Ⅰ
僕は突然、いい匂いがするほっそりした少し青白さが感じられるような女の人から声をかけられた。
「キミはここによく来るの?」
僕は驚いた。その人のことをわからないように見たつもりだった。どうも、ちらちらと見すぎたのがまずかったのかもしれない。
「いえ、そんなには。」
「そう…。いいところよね、ここ」
「お姉さんは、ここによく来るんですか?」
僕は言ってしまって、お姉さんなんて初めて使う言葉だなと思った。でも、おばさんではなさそうだし。男の感じもちょっとするけどオッパイが膨らんでるし。
「昔はね。・・・。あたしね、身体壊したことあるんだ。」
何を急に言い出すんだろう。僕はこういうことを聞くのは初めてだった。ドキンとした。女の人と話をするのも慣れてないし、その人の身体のことを考えるなんて失礼だと思った。
「僕は、この、えーと…。あ、そうだ帰らなくちゃいけないんで。さようなら」
僕はドキドキしながらそう言うと後ろを振り返って早足でその場を立ち去った。
「ちょっと。ねえ、キミ、これ忘れてるよ。」
午後の柔らかい日差しが木々の間から訪れてくる時間だった。昭和45年5月2日。海が見える森林公園は家族連れで賑わっていた。5月の陽気に誘われて昼寝をしている人も現に戻り、身の回りを片付けている。
「すみません。ありがとうございます。」
「キミ、中学生?」
「そうです。1年生です。」
「絵、描くの?」
「絵?描く?いえ、ただ持っているだけです。このスケッチブックのことでしょう?お姉さん。」
「お姉さんか。ちょっとまずいよね、そういう言い方ってさ。」
「すみません。えーっと。」
「そうだよね。お互い初対面だから、名前なんか知ってるわけないもんね。まあ、いいか」
「はい。」
僕は何故か楽しい気分になっていた。その人の眼は笑っていた。僕も笑っていたかもしれない。疲れがどっと出た。
「ちょっと、座っていいですか?」
公園にあるベンチは木漏れ日があたっている。淡い影がベンチに写っていた。そのベンチから遠くに海が見える。間に木々があるために、キラキラした波間が風の吹き具合で時折見える。
「わたしの絵、見せようか。」
「絵、描いてたんですか?」
僕は知っていたけど聞いてみた。この人がどんな絵を描くのかさっきから気になってしかたがなかった。
「これはどう?」
自己紹介した後で、その人がみどりさんだと知った。川本翠という。お父さんは童画家だということだった。僕も自己紹介をした。健という名前。母が先日入院したばかりだという余計なことまで話してしまった。
「ケン君、さっき、なんで逃げたの?」
「逃げてなんかいませんよ。」
そう言われて僕はとても嬉しくなった。女の人と話すことがこんなに新鮮だったとは知らなかった。
小高い丘の上にあるこの森の公園は日が傾くと東に海が見えるために、暗くなるのが早い。海のきらめきは見えるのだが、それも時計の針と同じぐらい正確に無くなっていく。
「わたし、車できてんだ。のせてってあげようか、どっかまで」
「ありがとうございます。」
Ⅱ
私はその当時、母が入院している病院に行くのが日課になっていた。家からバスを2回乗り継いで行くほど遠かった。母が突然倒れたのは、お店の女の子と呼ばれている人達と一緒にいったダンシング パブというところだった。父は夜中の3時近くに電話がかかってくると私と弟を起こしてタクシーで病院へ行った。集中治療室の前で待たされ、先生と看護婦さんに呼ばれて中に入ると、今まで見たこともないような顔をした母がいた。
心臓が止まってから蘇生するまでに時間があったらしい。家に帰ってきてからポッカリと穴が開いたようにその部分が淋しかった。私は母が入院するまで死ということを考えたことがなかった。母のその姿を見たとき、死んだらどこへいくのかと思った。私は母が大好きだった。母は16歳で父と結婚をしたそうだ。暫く、そのことを黙っていた父が、私と酒を飲むようになった時に話してくれた。その時に、私には会った事がない腹違いの姉がいることも知った。
父が母を愛していたことは、その後の父の行動が現している。
Ⅲ
「健君のお母さん、意識がないの?」
「そうです。倒れてからずっと意識がないんです。意識ないっていうけど、顔はずっと苦しそうなんです。」
僕は声を詰まらせてしまった。急にお母さんの顔が浮かんできた。皆と一緒に喋っていた時の顔だ。いつもにこにこしていた。
「その病院へ今日もいくの?」
「もう面会時間が始まっているから、いこうかなと思ってます。」
「わたしが送ってあげる」
みどりさんは優しかった。僕は車内に漂っているいい匂いが気になって仕方がなかった。どうやら、その匂いはみどりさんの髪から出ているようだった。お母さんの匂いではない。もっと健康的でお風呂屋さんの上等な感じがした。そっと、みどりさんの横顔を見てみた。前を見て運転しているみどりさんは、いろいろなことを喋った。
「健君、私ね、突然息が出来なくなるときがあるの。こうして、運転してしいるときはひとりだから大丈夫なんだけど、誰かがいたりすると急に呼吸が出来なくなるときがあるの。」
僕はお母さんもこの病気だったのかなと思った。でも、お母さんは心臓が悪くて、それが原因だと言っていた。
「翠さん、すみません、ここでいいです、そこの信号を渡って向こう側にいきますから。」
「健君、5月5日って学校休みでしょ?」
「そうです。」
「私、海みたいんだ。どう?一緒にいってくんない?」
僕は何故か胸がドキドキした。もちろん、心の中ではもちろん行くと言っていた。
「どこで会えばいいんですか?」
「じゃあ、この駅の停車場で会える?時間は朝からどう?10時とか。私、お弁当もってくるわ。」
僕は皆に自慢したくなるほど嬉しかった。こんなことってあるんだ。
Ⅳ
私が、そのみどりという人と別れて病院に入り、病室に行くと母が違う病室に移動されていた。その部屋はしょっちゅう名札が変わっていて昨日まで空室だった。私はその時胸騒ぎがしたのを覚えている。心なしか、看護婦さんも私に優しくなったような気がした。そこに移されてからも母は何ひとつ表情がないままベッドに横たわったままだった。
Ⅴ
5月5日が来た。僕は9時30分に駅の停留場に着いた。たくさんの家族連れが声をあげながら僕の前を通り過ぎていった。どこからみどりさんは来るんだろう。あのクルマは違う、このクルマも違う。胸がドキドキしてきた。
「健君、ですよね。」
「はい。」
「翠から聞いてました。今日、海に行くとかで翠がとても喜んでました。今日、また息が急にできなくなって。可哀相に。」
「はい。」
「翠からこの絵を渡してくれと言われたんだけど、君、もらってくれますか?」
「はい。」
僕が今まで見た絵の中で一番美しかった。
2枚あった。1枚はこの間みどりさんと会った場所から遠くに海を望むものだった。光線と緑とそこから透けて見える海の切れ切れの点描が5月の空に揺らいでいるように見えた。
そして、もう一枚は砂浜に脱いだスニーカーの上に、拾い集めた貝殻や丸まったガラスが描かれていた。
「みどりさんは入院したんですか?」
私はその時、絵をくれたロマンスグレーの男性にそう尋ねたように記憶している。きっと母がその晩に静かに息を引き取ったことを忘れることができないために、その時みどりという人が入院したと思ったのかもしれない。
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このストーリーはニデイルさんのアーティクル
を読んでみてそこに題材を借りました。ニデイルさん、ありがとうございました。