PSPスパロボZ後編の発売が近づいているが、シン以下DESTINY組は放映後数年経つため、単なるゲストキャラ扱いだと思うが、スパロボはじめSDガンダム等でSEEDの配分が多い時は自動的にシン・アスカの登場場面も多く、一部のDSのスパロボやスパロボZ等、ほぼプレイヤーキャラに次ぐ存在としての扱いもあって、必殺技のエフェクトや台詞が派手なのも多く正直ファンとしては嬉しい。


がそれに比例して一部のファンの中で「ゲームの中では主役なのに、TV本編では扱いが悪くてかわいそうだ。」的な発言も散見される。それが一段階レベルアップすると「主役なのに扱い悪いから好きだ、日本人の判官びいき心を刺激される。」的な事まで言い出す人もいる。つまりキラさんという圧倒的人気キャラに対するアンチテーゼとして人気があるという図式だけど、もちろんファン心理にこれという決まりは無いので、そういう点からファンになるというのも別に駄目だとか一切言うつもりは無いが、自分はそういう発想でのシン・アスカファンじゃ無い。というか主役としてシン・アスカの扱いが悪いとか主役なのにヤラれるのはおかしいとか一切思わない。特に声優さんクレジットの順番がどうとか、蒲田行進曲の銀ちゃんじゃ無いんだから、そんな事までファンが気にする事なのかと思う。


主役の姿って?

たまにシン・レイ・ルナマリアについて、「主役だと思っていたら自分が(連合)3バカだった!」というシックスセンス的オチとしての面白さという点を強調する人もいるが、それも違うと思う。一言で言えば巻き込まれ型主人公として王道の展開と面白さを示したキラ・ヤマトに対して、続編としての前作を越える為の主人公のひとつの示された形なんだと思う。もちろんストレートに共感出来るように、新しい巻き込まれ型のような共感性の高い主人公を提示する事だってできたろうし、そっちの方が簡単だとは思う。けれど前作を越えるという一点において、自分はシン・アスカのあのTVでの状態が(一部説明不足等、作品性の作為面以外での不備はあるが)価値ある存在だと思っている。


前作のキラ・ヤマトが非常に強大な力を持ちながらも最終的にはラクス等、周囲のキャラに引っ張られるばかりで、自分の意志が無いとか成長が無いとごく一部で批判されたりもしたが、それはクルーゼ氏の「人類の夢、人類の欲望~誰もがそうありたいと願う存在」という名演説にもある通り、キラ・ヤマトの力は実際にはありはしない、あったとしても自分のサバイバルくらいにしか使ってはいけないという強いメッセージであり、主人公として世界を滅ぼす野望を持つクルーゼ氏を最終的には倒してしまう、スーパー主人公キラヤマトについて、最後に浴びせられたストッパー描写であり、視聴者に対してのメッセージでもあったと思う。


それに対してシン・アスカは簡単に言えばクルーゼ的に「世を恨む側」陣営の主人公として登場する。ガンダムワールドで長年敵側陣営のシンボルとして存在するザク部隊と一緒に戦い、あからさまにエセ正義っぽい意匠が配されたシールドや装飾を持つインパルスガンダム、そして顔にピエロのような模様の入ったデスティニーガンダム等々、最初っからヤラれるオーラ全開で、決して扱いが悪いとかそういう問題じゃなくて、キラさんの次として、次の段階の主人公としての模索が伺える。


シンの成長

しかし順路として通常のよくあるパターンのように、議長の悪意(?)に気付いたりして成長して、キラさん陣営と言わなくとも、もう少し違う活躍の仕方はあったんじゃないか?という意見も理解できる。そういう発想を満たす為のIFとしてのスパロボなどのゲームはもちろん良いと思うし、将来DESTINYがリメイクされるような機会(まず無いだろうけど)があったら、違う展開ももちろん面白いとは思う。しかし自分は最後まで迷って、親友のレイの嘆きをなんとなく汲み取って、最後まで議長の掲げる理想を信じ切って、その混乱のままアスランに手足叩き折られて、月面に叩きつけられる主役ガンダム・デスティニーとシン・アスカは、そのままで主人公として無上の存在の一人に感じる。ガンダムの手足折られて、月面に叩きつけられる・・・それはキラさんにクルーゼが投げつけた「誰もがそう願う。」という演説の違う形でのストッパー描写の表現なんだと思う。


キャラクターの不完全な姿も描く、そういう発想は昔からあるけど、もちろん不完全な姿を描くと言っても、シン・アスカ大勝利!オーブが焼かれてバンザイ!デスティニープラン発動バンザイ!!みたいのは趣味が悪過ぎる。やはり物語の展開として月面に叩きつけられて地球を見ながら号泣する姿に一つのエンデングとして価値を感じる。「オーブは焼かれなかった。」の台詞にこそシン・アスカの全精神と全成長が汲み取れる。巻き込まれ型主人公としてでは無くて、職業軍人として一瞬でもデスティニープランに賛同した政治犯・思想犯としてより大きな力に打ちのめされる姿こそあるべき形であって理にかなっている。やはり主人公はシン・アスカだ。


しかし商業的観点として「ストッパー」として描かれたキラさんが前作の人気を引き継ぐ形で、シン以上に人気機体等生み出したのも事実で、それはそれで良いと思う。3人主人公制が当初から計画された物かどうかは別として、それはそれで良いと思う。


レイとタリアについて

ついでにシン・アスカと共に最も引き合いに出されるのがレイとタリアの存在だと思う。この点についてはシリーズ構成の脚本家さんが体調が非常に悪かったなど、実際に作品の作為以外の外部的要因で、回想や総集編が多く、人物の描写の不足があった事などは認めるべき部分だと思う。


それを前提としても自分はある程度レイとタリアの行動については最終的に納得している。特にレイについてはデュランダルに見せる異常に幼児的な愛情表現について、「腐要素」と見るか「幼児退行」と見るかによって、物語内容の見方がガラリと変わると思う。レイにとっての一番の焦点はキラさんに一回説得されただけで、あれほど服従していた議長を撃つのか!という一点だと思う。そこもやはり説明不足、描写不足は感じる。しかし先に書いた議長への幼児退行的な感情表現など、レイの精神不安定な描写、そして出撃前に単なる監視対象では無くて、生き残るシン・アスカに対するわずかで、不器用だが自分の想いの吐露等、確実にラストへとつながる表現は見られると思う。レイが幼い本心を持ち、その裏返しがあの厳しい普段の行動なら、最後に議長を撃つという極端な行動こそ、もうひとつの最後のレイの幼い本心の選択だったというのは自分はおかしいと思わない。


もう一つ「自分の子供より男を選ぶのか!!」的に叩かれるタリア。それは正論だと思う。けれど「間違った人間の行動も物語は描く」とすれば子供を放置してでもタリアは一体何に殉じたのかな?と考えれば、それはレイと議長、二人の家族を得られんかった人間に対する愛情じゃ無かったかと。わけのわからんテクノロジーの所産でテロメアが短く、軍人としてしかまともな人生を送れないが為に、より理想にのめり込むレイ、自分らの三世代コーディネーターが遺伝子的に生み出せないからとタリアに振られたという、酷く個人的な感情をデスティニープランという理想にすり替える事で理性的な人間を演じる議長、この二人の間違ってしまった人間の面倒を最後に観て死ぬという事は、確かに理性や正論から言えば間違いだし、無責任だとは思うけど、やっぱり「人間の間違いをも描くのが作品」だとすれば、この間違いはレイと議長という二人の魂の終着点として、とても納得できるラストじゃないかなと思う。そしてデスティニープランは実行されずオーブも焼かれなかった。


家族を失う事で怒りに身を任せたシン・アスカから幕は上がり、家族を得られなかった議長&レイ2人の戦いがタリアの最後の優しさで報われる、物語として自分は非常に優れた物だと思う。


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