早乙女太一と椿姫彩菜

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早乙女太一という16歳の少年が演じる女形が話題を呼んでいます。100年に一度の天才女形とか、ビートたけしの誰でもピカソで云っていました。


性というものの具現化された美に関して考えると、女性が本来持っている美への希求は、きっと、こういう姿になりたいという結果から美を規定するものと思う。それは、性が持つ本来のあり方とは違うもののような気がする。したがって、別に女性が持つ、あるいは持とうとしようとする美は、男性という性であってもいいということを、この早乙女太一少年は証明しているような気がする。
だから、彼が持つ、美というものの清楚な様式美的なものは、見るものを意識的に混乱させるものであるのかもしれない。彼が化粧をして様式美としての女性を私に見せてくれるとき、私は、そこに性を感じるのではなく網膜的に記憶している美とそれを重ね合わせる。


安めぐみというタレントを見るとき、女性だろうという意識で見る必要もなくそのタレントの資質を女性と見る。最近感じたことだけれど、椿姫彩菜という女性(以前は男性だった)から感じるやさしい感じは、どうやら私にとっては、安めぐみからの同質のもののような気がする。性という本質的な差異がどこにあるのかと考えるべきだと思った。

早乙女太一が男の子であろうと、椿姫彩菜という子が過去において男性であろうと、彼らが作りえたものは結果として、女性の様式美であろうと思う。


ふと、私は、小さいときに憧れた女剣劇を思い出した、小さな男の子にとって、見るべきものは大衆演劇の要素は、あくまでもチンドン屋の煌びやかな世界でしかなかった。泥臭い白粉の背後にある実態を舞台で見たときに、失恋にも似た感情を子供ながらに感じたことを思い出した。

虚構であることを知り、それに憧れ続ける気持ちが、いつしか心に溶け込んで性を超えてしまった人は、世間でどう呼ばれるのだろうか。少なくとも、そういう人たちはいる。

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