「恋は雷に打たれたようなものなんです」。
「何か理由があって好きなのはほんとの恋愛じゃないと思います。何かわけがわからないけれど好きになる。恋愛なんてそんなものです」。

恋は雷に打たれたようなもの。
私が瀬戸内寂聴さんのこの名言を思い出したのは、女優の広末涼子とレストラン「sio」のオーナーシェフの不倫騒動だった。
騒動が大きくなった理由の一つは、広末涼子のラブレターが流出したこと。LINEで「好き」とか「愛している」のような類ではなく、手書きの恋文だった。その古風さがSNS時代にある種の衝撃をもって受け止められたと思う。直筆で書かれた恋心を綴った文面に「本気度」がにじみ出ていたからだ。

ラブレターと夫の会見


アナログの手法は強いメッセージをもっている。私もここぞと自分の強い気持ちを相手に伝えたいときは、手紙を綴る。文字が綺麗とかきれいじゃないとか、そんなことは問題ではない。
直筆で書かれた文面には書いた人の気持ちが込められている。
愛、誠実、慈しみ。時には魂まで相手に伝わるように。
にLINEでちょこちょこと数秒未満で「好きだ」とか「愛している」よりずっと重みがある。本気の度合いがわかるというものだ。

不倫であっても恋。
そのことがさらに顕著に感じたのは、夫のキャンドル。ジュンさんの会見だ。
私はリアルタイムではなく、後からYouTubeで全部視聴したが
最初の半分は、芸能人だからという理由で我慢を強いられ、その結果、妻が不安定になってしまうことの苦しさと、妻が芸能人ゆえの苦しみ(脅迫などの被害)、さらに過去に妻が不安定になってしまったことから起こった不倫の顛末などが語られた。
妻が女優という夫の苦労を切々と語る表情に同情する人も多かったのではないだろうか。
家族会議の結果、夫が出て行くことになったくだりも切なかったが
子供たちのことを思って出て行ったというが、本気で離婚をする気がないのなら、家を出るという選択をしなかったのではないかとも感じた。

 

子供は両親それぞれの幸せを願うもの

独身の私は結婚生活や夫婦の機微にかなり興味があり(両親の影響だと思う)
これまで週刊誌やwebで夫婦をテーマに取材執筆してきたが
あくまでも傾向としていえば、いったん家を出る、つまり離れるという選択をすると
なかなか元に戻りにくい傾向にあるとわかった。
でもこれは傾向であって、私の母親には当てはまらなかった。
母は私が小さい頃、私を連れて父とお祖母ちゃんが同居する家から出て行き、母親の姉つまり私の叔母さん夫婦の家でしばらく一緒に暮らしていたことがある。
出て行った原因は、嫁姑の問題だったそうだが、子供の私には両親がなんとなくうまくいっていないことだけはわかっていた。
叔母さん夫婦の家で暮らすようになると、私は叔母さんが働く会社の近くの保育園に転園して、叔母さんが退社して迎えに来てくれるまで、近くで遊んでいた。母が勤務する会社近辺には保育園がなかったからだ。
ある日、いつものように叔母さんを待ちながら川辺で遊んでいたら、片方の靴をうっかり川に落としてしまった。
靴はどんどん流れていく。
私は泣きながら靴を追いかけたが、川の流れが早くて追いつかない。
夕方の光が明かりを包み込むと、あっという間に夜になってしまうことを知っていた私は焦って追いかけるのだけど、片方の靴はどんどん流されていく。
追いかけても、追いかけても見つからない靴を探している自分がなんだか悲しくて、泣きじゃくっていると、年配のオジサンがかけよってきて「探してあげる」と靴を探そうとして、川沿いを走っていったのだ。
靴は見つかった。小さな橋の下にある植物に絡まれていて、それをオジサンが竿のようなものでとってくれた。
靴は無事に戻ったが、あのときの記憶は鮮明に覚えている。あの光景は、私の不安定な気持ちを物語っていたからだ。

子供ながらに、両親が仲が悪いと感じていた私は、その後、母と共には家に戻った。両親は離婚という選択をしなかったが、両親の関係はぎくしゃくしていて、修復できないことを子供ながらに感じ、それが悲しかった。
私は両親が離婚してくれた方がどんなによいかと思った。両親が別れて、それぞれ互いに幸せになってくれれば、子供の私も嬉しいと感じたからだ。

 

親が離婚すると子供が可哀想のウソ


それ以来「親が離婚すると供が可哀想」という考えは全くあてはまらないと思うようになった。
子供は親の幸せを願っている。だから世間が広末涼子のようなケースに対して「子供が可哀想」という考え方に、違和感を覚えるどころか、嘘くさいとさえ感じてしまうのだ。
子供は子供なりにどうすれば親が幸せになるかを一生懸命に考えているから、知らない人たちが「可哀想」だなんて、余計なお世話としか言いようがない。
子供一人一人の考えや感じ方があるのだから、、知らない人たちがつべこべ言うことではないのだと思う。


恋の先にある風景とは


さて「恋は雷に打たれたようなものなんです」という名言通り
互いに家庭を持つ恋愛は、複雑になっていく気配が濃厚で、
今のところ報道によると
二人はそれぞれ配偶者と別れて、再婚の可能性もあるようだ。
「不倫が悪い」という世間の常識はさておき
雷に打たれてしまった後、人生が変わってしまうことを二人が覚悟しているのなら
納得のいくように突き進んでいき、その先にある風景がどんなものかをいつか語ってもらいたい。
恋がもし命をかけるほどのものだったら、身を焦がすような熱い感情が体中を駆け抜け、そしてさらなる生命力をもたらすかもしれない。
あるいはこれまでの人生を後悔するほどの落胆に見舞われるかもしれない。
でも例えコインの裏表のような結末になったとしても、恋をした人しかわからない風景がきっと待っている。その風景を見たくて、恋に夢中になっているのかもしれない。
 

 

 

※最後に勝手にタロット鑑定をしてみました※
左が夫を選んだ場合、右が恋を選んだ場合
夫とは残念ながら、将来は分かり合えないカードが出ています。
一方、恋に対しては果敢にチャレンジしたいカードと共に、理想の恋に囚われているというカードもね。
理由は彼女自身は「ロマンチックな甘い恋」を信じているからです。
どちらにしてもいばら道。でもきっと覚悟の上なのでしょうね!

 

 

 

 

ケイト・ブランシェット主演の「TAR」に唸りました。

ケイト・ブランシェットありきで作られたこの作品は、映画「ブルージャスミン」に並んで、代表作になることでしょう。

 

成功者の転落か、あるいは再生か


観客によって様々な解釈が生じるという意味で開かれた映画といえるでしょう。

特にラストシーンの見方がくっきり2つに分かれるでしょう。転落かそれとも希望か。

私は音楽を愛し、ARTに対して真摯に向き合った彼女が希望を捨てず新しい境地を見出したと受け取った。


ある映画評のタイトルに「成功者の転落」とある。

ベルリンフィルの指揮者というクラシックの交響楽団の最高峰という頂点に立つ。

今や飛ぶ鳥を落とす勢いのマエストロ、リディア・ターだったが、スキャンダルで失脚し、さらにクラシック界から追放されるような大胆な行動に出てしまったために、再起不能な状況に陥ってしまう。

 

リディアを巡る愛憎は濃厚、そして事件が起こる


同性愛者であるリディアの周囲には女性達の愛憎がひしめいている。

助手で指揮者希望のフランチェスカは、リディアと関係を絶ったのだが、まだ未練が残っている。

リディアにはパートナーのシャロンがいて、二人の間にはペトラという養女がいて幸せである一方、

古ぼけたマンションを別宅にして、時にはそのソファーで関係を持つということも示唆される。

性的に奔放で、出張先で女性ファンと関係を持ったのでは?というシーンもある。

クリスタという若い指揮者志望の女性とフランチェスカと三人で、リディアが影響を受けた民族音楽の地に旅行したこともあり、

性的に関係を持ったと思われるクリスタを遠ざけることによって、クリスタが執拗にメールを送ってきたことがきっかけで、リディアはスキャンダルにさらされることになる。

クリスタは自殺するが、彼女との間に何が起こったのから、真実とは何かは、最後まで謎だ。

またロシア人の新人、オルガに好意を持ったリディアはそのことを素直に表す。

奔放だけど、決して打算的ではないが、好き勝手をやってきたリディアは、オルガをえこひいきしていると団員たちから非難の目を向けられると、自分の保身のために仕事で支えてくれたフランチェスカを裏切る。

他に支援者との交渉や、年配の前任者を更迭させようとする企みも絡んできて、

その結果、リディアは全てを失うことになっていく。

むせるような愛憎劇だ。

 

「人生は一瞬だけど、芸術は永遠だ」

 

リディアの名声、実力、権力。絶大な力を持つ彼女をめぐる様々な人間模様が交錯するが、シーンの一つ一つを検証しなければ関係性や後のマエストロ失脚までの経緯へと繋がる登場人物のそれぞれの心情が不透明だ。

それほどこの作品は精密といえるだろう。


そしてリディア演じるケイト・ブランシェットがコンサート会場に乱入するシーンは、圧巻である!
これは予告にもあるのでネタバレにはならないと思うけど、

彼女が権力に執着しているのではなく、音楽を愛するあまりの行動だとわかると、ふと故・坂本龍一氏の「人生は一瞬だけど、芸術は永遠だ」の名言を思い出す。

 

ハラスメントについて


そしてこの映画のもう一つのテーマであるハラスメントについて。
ハラスメントは当事者の受け止め方によって様々に変容することもさることながら、
非常に個人的なことだと改めて感じたのは、リディアと学生がバッハについてのやり取りのシーンだ。

学生は個人としてのハラスメントの捉え方をしている。客観性を欠いていると感じたが、それはsns時代の特徴である「私中心」のものの見方が影響しているのではないだろうか。


先日、30代の男性と飲んでいた時に、彼女がいないという彼に「寂しくないですか」と尋ねたら、暗い表情でハラスメントと指摘されて、驚いたことがあった。

私は男性の心に一歩踏み込んでしまうような発言をしたのだけど、それは男性を知りたいという気持ちがあるからで、まさかハラスメントとは、と戸惑った。


男性はそんなことも知らないんですかという侮蔑の視線でバッサリ切り捨てる。それは自分の痛いところをつかれたという不快な思いなのだろう。「ちょっと、聞いてみただけよー、酔っ払っちゃってごめんねー」と笑ってスルーできない雰囲気があった。

その強制終了の仕方から、私たちの世界はもはや寛容から遠ざかってしまい、そのためハラスメントと個人の考え方を知らなければコミュニケーションも難しくなると感じたのだ。

死、そして再生

この映画の根底にあるのは、マエストロの失脚(クラシック界の死)と再生だろう。

でもそれは天才や特権階級といった一部の人たちのテーマだけでなく

私たち一般の人たちにも当てはまる人生のサイクルではないだろうか。
転んだとしても、人は信念のため、愛する人のために頑張るぞ!と踏ん張れる。踏ん張って再生して、また壁が生じて転倒しても、また立ち上げれる。
人はそうやって生き抜いて行けるのだ。

この映画はそんな勇気を与えてくれるという意味で、なんだか凄いものを観たって気がする✨

 


 

bizspa!に掲載のコラムより

「愛人」をテーマにしたコラムを直接入力したところ

画像を入れ込んだら、コラムの文章が消えてしまいました。

ワードで保存しておけばよかったと後悔しています。

アメブロに新しい機能が入るのはいいけど

文章が消えるのはとても不便です。

もう一度、愛人に関するコラムを書く時間がないので

今日は掲載したコラムを紹介するのみにします。