• 01 Oct
    • 最近の京都徒然。。。

      今日は山の日。 地味に四条大橋、三条大橋から眺める鴨川上流の山々を眺めるのが好きです。 それにしても、京都は好きだけど夏の京都は蒸し熱くてサイテーだ(^^;) pic.twitter.com/bzcb8xadSN— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年8月11日こんにちは。最近はブログを書くのは手間に感じるようになり、Twitterで写真を投稿する程度になっています。 久しぶりに清水寺きました。 めっちゃ被ってた。。。(^^;) いつまで修復期間なのかな? pic.twitter.com/ExwP2twlxh— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年8月14日清水寺は現在修復中で清水の舞台はとっても窮屈。知らずに訪れたら、修復中かよ~って凹むかも。 久しぶりに清水寺に来ましたが、日本人よりも外国人観光客のほうが多いですね。(^^)/ 今後も増加していく海外観光客の皆様がたくさん京都にお金を落とすことで、日本の文化遺産を修復するためのお金を稼ぐことを期待します。日本人はもう人口減る一方なので期待できません。。。残念ながら。 pic.twitter.com/UToT0ETtrT— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年8月15日 夏の京都は蒸し暑くて最低。 そのかわりに観光客は少な目。 紅葉の季節には狭い境内に人がパンパンになる詩仙堂も静かな時間を過ごせる(*_*;夏の京都にも良い面がありました。熱いけど。。。 pic.twitter.com/1i4skZNCiJ— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年8月16日詩仙堂は夏に訪れると恐ろしいほど人がいなくて良かった。 石庭で有名な竜安寺(りょうあんじ) 石庭が主役ですが、私は後ろの壁の色合いに目がいってしまいました。 この壁の色が無ければ、石が活きないような気がする。笑  この壁の色ありきやわ。笑 pic.twitter.com/nuhNIdm9eV— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年8月16日竜安寺も外国人観光客のほうが多くなりました。 今年は京都御苑から東山の大文字を。 ちょっと遠かったかな。(^^;) pic.twitter.com/5A6e7NCYjQ— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年8月16日今年は久しぶりに大文字焼き見れた。 平安神宮は幕末に荒れ果てた京都の復興を願って建てられました。 その由来にあやかって、再挑戦とか今年は新しいことに挑戦したい気持ちの時に参拝しています。(^^)/ pic.twitter.com/pA88kvXfBq— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年8月29日平安神宮も人多し。 比叡山の滋賀県側にある日吉大社は、観光客向けに色々と着飾り過ぎた京都の神社やお寺にはない神社の原点的な雰囲気があって良かった。(^^♪ 滋賀県にこれからハマりそう。。。(^^;) pic.twitter.com/elCUCggsVQ— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年9月1日これからは滋賀県の時代。滋賀県への開拓欲が高まりました。 琵琶湖って美しいと思う今日この頃。(^^) 日吉大社の奥宮から見える琵琶湖。京都からJR湖西線に乗ると窓からずっと琵琶湖が見えるのも良かった。(>_<) pic.twitter.com/YkxMfbU1Dc— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年9月1日琵琶湖美し。 京都って本当に山に囲まれてますね。 普段住んでいる町から山は見えないので、羨ましい。 仕事で疲れても山が見えたら何となく頭の中をリセットできる気がする(*_*;#詩仙堂から曼殊院の間の景色 pic.twitter.com/Qc8QCf37jX— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年9月2日 桂川から嵐山を眺める。 嵐山の渡月橋は何度か渡ったことがありますが、嵐山の一つ手前の松尾大社の前の松尾橋から嵐山の方角を眺めると空も広くて山々が連なっている景色がとても綺麗だった。(>_<) pic.twitter.com/OgSza38w6j— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年9月4日 嵯峨野の田園風景。お米も収穫が近いかな? 生まれて初めてまともに、かかしを見た。(^^;) 本当に効果あんのかな?(*_*; pic.twitter.com/84F1CmFjTK— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年9月10日お寺や建物よりも自然の風景が美しく見える今日この頃。 鳥居をくぐるとマンションど~ん!!!(*_*; 最近は京都の神社でも経営が苦しくて境内にマンションを建てて収入を得ると聞いていたが。。。参道をつぶしてマンション建てるほど思い切っているとは知らなかった。#梨木神社 pic.twitter.com/Who9UIMZ5Q— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年9月18日三条実美が祀られているなら、こんな扱いでいいのかな。。。 大原は山と田んぼに囲まれていて長閑(のどか)だった。 何故こんな場所に三千院とか立派なお寺ができたのか?不思議。。。 pic.twitter.com/znQbhossmU— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年9月21日 京都タワーをこんなに小さく見たのは初めて。 石清水八幡宮から。 pic.twitter.com/kENRiGTrVY— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年9月30日 石清水八幡宮は平成29年2月に国宝に認定。 京都都心から離れると人も少なくて快適。(^^♪ これからは京都郊外を開拓したい。 pic.twitter.com/AJZdRbT4EE— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年10月1日

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  • 26 Feb
    • 幕末時代の天皇だった孝明天皇は暗殺されたのか!?

      ブログ更新。孝明天皇暗殺説というマニアックな話題について。 京都の外に住む京都好きのブログ : 「孝明天皇暗殺されたってよ。」について自分で考察してみた。 https://t.co/Kb6XQDD8Uz pic.twitter.com/m7Ndmpr0SW— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年2月25日こんにちは。2回続けてマニアックな話題となりますが、幕末時代の天皇であり明治天皇の父親である孝明天皇は岩倉具視に暗殺されたという説があることを知りました。歴史的には暗殺か病気で亡くなったかの結論は出ていないそうですが、ご存知ない方は半分は嘘でしょ?そんな馬鹿な!?という気持ちでご覧頂けると幸いです。(^^♪

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  • 23 Feb
    • 和気清麻呂という男

      ブログ更新。マニアックな話題。和気清麻呂を知っているか?(^^;) 京都の外に住む京都好きのブログ : 和気清麻呂はどうやって宇佐八幡宮神託事件で英雄になったのか。 https://t.co/CxsUWIBfJf pic.twitter.com/rF7nyPfjMq— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年2月23日こんにちは。マニアックな話題になりますが、和気清麻呂という歴史人物についてブログ記事にしてみました。高校で日本史を学んだ人なら頭の片隅になんとなく覚えているかもしれませんが、多くの人は誰それ?と思うのではないでしょうか?▲wikipediaからお借りしました。実は明治から昭和時代にはお札に顔が描かれるほどの有名人だったそうで、京都観光の際に和気清麻呂とゆかりのある場所を偶然訪れたことから、ブログ記事にしてみました。ご興味ありましたらご覧頂けると幸いです。(^^)/

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  • 26 Jan
    • 京都御所が通年一般公開になったので行ってみた。

      #日産公式プロトラベラー私の旅は 「京都の歴史と文化と美味しいものを巡る旅」です。 京都の外に住む京都好きのブログ : 京都御所の通年一般公開に行ってきました。清水寺に匹敵する観光名所 https://t.co/vCjkr3ZmwS pic.twitter.com/EpgufGLxKL— monpul(もんぷる) (@monpulmonpul1) 2017年1月24日こんにちは。京都御所が2016年から通年一般公開になったことを今更ブログにしてみました。事前予約無し、いつでも何回も、無料で見学できることに驚きました。今までは春と秋の期間限定での一般公開でしたので、かなり便利になりました。良かったらブログをご覧頂けると幸いです。(^^♪

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  • 21 Jan
    • 千利休とゆかりのある大徳寺の歴史について学びました。

      monpul(もんぷる)@monpulmonpul1ブログを更新しました。千利休とゆかりのある大徳寺の歴史を学びました(^^)/ 京都の外に住む京都好きのブログ : 大徳寺の歴史を知ると、権力に媚びない歴史と姿勢にかっこ良さを感じる。 https://t.co/3mTy6zAoFS https://t.co/zmWmP4dFlX2017年01月21日 00:01こんにちは。京都の大徳寺の歴史についてブログ記事にしてみました。(^^♪大徳寺は有名な禅宗寺院のわりには、あまり観光に力を入れていない印象を受けていましたが、その歴史をあらためて知ると、その理由が少しわかりました。もし宜しければご覧頂けると幸いです。

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  • 14 Jan
    • お試し中。

      こんにちは。最近ライブドアブログで同じようなブログを並行して始めました。ご興味ありましたらご覧頂けると幸いです。(^^♪アクセス数とかどっちが良くなるのかなぁと思ってお試し中です。ブログ名「京都の外に住む京都好きのブログ」ツイッター「@monpulmonpul1」

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  • 24 Nov
    • 京都小松屋の焼き芋そっくりなお菓子に笑みがこぼれました。

      ▲京都の寺町にある小松屋のやきいも京都の小松屋にはやきいもそっくりの可愛いお菓子がありますよ。こんにちは。今回は京都の寺町商店街の本能寺の向かい側にある「八方焼本舗 小松屋」という和菓子屋さんに行ってきました。美味しい&愉しい 大人の京都 (´eclat travel)1,080円Amazon小松屋の存在は雑誌の掲載で知りまして、「やきいも」と呼ばれる見た目も味も焼き芋そっくりに似せて作られたお菓子を食べてみたくて来店しました。八方焼本舗小松屋は大正元年創業のお店でして、初代店主さんが石川県小松市から京都へ上京後お店を開いたことから出身地の小松市にちなんで店名を小松屋と名付けたそうです。小松屋はお持ち帰りのみのお店でしたので、店頭でやきいもを一個買いまして、そのままお店の前で食べてしまいました。そのためお店で陳列された写真しかないことは申し訳ありません。(^^;)▲小松屋のやきいもは一個180円もはや本物の焼き芋を食べたら?と突っ込みたくなる。笑さっそく「やきいも」を頂きました。まず見た目が可愛いらしくて、「ころんっ」と手の上で転がるサイズに笑みがこぼれます。焼き芋でいう実の部分は白あんに卵黄を加えた黄身あんになっており、焼き芋でいう皮の部分はハチミツの甘みとバターの風味に、ほんのりシナモンが香りがします。まるで焼き芋を食べているかのような、皮も香ばしい感じで、あの焼き芋のほっこりする感じと少しパサつく感じも忠実に再現してるかのようです。笑本当に「やきいも」という商品名にも関わらず、さつまいもは一切入っていないそうです。本当に焼き芋に中身も見た目もそっくりなお菓子になっております。(^^♪なんか笑みがこぼれるお菓子です。私的には「やきいも」を気に入ってしまいました。京都のお土産に面白いと思うので、今度京都に行く際はお土産に買って帰ろうと思います。つづく。▲小松屋の店前

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  • 21 Nov
    • 京都のわらび餅で有名店~茶洛~

      ▲京都茶洛のわらび餅京都のわらび餅で有名店の茶洛に行ってきました。こんにちは。11月も中旬となりまして、京都各地で紅葉の見頃を迎えております。私も勤労感謝の日に日帰りで名古屋から京都へ行こうと思っています。(^^♪秋の京都と言えば、美しい紅葉を見ることも楽しみではあるのですが、ただ京都に行って紅葉を見るだけで終わることは無いのです。美味しいものも食べたいんです。笑そして欲を言えば甘いもの、和スイーツなんてものも食べたいんです。先日、仕事中に会社の同僚から「今度京都行くけど、わらび餅の有名店教えて♪」と聞かれました。私も食べたいなぁと思いつつも、実は京都のわらび餅で有名なお店には一つしか行ったことがないんです。。。(^^;)同僚にも私は茶洛(さらく)というお店しか行ったことがないけども、一般的なわらび餅の有名店としては、「遊形 サロン・ド・テ」「高台寺洛匠」「茶寮 宝泉」「ぎおん徳屋」「茶洛」などかなぁ。。。と私も行ってみたいお店をお伝えしました。是非感想を聞かせてね。とお願いすると同時に、こっそりお土産も期待しました。(^^♪ということで、以前にも記事にしたことがあるのですけども「茶洛(さらく)」という京都でわらび餅が美味しいと有名なお店について今回は記事にしてみました。とろけるわらび餅で有名な茶洛京都にはわらび餅の有名店がいくつかありまして、その中でも「茶洛」のわらび餅は「とろけるような美味しさ」「まるで飲み物」なんて言われる特徴があります。Youtubeにテレビ東京のワールドビジネスサテライトで茶洛が紹介されていた動画がありましたので、私の文章よりもこの動画を見たほうが良いかと思います。(^^;)▲ワールドビジネスサテライトで紹介されている動画茶洛の店主である関川元彦さんが毎日深夜までわらび餅を作っている姿はまるで肉体労働のようで、手作りで美味しいものを作ることは大変なんだなぁと少し納得しました。関川さんは幼い頃からわらび餅が大好きで、お菓子屋さんで働いたり修行することなく独自の方法で茶洛のわらび餅を生み出したそうです。菓子業界では異端児と呼べるのでは?そのため一般的なわらび餅よりも「口の中でとろける」特徴があります。「餅」のもちもち感をギリギリまで残しつつ、とろける食感を作り出された茶洛に感謝で御座います。(どの立場から発言してるんだとお叱りを受けそうです。。。すいません 笑)茶洛では基本的に商品を持ち帰るお客さんが多いですが、店内でもわらび餅を頂くことが可能です。L字型の大きなテーブルが一つに座席が6、7名程用意してあります。もし他のお客さんがいれば、同じテーブルでわらび餅を頂くことになります。きな粉、抹茶、生姜味のわらび餅を頂くことができまして、つまようじで口まで持ち上げることができるか不安になるほどの柔らかさです。そして口に入れると本当に溶けるような食感です。これはわらび餅なのか?斬新な食感のわらび餅です。人によってはこれをわらび餅ではないと否定的な人もいるかもしれませんが、私は特徴があって良いと思います。お店によって個性がないと面白くないですし。茶洛は堀川今出川近くの今出川通り沿いにお店がありますので、京都御所や相国寺、清明神社や白峯神宮、北野天満宮や西陣エリアに観光の際は立ち寄ることができると思います。もし茶洛の近くを観光する際は、とろけるわらび餅で有名な茶洛に一度行ってみてはいかがでしょうか?つづく

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  • 31 Oct
    • 麩嘉本店に行って来ました。事前予約が必要ですよ。

      ▲麩嘉本店の店構え麩嘉本店に行ってきましたこんにちは。先日は生麩作りの老舗「麩嘉(ふうか)」本店に行ってきました。創業は約200年とのことで、正確な記録が不明なことには理由がありまして、幕末に蛤御門の変の火災によってお店の資料がすべて燃えてしまったからだそうです。長州藩のアホ。お店構えと暖簾が発する雰囲気が、いかにも老舗っぽくて素敵です。麩嘉は京料理には欠かせない生麩を製造しており、主に京都の料亭や料理屋に卸しているのですが、一般向けにも生麩商品や人気の麩饅頭を販売しておられます。そして私は麩嘉本店までかの有名な麩饅頭を食べるためにやって来たのです。麩嘉本店は事前予約必須早速、素敵な暖簾をくぐってお店に入りますと、少し不安になりました。(^^;)なぜなら商品棚も無ければメニューも無い、おまけに飲食スペースも無いのです。「あれ?もしかして本店は製造専門かも」と店員さんもいなくてあたふたしていると、お忙しそうに製造されているスタッフの方が対応して下さりました。そして店員さん曰く麩嘉本店は持ち帰りのみで、しかも事前予約が必要とのこと。「予約してない。。。(>_<)」ところが有り難いことに予約分より余った分は予約をしていないお客様にも販売しているとのことでした。さらに玄関口の長椅子(2名分)が空いていれば店内でも飲食可能とのことで、私は麩饅頭を注文させて頂きました。土曜日の15時程に伺いましたが残っていました。(^^♪麩嘉の麩饅頭 一個220円さて。麩嘉の麩饅頭がやってきました。笹の葉に綺麗に包まれていて、湿っています。笹の葉をほどくと麩饅頭の登場です。敢えてなんでしょうか?水がしたたるみずみずしさで、ツルっと手から落としそうになりました。(^^♪青海苔が練り込まれていますが、私はあんまり海苔の味は感じませんでした。饅頭と言えど、お餅には無いツルっとした舌触りと、すごい弾力です。確かにお店で食べる生麩田楽の生麩がお饅頭になっていて新鮮でした。中にはこし餡が入っていまして、甘すぎない上品な京都らしい味わいです。3,4個はペロッと食べられる美味しさです。なぜ生麩を饅頭にしたのかと言いますと、一説には明治天皇が生麩がお好きで、お饅頭のように餡を入れて欲しいとの依頼があったからだとか。麩嘉で保管している昔のパンフレットにそう書いてあるそうです。▲麩嘉の玄関には表札がありました。麩嘉は本店以外にも店舗がありまして、錦市場と京都駅伊勢丹にも店舗があるので観光の際はそちらの方が便利です。京都のお土産と言えば八つ橋ですが、これからは麩嘉の麩饅頭も良いと思いました。次回に京都土産を買う際は麩嘉の麩饅頭を買おうと思います。つづく

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  • 26 Oct
    • 瑠璃光院の一般公開は終了も特別拝観は始まってました。

      ▲瑠璃光院瑠璃光院の秋の特別拝観始まりました。10月1日から12月4日までこんにちは。先日、会社の同僚から「京都の紅葉でどこが一番良かった?」と聞かれました。取りあえず、永観堂、東福寺、嵐山エリアの有名どころを同僚に答えている最中に瑠璃光院が頭に浮かびました。でも瑠璃光院は街中から外れた行きづらい場所にあるし、わざわざ愛知県から行くなら街中の有名どころに行った方がお寺をたくさん回ることができると思いおススメしませんでした。その後に私の方が瑠璃光院のことが気になりましたので、ネットで調べてみると今年の秋の一般公開が10月1日から12月4日までの期間で既に始まっているではありませんか。そして変わらず拝観料は2,000円ですって。(^^;)私は紅葉の美しさよりも拝観料の値段の印象が残ってしまっているのですが、せっかくなので瑠璃光院についてブログにしてみました。ちなみに瑠璃光院の一般公開は現在行われておらず、春と秋に限られた期間限定で特別拝観が行われています。そして平成28年度秋の特別拝観が10月1日から12月4日まで行われており、拝観時間はAM10:00からPM4:30までになります。そして何度も恐縮で御座いますが拝観料は2000円で、駐車場は有りませんのでお車の際はお気を付け下さいませ。特別拝観は来年も行われるかは不確定ですが、一昨年と去年は無事に行われています。瑠璃光院の紅葉の見頃はいつか私が瑠璃光院に行ったのは一昨年の12月上旬でして、写真も一昨年に撮ったものです。その時は見ての通り見頃が過ぎていましたので、紅葉が色褪せてしまっています。なので紅葉の見頃は11月中旬から下旬にかけて行くことをおススメします。でも私は少し色褪せた頃の紅葉も綺麗で良かったと感じましたよ。それはそれで。それにわざわざ瑠璃光院まで紅葉を見に来る方は、しっかりと紅葉の色付き状況を把握されているようで、見頃を過ぎる頃には圧倒的に人が少なくなります。そのおかげで静かに落ち着いて紅葉を鑑賞することができました。また瑠璃光院のある八瀬エリアは自然に囲まれているので、周りの紅葉やイチョウも綺麗で癒されました。でも今後行く際は見頃の時に行こうと思っていますけどね(^^♪瑠璃光院とは瑠璃光院というお寺を知っている前提で話が進んでおりましたが、瑠璃光院は京都の八瀬という場所にある紅葉の美しさが有名な観光名所になります。お寺と言っても元々はお寺ではなく、高級旅館として営業していた敷地になります。残念ながら旅館は廃業になりましたが、現在の住職さんが建物を引き取ることで現在は瑠璃光院という名前のお寺になっております。そして昔は通年の一般公開をしていたのですが、建物保護のために一般公開は廃止され、現在は年2回の短い期間での特別拝観のみとなっています。特別拝観の時期には平日でも観光客で賑わいますが、有名どころに比べれば人は少ないです。ただ建物自体が大きくないので人口密度は高いです。(^^;)瑠璃光院への行き方電車であれば叡山電鉄の八瀬比叡山口駅下車 徒歩5分バスであれば京都バスで八瀬駅前下車 徒歩7分※京都バスは京都駅から八瀬駅行きが出ていないので地下鉄五条駅からバスに乗ります。さて今年はどこの紅葉を見に行こうか考え中です。▲瑠璃光院境内にある石塔▲八瀬駅近くのイチョウの木▲叡山電鉄の八瀬比叡山口駅つづく

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  • 15 Oct
    • 松平容保と新撰組の関係性

      ▲金戒光明寺の門には京都守護職の看板がある松平容保と新撰組の関係を学びましたこんにちは。先日、営業の合間に時間が空いたので喫茶店に行くとお店に漫画がたくさん置いてあり、「るろうに剣心」という漫画を読みました。私が小学校4年生くらいの時に読んだのですが、ストーリーをざっくり言うと幕末から明治時代の始め頃を舞台に主人公の緋村剣心が刀を武器に敵と戦う少年漫画です。(笑)最近では俳優の佐藤健さんを主演に映画で実写化されている作品になります。今思えば私なんかは時代背景等は理解していなくて、ただただ登場人物の緋村剣心や新撰組がカッコいいから見ていたなぁと思います。そして私が初めて幕末、明治維新という単語に触れたのが「るろうに剣心」でした。それから学校で歴史の授業が始まり、江戸幕府による鎖国令、ペリー来日、坂本龍馬による薩長同盟、明治維新、文明開化という単語を覚えました。さらにNHKの大河ドラマでSMAPの香取慎吾さんが近藤勇を演じる「新撰組」、福山雅治さんが坂本龍馬を演じる「龍馬伝」なんかを見ては、幕末は心が熱くなるカッコいい時代という雰囲気で好きな時代として私の中にありました。るろうに剣心―明治剣客浪漫譚 (巻之7) (ジャンプ・コミックス)/和月 伸宏¥421Amazon.co.jpそして久しぶりに「るろうに剣心」を読んでみると、本当に時代背景を理解していなかったなぁと気付かされました。「るろうに剣心」主人公の緋村剣心は幕末の京都において、明治維新を起こした側の人間として長州藩と薩摩藩に雇われて幕府側の人間を暗殺する役目を負っていました。そして敵として登場する新撰組は江戸幕府側の立場で、京都の治安を維持するために緋村剣心のような暗殺者を取り締まります。緋村剣心と新撰組の三番隊組長である斎藤一が戦う場面なんかは、どっちかというと見た目的にも斎藤一が完全に敵っぽい雰囲気で描かれますので、小学生の私なんかは緋村剣心が正義で新撰組が悪と思ってました。しかし本来は国家を治める幕府の人間を暗殺する緋村剣心こそ悪であり、そんな暗殺者を取り締まる警察的立場の新撰組の斎藤一が正義のはずです。今風に言えば緋村剣心のような暗殺者はテロリストです。しかしその後の歴史で江戸幕府は倒れて新しい明治という時代を迎えたことで、新撰組が属する幕府は悪となり緋村剣心が属する新政府が正義になったのです。少年漫画と言えど、るろ剣は意外と考えさせられるなぁと思いました。(^^;)そこで今回はあらためて新撰組の立場と上司の松平容保についてブログにしてみました。幕末好きな方にとっては当たり前すぎる知識かと思いますが。。。私なりに新撰組について理解してみようと思いますので、詳しい方は読まないで下さい(^^♪▲金戒光明寺に松平容保は本陣を置いた新撰組や京都守護職が生まれた理由新撰組や京都守護職が置かれた当時の京都の町では、現在で言うテロ行為が連日のように起きまくっていました。まさに「るろうに剣心」で剣心が幕末の京都で幕府の人間を天誅と言って暗殺していた場面が実際にたくさん起きていたのです。暗殺の実行者は主に長州藩(吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎がいた藩で今の山口県)や土佐藩(坂本龍馬がいた藩で今の高知県)や薩摩藩(西郷隆盛や大久保利通がいた藩で今の鹿児島県)でした。暗殺対象者は主に江戸幕府の人間や幕府に味方する公家や商人でした。その残虐な行為は記録としても残っていて、ただ殺害するだけではなく、生首を人の集まる場所に放置したり、切った腕や足を幕府側の人間の家に投げては次はお前だみたいな威嚇や、男性だけでなく女性も容赦なくしたそうです。(_京都の町はそんな状況だったので治安維持のために幕府は新撰組や松平容保をトップに据えた京都守護職が新しく設立されたのでした。▲桜の季節の金戒光明寺後の新政府の人達はなぜ暗殺を起こしたのか?当時アメリカからペリーが開国を要求するために来日した際、幕府は欧米の軍事力と戦うことなど不可能と理解し開国することを決めました。しかし国内の大多数の人々は開国に反対だったので、幕府に対する不満が湧き起こりました。さらに当時の天皇である孝明天皇が外国大嫌いの立場の人だったこともあり、京都の朝廷が幕府に対して条約を破棄しろと要求します。これに幕府に不満を持つ人々が賛同し、孝明天皇を中心に反幕府の立場の人が京都に集まるようになったのでした。また庶民の生活も開国したことで不景気になりました。日本産の金や銀に生糸や海産物、米と麦がどんどん輸出したことで国内が物不足になり物価が上昇したことで庶民の生活も苦しくなってしまったのです。約200年続いてきた江戸幕府に対する不満も積み重なり、各藩だけでなく庶民までも幕府に不満を持つ人が多く、力を持つ長州藩や薩摩藩の人達が倒幕を目指すようになりました。学校の授業で「尊王攘夷」とは天皇を中心にして外国を敵とみなして開国しない考えと習った気がします。でも幕府倒した後の明治政府は鎖国どころか、より欧米の文化を吸収するために開国してるので、江戸幕府が開国したことに何故反対したのかよくわからなくなって頭が混乱してきます。汗▲桜の季節の金戒光明寺の山門京都守護職に会津藩主の松平容保が就任そんな治安が悪化している京都の治安を守るために幕府は京都守護職という機関を設立し、そのトップに任命されたのが松平容保という人です。彼は会津藩(今でいう福島県)のトップに立つ方でした。会津藩は軍事力の優れた藩ということで幕府から任命されました。(本当は任命を拒否したかったのですが、仕方なく受けました。詳しいことはまた今度)松平容保は任命後、兵士約千人を率いて会津から京都の金戒光明寺にやって来ました。本当は彦根藩(今の滋賀県)が京都の治安を守る立場でしたが、当時は彦根藩主の井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されてそれどころじゃないとして会津藩に仕事が回ってきました。▲新撰組が駐在していた壬生寺新撰組は悪なのか正義なのか。その一方で後に新撰組になる人達は、徳川将軍が京都に来る際の護衛として東京から京都に来ました。そして近藤勇や土方歳三等の主要メンバーはそのまま京都に残り、京都守護職である松平容保の下で幕府側の立場で長州藩や土佐藩の暗殺者達を取り締まり、京都の治安をよくするために活動します。つまり新撰組の成り立ちを知ると、今のところ悪者ではないんですよね。もっと勉強する必要があるとは思いますが、現時点の私の知識ではそう思うのです。(今回は新撰組の立場だけを理解したいため細かい新撰組誕生話は省かせて頂きます。)▲京都御所にある蛤御門新撰組の池田屋事件や蛤御門の変での活躍新撰組は京都で活躍します。有名な池田屋事件は尊王攘夷派の長州藩の人達が京都御所や京都の町に放火をし、その隙に天皇を長州藩に拉致し、幕府側の松平容保、一橋慶喜の殺害計画の実行日決める会合が池田屋で行われることを事前にキャッチした新撰組が突撃して実行犯達を捕まえました。また池田屋事件で重要な人材を亡くした恨みを晴らすべく、長州藩が軍隊を率いて京都御所に突撃し、天皇の住む御所に向けて砲撃、発砲を行うという蛤御門の変が起きた際も新撰組は鎮圧に貢献したのでした。当時の長州藩は「尊王攘夷」と言いながら、尊王つまり天皇を敬う気持ちなんて全く無いと思われても仕方ない位過激でした。これを聞くと私はまた混乱するんです。どっちなんだよと。(-_-)zzz▲京都御所の風景 都会の中にこんな公園があって羨ましい戊申戦争により新撰組と松平容保は敗北そして悪者へその後は坂本龍馬による薩長同盟が成立したことで、幕府は新政府軍に敗れる未来が決まりました。鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊申戦争が始まりました。学校の授業で江戸城の無血開城なんて単語を習いましたが、江戸以外では幕府側の人間の命が失われました。特に会津藩は長州藩から目の敵にされていたせいで、会津若松城の白虎隊で有名ですが、女性も男の子も女の子も大変残酷な殺され方をしたそうです。歴史の教科書では習わない明治維新の闇の部分です。そして新撰組の隊員達は各戦場で新政府軍に敗れました。土方歳三は北海道まで戦いを続けて五稜郭で亡くなりました。▲京都御所 紫しん殿明治維新のおかげで現在の日本がある幕府を倒した後、日本は近代化に向けて内政改革を行い、開国して外国の知識をどんどん取り入れて欧米化しました。そのおかげで日清戦争や日露戦争で勝利を収めることができました。太平洋戦争ではアメリカに負けましたが、現在の経済発展した日本があるのは明治維新のおかげだと思います。明治維新を否定するつもりは全くありません。過去のことを否定しても私は私で存在していますし、明治維新のおかげで私の今があることを否定はできないからです。でも明治維新は本当に光輝く出来事だけだったのだろうか?多くの犠牲があったことをちゃんと知る必要があるのかもしれないと考えさせられました。つづく

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  • 10 Oct
    • 清少納言の随筆は面白かった。

      ▲枕草子の漫画清少納言が書いた随筆枕草子こんにちは。最近は古典のマンガ版にハマっております。前々回は源氏物語、前回は和泉式部日記を漫画で読みました。そして今回は「枕草子」を漫画で読んでみました。平安時代の女性である清少納言によって書かれた随筆であり、日本三大随筆の一つに数えられます。残りは鴨長明の方丈記、吉田兼好の徒然草になります。私も学生時代に紫式部は源氏物語を、清少納言は枕草子を書いたと暗記したことを思い出すのですが、作品の中身と内容については全く知らないのが現状です。ところが大人になった今更に古典に対して興味がでてきたのです。しかし古文の原文を理解することはできませんし、現代語訳も大して面白くないと感じていたのですが、最近は日本の古典をわかりやすく漫画にした作品が多くあることを知ったのでした。理想は原文、もしくは現代語訳を読みたいのですが、私も仕事をしながら古文を勉強する時間と熱意は持ち合わせいないもので、しかしせっかく古典に興味を持ったのですし、挫折するくらいなら敷居の低い漫画から古典に触れて、さらに興味を持つことができたなら現代語訳、次は原文と一歩ずつ前進する方が自分には合っていると思いました。と言う訳で。清少納言の書いた枕草子についてブログにしてみます。▲京都御所清少納言の随筆とは。実は枕草子を読む前に随筆って何?というレベルでして、随筆の意味を調べますと。随筆とは文学における一つの形式のことで、体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想や思想をまとめた散文である。(ウィキペディアより引用)ちなみにネットで「随筆」と検索すると「随筆とエッセイの違い」についてわかりやすく書かれていたサイトがありましたので、引用させて頂きますと。随筆とは、本当にあった出来事の見聞や感想を自由に描いたもの。エッセイとは、出来事の描写ではなく、書き手のパーソナルな心の様子を描いたもの、告白的なものであるということだ。(引用元サイト:隠居系男子 「随筆」と「エッセイ」の違い)そして日本における最初の随筆が清少納言の枕草子になります。つまり枕草子とは平安時代に生きた清少納言の身の回りに起きた出来事のことや感想を描いた作品という訳ですね。源氏物語のフィクションではなく、枕草子はノンフィクション作品ということです。▲京都御所随筆枕草子には何が描かれているのか?簡単に言うと、平安時代の当時の天皇である一条天皇の奥さんだった定子さんのお手伝いとして働く清少納言が、日常生活や四季や自然を観察して彼女が思ったことや言いたいこと、定子さんの身の回りで起きた出来事について書いたものです。つまり紫式部の源氏物語のような小説では無く、清少納言の日記やブログの延長線にあるようなものです。例えば学校の授業で聞いたことのある原文の一文を抜き出しますと。春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、すこしあかりて紫だちたる雲のほそくたなびきたる。。。この一文は単純に清少納言にとって春と言えばこれよっ!と春らしい美しい景色を描いた文章になります。現代語訳すると、春と言えば、だんだんと日の出が近づくにつれて、山と空の境目あたりが明るく白くなっていき、紫色の雲がほそ~くたなびいて見える時こそ春の美しさを感じる瞬間よ!(^^)/またイライラするものという項目がありまして、その内容をいくつか見てみると、蚊がぷ~んと音を立てて顔の回り飛ぶこと、お酒を飲んで大きな声を出して騒ぐこと、人の噂話ばかりする人、音をよく聞こうとした途端に泣き出す子供、カラスがギャアギャア騒ぐこと等。。。今も昔も大して変わらないようなことを挙げています。清少納言が生きた平安時代と現代では科学技術の発展等、生活環境が大きく違うにも関わらず、人が何に美しさや怒りを感じるかという感性は大して変わっていないことを感じました。枕草子 (ホーム社漫画文庫―NHKまんがで読む古典 (特5-1))/ホーム社¥700Amazon.co.jp枕草子の漫画この度私が読んだ漫画作品は「NHK漫画で読む古典1 枕草子」でして、NHK総合テレビで昭和63年から平成元年にかけて放送された「漫画で読む古典・枕草子」をもとに、著者が独自に脚色し執筆したものになります。あとがきにて、著者がこの本の依頼を受けた際に初めて枕草子を通して読んだ際に、凄くハマったそうです。清少納言の鋭い感性によって生き生きと描かれた宮中の生活、中宮や貴公子たちとのスリリングな恋のかけひきに魅了された。とおっしゃる勢いそのままに漫画にして頂きまして、私自身は読んでいてとても楽しめました。少女漫画の可愛らしく描かれる清少納言がとても生き生きしていまして、クスッと笑いながら読めました。是非とも枕草子を原文で読んでみたいと思いましたし、古典の中では敷居が低いのではないでしょうか?古典に興味がでてきたのは良いのですが、高校生の時に真面目に古文の授業を受けて勉強していればと後悔する今日この頃です。笑

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  • 03 Oct
    • 貴船神社で復縁を叶えた和泉式部と私

      ▲貴船神社の参道 灯篭が並ぶ和泉式部と貴船神社で復縁祈願こんにちは。前回のブログで源氏物語をマンガで読んでみたことを記事にしました。大人になって源氏物語のマンガを読むことに少し恥ずかしさがありましたが、読み始めてみると意外と面白い。(笑)学校の授業では「紫式部 源氏物語」とロボットのように機械的に暗記した源氏物語の世界を初めて知ることができました。マンガで描かれるイケメン光源氏と恋をする美しい女性達の物語を目で見て楽しめます。文字よりもマンガなら感情移入しやすく、源氏物語という単語に感情を持てるようになりました。あらためてマンガって便利というか凄いなと思います。子供が読むものと馬鹿にできないし、古典はマンガから取り組めば親しみを覚えて理解しやすくなることを発見しました。和泉式部日記―マンガ日本の古典 (6) 中公文庫/中央公論新社¥637Amazon.co.jpそして今回は「和泉式部日記」を「マンガ日本の古典シリーズ」で読みまして、和泉式部という平安時代の女性歌人のことを知りました。和泉式部と言えば、過去にブログにした私自身が貴船神社で復縁できた話を思い出します。貴船神社には和泉式部が夫との復縁を祈願し、願いを叶えた話が今も伝わる神社です。それで私も復縁を祈願したのでした。▲貴船神社の拝殿貴船神社に伝わる和泉式部の復縁話。貴船神社には和泉式部が夫との復縁を祈願して、復縁を叶えたと言われています。そのため現在では貴船神社は復縁や恋を叶える神社としても知られています。和泉式部の夫が浮気をしていたため、和泉式部は夫の気持ちが自分に戻ってくることを貴船神社で祈願しました。すると夫は日頃の行いを改め和泉式部の元に帰ってきたのでした。私の話で恐縮ですが、大学生の頃に恋人から別れを告げられても諦めることができない恋人がいました。そんな失恋で落ち込んでいる私を見た友達が「貴船神社は復縁に御利益があるよ」と教えてくれたのです。私は神様とか占いは信じない、信じたくないと思っているのですが、その時だけは藁にもすがる思いで貴船神社に復縁を祈願したことがあります。すると参拝から1か月程経った頃に恋人からもう一度やり直したいと電話がかかってきたのでした。普段は神様なんて存在を信じない私もこの時ばかりは「神様ありがとう」と心の底から感謝しました。(涙)そのため私にとって和泉式部と貴船神社と言えば、復縁を叶えてくれた神様みたいな存在ですが和泉式部がどんな人物で何をした女性なのかは詳しく知りません。なので頭の片隅に和泉式部のことを知りたいと思っていたところ、前回の源氏物語のマンガを本屋さんで見つけた際に同じ本棚に陳列されていた和泉式部日記を見て、和泉式部への恩返しの気持ちを込めて和泉式部のことも知ってみようと本を買ってしまったのでした(^-^)▲貴船神社の本殿前を流れる小さな滝和泉式部は生涯に2人の夫と2人の愛人がいた。和泉式部という単語は学校の古典の授業で聞いた記憶があります。しかしテストに出るような重要な単語ではなかったのでは?という記憶しか私にはありません。和泉式部よりも紫式部や清少納言という単語の方が強く頭に残っています。そんな私にとってマイナーな存在である和泉式部とは一体何者なのか?和泉式部は平安時代を生きた女性であり、当時から優秀な和歌を詠む歌人とて有名でした。そして同じ時代を生きた源氏物語の作者である紫式部から、「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批判されています。また同じく時代を共にした藤原道長からも、「恋愛遍歴が多い浮かれ女」と評価された女性です。男性に非常にモテる女性であり、恋愛に生きた女性だったみたいです。そして恋の気持ちを原動力に現在の教科書にも取り上げられる優秀な和歌を遺しました。▲貴船神社 杉そんな和泉式部には生涯2人の夫と最低2人の愛人がいたとされています。最低2人とは他にもいた可能性があり、明確に名前が残っているのが2人だからです。そして今回私が読んだ和泉式部日記は2人目の愛人との恋の物語を描いた作品です。源氏物語は紫式部が書いたフィクションですが、和泉式部日記は本人の経験を書いたノンフィクション作品とされています。私が読んだのはマンガ版「マンガ日本の古典6 和泉式部日記」ですが、現代も1,000年前の平安時代も男女は同じように恋愛をして生きていたんだと感じました。スマホや電話はなくても、私達の恋心は平安時代から変わっていない。恋愛は人間に必要なものということです。笑和泉式部と恋愛した4人の男達1人目の結婚相手は橘道貞という中流貴族でしたが、上手くいかず離婚します。2人目は恋愛関係となった為尊親王で、当時の天皇である冷泉天皇の3男。中流貴族の和泉式部が天皇の息子と恋愛をすることは当時の社会では非常識だったようで世間から批判を浴びました。橘道貞との離婚原因の一つに為尊親王との関係もありました。しかし為尊親王が26歳という若さで亡くなり2人の恋愛は終わりました。3人目は恋愛関係になった敦道親王で、2人目の為尊親王の弟であり冷泉天皇の4男。世に残る和泉式部日記ではこの敦道親王との恋愛が描かれています。しかし敦道親王も27歳という若さで亡くなり和泉式部の恋愛はまた恋人の死によって終わります。4人目は藤原保昌という藤原道長に仕える武士であり、和泉式部は彼と再婚しました。他にも和泉式部には多くの男性と恋愛関係があったと言われています。和泉式部が貴船神社で復縁を願ったのは再婚相手の藤原保昌。ではでは。和泉式部が貴船神社で復縁を叶えたのは誰だったのでしょうか?それは2人目の夫である藤原保昌です。藤原保昌と再婚した和泉式部でしたが、藤原保昌が心変わりをして他の女性の元へ通うようになってしまいました。彼女は悩んだ末に貴船神社で夫との復縁を祈願したところ、願いが叶ったという訳です。この話が元となって現在も貴船神社が恋や復縁を祈る神社として知られるようになりました。どうでしょう?現代の感覚では人によっては恋に生きた和泉式部のことに好感を持てない人もいるかも知れません。でも貴船神社参拝で夫との復縁を叶えたのは事実のようです。私も貴船神社で復縁を叶えましたし。(^^)/しかし現代と当時では恋愛事情も文化も常識も違うので、現代の感覚だけで和泉式部のことは批判できない気がします。私自身が当時の女性の立場に詳しい訳ではないので間違っているかもしれませんが。。。当時は現代で言うキャリアウーマンと呼ばれるような自立した生活を女性は送ることができない社会です。女性は男性か裕福な実家から経済的な支援がなければ生きていくことができなかった。和泉式部の実家は中流貴族だったとされ、貴族の中では裕福ではなく男性の援助なしでは生活できない身分。そういった環境の中で、男性と接点を求めるのは経済的にも合理的な判断だったのではと思うのです。和泉式部にそうした計算があったのかわかりませんし、純粋に恋を求めただけだったかもしれません。さて。歴史に名を残す程の和歌の才能を持った和泉式部という女性について、もっと知りたくなりました。1000年も前に生きた女性に対して好き嫌いとか批判する気持ちはない。現代よりも圧倒的な男尊女卑の社会の中で一人の女性が恋愛して生きた生涯に強く惹かれるものがあります。もっと学生の時に古文に興味を持っていれば原文を読めたかもしれないのですが、次は現代語訳を読んでみようと思います。笑

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  • 24 Sep
    • 源氏物語の現代語訳「光源氏の誕生」を読んでもよくわからなかった

      ▲一休が作成した初代通圓像源氏と源氏物語こんにちは。前々回のブログにて京都宇治市にあります老舗茶舗「通圓」のことを記事にしました。そして前回のブログでは通圓の歴史と初代通圓が武士として宇治川の合戦に参戦した人物で、源氏である源頼政の味方として戦い命を落としたことを知りました。その歴史を知ると「そもそも源氏と平氏って何だっけ?」と急に疑問が湧いてきたことをきっかけにして、源氏と平氏が誕生した経緯を前回のブログにてあらためて自分で調べてみました。さらに今回は源氏と言えば源氏物語と、物語の主人公である光源氏が頭に浮かんできたので、源氏物語の源氏と源氏と平氏の源氏が同じ意味なのか調べてみようと思いました。▲京都御所源氏物語と言えば、学校の古文や日本史の授業で習ったことを思い出しますが、特に内容については全く覚えていないです。日本史の授業では紫式部が書いた源氏物語と清少納言が書いた枕草子という単語だけを暗記すればテストで点は取れました。そして古文の授業では原文はあまり読まずに、現代語訳だけを一生懸命読んでいたことを思い出します。(^^;)そのせいで大人になった今、源氏物語のことを人に説明して下さいと聞かれれば、作者は紫式部という女性であることしか知りませんという状態です。しかし大人になって京都を観光することが一つの趣味になったこともあり、せっかくなのでついでに源氏物語のことも復習してみようと思います。今更ながら学生時代に古文をもっと勉強しとけば良かったと後悔していますが、学生の頃にまさか大人になって京都や日本文化、歴史に興味を持つことになるなんて思わなかったので仕方ないんですけど。。。笑▲大覚寺の襖絵臣籍降下と賜姓源氏今回あらためて源氏物語の光源氏のことを知ると、前回のブログで学んだ源氏と平氏が誕生した理由と同じで、光源氏も臣籍降下をしたので源という名字を持つことになりました。物語の中で光源氏は天皇の次男として生まれたのですが、次の天皇には長男が継ぐことが決まっており皇族から一般の貴族として生きることを父親である天皇によって決められました。この皇族から一般人になることを臣籍降下と言い、その証として源という名字を与えることを賜姓源氏と言いました。つまり源氏物語の源氏と、源氏と平氏の源氏は同じ意味の単語だということがわかりました。源氏物語という題名は名字が源の人が主人公の物語ということです。私の個人的な疑問は解決したのですが、せっかくなので源氏物語の内容を知りたいなぁと思い原文と現代語訳を読み始めてみたのですが。。。大人になった今でも古文は苦手のままだなぁと実感することになりました(^^;)▲京都御所の西門源氏物語の原文~光源氏の誕生~いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給うありけり。。。。と原文はさっぱり意味がわかりません。(^^;)源氏物語の現代語訳~光源氏の誕生~どの天皇の時代だったか、女御、更衣(天皇の奥さん達)がたくさんいる中に、身分がそれ程高い訳ではないけども、際立って天皇に愛されている人がいました。。。理想は原文を読んで源氏物語の世界を楽しみたいと思っていたのですが、学生時代に古文はあんまり勉強していなかったこともあり私には理解不可能でした。。。ならばと現代語訳を読んでみたのですが面白味がないと感じてしまいました。日本語として読むことはできますが、当時の時代背景や常識を知らないと理解できない部分もあるからです。でも源氏物語の内容は知りたいという情熱(笑)はあるのにどうしようと悩んでいたところ、本屋さんでその悩みを一発で解決する方法を見つけました。それは源氏物語を題材にしたマンガです。源氏物語をマンガで読む大人になってマンガで源氏物語の読むのに少し抵抗があったのですが、私が読んだ作品は「NHKまんがで読む古典」「マンガ古典文学」という古典を身近に感じてもらう教育面の目的も含まれる本でしたので、わかりやすく読めました。初めて源氏物語の内容と雰囲気に触れることができました。私みたいに源氏物語に興味があるけど古文は読めないという人には良いのでないでしょうか?私個人的には2作品とも物語の終わりのあとがきにて、マンガ家さんが色々勉強しながら作品を完成させることができたけど、当初は大変な仕事を引き受けてしまったと後悔したと仰っているのが印象的でした。(そこかよ!?と突っ込まれそうですが。)マンガ家さんは絵を描くのはプロだけども、別に源氏物語の内容を最初は知らなかったし、歴史や当時の常識、服装や建物や貴族達がどんな生活を送っているかをマンガでリアルに表現するためには、本を読んだり、当時の資料とかを読み通したりして勉強するんだなぁというところに勝手に親近感を持ってしまったんです。笑▲青蓮院そして作者によっては源氏物語の内容の解釈というか、何を伝えたいか、教育目的なのか、恋愛部分を全面に押し出すのか、娯楽目的なのか、原文を忠実に表現するのかが変わるんだなぁと思いました。Amazonで源氏物語を検索しますとマンガや小説等の色んな作者の作品がありますので、現代源氏物語の違いを楽しむのも面白そうです。って。今回はここまで。(^^;)源氏物語の内容を語れる程、まだ読み込んでいなかったので内容について今回は言及できませんでした。これから少しずつ知っていこうと思います。つづく。NHKまんがで読む古典〈3〉源氏物語・伊勢物語 (ホーム社漫画文庫)/細村 誠¥700Amazon.co.jp源氏物語 上: 創業90周年企画 (マンガ古典文学シリーズ)/花村 えい子¥1,728Amazon.co.jp

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  • 10 Sep
    • 源氏と平家の始まり

      ▲通圓の看板源氏と平家って何だっけ?こんにちは。前回は老舗茶舗「通圓」についてブログにしました。創業856年も続く通圓は代々お店を子孫が継いで現在は24代目の通円祐介さんがお店を経営していますが、初代通圓は源頼政に仕える武士だったそうです。さらに学校の古典や日本史の授業で出てきた宇治橋と平等院鳳凰堂を舞台にした「宇治川の合戦」において、平清盛軍と戦い命を落としました。学校の教科書で取り扱われる出来事に関わり、日本人なら誰もが知っている平清盛と戦った子孫が営業するお店を目の当たりにすると少し感動します。美味しいお茶を知るだけでなく、歴史も学べたような気がして良かったなんて思ったりするのですが。。。「宇治川の合戦って何だっけ?」「源頼政って誰?」「源氏と平氏って何だっけ?」と実は理解していないことも頭に浮かんできました。そこで今回は「そもそも源氏と平氏って何だっけ?」という知ってるようで、実は人に説明できない疑問についておさらいしてみようと思いました。学校の授業を思い出すと、源氏は源頼朝や源義経のように「源」を名字にする一族に対して、平氏は平将門や平清盛のように「平」を名字にする一族でした。そして源氏である源頼朝は平清盛を倒して鎌倉幕府を建てた。。。程度の記憶が私の頭に残っています。また大学受験の時は他にも源や平を名字にする人物が何人かいたので、まるでロボットのように感情を捨ててノートに単語を書きまくって無理やり暗記したことを思い出します。(^^;)▲宇治橋 宇治川の合戦や源義経も宇治川で平家軍と戦った。源氏と平氏はただの名字源氏(げんじ)と平氏(へいし)という普段聞かない響きが難しそうに感じますが、源氏と平氏はただの名字です。どらえもんに登場する「しずかちゃん」は名字が「源(みなもと」で、最近サッカー日本代表の長友選手のアモーレ(恋人)としてニュースになった女優の「平愛梨さん(たいらあいり)」は名字が平ですね。(笑) 平安時代や鎌倉時代には源(みなもと)と平(たいら)を名字に持つ人が歴史に名を残しました。でも偶然「源」と「平」を名字に持つ人がたくさんいた訳ではありません。「源」と「平」を名字に持つ人達は特別な一族と言えます。何故なら彼らの祖先は天皇だからです。源氏は平安時代の嵯峨天皇や清和天皇、平氏は桓武天皇が祖先になります。つまり源頼朝と平清盛は祖先は同じ天皇家でありながら敵対関係になってしまったのです。▲京都御所臣籍降下によって源氏と平氏は生まれたなぜ源氏と平氏の祖先が天皇なのか?その理由は臣籍降下(しんせきこうか)と言う制度を知るとわかります。天皇家は現在も国民の税金によって生活をしていますが、昔の平安時代でも同じでした。しかし現在よりも天皇家は大人数でして、源氏の祖先の嵯峨天皇は子供が50人程、平氏の祖先の桓武天皇も30人程いたと言われています。(当時は天皇に妻が何人もいたので。。。)子供だけでなく奥さんや孫の分まで国民の税金で生活を賄うのは大きな負担でした。そのため天皇を継ぐ可能性がない子供達は、天皇家から自立させることにしたのです。そしてその際に嵯峨天皇や清和天皇の子には「源」、桓武天皇の子や孫には「平」の名字が与えられました。ちなみに天皇には名字がないことって常識なんでしょうか?現在の天皇も名字はないんですって。私は今回初めて知りましたが、昔から天皇家から自立した証として名字が与えられるんです。京都から地方へ天皇の子や孫として税金で生活する立場から自立して生活することになった源氏や平氏は貴族として京都で生活していましたが、彼らの子供や孫の代には生活が苦しくなる人も現れます。都で優雅な生活を送ることができる仕事は限られており、藤原氏など天皇家を支える優秀な一族が地位の高い仕事に就いているのです。そのため彼らの中には京都から地方へ移住する人達が現れます。当時の京都以外の地方には現在の県庁のような組織があり、各県庁はその土地で生活する人々から税金を回収して京都へ納める仕事をしていました。その組織のことを国衙(こくが)、県知事に当たる役職を国司(こくし)と呼びました。そして国司には京都から貴族が派遣されていました。そのため源氏や平氏の中には国司や国衙で働く人達が登場します。天皇の子から武士として生きる当時の税金は一般市民にとって負担でしかありませんでした。現在のように医療費が少なくて済むとか、税金によって道路や学校ができる等のメリットが市民に還元されることがない社会です。無理やり税金取られて、その税金は天皇や貴族達が贅沢な生活をするためだけに使われます。そのために税金を払うことを拒否する人や、暴動を起こす人達が現れます。しかし国司は赴任期間中は必ず京都へ税金を納めることが義務づけられているので、そんな人達からも税金を徴収しなければ自分が失業してしまいます。そのため国司は自ら武装したり、武装した人を雇う等して武力を用いるのです。そこで地方に移住した源氏や平氏の中には、武装して税金を取り立てることを仕事にする人が現れます。国司にとって武力によって税金を回収してくれる源氏や平氏は有り難い存在となり、国衙の戦力として活躍します。これが源氏と平氏が武士になった始まりです。▲京都御所地方の武士から都へ京都から離れた各地で政府に対する反乱が起きると、武士が反乱の鎮圧のために派遣されるようになります。そこで活躍した武士の中には恩賞として京都の役職を与えられ、貴族社会に復帰する人も現れます。そして武士として大きな権力を握ったのが桓武天皇を祖先に持つ平氏の平清盛でした。彼は天皇の次に位の高い太政大臣まで出世し、位の高い職には同じ平家(平氏一族)を就かせて政治を動かします。しかし周りの貴族や天皇、同じ武士である源氏一族から平家に対する不満が積み重なり、最後は学校で習った通り源氏である源頼朝に平家は滅ぼされてしまいました。(頼朝と清盛については別の機会に調べようと思います。今回はここまでで。(^^;))源頼朝や平清盛など源氏と平氏の祖先が天皇であることは世の中の常識なんですかね?学校で習いましたっけ?私は知りませんでした。(汗)そうすると天皇家って凄いなぁ、日本の歴史は天皇家をなしには語れないんだなぁと思いました。天皇の息子と言えば、私は物静かなお坊ちゃんをイメージしてしまうのですが、武士の中でも頂点に立てる実力を持つ強くて優秀な子孫だったということです(^^;)現代と当時では社会環境や常識が違いますから、平和な現代に生きる私の感覚で当時の人の気持ちを理解することはできないでしょうが、社会や身の回りの状況次第で私も戦場で戦う決意ができるのかも知れない。。。なんてことをふと考えてしまった。(^^;)▲通圓店内とまぁ。そんな訳で。宇治にある老舗茶舗「通圓」から源氏と平氏の歴史について考えてみました。(^-^)ちなみに平清盛と源頼朝の系図を辿ると確かに天皇が祖先になります。桓武天皇-葛原親王-平高望-平国香-平貞盛-平維衡-平正度-平正衡-平正盛-平忠盛-平清盛清和天皇-貞純親王-源経基-源満仲-源頼信-源頼義-源義家-源義親-源為義-源義朝-源頼朝

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  • 17 Aug
    • 京都にあるお茶の老舗~通圓~

      ▲通圓 店内で24代目の通園祐介さんがお茶を淹れてくれます。京都のお茶の老舗と言えばこんにちは。最近、会社の同僚の間で私が京都に詳しい?という噂が地味に広まっておりまして、お昼休みや飲み会の席で「京都のおススメの場所教えて?」と聞かれることに困っています。(^^;)確かに細々と京都に関するブログを続けているので、京都のことは大好きです。でも「おススメを教えて」質問に答えるのは勇気が必要なんですよね。何故なら私はおススメと思っている場所でも、相手にとっては「いまいち」だったり「微妙」な場合があるからです。わざわざ私が紹介した場所やお店に行って、相手にとっては「つまらない」場所や「不味い」お店だった場合は、私に聞かなければ良かったとか、「あいつセンスない」とか言われてしまいます。私が好きなものに相手の共感を得られなかった時はとってもショックです。まぁまぁ。そんなこと気にしていても仕方がない。人それぞれ好き嫌いや感性が違いますから、私は私、他人は他人、あくまでも私は好きなんです。あなたはあなたで判断してねってことで。(^-^)▲通圓 店構えってな訳で。今回は京都にあるお茶の老舗である通圓についてブログにしてみます。(実は2回目)会社の同僚の一人にお茶好きがいまして、仕事の合間に「京都のお茶の老舗で有名なお店ってどこですか?」と最近聞かれたんです。私は茶道に興味はありながらも、一度も体験したことないレベルの人間なのですが彼の質問に答えました。「京都の宇治にコカ・コーラの綾鷹とコラボしている上林春松本店、サントリーの伊右衛門茶とコラボしてる福寿園が有名だと思うー。」「私個人的には通圓って言う老舗に行ったことがあって、茶葉を買ったことがあるし、もう一度行ってみたいと思ってるー。」すると彼は「やっぱり宇治が有名なんですね」と一人納得した顔で仕事をし始めたのでした。どうやら彼は夏休みに京都旅行を計画し、宇治にも行くつもりでいたらしい。私はひっそりと心の中でお土産に通圓のお茶を買ってきてくれることを願った( ̄― ̄)ニヤリ▲通圓店内に展示されている茶甕京都の宇治には老舗茶舗がたくさん京都府宇治市は宇治茶の生産地として全国的にも有名ですよね。宇治は昔からお茶の産地として発展してきた土地なので、歴史あるお茶の老舗が集まっています。コカ・コーラの綾鷹と協働している上林春松本店は創業450年、サントリーの伊右衛門と協働している福寿園は創業226年と歴史ある老舗が宇治にはあります。そして通圓という創業856年も続く超老舗のお茶屋さんがあります。歴史が一番長いから一番美味しいとは限りませんが、美味しいからこそ人々に856年も必要とされ続けているということでもあります。平安時代から子孫代々同じ場所で営業しているとのことで、せっかくなので通圓の歴史を調べてみました。▲一休宗純作の初代通円像通圓の歴史10円玉に描かれている平等院鳳凰堂のすぐ横を流れる宇治川に架かる宇治橋のたもとに通圓はありまして、平安時代の西暦1160年に創業した老舗茶舗になります。歴史の教科書にも登場する人物達が通圓を訪れた記録が残っており、銀閣寺を建てた足利義政、戦国時代の武将である豊臣秀吉や徳川秀吉、千利休や一休さんこと一休宗純が通圓のお茶を愛好していました。初代から子孫代々お店は続き、現在は24代目の通円祐介さんがお店を継いでいます。初代通円は武士として宇治橋を守ることが役目の橋守という職に就いている傍ら、宇治橋を渡る人々にお茶を提供し始めたことがお茶屋通圓としての始まりになります。▲店内で24代目に淹れて頂けた一杯代々受け継いて来た通圓の味通圓の店内では24代目が急須を使って淹れて頂いたお茶が試飲できるのですが、私はそのお茶の甘みとまろやかさに驚きました。お茶と言えばペットボトル茶という私は、通圓のお茶の味を知った時、今まで飲んできたお茶が同じお茶とは思えませんでした。そして身近なお茶には、まだまだ私の知らないことがたくさんあることを知りました。私なんかには、お茶の味はまだまだわかりませんが。。。お茶屋さんには店ごとに味がありまして、甘味や苦みは数種類の茶葉をブレンドすることで、代々伝わるお店の味に仕立てることができるそうです。そしてお茶の味を作る人達は茶師と呼ばれ、24代目の通円祐介さんもその一人として伝統の味を守り続けています。お茶の元である茶葉は毎年、天候によって味が変わるそうなのですが、通円さんは各地の茶畑を回り、葉の形や味を自分で確認して通圓の味を作る茶葉を仕入れているそうです。▲通圓の外観「忙しい忙しい」と仕事する毎日の中で、身近なお茶の本来の美味しさを知ると、なんだかほっとする気持ちを感じると同時に、便利なものを求めるあまり何か大事な価値をほったらかしにしているような悲しい気持ちを感じてしまいました。手作りの良さというか、本当に良いもの・良い価値って何なのか?と少し考えさせられます。▲宇治橋と宇治川通圓では主に茶葉を販売しており、隣接するお茶屋では抹茶やお団子、茶そば等の飲食ができます。ちなみに私個人的にはお団子や茶そばやアイスクリームはいまいちだと思います。あくまで私の感想としてですけど。(;^ω^)宇治観光の際は、通圓に足を運んでみてはいかがでしょうか?

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  • 07 Aug
    • 細川藤孝という男

      ▲高桐院 参道細川藤孝を弔うお寺こんにちは。前々回のブログで「本能寺の変431年目の真実」という明智光秀の子孫である明智憲三郎さんの本の感想を書きました。おそらく多くの人が知っている本能寺の変が起きた理由(明智光秀が織田信長への恨みを晴らすために起こした)を覆す内容に「徳川家康と手を結ぶの!?」とワクワクしながら本を読み進めました。個人的にはめっちゃ面白かったです。さて。今回は「本能寺の変431年目の真実」に登場する人物と私が好きな京都のお寺と縁があることを知ったので、その内容をブログにしてみます。私が京都で好きなお寺の中に大徳寺の塔頭である高桐院というお寺があります。竹林に囲まれた静かな佇まいと、参道の苔と竹で作られた手すりが美しいのですが、今まで高桐院の歴史がよくわかりませんでした。高桐院のパンフレットには戦国時代の武将である細川忠興が父親の細川藤孝を弔うために建てた、また細川忠興の妻である細川ガラシャのお墓があると書かれています。しかし私は学校の授業で登場しない人物のことは知りませんでした。戦国時代と言えば、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康ぐらいしか学校の教科書には出てこなかったと記憶しているのですが、歴史教科書に細川家なんて出てきましたっけ?(汗)高桐院の雰囲気は好きだけど歴史に親近感がわかないなぁと思っていたのですが「本能寺の変431年目の真実」の中で細川藤孝、忠興、ガラシャが何者で、本能寺の変と関わる人物だったことを初めて知ることができました。ってな訳で前置きが長くなりましたが、今回は細川藤孝についてブログにします。▲高桐院 入口明智光秀は細川藤孝次第で死なずに済んだかもしれない。細川藤孝は戦国時代の武将であり、戦国時代を代表する3人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と戦国時代を渡り歩き、細川藤孝の子孫は現代でも活躍している。1993年に第79代内閣総理大臣に就任した細川護煕は子孫になります。本能寺の変により織田信長は部下の明智光秀に殺害されましたが、本能寺の変の11日後には明智光秀は豊臣秀吉との戦である「山崎の合戦」に敗れて命を落としました。学校の授業では本能寺の変という単語と登場人物の織田信長、明智光秀、豊臣秀吉を暗記した訳ですが、あっさり過ぎる光秀の死を馬鹿にすると同時に、秀吉の凄さを感じていました。しかし明智光秀は信長を殺した後のことも絶対に計画していたはずです。信長を頂点とする信長軍には光秀だけでなく秀吉や柴田勝家等の優秀な戦に強い武将達や、信長の跡継ぎである息子達で形成されており、光秀が突然信長を殺害すれば、部下や信長の息子達との戦いが待っているだけでなく、まだ倒していない信長と敵対する武将との戦いも予想していたに決まっています。後先を考えずに突発的に謀反を実行する馬鹿ではないはずです。▲高桐院 庭そして光秀は後のことを考えて徳川家康を筆頭に味方を作っていたことが本に書いてあります。その味方の一人に細川藤孝が含まれていました。その証拠として細川家には現在も、光秀から藤孝宛に味方して軍を派遣して欲しい旨の光秀直筆の手紙が残っています。しかし歴史の事実として藤孝は光秀に味方しませんでした。光秀の計画と異なり、藤孝は本能寺の変の後に信長を弔うためという理由で自分の城に籠ってしまっていました。そのため山崎の合戦には参戦しなかったのです。光秀にとっては計算していた戦力が急に無くなってしまいました。先ほどの光秀直筆の藤孝宛の手紙には、合戦に参戦せずに城に籠っていることに対して腹を立てていると光秀の心情が書かれています。そして光秀が敗れた後に秀吉から藤孝宛に秀吉の味方となってくれたことへの感謝の手紙が残っているだけでなく、光秀が治めていた土地が褒美として藤孝に与えられているのです。。。▲高桐院 茶室細川藤孝と明智光秀の盟友関係細川藤孝は13代、15代室町幕府将軍である足利義輝、足利義昭の側近として仕えた地位の高い名門家の武士である一方で明智光秀は細川藤孝の部下の足軽として仕えていたとされています。現代の会社組織で言えば、役員と平社員くらいの差が藤孝と光秀にはありました。しかし光秀は出世を果たして藤孝と同等の地位まで昇進した後、織田信長が愛知県から京都へ上洛後の比叡山延暦寺焼き打ち事件の頃に信長軍へ移籍しました。そして信長の部下になってからも出世を果たし、本能の事変の頃には一番の側近として活躍しています。藤孝も光秀から遅れて足利義昭の下から信長の下へ移籍しています。信長の下では光秀の方が藤孝よりも上の地位でしたが、二人の関係は盟友と言える程に親密だったとされています。足利義昭時代から一緒に戦ってきた歴史があり、藤孝の息子である細川忠興の妻には、光秀の娘であるガラシャを嫁がせて血縁関係も結んでいます。当時は現代よりも血縁関係が重要視される時代なので、藤孝一族と光秀一族は親戚であり同盟関係。現代のように恋愛から結婚するようなことは少なく、政治的な意味合いが強い時代。つまり、光秀にとっては藤孝が協力しないこと等予想していなかったのです。▲高桐院細川藤孝の決断。細川藤孝は何故光秀に味方しなかったのか。本能寺の変の後、豊臣秀吉が中国大返しと呼ばれる猛スピードで中国地方から京都へ大軍で戻ってきていることを知り、光秀側の負けを予期していたのかもしれない。「本能寺の変431年目の真実」では、藤孝の部下である松井康之と秀吉が繋がっており、光秀の計画が秀吉に漏れていたとしています。過去に松井康之が秀吉軍と共に戦い、秀吉の勝利に貢献したことと、山崎の合戦後の褒美として秀吉から直接松井康之へ土地が与えられた点を親しい関係性の証拠としています。当時の慣習として秀吉から藤孝へ褒美を与えることはあっても、藤孝の部下に対して直接秀吉が褒美を与えるという、部下の部下に褒美を与える行為は異例のため、並々ならぬ理由があったということ示します。その並々ならぬ理由こそが松井康之が藤孝を秀吉側に引き込んだことと推測しています。藤孝は秀吉に光秀の計画が漏れてしまっていては、成功の見込みはないとあきらめたのかもしれません。歴史を振り返りますと結果的に細川藤孝が光秀ではなく秀吉に手を貸した決断が、細川家が現代まで途絶えることなく続くことができたと言えます。息子の忠興が家督を継ぎ、関ヶ原の戦いでは徳川家康側に味方して、細川家は現在の福岡県で39万石の大名へと出世。さらに忠興の息子の忠利の時代には熊本県で54万石の大名へと出世しており、藤孝の決断が細川家の方向性を決定付けたと言えます。藤孝の世の中を見る目と人物像に興味が湧きます。歴史の教科書には載らないけども、優秀な人間がたくさん活躍していたのです。また細川藤孝は別名を細川幽斎と言い、千利休とも交流があり茶道や歌にも精通した文化人でもあるのです。戦国時代の武将と言えば残忍な人間ばかりの時代だと決めつけていましたが、人格も必要なのかな。(汗)私が会社員だからかもしれませんが、出世をするには仕事ができるだけでは不可能だと思います。(企業風土にもよると思いますけど)出世見込みのある上司と仲良くなっていたり、力のある派閥に属していたりと、社内の縦と横の関係を見渡して上手く立ち回れる人が出世するのではないでしょうか。細川藤孝のことを知ると何故かそんなことを考えてしまいました。笑今度大徳寺に行く際は高桐院にも行って細川藤孝のお参りをしようと思います。

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  • 28 Jul
    • 鳥岩楼の親子丼をもう一度食べたくなった。

      ▲鳥岩楼の暖簾京都でおすすめの親子丼こんにちは。最近、会社の同僚から「京都で美味しい親子丼のお店知ってます?」と聞かれまして。美味しいと聞いたことあるお店をいくつか言いました。「ひさご、京のつくね家、鳥岩楼、尾張屋、権兵衛、八起庵(高島屋)とか。。。」すると、「えぇ!?多いですね。でも結局一番美味しいところは?」と聞かれてしまい。一番美味しいと聞かれると困ります。お店毎に特徴があり、正直どのお店も美味しいので。「どれも美味しいよ」と答えると「一番を教えて」と不満顔で問い詰められてしまいました。そう言われても、一番は決められない。私はそれぞれのお店の味を楽しみたい!仕方がないので、「行く予定の観光名所に合わせて選んだら?」と提案してみました。▲鳥岩楼の店内同僚は京都御所と清明神社、北野天満宮を巡って祇園四条でお買い物予定とのこと。せっかくお昼に清明神社や北野天満宮に行くみたいなので、ランチに西陣にある鳥岩楼の親子丼をおすすめしました。同僚は早速食べログで鳥岩楼の口コミ評価を確認してから、納得してくれたみたいでした。結局、同僚が鳥岩楼で親子丼を食べるのかはわかりませんが、人に紹介したら私自身が親子丼を食べたくなってきました。もう一度鳥岩楼の親子丼が食べたくなってきました。という訳で。今回は京都の西陣にある鳥料理の老舗「鳥岩楼」の親子丼をご紹介します。▲鳥岩楼の店内西陣にある鳥水炊きの老舗「鳥岩楼」西陣織で有名な西陣エリアにある、鳥料理の老舗の鳥岩楼(とりいわろう)。創業は明治時代と言われ、昭和20年に祇園から現在の場所に移転したそうです。お店の佇まいを見れば、歴史ある老舗の雰囲気を感じることができます。鳥岩楼は鳥の水炊きで有名な老舗なのですが、ランチ限定の親子丼も美味しいと有名です。ランチタイムの12時から14時迄限定で親子丼を食べることができます。水炊きのコース料理ならお一人様7,000円は最低でも見ておく必要がありますが、ランチの親子丼であればお一人様800円とお手頃価格。鳥岩楼の新鮮な鳥肉と卵を、親子丼でお得に体験できることが人気の理由です。絶品親子丼。ふわトロの半熟卵の上にさらに生卵がのって、山椒が香る親子丼。濃厚な卵と旨みのある鶏肉が合わさって、とっても美味しいんです。親子丼と一緒に鳥の出汁スープがセットになっております。親子丼の美味しさだけでなく、店内の京都老舗感を味わえるのがうれしいです。ちなみに。京都と言えば、「出汁がきいた薄味が好き」という方は鳥岩楼の親子丼はおすすめしません。なぜなら鳥岩楼の親子丼は、非常にはっきりした味で、濃い味です。なので、そういう方は祇園にあります、「ひさご」や、「尾張屋」というそば屋の老舗の親子丼なんかをおすすめします。不味い訳ではなく、親子丼にも味が濃いお店や薄めがあるので自分の好きな親子丼を探してみるのも楽しいです。▲鳥岩楼の外観

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  • 18 Jul
    • 「本能寺の変431年目の真実」明智憲三郎著を読んだ感想

      ▲本能寺の変431年目の真実 明智憲三郎著本能寺の変431年目の真実を読んだ感想こんにちは。最近1冊の本を読みまして、内容は題名の通り「本能寺の変431年目の真実」です。著者の明智憲三郎さんは、その苗字が示す通り明智光秀の子孫だそうで。大手電機メーカーでシステムエンジニアとして勤めながら、ご先祖様である明智光秀が引き起こした本能寺の変の原因をご自身で調べてきた成果を本にされました。この本は文庫本の帯にも書いてあるように35万部の大ヒットを記録。初版が2013年12月15日とのことなので、私は2年半も経過した最近になってこの本の存在を知った次第です。。。汗そして今更ながらこの本を読み終えまして。今更ながら感想を述べさせて頂きますと。「めっちゃ面白かった。」です。笑とても読みやすく、わかりやすい。そして本当に「本能寺の変431年目の真実」であって欲しいと思わせて頂きました。しかし。明智憲三郎さんが導き出した、明智光秀が本能寺の変を引き起こした新たな原因を、真実と断言するには証拠が少ないのかなと思います。歴史読み物としてはとても面白かったので、今後新たな歴史的資料が発見されて、明智憲三郎さんが仰る通りの真実になることを是非とも期待したいです!▲本能寺の変の跡 今は老人ホームが建っています。本能寺の変431年目の真実のネタバレ明智光秀は織田信長を殺害した本能寺の変を何故引き起こしたのか?一般的には、明智光秀が織田信長を恨んでいたことが理由とされています。明智光秀は信長を殺害する機会をずっと待っていた。そして信長が京都にある本能寺に油断して宿泊しているチャンスを逃さず、「敵は本能寺にあり」と突発的に信長を殺害した。しかし本能寺の変431年目の真実で明智憲三郎さんが導き出した答えは常識を覆すものでした。ざっくり言いますと。「明智光秀と徳川家康が手を組み、本能寺の変を引き起こしたのです!」本の中では著者である明智憲三郎さんが、当時の色々な歴史資料を読み直した結果、なぜその結論に辿り着いたのかを追うことができます。このブログで全てを記載することはできないので、私なりにこの本の紹介文をネタバレ含めて下記にて書いてみます。笑▲比叡山延暦寺当時、戦国時代の武将達は何のために戦争をしなければならなかったのか?戦国時代は弱肉強食の社会、自分の国の平和を保つには隣の敵国を倒すことが一つの方法でした。各国を治める武将達は自分が生きている時代だけでなく、親として子供や孫の時代まで平和であり続けることを願うならば、自分が生きている間に危険な敵は倒して子供達が平和に暮らすことができる体制を築いておきたいと考えるものだった。信長は天下統一という形で全ての敵を武力によって倒すことを目指しました。そして本能寺の変が起きた頃には、京都を中心として京都の近くの国には自分の息子たちを配置して、明智光秀や豊臣秀吉などの優秀な部下達を敵国と接する国に配置するようになります。信長は天下統一が近づくにつれて、自分の子孫である織田一族を中心とした体制を築き始めていたのです。さらに信長は海を渡り朝鮮や中国までも侵略する構想を持っていたとされています。▲耳塚 豊臣秀吉の時代に朝鮮半島を侵略した際の朝鮮人達の耳や鼻が埋葬されている。そのため光秀や秀吉等その他の部下達は、この先ずっと京都から離れた戦争の最前線の地に配置され続けるどころか、海を渡り異国の地まで侵略し続ける運命にあることを悟ります。自分だけでなく、自分の家族や部下達も一緒に危険な場所に身を置き続けなければならない。明智一族の平和を願うならば、信長の野望を止めるしかない。光秀はそう決意した。しかし決意をしたところでいつ、どうやって信長を殺害するのか?失敗すれば光秀だけでなく一族全員が謀反の罪で死刑になるリスクが伴う。そんな中、悩む光秀にチャンスが訪れる。信長が徳川家康を暗殺する計画を光秀に打ち明けます。当時信長と家康はお互いに戦争をしない同盟を結んでいたが、信長は家康が未来に危険分子になることを予測して今のうちに倒すことを考えます。そして家康の暗殺を実行する日にちこそ本能寺の変が起きた日であり、場所は本能寺であり、家康を殺すのは光秀の仕事だった。一方の家康も、信長と同盟を結んでいるとはいえ近い将来、信長から侵略を受けることをある出来事により察知していた。(ある出来事は本書に譲ります。笑)そこに光秀から信長を殺害するという謀反の協力を家康は受けます。光秀と家康、両者の利益が一致する信長暗殺計画がひそかに進められていく。信長と光秀によって家康を暗殺する計画が、逆に光秀と家康によって信長を暗殺する計画に秘密裏に変わっていったのです。全ては上手くいくはずだった。。。しかし光秀と家康の2人しか知らない秘密の計画が、本能寺の変の後、最も利益を得た人物に漏れていたことをその時2人は知らなかった。。。▲豊国神社 豊臣秀吉を祀る神社これが「本能寺の変431年目の真実」大枠のあらすじです。なぜこの結論を導き出せるのかは、ご興味があれば明智憲三郎さんの本を読んでみて下さい。笑【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫)/文芸社¥778Amazon.co.jp

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  • 19 Jun
    • 本能寺の変の黒幕~朝廷黒幕説~

      ▲本能寺跡の石碑本能寺の変って何だっけ?こんにちは。最近は新書「京都ぎらい」を読んだことをきっかけに、漫画「太平記」を読み、南北朝合一を成立させた足利義満、銀閣寺を建てた足利義政のことをブログにしてみました。時代で言えば南北朝時代から室町時代へと進んできました。さて次の時代は何だっけ?と思い出しますと。かの有名な織田信長や豊臣秀吉、徳川家康が登場する戦国時代が始まります。小学校の授業でも登場する、日本人なら誰もが知っている超有名な歴史上の人物が生きた時代。小学校6年生で初めて歴史の授業を受けた時が12歳だったので、あれから18年が過ぎてから歴史に興味を持ち始めた今日この頃。。。涙▲建勲神社 織田信長を祀る神社さて。戦国時代の中でも、この度は本能寺の変の黒幕についてブログにしてみました。笑 本能寺の変と言えば、天下統一を目前にした織田信長が部下の明智光秀に殺されてしまった事件のこと。学校の授業ではサラッと本能寺の変という単語を暗記した記憶しかありませんが、本能寺の変には一つの謎があります。それはなぜ明智光秀は本能寺の変を引き起こしたのか?という理由が現在も謎のままなことです。ちなみに本能寺の変をネットのWikipediaで調べますと、現在55個の予想される理由が記載されています。笑 55個もあること自体おかしなことですが、現代の結論は「はっきりとした理由はわかりません」という永遠の歴史ミステリーになっています。55個の諸説をいくつか見ていくと、明智光秀も天下統一の野望を持っていた説、光秀が信長に対して恨みがあった説、豊臣秀吉が黒幕だった、徳川家康が黒幕だった、光秀が精神的に病んでいたから訳も分からず突発的にやっちゃった等々。。。▲建勲神社私が55個の諸説を読んで思ったことは、もはや各々で納得いく好きな想像をして、楽しめばいいんだ!ということです。笑 歴史に関わる専門家の方々には、まだ発見されていない当時の資料等を探して頂いて、謎を解き明かして頂きたいと思いますが、素人の私にはどうすることもできません。根拠のない妄想をして楽しむこと位しかできないと思いました。と言うことで今回は私の好きな本能寺の変の真相についてブログにしてみました。私が好きな本能寺の変が起きた理由の答えは、明智光秀と朝廷が繋がっていたとする朝廷黒幕説です。この説は天皇を含む朝廷が織田信長を自分達の地位を脅かす存在として敵視していたとする説に基づき、朝廷が繋がりのある明智光秀に対して織田信長を殺す指示をしたとする説のことです。まずは朝廷黒幕説の前提となります、朝廷が信長を脅威と考えていたであろう理由をいくつか見てみましょう。▲比叡山延暦寺本能寺の変の黒幕は朝廷なのか理由1.信長が朝廷が与えた官位を辞退したこと。信長は右大臣右大将という官位を朝廷から与えられましたが、1年後に自ら辞退します。朝廷は信長の意図がわからず、もっと位の高い、太政大臣、関白、征夷大将軍の3つの中から好きな位を選んで良いと提案したのですが信長はこれも無視しました。当時の常識としては考えられない信長の行為に、朝廷は信長の真意がわからず恐怖を感じたと言われています。ちなみに鎌倉幕府の源頼朝は征夷大将軍、平清盛と足利義満は太政大臣に、豊臣秀吉は関白という官位に就きました。信長は当時の天皇を頂点とする社会を否定して、自らを頂点とする新たな社会を作ろうとしていたのかもしれません。理由2.正親町天皇に天皇の位を次の天皇に譲ること(譲位)を指示した。当時の社会では、天皇が位を息子に譲るタイミング等は天皇だけが決めることであり、武士である信長が口を挟むことなどあり得ないことでした。そのため朝廷は武士ごときの信長が天皇を下に見ている失礼極まりない危険人物とされていた。理由3. 信長は自らを神と位置付けて部下や人々に崇めさせていた。ポルトガルからやってきたキリスト教の宣教師であるルイスフロイスが日本で暮らした日々をまとめた書物である「日本史」の中に、信長が自らを神と位置付けていたとする記載があります。信長の城である安土城の敷地内には総見寺と呼ばれる寺院があり、信長は総見寺の本尊は信長自身であるとして、部下や人々に祀らせたとする記録があります。そのため古来より日本では神様に仕える者の頂点として天皇がいるにも関わらず、自らを神とした信長を脅威に感じていたとされます。当時の朝廷は信長が天下統一を果たした後に、天皇を頂点とする社会から信長を頂点とする社会に変わってしまうのでは?という不安があったために信長の存在を危険視していたとされる。▲建勲神社 敦盛の石碑明智光秀と朝廷の繋がり次に明智光秀と朝廷との関係性についてです。光秀と朝廷を結ぶ関係を知る手掛かりは、当時の朝廷で働いていた公家が残した日記の内容と本能寺の変後の公家達の行動から推測されます。吉田兼見という公家が書き残した「兼見卿記」と呼ばれる日記があります。光秀が体調を崩した際に吉田がお見舞いに行ったこと、光秀が吉田兼見の家を訪問した際にはお風呂を焚いてあげた等、明智光秀と吉田兼見の親しい関係を示す記述があります。この吉田兼見さんですが、本能寺の変の後に明智光秀と会っています。朝廷の使者として光秀を訪れ、朝廷より京都の治安維持を行う職への就任指示を伝えると共に、正親町天皇からお褒めの言葉を伝えたとされています。また光秀が朝廷に表敬訪問した際には吉田兼見の家を訪ねて、銀貨50枚を与えました。また光秀は朝廷には銀貨500枚、京都五山の寺院には銀貨100枚を贈った記録があります。そして吉田さんの意図は不明ですが、兼見卿記の本能寺の変が起きた日の前後部分を後から書き直しています。そのため兼見卿記は本能寺の変の前後部分が書かれた日記だけ内容の違う別冊が存在しており、怪しい臭いがします。笑▲本能寺跡には老人ホームが建っています。そしてもう一人。当時太政大臣という天皇以外で一番偉い位に就いていた近衛前久という人物がいます。近衛さんは本能寺の変後に豊臣秀吉や織田信長の三男である信孝から本能寺の変に関与したとして疑われていました。その理由は本能寺の変の際に、近衛前久の家の屋根から光秀軍の兵士が銃を撃っていたため、近衛が光秀に協力したとされたからです。近衛は光秀と関係ないことを主張しながらも、信孝の追究から逃亡してしまいました。ちなみに逃亡先は徳川家康がいる浜松城だそうで。。。さてさて。明智光秀と朝廷を結ぶ決定的な証拠は無いものの、かすかに可能性を感じる朝廷黒幕説。私個人的には黒幕が存在した方がミステリー小説のようで楽しめます。皆様は本能寺の変の真相はどうあって欲しいですか?笑

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