ビューティフル・マインド

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■MOVIE「ビューティフル・マインド」


何年も前のアカデミー賞作品をようやく鑑賞。


率直にいって、そこそこおもしろいのだが、なんで「ビューティフル・マインド」なんていう

短絡的な題名にしたのかしら。。。


「答は心の中にある」みたいな主張が含まれていて、

心の偉大さみたいなお話ではあるんだけど、それって、ここまで大々的に取り入れたナッシュの人生が

関係なくなってしまうではないか!!(怒)


数学者の人生は、他人からみれば、ちっとも理解できないマニア中のマニアの世界だが

その中に生きる人々の人生をマクロ的にとらえると、ものすごくドラマチックな人生だと思っている。

それに、戦争が数学者たちによって左右されてきたことは事実である。


だから、題名には不満であるのだが、総じて「おもしろい」、アカデミー賞っぽい作品だったように思う。

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ハマコーの遺言

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■BOOK「YUIGON」浜田幸一


「ハマコー」こと浜田幸一の本。


私にとって、ハマコーは、TVタックルに出てくる芸能人、という位置づけだったので、

本を読み始めたときは、そんなに期待しなかったのだが、読後は、

人におすすめできる本だったように思っている。


「勉強」とは言えない内容であるし、「遺言」の名のとおり、

ハマコーが人生最後に記した本とのことなので、多少強気も感じられるが、

今混沌としている政治状況を鑑みるに、なるほど、政治とはこういうことだなということを

考えずにはいられなくなる本である。


ハマコーと私の考え方で共通する部分が多かった。


印象的なのは、理論ぜめしてくる官僚に対して、机の上にねっ転がり

「承認するまでテコでもここを動かん!」と、態度オンリーで対抗したとな。

(結果、承認を得る)


なるほど。


私みたいにハマコーを「芸能人」と思っている人、

彼は今、手が震えてペンが長く持てないという。

そんな彼の思いが、現役の政治家よりも強く響く。

ぜひお手にとってみてはいかがでしょうか。

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母校はいいもんだ

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今日は、高校を卒業して10年「程」ということで、タイムカプセルを発掘するために

懐かしの母校へ、クラスメートが集まりました。


さすがに、人は高校生まで大きくなると、顔かたちは定まるようで、

みんな「変わらない」んだけど「きれいになった」という感じ。


今回、小さい子が3人参加。

その母親ではない私には、「おかあさん」になる年齢なんだなーと思う気持ちが

残念ながら新鮮だった。

「母」とそうでない立場は、「自分よりも弱く守るべき存在があるかどうか」に尽きると思うのだけど

私にとって、自分自身が守るべきものであり続けている、その寂しさ。

その寂寥感をここにちょこっと添える。


さて、今日の一大イベントは、10年前の自分が

今の私に向けて発したメッセージに触れること。


当時の担任の先生が、埋めた場所をしっかり記録しておいて下さったおかげで、

スムーズに「せんべい缶」を見つけ出し、自分たちの手紙に出会うことが出来た。

(先生、大々々感謝!です)


自分では、おぼろげに「何か書いたなー」という感覚だったのですが、、、

読んでみてびっくり。


10年前の自分は、ものすごくしっかりしていて、おおげさでなく

立派な学者が書いた指南書を読んだ後のような、いえ、それ以上の刺激を

わずか3枚の便せんから受けた。


当時の私は、まだ小学・中学・高校しか知らなくて、その後自分に待っている世界を

想像でしか認識していなかった。


でも、その想像が、ある意味では真実を捉えていて、現実を曲がった角度からしか

見ていない自分には、はっとさせられる言葉が連ねてあった。


やっぱり、それは高校時代の自分の周りの環境にあらためて感謝するしかない。


ああ、高校時代に出会った友人、先生方に、、、またお会いしたいものです。


はたから見たら自画自賛で気持ち悪く思われるのかもしれないが、

私の高校を卒業した人は、自分の高校を「良い学校だ」と誉める人が多い。


今なら、恥ずかしげもなく、私も「良い学校だ」と未来の高校生におすすめする。


まあ全国の人たちが自分たちの高校をほめるのであろうが、

というか、そういう日本だと楽しいかもって思いますが、

私が自分の高校生活の価値を再認識した理由の一つが、

「全員がヒロイン」だったんだなー、と思ったことだったりする。


将来の自分へのビデオレターを見ていて、「あ、この人はこんな人だったなー」という感じで、

教室の中でその人がどんな存在であったか、一人ひとりのかつての存在感が

今でも思いだされた。


もちろんいつも明るい人もいたし、いつも勉強している人もいた。


そういう一人一人の違いが、言葉にならずも「個性」として尊重されていた環境だったと思う。


例えば、そういうばらばらな個性の集まりが、一団となって「一位」を目指す体育祭とか、

                 〃        、   〃    歌う卒業式のコーラスとか。


そういう結集力を培うことが、体育祭の100メートル走の順番決めをやめることよりも

はるかにはるかに、比べられないくらい大事なことだと思う。



さて、今、社会に出て、個性の面でいったら、さすがに女性ばかりの高校時代よりも

多様性に富んだ世界で、今仕事をしている。


でも、自分を含めて「個性を認める」という行動を久しくしていない気がする。


多分、人ではなく、自分本位の考え方しかしていないからだと思われる。


では、あの高校時代のあの「幸福感」は、必要なかったのか。

あれを求めてはいけないのか。

金を稼ぐために必要なことではなかったのか。


これらの問いを否定する根拠をこれから探していきたいと思う。

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