岸上勝彦特集4 まとめ
テーマ:ブログ意外と、、どころか、かなり現代的なシャープなデザインをしております。
この建物正面の1層目が横方向への大きなスライド扉になっています。
ここでも、マニアックな処理が施されています。
上写真をぱっと見ではわかりませんが、扉の敷居溝がコンクリート打ち放しです。
だから、この木の扉には枠がありません、コンクリートと木が直接でっくわしています。
こんな処置は、通の通にしか通じないと思いますよ!岸上さん!
コンクリートのままでガラスを入れたはめ殺し窓はよく見ますが、
可動の建具を入れ込んでいる物件は初めてみました。
続いて、こちらの案件はコンクリート打ち放しの船体に、
艦橋としての木造部分がのっかったもの
大航海時代の海賊船の趣です。
ここではコンクリートの箱型ではなく、面と面が組み合わさった立体という処置
そのために壁の端部をわざわざ飛び出させたりへっこませて、
壁をスパッとカッターで切りっぱなしたようなデザイン。
この処置も型に流し込んで固めるというコンクリートの素性に対し、
真逆の取り扱いです。
壁の交差も90度ではなく微妙に角度がつけてありますね。
コンクリートの壁で防御された砦のようにも見えますね。
中庭の部分では亜鉛どぶ漬けメッキされたパイプの透けた大扉があって
中から柴犬が見張ってました。
現代美術家の方の家、そのような施主さんから依頼を受けるとは。
この施主さんもすごい建築の目利きなんではないでしょうか。
ここでは2階のテラスの前に大きなコンクリートにフレームが遺跡の列柱のように立っていますよね
表現として整然と並んでいるのではなく、一部壁化したり、ピッチがズレていたりして
太さや奥行きを違えてあるので、もしかしたら増築を想定した構造フレームなのかもしれませんが、
将来の増築を暗示するというより、かつて内装されていた家が長い年月を経て朽ち果てて、
その石積みのフレームだけが残ったといったイメージの方が適切かもしれません。
続いても岸和田案件。
コンクリートというより石の塊を切り欠いたような物体。
奥まで続く路地が迷宮の趣ですが、
これはコンクリートの表面具合もちょっとザラついていて、
鈴木恂先生設計のGAギャラリーと良く似た雰囲気でした。
エントランス壁の上に渡し掛けられた黒い角材が多少朽ちて灰色に変わりつつあり、
コンクリートになじむと共に、かつてそこに存在したかもしれない木床の存在を暗示するものとなっています。
すべてに共通して感じ取れるのは、堅くゴツゴツしたコンクリート構造物と、そこに絡む枯れて乾いた木材の構成物、その構造的に異なる二種の構築物がどのように関係するのか、、といったことが隠れテーマとなっております。
いったん完成したコンクリート構造部に付加的に乗っかっていた木構造部が、
だんだんコンクリート構造物の内部や構成要素に入り交じっている、堅い空間に柔らかな要素が浸潤していっている。
建物のスカイラインをコンクリートの壁で水平に終わるのではなく、木部が輪郭をあいまいにしようとしている。
工事途中で放置されたコンクリートの廃墟に、木の角材で増改築を施して家にしていっているような印象です。
そういった意味では、
これらの全てまだ未完成のような、
もしくはかつての姿をとどめつつ朽ちているまっ最中
コンクリート部分以外は、どうなっていってもいいんだよ
といっているようなスケルトン
スケルトンインフィルという言葉がありますが、
スケルトンネヴァーフィルとでもいうんですかね。
永遠に内装が終わらないような建物です。
以上のように、岸上さんの今までのお仕事は、
ミニマルアートのような文脈で設計デザインされているのです。
あれっ?漢(おとこ)岸上の勢いや野太いその素材感や繊細な業物(わざもの)の話しだったはずが、
ミニマルアートとか文脈とかいった言葉が出て来ると、
なんだかめんどくさそうな気がしてきますよね。
これは美術とかをやっている人たちがちゃんと説明しないことに原因があります。
どういうことかというと、美術、特に西洋美術というものは歴史的体系にのっとって
なんらかの意味が載せてあるんですね。
その意味というのは、
たとえば、時間に遅刻しそうになって、「今から走っても意味がない、、」とか、
風邪のときに下痢止めの「正露丸を飲んでも意味がない」とかいったような、
役に立つとか、効能のことをいうのではなく
「意図」とか「解釈」のことです。これがないとアートとみなさない。
逆にそこを抑えることが出来れば、一見ゴミでもアートです。
これは有名なマルセル・デュシャンの「泉」という作品です。
作品といっても建材屋で買ってきた便器です、デュシャンが手を加えたのは
1.サイン、2.タイトル、3.ギャラリーに展示
の3つですが、これが「意味」をもつのは、
「美術館・ギャラリーという規定の枠組みの中に、あえて工業製品の便器」
という状況を用いて美術環境と芸術評価構造に「問い」を投げかけたから、
です。
もちろん、金箔で鶴を描いた素晴らしい蒔絵といったものも芸術なのですが、
上記の西洋美術の大系では、どちらかというと「工芸」。
金箔で鶴を表現するその意図とは何か?をロジカルに説明できないとダメなんです。
そういった意味では、現代美術というのは、技を競うのではなく、歴史哲学に近い。
どんだけいっぱい知っているか、知っていることの連なりを踏まえて、
さらにその説明の論理が新しいか、その理屈に、へえってなるか、を競っています。
だから、その意味を受け取る側も勉強してないと楽しめないという世界です。
金箔に漆で鶴を素晴らしく描いた、人間技とは思えないような細い線を見てビックリする。といったような感覚的な感動のみでは不十分とみなされるんですね。
ただ、この概念の枠組みを理解すれば非常に面白い謎かけのような、
哲学的なパズルのような世界でもあり、そこが現代美術の魅力です。
そしてその解釈についてこれるかどうかで、鑑賞者を峻別します。
いうなれば「とんち勝負」ですかね。
ちょうど、お茶の世界で、花入れと香合と掛け軸の取り合わせに意を凝らし、
「これをなんと解く?」、「そのお心をお聞かせ願いたい。」とやっているのと同じ。
もっとくだけた言い方なら、板尾創治のしりとり竜王戦の面白味に近いでしょうか。
ミニマルアートというのも、それまでの抽象絵画の不条理性を笑い飛ばすように登場したポップアートに対する対抗概念なんです。
絵ではなく有名人のポートレートを使って現代における絵画、
ビジュアルアートの意味を揺らがしたアンディー・ウオーホール
ポップアートが使った大衆性やゴミとか社会の現前たる事物のマスコミ的表現に対し、純粋な形態の組み合わせや恣意的な処理を排したハードエッジな即物的処理を提示といった具合に
ただ、画面を分割する黒い枠と線だけで、その太さや方向性のバランスの妙。
ここに何事かの意味を探査させようとするソル・ルイットの絵画
その傾向が1970年代以降、建築の世界でも支配的になっています。
普通の町に溢れる広告や大衆的な看板、手垢のついた事物、ほのぼのと雑多な
鉢植えや、暖簾や、生け垣とかいったノイジーな街並みの中で、
ミニマルな表現は、なかなか目立つんですよ。と、同時に作家の恣意性とかいった
ものを一見覆い隠してくれます。
これはほぼ磯崎新さんが仕掛けた枠組みだと思うのですが、
ちゃんと歴史哲学美術を勉強をした人たちと人たちの間でだけ交わされるような
スノッブな世界であればよかったのですが、
本来サブカルチャー的な現代美術的な建築デザインの取り組みが建築業界の権威となって数十年経過してしまいました。
だから、使えるのか使えないのかわからないような公共建築、
意図的に構造上の不合理性を表現してみたり、
ただの駅舎の丸い屋根のカタチを綺麗に銅版で葺くだけでは褒めてもらえないから、
必死のドヤ顔で「極小の宇宙」と呼んでみたり、
「一点から等距離に設置した事物の集合体としての蓋然性」とか説明してたり、
「ローマのパンテオンの写しとしての相互依存的な新しい公共空間」とか、
わけのわからない解説をしているのを見たことがあるでしょう?
あれ、設計者も自分の言ってることがわかってないんですよ大概においては。
そうした環境要因が、たとえば川越の「ドヤ建」を産み落としてしまったのです。
川越で見た「ドヤ建」|建築エコノミスト 森山のブログ
だから、業界内部で一定の地位を確保しようとすると、どうしても機能や効能より
西洋美術の流れの中にある現代美術の文脈を優先せざるを得ない。
場合によっては、教育者がその価値感の中から脱却できませんから、
後者の方にのみ特化した設計者を教育している機関も多いんですね。
そのような評価構造の中から、
数十年は使用しなくてはならないはずの公共建築や30年ローンの住宅が、
数年で機能を損なってしまったり、土が未来とか言ってみたり、
芸術概念のトレンドは動くので数年後には陳腐化するデザインだったり、
個人の出世欲がそのままカタチになって、
ノイズのような街並みができあがってしまってるんですね。
そういった建築と芸術の評価環境、評価構造の中でも、
ゆるがないような建築の価値を求めてギリギリのところで、
事物からくる感動、手仕事からくる驚き、
岸上さんはがんばっておられるのです。
だから、その岸上さんが「瓦」に手を出している。
現代建築を設計する人たちが絶対避けて通ろうとする瓦屋根。
磯崎新さん、伊東豊雄さん、安藤忠雄さんたちが絶対やらない、
屋根とか庇とか瓦とかに取り組んでいる。
コンクリートの構造体に木造がとりつくのではなく、
コンクリートを木造が呑み込み始めている今回の住宅デザインは
いろんな意味で、大きな可能性を秘めていて、
だからこそ
今回わたくしが、速攻見に行っているんですよ。
岸上勝彦 + 明建築工作舎
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1 ■ぎりぎりのところでがんばる人たち
岸上さんにせよ、森山氏にせよ、
世の中でぎりぎりのところでがんばっている人たちは
少数派だろうと思います。
いま日本では、どんな世界でも、みんな自己保身にかまけている。
だからこそ、ぎりぎりのところでがんばる人たちが必要です。
突破口を開き続けねばならない。
微力ではありますが、自分も自分の分野でそんな立場であり続けたいと思いました。
元気出て来たよ、ありがとう!