重い言葉を軽く口にする人々
テーマ:東日本大震災いまこのエントリーの冒頭でどうしても書かざるを得なかったとはいえ、「奇形」という単語をタイプするとき、心に痛みを覚え、できるなら書きたくないし、書くならばその部分だけを切り出されても誤解が生じないようにしたいと切実な気持ちになり、しばし他の表現がないか迷いました。
これは私がてんかん(癲癇)についてのエントリーを書くとき、てんかん(癲癇)という単語を使ったり、エントリーの内容そのものに感じている意識と共通しています。
「てんかんは自分とまったく関係ない」と思っている人にとって、「てんかん」と書くことや、てんかんについてあれこれ言うことは、まったく覚悟が必要ないでしょうし、書いたり言ったりすることで生じる影響まで考えていないでしょう。
でも、てんかん患者であり、てんかん患者の様々な苦しみを見聞きしてきた、当事者としての私は違います。これは「てんかん(癲癇)」という単語の重さの認識の違いとも言えるでしょう。
てんかんについてのエントリーを書く上で、他の慢性的な病気(たとえば糖尿病)について触れざるを得ないときがあります。そのつど私は、書いたものが公表されることで糖尿病の人をつらい気持ちにしているのではないかと考えざるを得ません。私には糖尿病患者の知り合いがいますが、これだけではわからない彼らのつらさ、糖尿病を患っていることの人生における重さを想像することを避けられないため上記のような思いを抱くのです。これは持病を持っている者特有の感覚かもしれません。
また当ブログではこれまでに「離婚」に関する事案を二件扱いましたが、離婚問題に直面している人や離婚経験者に「離婚」という単語や内容が意図とは異なる不快感や悲しみなどを与えないか気を遣ってきました。これは相手に与えた影響に対して、私の離婚経験が免罪符になるわけではないからです。事実、離婚したばかりで落ち込んでいる女性を私の離婚経験を元に励まし、かえって傷つけてしまったことがありました。
こうして考えると、奇形という言葉を軽々と口にできる人や、さらに奇形にまつわる嘘を考えだしたり、デマを拡散させている人は、奇形という単語が背負っている重いものを理解できていないし、想像しようともしていないのだろうと思われます。このような人たちは実際に存在する「(人の)奇形」について想像力を働かせようとしないゆえに、平然と奇形の人や奇形の人を産んだ両親などを蔑視したり怖れたりすることができるのではないでしょうか。それだけでなく、妊婦がこの奇形にまつわる話を聞いたとき、さらに嘘を信じたとき、どのような感情に傾き、どのような苦しみを味わい、どのような行動を取るか、まったく想像することがないのでしょう。結婚を控えた世代の人々に、何が起こるかも想像できないのでしょう。だからこそ、反原発等々といった目的や単なる人騒がせのための嘘やデマに加担できるのではないかと察せられます。
奇形に関する話題を“嬉々として”ネット上にばらまく行為は、当事者について想像する能力が足りないどころか、これっぽっちも想像しようとしていないくせに、奇形という単語が内包している人の気持ち傷つける破壊力にだけは想像力が長けているようです。人間性が歪んでいるな、と思います。
これは「奇形」に限った話ではありません。福島県人をなぜか敵対視する発言をしたり、農業や酪農、漁業に従事する人を十把一絡げにして一方的に悪のように語ることにも相通じるものです。
すべてのものごとの当事者になるのは不可能です。したがって、当事者とそれ以外にわけてこれらの問題を語るだけでは無理があるでしょう。求められているのは、そこに相手が存在すること、その相手が生活していること、つまり人生があることを尊重する想像力についてだと思います。
これは、ある特定の単語を使わないようにすることや、使わないように強制する、いわゆる言葉狩りや言論統制を正当化しようとするものではありません。文脈の中でひとつの単語がいかに使われているのか、どのような意図を単語に負わせているかが問題なのです。
人は人生経験を積むことで、生きているだけで様々な傷を肉体だけでなく心に負うものだと知ります。痛みが伴う経験を重ねるわけです。その痛みは自分固有のものだったとしても、他人にも別の消し去りがたい痛みがあることを理解するものだったはずです。
子供が残酷なのは、人生経験が圧倒的に足りず、ゆえに他人の痛みに配慮できないからです。奇形にまつわる嘘をついたり、軽々しく奇形という単語を使う人々の残酷さは、子供の残酷さに通じるものがあるように感じます。福島県人をなぜか敵対視する人々も同様です。その他いちいち例示しませんが、思い当たることがみなさんにもあるのではないでしょうか。
以上のような文章を書くと、特定の話題を触れてはならないものとし、検証も批判も不可能にしようとしていると誤読する人が現れますが、そんなことを私は一言も主張していません。そこまででなくても、「そんなふうに言われると、恐くて何も言えなくなる」と言う人が現れそうですが、何気なく使っていた単語を一度は怖れてみるのも大切なことかもしれません。つまり、のべつまくなし喋り続ける必要などないのだから、語るべきか否か考えて、さらにその単語を使う覚悟が定まるまで黙っているという選択肢もあるということです。三十分、一時間、半日だけでも。
我々が手にしているインターネットという媒体とその匿名性は、人を饒舌にしがちであり、なぜか往々にして子供のような残酷さや凶暴さを誘発しがちです。もちろん、現実の世界でも気を付けるべきですが。
このエントリーは科学の話でも、医学の話でも、社会学や法律の話でもありません。自らの反省を込めて、日常的な言葉の問題について話をしたつもりです。
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1 ■無題
はじめまして。いつも、興味深く読ませていただいております。
月田さんの指摘には二つの面があると思います。第一に、他人の立場に身を置いて考えることを拒否する人々がいるという問題と、第二に我々がしばしば、うっかり、他人の立場への想像力を欠いたまま発言してしまうという問題です。
第一の問題はある程度は本人の意思の問題で、他人に関するかぎりは哀しいけどどうしようもないなと感じます。
第二の問題は我々の想像力が限定されている限り、起る問題です。我々は努力することで、不注意によって他人を傷つける確率を減らすことが可能だとは思いますが、ゼロにすることは不可能です。
私が考えたいのは、私たちは自分や他人の想像力の欠如によって傷ついたり、傷つけたりするだけでなく、他人に勇気付けられたり、あるいは他人を勇気づけたりするようなこともときには可能であるということです。
他人を絶対に傷つけないということは不可能ですが、他人を傷つけることと、勇気づけることのの収支計算のうえで、黒字にすることは可能かもしれません。また、そういう形でしか、月田さんの提起したような私たちの能力の限界に関係した、倫理的な問題への取組みはできないのではと感じています。
そして、月田さんが勇気をもって書いた、さまざな立場の人々を思いやる文章を読むとき、何か救われるような気分を感じることを指摘したいと思います。私は癲癇でもないし、放射能について深刻な被害をつけている当事者でもありませんが、月田さんが御自分の言葉でそれらの人々を気遣うのを読むとき、私の中のある部分が同時に気遣われたことを感じるのです。
私の見解は個人の他人を傷付けまいとするための想像力をそぐ効果をもつことは自覚してますが、ネガティブなものをなくするという努力の方向は私にとってあまり実りがなかったと感じています。私の弱さゆえかもしれませんが。