

 

やがて猫のいなくなったことを悔やむようになり、悪所の酒場で、持ち主のいない黒猫を見つけて飼うようになった。

この猫は、片目がなく、胸のところだけぼんやりとした白い斑点があった。

 

主人公はこの猫にも邪悪な感情を抱くようになったが、猫はいつもじゃれついてきた。

 

猫の胸の白い斑点は、だんだんとはっきりした輪郭を表し、ついに絞首台の形になった。

 

家が焼けた後は、家賃の安い地下の家にすんでいた。妻と一緒にそこに降りていこうとしたときに、黒猫に突き落とされそうになった。

 

激怒して、猫に斧を振り落とそうとしたが、妻の手に遮られた。

 

ますます憤怒の情に駆られて、斧を妻の脳天に振り下ろしてしまった。

 

妻の死体は、穴蔵の突き出た壁に塗り込めて、すっかり隠した。四日目に警官が来て家中を探したが、怪しいところはどこにもなかった。

 

彼は勝ち誇った気持ちで、「この壁はがんじょうにこしらえてありますよ」と、内側に妻の死体がある壁を強くたたいた。

 

すると、その壁の中から、赤ん坊のすすり泣くような声がして、それから大きくなって、長い、高い金切り声となった。

 

警官たちは壁を崩し、血塊がこびりついている妻の死体が現れた。その頭の上には、赤い大きな口を開けて、片目をらんらんと光らせている猫が座っていた。

 

黒猫の恐怖を描いた作品のように思えるが、本当に恐いのは、猫だろうか?

 

元々情け深かった主人公の心をむしばんで、怒りやすい、邪悪な心に変えていったもの、かわいがっていた猫を殺し、相性のよかった妻まで殺させたもの。

 

それは酒ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

アルコール依存症の家庭では、アルコールを巡って、依存症者と家族が闘うようになる。


飲酒によって様々な問題が起こる。


家族は飲ませたくないので、非難したり説教したり酒を隠したり捨てたりする。それに対して、依存症の人は、ますます腹を立てる。


家族が協力してアルコール依存症という病気とたたかうべきなのに、家族の中でお互いに争うようになる。


アルコール依存症が見えていないからである。


家族がいくら頑張っても、本人の酒を取り上げることはできない。家族はアルコール依存症の人を思い通りに変えることはできない。


アルコール依存症の人が、アルコールをコントロールできないように、家族はアルコール依存症者の飲酒をコントロールできない。


酒をやめるには、当の本人がやめる気になる以外にないのである。


このことが分かっていない家族は多い。


しっかり努力すれば飲ませないようにできるに違いないと思い込んで、酒を取り上げることに奔走するが、やってもやってもうまくいかない。


不可能なことに挑戦しているのだから、失敗するのは当たり前である。


飲酒するかしないかは、当人に任せる。飲んで困ったことになっても、可能な限り当人に始末してもらう。


これが家族の基本姿勢である。


また家族は、酒をやめないのはやめる気が無いからだと思っている。家族や仕事のことを真剣に考えていれば、あんなひどい飲み方はするはずがないと考える。


飲酒をコントロールできなくなったのがアルコール依存症であるが、コントロールできると思っているのである。


問題飲酒が増えてくると、飲み過ぎないようにしたいとかやめたいとか思うようになるが、いった

ん飲み始めると、思い通りには飲めず、ひどい結果になってしまう。


このことで悩んでいるが、家族には分かってもらえない。


アルコール依存症になると、自分の苦しみは周りの人には理解してもらえない。自分のことは少しも分からないのに、ただがみがみ言うだけだと腹を立てている。


自分のことは分かりもしない家族に、半ば無理矢理に病院に連れてこられた人は、家族に対して怒っている。


あんなやつを喜ばすために入院してたまるかと思っている。



本当は入院した方がいいと思っていても、家族の言う通りにはしたくないのである。


連続飲酒を繰り返していて、腹水があり、肝臓もかなり悪いと思われる人が、奥さんに連れられて病院にやってきた。


かなり進行したアルコール依存症であり、自力ではやめられそうにないので、入院を勧めたが、本人は頑として拒否していた。


40分くらい入院した方がよい事を説明したが、それでもだめだった。


そこで私は次のように言った。


「私の見るところ、奥さんもかなり病んでいるようです。あなたが入院中は奥さんの治療も私が責任もってやらせていただきます」


するとその人は、「その一言が気に入った」と大きな声を上げて、さっさと入院してしまった。


病気のことがよくわからないまま非難・説教する家族には、かなり腹を立てているアルコール依存症の方は多いのである。


家族の方は、飲んでいる相手を変えようとするよりも、自分を変えるようにした方がよい。


その方が、はるかに成果が上がる。


アルコール依存症がどんな病気かをよく学んで、この病気になると本人はどんな苦しみを味わうかを理解するように努めることである。











節酒の研究

アルコール専門病院に7回目の入院していた人が、2泊3日で外泊することになった。


いつもの学習会で、満腹では飲酒欲求は減る、空腹になると飲みたくなる、だから腹を減らすなということを繰り返し学んでいた。


これは酒をやめ続けるための知恵のひとつであるが、この人は飲むために応用しようとした。


満腹にすれば飲みたくなくなる。


外泊初日の夕食に、うまい酒を1合だけ飲もう。その後にすぐ飯を食って満腹にすれば、1合だけで止まるだろう。


2日目に十分酒を切って、その翌日に病院に帰るわけだから、飲酒はばれないだろうと考えた。


ところが、3日目に帰院したときには、かなり酔っており、衣服は泥だらけになっていた。


途中で田んぼに落ちたという。


どうしてこうなったかと聞いてみた。


計画通りだったのは、夕食時に1合飲むところまでだった。


飲んでしまうと、次の酒がほしくなり、ご飯を食べることはすっかり忘れてしまった。


それからは、いつものような飲み続けである。


予定通り病院に帰ってこれただけましというものである。


この方は、何とか上手に飲める方法はないものかと、あれこれ探していた。


それはいつも失敗に終わり、そのために何度も入院を繰り返していたのである。


今回の思いつきもその一つであった。


アルコールをコントロールして飲むことができなくなった人は、自分は上手な飲み方はできないこと、断酒するしかないことを認めることである。


上手に飲む能力がないのに、それをやろうとしても無理というものである。


何度やってもうまくいかないときは、あきらめればよい。


アルコールはやめるしかないと認めればよい。


しかし、不可能なことに何度も何度も挑戦をしてあきらめることなく、死に至る人も多いのである。







身体を持って行く

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2006年に発売された、池井戸潤著「空飛ぶタイヤ」の話である。


世田谷区の中小運送会社、赤松運送に突然事件が起こる。


自社の大型トレーラータイヤが外れ、歩道を歩いていた女性を直撃、女性は即死した。並んで歩いていた子供は幸い軽傷で済んだ。

過積載は無く、次に気にかかるのは整備不良である。赤松社長は、若い、金髪、耳にピアスの整備士、門田が気になった。


あいつはちゃんとやっているのか。


いつも仕事の中身で勝負しろと注意していた。


早速呼んで話を聞いたが、その態度は無礼きわまりなかった。怒ったの社長は、クビを言い渡した。仕事の中身ではなく、外見、態度で解雇した。


その後陸運局の監査が調査が入った。減点するところはなく「意外に良くやっている」と言ってがっかりして帰って行った。


その時門田が独自に作っていた整備記録が見つかった。法定の整備箇所をはるかに超える厳しい点検が行われていた。


赤松社長は、自分の誤りに気づきすぐに門田の家にすっ飛んでいった。


家には奥さんがいて、門田は日雇いの仕事に行っているという。


仕事場を教えてもらっていって見ると、昼休み時で、門田は公園で弁当を食べていた。


門田になんと言おうかと色々考えていたがまとまらず、本人の前に行けば何とかなるだろうと思って、門田に声をかける。


第一声は「弁当うまいか」であった。我ながら情けないと思ったが、その後の話はうまくいき、門田は会社に帰ってくることになった。


赤松社長のやり方が、前もって色々心配するよりも、とにかくぶつかってみるである。


やらねばならないことは、その場に自分の身体を持って行くしかないのである。


この正反対が、対人恐怖(社会不安障害)の人である。


なんと言おうか、相手が怒っていたらどうしようかとか前もって心配して、結局心配のあまり何もやらないのである。



必要なことをやらないから、不安はますます強くなる。結局は、問題の解決は先延ばしにしてしまう。


相手からの信頼も失う。


社長はタイヤの犠牲になった女性の通夜にも参加した。「申し訳ありませんでした」を何度も言った。しかし相手は受け入れてくれなかった。


人生で最も辛い通夜だった。


後に、制裁的慰謝料請求の訴訟を起こされてしまう。


事故を起こした大型トレーラーは、巨大財閥の一員であるホープ自動車製の、ビューティフルドリーマーだった。


その車が悪夢をもたらした。


ホープ自動車は以前リコール隠しを行っていた。その会社が出した結論は、整備不良だった。


納得のいかない赤松社長は、逮捕、倒産の不安を抱えながら、本当の原因を求めて、エリート集団のホープ自動車と闘っていく。


社長のやり方は、どんなに辛かろうと、問題のただ中に飛び込んでいくである。


やらなければいけないことは、不安だろうが辛かろうが、やるしかない。


先延ばししたり、逃げたりしていては、問題はますます大きくなる。


対人恐怖が治ったらとか、この不安が消えてからとかいう考えは、社長にはない。











雨漏りの家

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中学2年からすんでいた建坪10坪の家は、よく雨漏りがした。

ネズミが走り回っていた天井裏にあがると、日の光が差し込んで見えるところが何カ所かあった。


雨の日、風向きによっては、雨漏りがひどくなった。畳の上、3,4カ所に鍋やバケツを置いて天井から落ちてくる雨だれを受けていた。


それでも場所によっては、畳がぬれて傷んでいるところがあった。


あるとき父が、「畳替えをする」と言い出した。


それを聞いた妹が即座に、「先に屋根をなおさなきゃだめよ」と言うと、父は二の句が告げずに黙っていた。


わかっているが、屋根をなおすほどのお金がない、せめて畳でも替えようかというのが父の気持ちだったと思う。


その後ひどい台風が来た。


いつものように雨漏りが始まった。このときの雨漏りはひどく、鍋、バケツ、洗面器などある物全部おいてもたりなかった。間に合わなくなった。


天井中から雨が漏ってきた。


このときは、天井の下に、ビニールハウスに使うビニールを貼った。その真ん中に穴を開けて、天井から漏れてくる雨を1カ所で受けるようにした。


父が軍隊から持ち帰ったという巨大な鍋で雨水を受けた。、ひどいときには、その鍋が15分で一杯になった。

そんな強烈な雨漏りは1時間くらい続いて、そのうちましになっていった。


このときは、台所の入り口の戸も破れそうになった。簡便なもので、角材で目の字形に枠を作って、杉板を張ったものであった。


南風が強くなったときに、角材の横木が一本折れた。この戸が破られたら、屋根まで吹き飛んでしまう。


父と二人で折れた横木を押さえていた。風圧に耐えて、じっと頑張っているだけである。風向きが変わるまで、2時間くらいはあったと思う。


この後父が一大決心をして、屋根をきれいに修理した。


雨漏りも畳がぬれることもなくなった。




アルコール依存症のために、飲酒をコントロールできなくなって、様々な飲酒問題が起きるようになったときには、飲酒をやめることがまず第一である。


問題の原因が過度の飲酒であるからである。


「一杯のつもりが腹一杯」と言って、飲み始めると、節度ある飲酒ができないのがアルコール依存症である。


このことを認めたくない人は、飲酒の結果だけを良くしようとする。


飲み過ぎが原因で、アルコール性の肝障害を起こした人がまずすべきことは、断酒である。


それをやらないで、肝臓にいい食べ物はないかとか、ウコンやシジミはどうかとか、肝臓を治すことだけ考えるのである。


こういうときは、私は、屋根が壊れて雨漏りがして畳がぬれて腐ってきたときに、畳替えをするようなものだという。


畳替えをしても、畳がぬれる原因が治ってないので、畳はまた腐ってくるのである。


畳の傷みをふさぐには、さきに屋根を直すべきである。


問題の根本問題を解決することなく、そこから派生してきたことのみに対処していると、延々と同じ事を繰り返すことになる。


こういうことは、アルコール依存症に限らずよくあることである。


畳と屋根のたとえは、私の実体験であるが、これについては別の機会に語りたい。





不快な気持ちに耐える

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不安常住、と森田療法では言う。


生きている以上、不安は常にあるもので、なくなることはない。


神経質で悩んでいるときは、完全な安心を求める。しかし、そんなものはどこにもない。


戸締まりを気にするときは、戸は閉まっているということを確認し、閉め忘れたかもしれないという不安を一掃したいのである。


しかしそれは不可能である。ドアから離れれば、閉まっているかどうかは確認できない。本当に閉めたのかと不安になる。


この不安を一掃したいために、また戻って確認する。


不安を持ったまま先に進むことができないのである。


決してなくすことのできない不安を、完全になくそうとするので、成功するわけがない。


いつまでもいつまでも悩み続けることになる。


不安な気持ちを持ったまま、不安に抵抗したりなくそうとしたりしないで、そのままにして、次の行動に移るしかない。


変えようのないものは、どんなにいやでも、受け入れるしかないのである。


このことがいつまでたってもわからないで、ちょっと不安になると、まだ治っていないと大騒ぎする。


不安が全くなくなることが治ることだという勘違いを、いつまでも持ち続けて、不安に対するこらえ性がなくなっているのである。


不安がなくなることが治ることではない。治るとは不安が起こっても、これで当たり前と思えるようになることである。


そうなると、不安なときは、ただ不安なだけである。


治るとは、不安に対する自分の考え方、態度が変わることである。


眠れないときは、今日は寝苦しいなと思っているだけである。ただいやな気持ちでいるのである。そうする以外、どうしようもないことを知っているのである。


人まで話すときは、こういうときは緊張するものであると思っているので、緊張しても驚かない。緊張したままで、言いたいことを言うだけである。


いやな気持ち、不安、不快感を一掃しようとしても、できるものではない。


そのままにしておくしかないことを、なんとかしようとするから、いつまでも悩むのである。


このようなことは、1回の診察だけで、もう来なくていいでしょうと言えるくらいに理解できる人もあれば、何ヶ月も同じ事を言い続けてもさっぱりわからない人もいる。


どこが違うのかはわからないが、教育歴はほとんど関係ないようである。










「ムーチョン兵衛山に帰る」

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甲斐芳子著「ムーチョン兵衛 山に帰る」(平凡社 1888年)


「ムササビと暮らした五七〇日」という副題がついている。


甲斐さん一家は、昭和57年春に、東京の東村山から愛媛県の山奥に引っ越した。


体の弱かった次男と暮らし、子供たちを丈夫に育てたいと思ったのである。


昭和58年の3月、杉の植林をするために、山肌の枯れ枝や草を焼いているときである。


あっという間に杉の木のてっぺんにかけ登ったムササビが、そこから滑空して下の林に消えた。


煙をいやがったムササビが巣を捨てて逃げ出したのだという。ムササビの赤ちゃんは、狐の餌になるしかない。


山師たちから、育ててみたらを言われて、家に巣ごとに持ち帰った。


昭和58年3月29日のことである。


ムーチョン兵衛と名前をつけた。ここから著者の子育てが始まる。


しかし拒否反応を起こしてミルクも飲まない。


ムササビの親ならどうするだろうと考えながら、耳や鼻をなめてあげると、気持ちよさそうに哺乳瓶の乳首を吸い始めた。


やっとムーの母親に合格した。ムーが来て2日目のことである。


野性に帰したいと思って育てたので、排泄の訓練はしなかった。


夜行のムササビは、一家の夕食時に起き出して、高いところから、ぱらぱらと糞をまき散らす。


夕食の食卓が糞だらけになる。


大きくなってくると、夜は山に出すようにした。一晩中、山にいて朝に帰ってくる。用意した朝ご飯を食べると、しばらく家族とじゃれて、後は大の字に寝てしまう。


そのうち山のノミを持ち込んできて、家族中がノミに食われるようになった。


次々起こる難問を一つ一つ解決ながら、ムーの野生復帰につきあう。


成長するにつれて、、山から帰ってこない日、外泊が多くなる。

3日になり、一週間になり、帰ってきても、朝食を食べなくなった。


人にじゃれることもあまえることもなくなってきた。


昭和59年10月25日、夕方大きなあくびをして起きてきたムーは、いつものように山に出かけて、それっきり帰って来なかった。


570日の間には、雪にも埋もれたし、台風も来た。


山の人たちから多くのことを教わった。巣離れを促すカラスの親からは、子育てを学んだ。


3人の子供たちも成長した。運動会の徒競走では、半周遅れのビリだった次男は、山の学校では、ビリにはならなかった。


本書は、ムササビの親になった著書が、立派に育てて山に帰し、見事に子離れするまでの物語である。


アマゾンなどで、古本は手に入るようだ。