暁のうた 言葉より9 | *Aurora Luce**

暁のうた 言葉より9

壁の時計がひとつ鳴った。


全ての処置を終えた侍医たちが出て行って、

訪れていた人たちもいなくなると、

私は心を決めて、

ベッドに横たわるにユートレクトの顔を

視界の中心に入れた。




医務室に着いて、

一番最初に目にしたのは「同意書」だった。


侍医たちは懸命に処置をしてくれたけれど、

ユートレクトが意識を取り戻さないまま、

最悪の事態を迎えた場合には、

その処置に対して異論を唱えない、

という契約を結ばなくてはならなかった。


ユートレクトはセンチュリアの高官だけど、

ローフェンディアの皇族でもある。

それにもかかわらず、

私に署名を求めてきたのが不思議で、

納得がいかなくて、侍医たちに問うた。


主君でしかない私が、

こんな重要なものに署名などする資格はない、

このようなものに署名できるのは、

彼の肉親…皇帝陛下や母君ではないか、と。


すると、侍医のひとりがこう言った。


これは閣下の意思なのです、

意識を失われる寸前に、自分に関する全てのことを、

女王陛下に委ねるとおっしゃいました、

閣下の母君は、既に他界していらっしゃいます、

皇帝陛下もご承知です…


震える手と霞む眼で署名を終えると、

ようやくユートレクトがいる部屋に通された。


白くて…眩暈がするくらい白い部屋だった。


むせかえるほどの薬品の匂いだけが、

この部屋に眠る人の容態の深刻さを物語っていた。


閣下は皇族でもあらせられ、

軍隊にも所属しておられましたから、

毒には少なからず耐性がおありです、

それでも、アスタフをお受けになられては…

並の人であれば、既にお命はなかったでしょう…


そんな声もどこか別の世界のものに聞こえた。


アスタフは世界最凶の毒物とも言われている。

前の世界大戦で、あまりにも残忍な使われ方をしたので、

今では製造禁止になっているはずの毒物。

それがどうして、こんな風に使われているのか。


ここに来る途中で、衛兵長に聞いた話だと、

今日襲撃にきた賊が持っていた武器などは、

すべてフォーハヴァイ王国が用意したものらしかった。

アスタフもあの国王が直々に、

賊たちに手渡したものだと聞いた。


侍医たちからの説明を聞いて、

腑に落ちないことや、

もっと他に方法があるのではないかと思ったことは、

全て問いただした。


私に医療の知識はないけれど、

考えられる限りのことは考えて、手を尽くしたかった。


ローフェンディアの人たちも、

敬愛する皇子を救いたいと願う心は同じだった。

これがローフェンディア以外の国だったなら、

私の言動は煙たがられたかもしれないけれど、

それを心から受け入れてくれたのが救いだった。


ホク王子が来てくれた。

この人が、

ユートレクトの受けた毒に気づくのが遅れていたら、

彼の命は既になかったとも聞いていた。

私は丁重にお礼を言ったつもりだったけれど、

自分がなんと言ったのかもう覚えていない。


クラウス皇太子が来てくれたとき、

リースルさまに、

ここへ足を運んでもらえるように伝えてほしいと

お願いしたのだけは覚えている。

クラウス皇太子は優しく頷いてくれたけれど、

もう一度訪ねてくれたとき、リースルさまの姿はなかった。


大丈夫、アレクさえついていてくれれば、

きっと目を覚ますよ…


そう言って私を励ましてくれたクラウス皇太子も、

とても辛そうなのがわかったから、

もうこれ以上なにも言えなかった。


その間にも、侍医たちやローフェンディアの高官たちが、

万一のときの事務処理のために私を訪れた。


明日の「世界会議」には、

永世中立国の声明を発表するまでは出席すること、

センチュリアへの早馬は誰宛てに飛ばせばいいか…


身の回りのものの処分まで、

私に託されていると聞いたときには、

眼の前が真っ暗になった。


そんなことを聞くたびに、

叫びだしそうになる心をねじ伏せた。


私は彼の主君だから、

逃げ出すことも、理性を手放すこともできない。

彼にふさわしい主君であることが、

私にできる数少ないことだと思った。


最期まで見届けないといけない…

でも、最期になんて絶対にさせない。




今まで怖くてまっすぐに見ることができなかった。

まともに見てしまえばきっと、

心がくじけて泣き出してしまうと思ったから。


だけど、いつも視界の端で祈っていた。

少しでも彼から眼を離したら、

その隙に死神が降りてきてしまいそうな気がしていた。


ようやく落ち着いて…心は全然落ち着いていないけれど、

彼を見守ることができると思って、

その姿をまじろがず眼に映した。


白い寝具に包まれた顔が、

今にもどこか遠くへ行ってしまいそうで、

私は点滴台にすがりついた。

点滴から伸びて彼の腕に刺さる針だけが、

彼を繋ぎとめる生命の糸のように思えた。


こんなことじゃいけない、私がしっかりしなくちゃ…


強くなるって…

今度こそ自分に自信を持てるようになるって、

決めたじゃない。


私は涙を押さえると、ベッドの横の椅子に腰をおろした。


ふと上着のポケットに眼がいくと、

中から紙片が覗いているのが見えた。

夕刻、タンザ国王に土木建築のことを教わったとき、

重要なことを書いてもらったものだった。


あの後のことが胸によぎった。


始めてあんなに感情的なところを見たこと。

その後の優しけれど私を拒むような声…

最後に眼にしたのは、

ララメル女王に冷静すぎる言葉をかけている姿だった。


そんなの…いやだ。


このまま解りあえないままなんて、

頼りなくて情けない私しか知られないままなんて…


私のことなんかどうでもいい。

誰よりもこの人が…これから幸せになるために、

連れて行かないで、お願いだから。


さっき見たときよりも、

彼の顔の血色が薄くなっているような気がして、

私は喉元に黒い大きな鎌がつきつけられたような、

恐ろしいけれど逃れられないなにかを感じた。


どうしたら繋ぎとめられるの、どうしたら…


私は自分でも意識しないうちに、

明日発表する永世中立国の声明を口にしていた。

ブローラ首相から頂いた原稿に、

自分で考えた文面を入れたものを。


…この声明文は、自分でもよくできたと思うの。

今までたくさんのことを教えてくれた、

あんたのおかげなんだから。


これが私の全世界的な初仕事になるのよ。

手塩にかけた私の晴れ姿を見ないなんて、

絶対に許さない。


会議が終わったらね、賊も捕まえてくれたことだし、

居酒屋でもどこでも、ご馳走してあげるわよ。

連れて行ってくれたらね。


その前に、私の艶やかなドレス姿を見て、

驚くんじゃないわよ。

すっごく綺麗なドレスなんだから。

あのドレスを着た私を見たら、

リースルさまじゃないけど、少しは私を見直して…


…ごめんね、リースルさま連れてこられなくて。


ふと見ると、点滴が刺さっている方の腕が、手が、

かすかに動いて、指先が宙をかいていた。


でも、ここには私しかいない。


「ごめんね…私で」


口をついてしまった言葉は、

あれほど堪えていた涙を簡単に誘って、

あたりに小さく響いた。


その手に触れたのは、これが二度目だった。


手伝いに移せるものなら、

私の命を少しでもさらっていってほしいと願って、

両手でその手を包んだ。

僅かに残る体温も、これ以上持ち去られたくなかった。


涙が命の雫になるのなら、どれだけでもあげられるほど、

とめどなく頬を伝って、手の甲に落ちてほどけた。


「…そんな小さな声では、大広間の末席まで聞こえんぞ」


ほどけた涙が空気になって、

聞きたくてやまない声を聞かせたのかと思った。


けれど、涙に揺らいでいても、

私の眼はしっかりと刻んでいた。

共に歩くと約束した水色の強い瞳を。



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