安藤忠雄研究1
安藤忠雄研究2

安藤忠雄研究2を書いたのが今年の1月12日でしたから
かれこれ、もう半年以上前のことだったんですね。

今年に入ってから、新国立競技場問題への取り組みが激しくなりまして、マンガ建築考察どころか、一般建築論もどんどん後回しになってしまいました。

というのも、この新国立競技場問題のキーマンが安藤忠雄さんだから、、なんです。
しかし、この論考では「新国立競技場問題」には触れませんよ。

新国立競技場コンペとその後の安藤忠雄さんの問題は、
「安藤忠雄研究」と並行連載しますから、そっちでやります。
新国立競技場問題・史上最悪の作戦に向かう④

で、こちらの「安藤忠雄研究」は、
いってみれば、
建築の巨匠、世界の安藤忠雄とはいったいどういう人なのか?
建築家としてどのように評価されているのか?
なぜ彼の建築が評価されているのか?
そこに至る道筋といったようなものを、
ご本人が流布する伝説ではないかたちで、
やれるるところまでやってみようということです。

同時に、
誰もが知ることとなった建築家安藤忠雄を通じて、
日本の建築家とはどういう人たちなのか?
建築作品とはどういったものを言うのか?
建築作品の評価とはどういった部分で決まっているのか?
といったことを出来るだけ平易に明らかにしていこうというのが趣旨です。

ですので、一部の方々から期待されている、
タイトルから連想されるような、立花隆さんによる「田中角栄研究」のような告発系のものではない。ということを最初に顕示しておきたいと思います。

さて、前回までの流れですが、

安藤忠雄さんは実は独学ではない。
コンクリート打ち放しも安藤忠雄さんの専売特許ではない。
というところまででした。
コンクリート打ち放しのことを専門家はRC打ち放しと呼ぶのですが、
その方がカッコいいのというのもありますけど
このRCというのは

「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー (The Remainders of the Clover)(クローバーの残党たち)」ではなくて
「レインフォースドコンクリート(Reinforced-Concrete)(補強されたコンクリート)」
つまりは、前回ご説明した鉄筋によってより強くしたコンクリートっていう意味の頭文字です。

 

 

 

 

 

 

その人たちとは、東孝光、鈴木恂、坂本一成の諸先生です。
その他にも1970年代を通じてRC打ち放しによる住宅の名作をつくられた建築家の先生はいらっしゃいます。

篠原一男、宮脇壇、室伏次郎さんらもそうですが、

参照:篠原一男論:機動戦士ガンダム(1st)における建築的考察 7

そもそも大型建築では、戦前戦後を通じてコンクリート打ち放し建築はつくられています。

日本で最初の打ち放し
は大正13年(1924年)にアントニン・レイモンドによって建てられています。
東京の森⑥日本の都市が空襲された理由

しかし、密集した都市型住宅におけるRC打ち放しの意味と可能性を説いたということでは、上記の東孝光、鈴木恂、坂本一成のご三人が黎明期の三銃士といってもいいでしょう。

この三人の方々を見ていくことで、安藤忠雄氏が受けたその多大な影響をうかがし知ることができるのです。同時に影響を受け過ぎているため、後の自称独学言説を始めざるを得なかったのだと思います。

まず、東孝光さんですが、
どのようなお仕事をされたかたといいますと、
世界に轟くお仕事をなさっています。
しかも処女作において

 

 

 

 

 

 

これは「塔の家」と名付けられたのですが、現在も健在です。
当時もそうですけど、現在においても都心も都心。
東京オリンピックのときに整備されたオリンピック道路、外苑西通りに面しています。
上の写真からでは周囲がビル化されたとは想像もつきませんが、周りはまだ木造二階建てとか平屋が立ち並んでいる中にスクっと立ちあがった地下1階、地上5階の個人住宅です。

敷地は6坪ほどしかない。
6坪っていうのは約20㎡です。
しかも三角の敷地。
20㎡といえば現在都内のワンルームマンションは25㎡に規制されていますから、ワンルームの部屋より小さいんですよ。
そんな小さな敷地、でも都心のど真ん中、そしてキラー通りに面する。

 

 

これはですね。
エポックメイキングってもんじゃない。
何かみんなの常識をぶち壊して新たな常識を打ち立てたんです。
小さな敷地でもカタチが三角でも「やれる!」と

日本の建築家なら誰でも知ってるみんなの憧れの住まいです。
日本どころか世界中の建築家が日本に来ると必ず立ち寄っていたといっても過言ではないでしょう。
同時に、日本の建築家の手による作品の中でもっともマスコミで紹介された回数の多い建築でもあります。
だから、この建築を実現した東孝光建築研究所にはなんていうんでしょうか、ものすごい期待、現代でもそうなのですから当時の建築学生の夢を全部背負ってしまったような感すらあります。
みんな東孝光建築研究所に入りてえ!ってなったのも分かります。

当時の東先生は坂倉順三研究所という現在まで続く老舗の超有名建築設計ファームにご在籍で、新宿西口ロータリーのお仕事をされていたんですね。
このあたりのお話しを僕は吉村篤一先生からいろいろと教えていただきました。
また、日本の建築家って「なんのなにがし建築研究所」って名前を付けるのがスキなんですね、
「なんのなにがし建築事務所」じゃなくて。
建築事務所だと、、なんか事務仕事?、、ビジネス。
建築研究所だと、、なんか研究職?、、探究、ドリーム。
ってイメージになるでしょ。


この「なんのなにがし建築研究所」っていうネーミングを発明したのが坂倉順三さんだと思います。
そういった意味で坂倉順三建築研究所の門下生たちが「研究所」を名乗り始めたことで後進も「研究所」なんですよ。
この風潮は今も続いています。


で、東先生なのですが、
「ちっぽけな個人が圧倒的な物量で荒ぶる都市に住んでやれ!」というコンセプトはほんと時代を超えたメッセージになっているわけなんです。
これにね、安藤忠雄さんもすっごく共感されていたようなのです。

そのまんま「都市ゲリラ住宅」のコンセプトになっているんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

これがですね。
都市住宅 臨時増刊 7307 住宅第4集に掲載された、
安藤忠雄さんの「都市ゲリラ住宅」と題された論文です。

これを追々読み解説してみましょう。

「都市住宅」という雑誌については以前ご紹介したと思うんですが、
建築専門雑誌がなぜ廃刊に追い込まれるか 1
建築専門雑誌がなぜ廃刊に追い込まれるか 2
建築専門雑誌がなぜ廃刊に追い込まれるか 3

当時もそうでしょうけど、今でもこれを超える建築雑誌は出ていません。
通常の特集号のときなんか表紙からしてアートでしたからね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この増刊号でも、表紙を見れば掲載建物の写真が矩形に並んでいるだけで一般建築雑誌に見えますが、デジタル印刷でないこの時代に活字(フォント)だけでも7種類つかってありますからね。
しかも7307の下にうっすら黄緑色なので、この画像では読みにくいでしょうけど、この雑誌のテーマっていうんでしょうか、そこに書いてあるのは詩ですから、ちょっと田村隆一風の

鳥がとおり過ぎると
その窓は見えはじめる
空が遠のくと
その屋根は 部屋を隠す
その街には誰かが住んでいる

なんじゃそりゃ、って感じでしょう。

今の建築界は教養の範囲が現代美術かITネットワークか生活のコミュニティとかに偏ってて、文学・歴史の成分が少ないんですが、このころは思想と文学がメインテーマですからね。

理系・文系の架橋、ハイアートとローアートの包摂、
生きていくのになんの役に立たない教養主義がテーマの僕としては、
なんじゃこりゃあ!っていうくらいカッコイイものなんです、
このころの「都市住宅」誌は。

これ以上3にすると長すぎるので、4にいくか


安藤忠雄研究1
安藤忠雄研究2

 

安藤忠雄研究の4