市ノ瀬綾は、高級外車を運転しながら赤坂見附の交差点を直進して外堀通りを溜池方面に向かう辰巳健郎を見かけた。
「もっとゆっくり走っていれば私に気がついたのに。」綾は呟いた。
綾は、辰巳健郎の家族とも、彼の素敵な彼女ということで公認されている。
信号が赤から青に変わるのを見ていて視線をホテルニューオータニの方へ移した時、身体に響くようなゴンという音がした。目の前で車同士が衝突したのを見た。大型トレーラーが小さな軽自動車を跳ねていた、ように綾には見えた。軽自動車を運転していた若い男がガクンと運転席に突っ伏したのが見え、車はそのまま大型トレーラーと一緒に、ギュイーンという叫び声とともに高速道路の橋桁に追突した。
綾は胸がドキドキして気持ちが悪くなりながら、大変、警察をよばなくちゃ、と思った。綾がキョロキョロと気を動転させながら当たりを見回していると、横断歩道の向こう側で、三条茂が真っ先に事故現場に駆けつけるのが見えた。綾からは交差点を渡ったところでの出来事なので、運転していた男性がどうなっているのかよくわからなかった。
茂は目の前で交通事故を見たのは初めてだった。運転していた自分と同年代ぐらいの男が頭から血を流し始めたのを見て、咄嗟に自分のハンカチを出した。その時、赤坂見附の交差点にある交番から巡査が2人駆けつけてきた。
「事故を見ていましたか?」年配の巡査が茂に尋ねた。
「はい。」茂は答えながら、軽自動車を運転していた男のことを、知っていると思った。
大型トレーラーの運転台から降りてきた小柄で色が浅黒く皺が深い角刈りの男は、茂をチラチラ見ながら何故、事故をおこしたのかを、巡査に細かく説明していた。遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。茂は、人垣の中に市ノ瀬綾がいるのを見つけた。巡査と話をしている内に綾の姿が見えなくなった時、茂は美里のことを考え始めていた。
茂は、血だらけで意識がない男を、大学構内の学費値上げ反対デモで一緒になったことがあったことを思い出していた。彼の名前は知らなかった。
浜崎孝は交差点を右折しようと、マツダのキャロルを反対車線に少し出てしまったことに気がついた。彼の目の前に、もの凄く大きなライトが現出したことに心臓が飛び出るほどに驚愕した。瞬間、血が引くような感じがした。
孝は突然、相手のヘルメットと手拭いで顔を隠した眼だけの顔を見ていた。その眼は輝きに満ちており、孝を殺戮する喜びをその眼の中に感じた。恐怖のあまり大声で叫び続けた。そして、彼は真っ暗な中に浮かんた。
茂は焼却した思い出の燃え滓を、薪で丁寧に崩しながら、その後にバケツに用意してあった水を錆だらけの一斗缶にかけた。一斗缶から黒く煤が流れ出たのを眺めていると、茂は情けなくなった。
「母さん、僕、うちをでるよ。」
茂の言葉に、洋子は平然と
「あーそう。どこにいくの?」
夕闇が茂の背中に冷たい斑紋を刻み始めた頃、洋子は玄関ポーチの縁で煙草を咥えながら茂に返事をした。
「これから不動産屋さんに行ってくる。」
「ちょっと、待って。あたしも一緒に行くから。」