今日は誕生日

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モンゴルだるま@ウランバートルです。

今日は愛犬・ソートン(ジャーマンシェパード・♂)の8歳の誕生日です。
犬など飼ったことがなかった超初心者なのに、いきなり大型犬の子犬を押し付けられたのは、ちょうど会社を起業した2年目に差し掛かってた2004年の今頃でした。

会社の紆余曲折、私個人の七転八倒を一番近くで見守り、寄り添いながら生きてくれたかけがえのない家族であり、そんじょそこらの人間の男子よりもよっぽど男前なソートン。。。

子供の頃から、捨て犬を拾ってきては、「面倒見れないくせに拾ってくるな」と両親に叱られ、空き地でこっそり近所の幼馴染たちとダンボールで子犬を育てたことはあったけど、いつも1ヶ月もたたないうちに、ワンコは消えてしまっていました。
犬を飼いたい、というのは、子供の頃からの夢でした。

「刑事犬カール」という女性警察犬訓練士と共に成長していくテレビドラマにあこがれて、犬の訓練士になりたくなったり、獣医さんになりたくなったりしていたけれど、現実では、日本にいる限りはぜーったいに飼えないな、というあきらめがありました。

モンゴルでだって都会のアパート暮らしでは、結構、大型犬の飼育って大変です。
21世紀に入ったモンゴルでは、ジャーマンシェパードがちょっとしたブームになってきました。
もともと軍用犬・警察犬として「働くワンコ」としては徴用されていましたが、一般的には都会で犬を飼うのは、ゲル地区の人たち、遊牧民は「モンゴルバンカル」といわれるチベタンマスチフっぽい大型でもっさりした番犬か、「ざ・雑種」って感じの狩猟用が主流だったのが、富裕層の台頭と世の中物騒になってきたことなどもあり、さらにジャーマンシェパードの「ファーム=プロのブリーダー」がビジネスとして流行はじめ、ドッグコンテストなどが盛んになった、なぁんて事情があって、ジャーマンシェパードやらロシアンシェパード(見かけはあんまり変わらないんだけど、ロシアンのほうがちょっと灰色っぽいとか、体が細くて長い、とかいろいろ説はある)が大人気犬種になったのでした。

我が家の近所にも各アパートごとに2ー3頭ぐらいのシェパードがいて、「犬友」になって一緒に散歩や運動をさせていた子もいました。今のアパートに引っ越してきてからも、同じアパートに3頭ぐらいいたこともありました。

でも、いつの間にかシェパードはいなくなっちゃって・・・
理由は「誘拐」された、面倒みきれなくなって誰かに「売った」なんていう、結構哀しいというか世知辛い理由。
いずれにせよ、シェパードの市場価値はうなぎのぼりで、警察犬として不適正と訓練始まってわずか数日間で失格になっちゃったソートンなどは、なんと8万トゥグルグ(当時のお金でも8千円足らず)で売られていたそうです。
私が押し付けられたのはソートンが1歳になるかならないか、ぐらいの頃だったのですが、トイレのシツケも出来てなかったし、とにかく攻撃性が強くって、力も強くてえらい難儀でした。まぁ、そういうワンコだったから、格安で購入したはいいが、自宅での飼育はわずか2ヶ月ほどで同居家族に拒否され、私のオフィスに放し飼いでほったらかし、という状態になっちゃってたわけです。子犬が独りぼっちで真っ暗なオフィスに毎晩放置される、というのは精神的にも気の毒な状態だったし、運動不足を解消すべく、独りぼっちになったのをいいことに、パソコンやら電話やら、結構重要な「ライン」というラインを引きちぎる悪行三昧。

結局、私の面倒(つまりは残業で遅くなった後の自宅への送り迎え)もめんどくさくなっちゃった元マネージャー君が、ソートンの飼い主だったわけで、「護衛用になるよ」とかいって、体よく私に押し付けたのが今頃だったわけ。

この元マネージャー君は、私にとっては一生分の人間不信や絶望感などマイナス感情の根源であり、半生をかけて築き上げた蓄財の一切合財を、すんごい用意周到な手段を講じて私から騙し取ったすごい男なわけですが、それでも、ソートンを私から奪わなかった、という(散歩中に暗殺まがいでひき殺されそうになったことはあったけどね)ことだけで、いろんな悪行の数々は、許してもいい、という気分になってしまった。。。というくらい、私にとって、このシェパード君はかけがえのない存在なのです。

8歳になってなお、体力もあります。口元の毛が白くなり、それなりに「おっさんくさい」犬になってきましたが、ペットショップや動物病院の人たちによると、まだまだ体力があり、年よりも若いよ、とのことです。

大型犬との生活は、まず、「彼氏が定着しない」ということとどう折り合いをつけていくか、ってことがあげられる。そんじょそこらの人間の男に比べれば、毎食のご飯をおいしそうにガッツガツと食べてくれるし、放置しててもあんまり拗ねずにおとなしくしてるし、嬉しい!っていう感情を全身全霊で表現してくれるし、規則正しい生活(特に散歩という運動)やコミュニケーションの維持にかかせない存在なわけで、「俺と犬とどっちが大事なんだ!」って言われるたんびに、「君は私がいなくても幸せになれるだろうけれど、私は犬がいないと幸せになれないの」と身も蓋もないことをいって、人間関係、しゅーりょーってなったとしても、あんまり後悔したことがない。

いつかは死に別れる日がくるんだろうけれど、それは、Not nowであってほしいです。

40才を過ぎてからのオンナの誕生日があんまりうれしくないのと一緒で、わんこも8歳を過ぎると老犬扱いなわけで、いろんな意味で、心が切なくなりますが、それでも、今日、ソートンという男前な愛犬が元気いっぱいであることに感謝です。

多くの旅行者の皆様、仕事の同僚、クライアント様、友人知人の皆様に愛され、私の不在中にいろいろな人たちが面倒を見てくださったおかげで、今日という日を、私もソートンも元気いっぱい、幸せ一杯な状態で迎えることができました。本当にありがとうございました。ペタしてね
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私は犬派派!

犬との暮らしも気がつけば7年目のモンゴルだるまです。
先日、つるべさんとIMALUさんがMCやってる番組に、映画「フォックスと呼ばれた男」の主演俳優・竹之内豊さんが出演してまして、、、おぉ、これはぜひモンゴル戻る前に劇場で見ておこう!とくいついてたわけですが・・・番組の中で、「犬を飼っていると結婚できない」という話が出てました。

竹之内さんは結婚できないんじゃなくて、結婚しない、んだと思うから、私とは全然、事情が違う、と憤慨しつつも、その飼っている「犬」の大きさにびっくりした。でっけー!!!

でもね、正直、確かに、犬を飼っていると、他の人と同居しづらいよね。
犬と私の生活のペースっていうのが7年間という年月で培われちゃってるから。

確かに、モンゴルに拠点を移してから、誰かとちょっと「E感じ」になっても、決定的な別離の理由としてはき捨てられるのは、「ソートンと一緒になんか暮らしたくない」だったり、「俺と犬とどっちが大事なんだよ」みたいな逆切れ。

そりゃ答えは一つでしょう・・・

犬の方が大事だよ。
だって、ソートンは、私の超どん底時代を共に暮らし、支えてくれたかけがえのない存在であるし、彼にとって私もまた、「かけがえのないご主人さま」であるわけですから。

どう考えたって、ソートンは私に一番甘えてるし、依存もしているであろう。
たまに離れ離れになることはあるけれど、多分、モンゴル一幸せな生活環境で暮らしているジャーマンシェパードコンテストがあったら、私とソートンは絶対、賞をもらえるはずです。

ネコは、可愛いし面白いし、飼育にも手がかからないし、マンションとかでも「ペット可」ならまずネコは問題なく飼育できるし、、、って思うんだけどね。

でもやっぱり、犬派なのです。
あのけなげさ。家族の一員として役割を果たそう!っていう努力をしたり、TPOをわきまえて行動するんだもん。

モンゴル人にありがちな「俺様自己中心派」系男よりよっぽど空気、読んでます。

ジャーマンシェパードは体が大きいので、添い寝をすると、背中の長さはほぼ私と一緒。
お互いにいびきがうるさいせいか、爆睡中は背中合わせなんですが、適度な重みとぬくもりのおかげで寒い室内でもなんとか眠ることができている。
今年の冬みたいに、暖房とか室内の壁とかの隙間風といった私一人では対処のしようがないインフラの不具合を耐え忍ぶために、忠犬・ソートンの存在はかかせません。

あと生ごみが犬がいると、激減します。
規則正しい運動と食生活になるので、メタボ体型になってもかろうじてメタボな病気に今のところかかってないのです。
自分のためだけに、誰が好き好んで-20度とかになる冬に外を意味なく歩きましょうや。
大型犬は運動しないといかん、という名目があってこそ、朝晩1時間ずつの「お散歩」で合計10,000歩以上のウォーキングも毎日達成できるのです。

めんどくさい見知らぬ訪問客の撃退をするための居留守にも使えます。

やかんのお湯が沸いた、とか、ほったらかしで忘れかけてた煮込み料理やオーブン料理のケア「そろそろ焦げそうですよ!」みたいなお知らせ機能がついているし、まな板で何かを切ってるときに、切れっぱしをうっかり床に落としちゃった時の「スイーパー機能」など台所作業アシスタントとしても欠かせません。

それに、癒し系です。
悔しさやさみしさに号泣してるときに、ネコのちっこい肉球だけではいやしきれないが、ジャーマンシェパードほどの力強い肉球で背中をさすられたり、肩に手をかけられたり、涙をぺろぺろ必死になめとられたりしたら、「泣いてる場合じゃないわ!私にはソートンがいるもんね!一緒にがんばろうね!!」ってな具合に、なんとなく生きる希望も湧いてくるのです。

ネコは多分、自分の気が向かないときに、私が「癒しをもとめてむぎゅぅうううう」とか抱きしめたら、必死で「やめれーーーーー」って爪をたてて抜け出そうともがくんだけど、ソートンは、むぎゅうううううとされてもじっと耐えてますからね。

犬種のせいっていうこともあるのだろうけれど、とにかくソートンは我慢づよいです。

日本でシェパードを飼うっていうのは、結構、生活環境が限定されるし、食べる量も半端ではないし、散歩などの運動量も相当なので、大変だと思います。

ソートンが私の元にやってきたころは、ウランバートルでは防犯のため、ということもあって、ジャーマンシェパードが大流行でしたが、最近は、ゴールデンレトリーバーやラブラドール、アラスカンマラミュートやシベリアンハスキーあたりにモードがシフトされています。アラスカンマラミュートやシベリアンハスキーはモンゴルのウィンターシーズンの観光振興のために欧米人によって持ち込まれた「犬ぞり用」から増えてきたものです。

ダルメシアンとかピットブルのような中型短毛種も入ってきていますが、ぶっちゃけ、この子たちにモンゴルの環境は気の毒だ。私も肺炎で死にかけていたダルメシアンの里親になってたことあったけど、とてもじゃないけど、性格に落ち着きがないからアパート・マンションのような集合住宅では飼えないし、といって、庭につないで外で飼うのは短毛種だから無理。
私も夏の間、友達のうちに預けていたら、どこぞの子犬とじゃれまわって外に出たまま行方不明になってしまった。まぁ、ダルメシアンは人懐こいから、おそらく「さらわれた」んだと思います。性格がよい子ではあったので、今はどっかでぬくぬく飼われていることと思いますが・・・

でも、短毛種を持ち込んできたブリーダーたちは、ほんとの意味での犬の愛好家ではないな、と思います。
大体、ピットブルとか危ないもん。ちゃんとリードもつけずに放置して散歩してたり、飼い主のマナーもなっとらん。

まぁ、モンゴルでは、ネコ派は結構、少数派でしょうね。
最近はネズミが増えてきた、とか長期滞在の外国人が可愛がってて、「ネコ、可愛い」的な見方も普及し、手軽にアパートでも飼えるってことで、ネコ派モンゴル人も増えてるみたいです。
トラック移動も増えてきたから、ここ10年ぐらいでネズミ対策のためにネコを飼ってる遊牧民も珍しくない。
昔は、ネコの瞳のせいで「悪魔の手先だ」なんて嫌われてたんだけどね。

でも、一般的にモンゴル人に「犬派?猫派?」ってきかれたら、「犬は好きよ」と答えておくほうが無難でしょう。「ネコも好きだけど」というのはありでしょうね。

・・・でもね、、、都会のモンゴル人は「犬が恐い」っていうアンチ派もいるんですわ。

モンゴル民族の英雄・チンギスハーンも幼少期は「この子は犬を怖がります」ってエスゲイパパに、いいなずけ先の父親に「預かり上の注意事項」みたいに言われているくらいですからね。

遊牧民が飼ってる番犬的モンゴルワンコは、やっぱり、危険。
主人に忠実っていっても限度があるやろ!って思うけど、モンゴル生まれ・モンゴル育ち・遊牧民のびしばし躾で育っているワイルドな犬に、そんな理屈は通じません。
おまけに狂犬病とかジステンバー、ジフテリア等の予防接種も受けてないコがほとんどだったりするから、「犬派」のワンコ好きの人でも、むやみやたらとモンゴルの犬との戯れにいどんだりしないほうがよいかと思います・・・

モンゴルで一番、「親日派わんこ」であろうジャーマンシェパードの「ソートン」君なら心配ないので、モンゴルにお越しの際は、ぜひ、遊んでやってください。

長期の乗馬トレッキングとかホームステイなどで私が同行ガイドをさせていただく場合などは、たいてい、ソートンも一緒です。(犬嫌いの方や、ステイ先に猛犬がいる場合などはおいていくけれど。)

てなわけで、モンゴル一の親日派ワンコ・ソートンと、モンゴル一のワンコ溺愛日本女子・モンゴルだるまのコンビは、いつも皆さまをご案内できることを楽しみにしているわけです。




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聴覚+第六感

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五感のどこが優れてる? ブログネタ:五感のどこが優れてる? 参加中
五感のどれが優れているか?といわれれば、聴覚、と答えるでしょう。一応、音楽家一族の長女に生まれ、母親の胎内にいる頃から音楽を聴いていたわけで、、、この辺はありがたや、です。言語学の中でも特に音韻論とか音声学とかやってる人のこだわりとはちょっと違ったところで、聴覚のよさ、というのは言語発達の役に立っている、気がする。
うちの一族には作曲家や指揮者、管楽器、弦楽器、声楽、音楽教育、打楽器、ピアノと、つまりは交響楽でもオペラでも一族だけでなりたつくらい、バラエティーに富んで、いろんな音楽を生業にしている人で成り立っております。
だから、誰かのお葬式とかは、賛美歌がそれはそれは素晴らしい混声合唱にアカペラで、そしてアドリブでなるのです。たぶん、我が一族の葬式、楽しみにしている人たち、、、いたのではないだろうか?いかんせん、皆さん長生きなので、数十年に1度、葬式があるか、ないかって感じのレアさ。音楽を愛する人は長寿、そして健康的にハッピーに人生を全うできる、というのを、自分の身内で実感できるってちょっぴり幸せです。
そのわりに、私は子供の頃から「8小節の女」といわれるほどの根性なしで、対して音楽的才能は伸びなかったんだけど。音楽の才能を開花させるには、絶対的に「日々のたゆまぬ努力」というスペックが搭載されてないとダメだ。「ひらめき」とか「感性」とか「知識」、「技術」だけじゃダメなのねー。

はい。

で、まあ、そんなわけで音楽の芸術分野に進出はまったく問題外であったモンゴルだるまですが、聴覚が優れているのはありがたい。

まず、聞いたら、大体、再現できる。
外国語でも日本語の方言でも「お、ちょっとそれっぽい」ってなるポイントって、個々の発音というよりは、全体のイントネーション。つまりは響きではなかろうか、と思うのです。で、これは絶対音感があると、再現しやすい。

さらに、オーケストラでの演奏を長い間聞いているとね、重なっている音、それぞれを同時に聞き分け、記憶できるのです。

ソルフェージュとか調音というトレーニングも役に立っています。
聞いた旋律を楽譜として記譜するとか、ばーんとピアノで出された和音を聞き分けるっていう訓練ですね。
まぁ、これは訓練次第なんだと思う。

で、私の父は、ファゴット、コントラバスーンという管楽器では低音パートの、目立つようで出番が少ない、でもこのパートの上手下手でオーケストラのよしあしが決まっちゃう、的役割を担っていたのですが、子供なので、いかに素晴らしいオーケストラの演奏があっても、やっぱり「パパが一番!」って集中して聞くことになり、結果的に、主旋律を聴きつつも、超マイナーな部分にも注目する、っていう癖があり、同時にいろんな人が話していたとしても、それぞれの話題をチェックしながら、自分がくいつくべき話題をチョイスできる。

そのため、会議通訳とか宴会通訳なども得意です。
混乱した議論の中でも、それぞれ記憶フォルダを振り分けて聞いている。
他の人の演奏を聴きながら、自分のパート、自分の演奏にも集中する、というブラバン時代の経験も生かされております。

ついでにいうと、第六感ですね。
人がいわんとすること、大体わかってる。
子供の頃とか、油断していると、ついつい他人の話題、とっちゃったり、先に誰かのせりふとっちゃったりという顰蹙者でしたが、通訳っていう意味では大事です。

会議通訳、講演会などは一応、同時通訳の場合は原稿をいただけるので、翻訳的な能力でカバーができるような気もするんだけど、モンゴル人って結構、興に乗ると原稿無視とか原稿の途中をはしょったり、継ぎ足したりすることもあるのです。だから、ありものの原稿ではなく、しゃべってる人だけに集中してる。相手が何を言うかってほんの一呼吸前に予測できるかどうかで、通訳としての聴覚が使えるかどうかって結構勝負どころになるのです。

このことは自分だけの経験で通訳しているときは気がつかなかったんだけど、英語の同時通訳さんなどと一緒にお仕事させていただくことがあったり、「モンゴル語通訳」、「日本語通訳」って言って仕事している人の仕事ぶりと自分との意識やテクニックの違いなど、比較できるようになって気がついたことです。

単語レベルでの知識ではなく、相手の思考回路や概念、いわんとするところをひっくるめて受け取ることでこそ、正確で流れをそのリズムや感覚をせき止めることなく、別の言語に変換伝達することができているのです。

よく「なんで、私が考えていること、わかるの!?ヽ((◎д◎ ))ゝ

ってびびられるけど、それは、第六感がうっかりもれちゃったときで、いつもは「封じてる」はず。

KYって言われるくらいがちょうどいい。
相手の考えとか空気ばっかり読んでると疲れちゃうから。

語学で大事なのは口よりも耳。目よりも手だと思います。
しゃべれるのが上手っていうよりは、相手の言うことを正確に聞き取ることのほうがよっぽど大事。最初のうちは。
所詮は外国語は「他人の言語」なので、それをネイティブとして使いこなしている人のすべてをいつも集中して聞いています。こうやって、使う、使わないは別として、耳を通して「ほんもの」を記憶しておくことで、ほんとに自分が必要としたときに、自然と出てくるようになるみたいです。

私はおしゃべりで、よく酔っ払うと、「どんなキーワードでも自分の話題にできちゃう」という変な引き出しの多さで、やばいことになる。ほんとは、宴会の席では、人の話を聞くほうが好きなんだけど、酔っ払うと、ついついタガが外れる、というか、どっかのカギが壊れてオープンになってしまうようなのです。

だから、自分がしゃべりたい!っていう人が多そうな集まりでは、どんなに勧められても、酒は飲まない。
よっぱらっちゃう、、、というのは、実際、気持ち悪くなっちゃうってこともあるんだけど、それ以上に、「制御不能なおしゃべり機能」が発動するのが「やばい」と思っているからなの。

気兼ねなくいられる仲間うちの飲み会とかなら、実際問題として、私、結構、飲んでると思う・・・。

酔っ払うと、さらに耳、悪くなりません?
口が饒舌になる分、どうも私は宴会中は耳がふさがる感じがします。
耳が聞こえないってほどじゃないんだけど、鼓膜に蓋ができる感じになる。なんだろね?

ここぞとばかりに「休憩!」ってなってるのかもしれません。

優れている、って思う部分こそ、時々、休憩させてあげることが大事、そんな気がする宴会シーズンです。





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