誤差を楽しむということ | やんぬるかな

誤差を楽しむということ

 「Co・Bracket」の「とても難しいことだと自分は思う 」を読んで


 長いことここを読んでくださっている方には名前を改める前の「Co・Memont」といった方が通りがいいのかもしれない(サイトのデザインの中に名前は残っているけど)

 Pitさんが数日前から更新を再開されている

 改めて、おかえりなさい




 Pitさんが考えている「コミュニケーション」というのは二つに分けることが必要だと思う

 仕事のように伝達の正確さや早さが求められるシーンと、私生活のなどのように意思疎通を楽しんだりするシーンとでかなりコミュニケーションの質が変わってくる

 職場によってコミュニケーションを楽しめる余裕があるところもあると思うけど



 前者の場合、Pitさんの言うように、誤差を修正する人がPitさんが見聞きした「コミュニケーション」能力があることになるんだろうし、そういう人が大抵仕事が出来たり出世したりする

 

 そういう人はどういう要素を持っているかと言ったらまず相手のリテラシーを分析する能力が必要だろうし、必要に応じて相手のリテラシーに合わせて難解な言葉を噛み砕いて説明する能力も必要だろう

 地頭のいい人は最初からこういう能力を持っていることもないこともないが、こういう能力を身に付けるには色んな人間と会って失敗するしかない

 その場その場にあわせて適応する能力っていうのは、やはり頭がよくても人と接する経験があまりなかった人には欠けている能力だろうと思う


 まぁ、端的に言うと「りあ充」というか、学生時代も色んな人、自分と違う考え方やリテラシーの人と会ったりした人の方がこういう能力は持っているだろうなと思う

 人と人とが話をして仕事を進めていく職場(ほとんどの職場はそうだろうけど)は否応なく色んな人と会うので、何年かいれば少しずつは身についていくと思うけど



 後者の場合、別に「誤読」していけばいいんではないかなと思う


 大抵の場合、例えばブログなんかで誤読したりしても相手がめんどくさがらなければいくらでも考えをすり合わせることはできるし、その考えのすり合わせ自体がコミュニケーションになる

 以前も書いたことがあるのだけど、自分が書いている散文っていうのは誤読した方が楽しいかなとも思うし


 前者と後者では性格が異なるので、前者の正確さを後者で求めない方がいいのかもしれないなとは思う


 

 そういや「極端な話、みんなが「青」と言っている色は、自分には「赤」に見えているのかもしれない。」っていうのは(Pitさんも知っているかもしれないけど)「クオリア」っていう概念で面白い概念だなと思うけど