台風一過、真夏日が戻ってきました。
東京は気温29度くらいですが、都会のビルの谷間の体感温度はもっといっているように感じます。
暑いといわれる日本の真夏ですが、それでもせいぜい30数度までしか上昇しません。
今日は、気温60度近い酷暑の環境で2年間以上にわたり絶対絶命の工事をおこなった男たちの話です。

敗戦からやっと日本が立ち直ったといわれだした昭和33年。
エジプト政府よりスエズ運河改修入札への参加の要請が日本政府にきました。
この年は、美智子妃殿下の婚約発表や月光仮面が放映された年です。

スエズ運河はナポレオンの時代にフランス人レセップスによって開削されて運河が開通しましたが、150万人のエジプト人労働者が動因され、12万人あまり死者が出たといわれています。
その後、この運河管理権はイギリスに売り渡されてしまい、イギリス軍が安全確保の名目で駐留し19世紀から20世紀にかかえては実質イギリスの統治下におかれていました。

建築エコノミスト 森山のブログ

戦後エジプトの独立運動に成功し、イギリス軍の支配から脱したナセル大統領によって悲願のスエズ運河の国有化に成功し、まだ日も浅いころ、このような要請があったのです。

要望は運河前線160キロメートルにわたる複線化と水深を約8メートルからタンカーが航行できる倍の深さ約15メートルにまで深くしてほしいというものです。

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このための国際入札にはそもそも現地で活躍するヨーロッパ企業の多くがひしめいているというそんな状況でしたが、戦後の国際社会に復帰を賭ける日本政府の意を汲んで敢然と挑んだのが、水野哲太郎率いる五洋建設だったのです。五洋建設といえば明治30年代創業の老舗で海軍での工事実績で定評はありましたが、ゼネコン売り上げランキングでは決して上位というわけではない、むしろスーパーサブといった位置づけです。

国際入札に手をあげるのはいいが、このような巨大工事にただ人を送ればいいというものではありません。工事に使用する5000馬力を超える巨大な浚渫船(海のダンプカーみたいなものです)が必要なのです。しかもこの新型船を建造するには当時のお金で10億円はかかると石川島播磨重工からの見積もりがでていました。
このスエズの工事をやりとげるにはこの新型船が絶対に必要なのです。しかし、この時点で五洋建設は船もないし、まだ国際入札で仕事が取れるとは決まっていません。現地に回航する曳航費にも億単位の費用がかかるというプロジェクトです。

ここで水野は決死の大英断をします。「船はつくれ!仕事は絶対取る!」
水野は先頭に立って、このスエズ拡張工事の採算ギリギリの見積もり作業に加わります。
「もっと下げられる!無駄をはぶけ!」担当業務課の作成した見積もりをさらに下回る見積もりを作成しました。

ヨーロッパ諸国に長い間不当に支配を受けていたエジプトはじめアラブ諸国にとっても、ヨーロッパ系の建設企業に任せるより、その欧米諸国に挑んで大敗戦で疲弊しきった日本が再度国際経済の舞台に頭をもたげてきた、そこのところに期待していたと思われます。

そして、水野率いる五洋建設軍団は新造艦とともに国際入札に参加したのです。
水野さんは当時のことをこう述べておられます。
「国際入札に負ければ、またスゴスゴと船を日本まで引っ張って帰らなければならない。そのみじめさもさることながら、失敗したら会社をつぶすことになるかもしれないと思った。しかし、考えぬいたすえに、失敗してゼロになったら、またゼロからスタートすればいいさと考え始めた」(「中国新聞」昭和49年10 月17日、「この人」の欄)

国際集札は昭和36年6月5日に無事行われました。
入札前に億を超える曳航費を負担して、新造の浚渫船を現地まで回航したことは、関係者の度肝を抜きました。
異例中の異例のことであり、なんとしても一番札をとらなければならないという背水の布陣だったといわれています。

そしてヨーロッパ、アメリカ系の有力企業に見事打ち勝って見事この競争入札に勝ち残ります。

これまでヨーロッパの有力業者に独占されていたエジプトの工事プロジェクトに風穴を開けたのです。
「日本のカミカゼ」と地元の新聞記事になり、関係者からも好意的に迎えられました。

しかし、五洋軍団の本当の戦いはこの後からなのです。