プレゼントは相手に聞く?自分で選ぶ? ブログネタ:プレゼントは相手に聞く?自分で選ぶ? 参加中
プレゼントっていうかお土産品っていうのはですね、直感なのです。義理土産ってものも、一応、安くて可愛らしいとか、実用的とか、お菓子みたいに面白いものっていうのをまとめ買いしたりもするんだけれど、品物みてて、ぴんときて、この人のためのお土産だ!っていうことがあります。

モンゴルのお土産品って、売ってる側、製造している側が自信をもって値段をつけるほどのものって実は、、、(略)

フェルトのベビーシューズとか、手作り一点ものだと、どれもこれも似たような感じなんだけど、手に取ったり、陳列棚に並んでいるのを見た瞬間に、「あ、これはぜひともあの人にあげたい!」とぴんときたりします。

手に取った瞬間に、量産品でも「これ!」ってシックリくるものがあるのは不思議。
ただの思い込みかもしれないけれど、日本に帰る前ってわけじゃなくても、そのプレゼントに出会ったら、その場で買っちゃう。

モンゴルでは、モノでも人でも出会いは一期一会。
今日あるから、ここしばらくあるから、ずっとそこで売ってるってわけではないのです。
欲しい!って思ったら、すぐに買わないと、次はない。

さらに、モンゴルで相手の意向をきいて品物を選ぼうにも、選択肢はそんなにないし、帯に短し襷に長しっていうか、、、どうすんの?これっていうようなシロモノが多いから、せっかくリクエストしたのに、「これぇ?」ってがっかりされるのも嫌だから、もう直感だけ。

ここ数年はそういう感じでお土産買ってるけれど、今のところは「はずれはなし」なんじゃないかって思い込んでます。

誰かにプレゼントするっていうのは、大好き。
お中元とかお歳暮とか、お年玉とかクリスマスプレゼントとかっていう季節の定番っていうのは、なんか好きじゃないんだけど。

ふと、何気ないときに「好きな人」を思い浮かべて、何かをプレゼントしたくなるっていう気持ちが自分の心に生じること、そして、それにシックリくる品物に出会えることは、モンゴルでは「奇跡のめぐり合い」なのです。

そういう一期一会の幸せを実感していると、定番の「大人の常識」だったり、礼儀だったりする品物のやりとりっていうのがめんどくさくなってしまう。

日本にいると、当然、そうしなければいけないんだろうし、モンゴルでも、誰かの家に遊びに行くときとか、シーズン性の高い贈り物の習慣があって「空手ではいけない」って暗黙の了解があるので、実はコミュニケーションもつきつめて「大人」になろうとすると難しく、奥が深い気がします。
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あなたの「負けたくない」ことって? ブログネタ:あなたの「負けたくない」ことって? 参加中
子供の頃は負けず嫌いでした。何でも一番というか、100%を目指すのが当然。今日の自分より明日の自分が成長してなきゃ嫌だ。昨日の自分に負けたくないって。闘争心が人一倍激しくて、女の子としては随分と損な生き方をしてきました。
学校の成績なんかは、習ったことさえ理解してさえいればいいから、100点とるのなんか、簡単。
むしろ、100点取れなかった自分が悔しくて、96点とか98点で、心の中ですっごい後悔。
「なんと自分はツメが甘かったんだ」なんて。
同級生とか、学年で何位とか、模試で全国何位、とかそんなこともどうでもよくって、「どこ、間違ってたんだろう」って。

なぁんて書くと、がり勉だったのか?と思われちゃうけれど、そうではなくって、大学受験の直前の保護者面談ですら「せめて、机の前に1時間は座って勉強する習慣づけを」なんて言われてた。

勉強が好きってわけでもなく、ただの挑戦だから苦手教科にまで意地になったりしなかったし。

でも、子供の世界で勉強で負けたくないっていう闘争心は、ほんと、人生を狭めるし、苦しめる。
同級生と横並びってすっごく難しくって、妥協できないから、妬まれるしね。
特に金持ちだったり、「学習塾」なんて通ってたりして、「私立の名門」とかのお受験を中学あたりで狙ってる、なんて人たち。
自分のことに専念しなよ、私のことはほっといてよ。どうしたって、私は公立街道まっしぐら、なんだから。
勉強できて「生意気だ」なんて、理不尽なイジメにあったこともありました。

あれって全然理解できなかったね。
どんなにがんばったって、所詮、100点で行き止まりジャン?
ただの力試しで、理解度の確認なんだから、最終的に100%の理解でクリアできればそれでいいわけなのにね。他人を妬んで嫌がらせしたりする暇あったら、わからなかったところを埋めていけばいいのに。。。

そんな生意気な思考回路はガキンチョの頃からで、とんがってました。
マイペースっていうのが、やりづらいっていうのは、仕方ないけれど、アメリカみたいに飛び級制度があれば、もうちょっと楽に生きられたかも、と小中学校時代の自分を振り返ると思います。

負けたくないっていうのは、ほんと自分の内部との葛藤だけなんですね。
相対評価で自分に満足できない。
でも、優等生って言われてる人たちって皆、そんな感じだったんじゃないかな?

自分は普通に、やりたいようにやってるだけで、周囲からちょっと突出してしまう。
それってうらやましいようで、大変なことだったりします。

だから、高校生になって、自分よりももっと向上心が強くって、おおらかでノビヤカで朗らかな文武両道な人ばっかりで、個性的だけど、生き方の点で共通項の多い同級生や先輩・後輩に囲まれる生活になって、私はほんと、ほっとしたもんです。

大学もそのノリで行けばよかったのだろうけれど、マイナー言語なんか選択しちゃったからね。

また再び、自分との闘いになりました。向上心って周囲に左右されないようにしないと、鈍る。
おまけに恋なんかしちゃうとね。ライバルが多くて「負けたくない」なんて、自分の愛情の深さなら負けないのに、なんてムキになったりして。

恋愛ってまた、相対評価ではないし、ましてや、絶対評価でもなくて、相性っていう、これまでとはまったく違う尺度がだったりしてね。

大学卒業して、大学院に入って、、、モンゴル語では負けたくない、なんて通訳としての仕事は全部自分が引き受けたくなったりしてて、、、

負けたくないっていう気持ちは、大人になってダンダン、違う形で現れるようになってきました。
よくわからないんだけど、「負けたっていいじゃん」って。

負けるってことを受け止められるようになってきたのです。
かなわない相手って世の中にたくさんいるけれど、そういう「かなわない相手」っていうのは、そもそも私をライバルなんて思ってないモンね。

勝負事、勝ち負けがハッキリつく行動って、最近とってないなぁ。

裁判も勝ち負けって言うけれど、それが人生という長いレースの中でどういう意味を持つかって思ったり。

最終的に、「負けるが勝ち」っていうか。

勝利の自覚って、その先は転落だったりする気がする。
勝利ってある意味、ゴールでしょ?
ゴールに一番乗りできたってところで、結局、終わっちゃうことの寂しさがある。
ゴールっていう一区切りの先にまた新たな勝負が始まる。

そんな風に考えると、人生ってすごく長い、長いマラソンで、とにかく前に進み続けることみたい。
急いだところで、先にもたくさん人がいて、後ろにも人がいて。
苦しそうに走っている人がいて、楽しそうに歩いている人もいて、仲良く誰かと二人三脚だったり、ひたすら重い荷物をしょいこんで、一歩一歩を踏みしめている人もいて。

自分がどんな風に歩いていきたいかってこと以外、他人の歩き方と比べたりっていう興味はなくなってきています。
誰かが成功したら、それは素晴らしいことで一緒に喜びたい。
誰かが愛する人と結ばれたら祝福したい。

でも、誰かの成功が自分にもあてはまるかっていうと、そうでもなくって。

自分の価値観っていうものを見つめ直す時期なのかもしれません。

そして、自分っていうものと向き合うようになると、他者との勝負でも、自分の中での葛藤でもなく、勝負とは、「どれだけのものを受け止め、受け入れることができるか」ってことになってくる。

どんなことでも、けろりんぱって顔をして飲み込めんでやる。
苦しみも哀しみも絶望すらも、飲み込んで、ハラワタが煮えくり返りそうになったとしても、孤独に押しつぶされそうになったとしても、そういう瞬間瞬間を、全て、自分のものとして受け止める。

苦手なものは苦手なものとして、得意なものは得意なものとして、素直に認める。

自分を誇大評価しなくてもいい。
大きくみせて、宣伝しなくてもいい。

自分の心の赴くままに跳ね回り、そして、その心のありようが、ノビヤカで、ほんとに自分を幸せに導いてくれる道を歩めるように。

他人の苦しみや哀しみは、分かち合うことはできないけれど、でも、持久走で苦しい時、立ち止まりたくなったとき、誰かがすぐそばで一緒に寄り添うようにいてくれるってだけで、次の一歩を進めようって思える。

だから、私はそんな風に、私が生きる歩みが、誰かにとっても、ささやかな慰めになれたらいいな。
自分が歩きたいように歩いていても、そんな風に、誰かを支えられるんだったらいいなって思います。

それは、「負けたくない」って強い気持ちで突っ走っていたときには、思いもよらなかったことであります。
自分を抱え込むだけで精一杯だった子供の頃には思いつかなかったことだけれども、なりふりかまわず、勝負に挑み続けていた子供時代があり、青春時代があり、他人との泥仕合を続けた屈辱の年月を経て到達した、私が望んでいた「マイペース」の意味を見つけたようです。

負けたくないってがんばっている人を応援する気持ちは一杯。

時に、人は、どのような状況でも「負けられない」ってケッパラなければいけない局面がある。

負けたくないって頑なになっている人を気の毒だなって、もっと肩の力を抜けばいいのに、なんて思うこともあるけれど、でも、負けられないときって、肩の力なんか抜いたら、自分がへなへなと崩れて、立ち上がれなくなっちゃうもんね。

無理するな、なんていえない。
無理だってわかってても、やらなきゃいけないときだってある。

負けって勝ちの反対だから、何か二極的なんだけど、私は負けても勝ってもいいから、この世界全てを受け止め続けたい。
毒も薬も関係なく飲み込んで、笑っていられたらいいな。

泣いてもいいし、怒ってもいい。

負け続けの人生だっていいんだ。
負けを認めたところで、認められる自分がいれば、それはある意味、勝ちだから。

相手を負かすってことで得られることって何があるんだろ?

自分に勝つってことを自分の使命って思ったら、ずっとずっと勝ち続けなきゃいけなくて、負けたくないって頑なに張り詰めたまま走り続けなきゃいけない。

負けたくないって勝ち続けて得られるものと、負け続けて、その敗北から学べるものと、どっちが尊いものなのか、とかって考えると、どっちだっていいじゃんって思っちゃう。

勝負を避けることはしないけれど、それどころか勝負に挑むときは、「勝利」をつかむために全力を尽くすんだけど、だからといって、「勝たなきゃ意味がない」なんて勝負は、人生でそうそうあるわけではない。

もちろん、試合や競争、コンクールなんてものは、やっぱり1位、優勝を目指したいし、そのために努力するわけですから、負けてもいいや、なんてちょろい考え方で参加したりしません。

やるからには目指すべきゴールに到達するために、自分の全身全霊を注ぎ込んで100%の力を出し尽くす。
その結果がどうであっても、私が私の100%を出せたら、結果を素直に受け止める。
試合とかって実力伯仲だったら、勝ったり負けたりする。そして、それは実力の差っていうよりも、ほんのちょっとの差や隙やタイミングだったりする。だから、今日負けたからといって、自分が弱いってことじゃない。次の勝負への課題が見つかったって喜ぶことにする。

勝ち続けて孤独になるよりも、勝ったり負けたりしながら、切磋琢磨を続け、時に傷つけあい、時に高めあい、時に助け合って、勝負でつながる絆が生まれるってことがスポーツの素敵なとこだしね。

オーディションでもそう。いっくら自分が上手に歌えた、演技できたって思っても、他にその役やパートにふさわしい人がいたら落ちるモンね。アメリカにいたときに感じました。何段階ものオーディションやコンクールがあり、そのたびに「上には上がいるんだなぁ」ってわくわくしました。こんなすごい声の人と一緒に歌えるなんて!同じ歌を歌えるなんて!競えるなんてって感動。それは、私が英語ネイティブじゃないというハンデがあることを織り込み済みでオーディションに臨んでいたからなのかもしれないけど。

学校行事の延長で趣味の範疇で、何事も経験ってことだったからw
大学の奨学金がかかってる、とか人生をかける仕事なんだ、って意気込みでチャレンジしてる人の熱意に巻き込まれて、実力以上に歌えちゃったりすることもあれば、うまくいかなくって落選することもあった。

でも、どっちだっていいんです。
どうしても勝ちたい、負けたくないってがんばるんだけど、負けちゃったところで、それで私は終わらない。何度でも立ち上がるし、這い上がるし、新しい価値観をつかんで強く、しなやかになる。
昨日の私より今日の私は、絶対パワーアップしてる。へとへとでダラダラだったとしても、昨日の私より今日の私は、私自身や、世界を好きになってる。

最後の最後の瞬間、神様に迎え入れられる、その時に、とびっきりの笑顔で「あー、幸せな人生をありがとうございました。また、これからもよろしくお願いします。」って一生を終えたい。

どれだけ悲惨な状況で死を迎えることになったとしても、笑って自分の死を受け入れることができたら、その時、私は究極の、ホンモノの「勝利感」に酔いしれることができるんじゃないかな。

受け入れられないっていったところで、避けられないのが「死」なわけで、最終的には、皆、死んじゃうわけだから、「死を受け入れた」勝利者として全ての人が神様に迎えられているんじゃないかっていうのが、のんきモノの私の予想なんだけど。


勝つのは、誰だ。勝利とは、何だ。
勝つのは、誰だ。勝利とは、何だ。
勝つのは、誰だ。勝利とは、何だ。
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昔の恋人に会いたいと思う? ブログネタ:昔の恋人に会いたいと思う? 参加中
昔の恋人に会いたいと思うかって? そうだなぁ。。。恋人っていうか、一度でも恋をした相手のことはずっと大切な存在として心の片隅にある宝箱にしまっておきます。
壮絶な恋でドロドロになって、、、なぁんていうほどのことにはならないんだよなぁ。。。
愛情、薄いのか?

もしくはあふれ出る愛情が枯渇することがないから、相手と「合わない」ってことで決別することになったとしても、心の奥底から愛情が生まれ続いているから、特に一緒にいなくてもいいってことなのか?

よくわからないのですが、私、「好きだった」っていう過去形で今は「嫌い」って人、いないんですよ。
もしかしたら、いるのかもしれないけれど、それこそ、そういう「嫌い」って嫌悪感を覚えたら記憶から削除しちゃってるのかも。心当たりがありません。

昔の恋人との再会って、きっと高校時代の同窓会みたいで、どれほど長い月日が経ったとしても、すぐに当時のやわらかい、しなやかな気分に戻れるって思う。
「あのときは、、、」みたいな、昔話でほっこりした気持ちになって、自分たちの輝かしい幸福に満ち溢れた時間を思い出すことになる。
もちろん、喧嘩でののしりあったり、大雨の真夜中に独りで濡れながら家に帰ったり、ってことも忘れちゃいないけど、でもそういうことすらも、いい思い出。笑い合えるね。なんで、あんな喧嘩したのかな?なんて。

昔の恋人、今は友達だったり、かけがえのないサポーターだったり、ファンだったりします。
片思いの恋も含めれば、それはそれはにぎやかな私の恋心。
心を打ち明けて玉砕したこともあるけど、それでも、今、また会えたら嬉しいかなあ。

みんな、それぞれの生活を築きながら、一生懸命生きている。
私が愛した人たちは、みんな、自分に妥協ができない、夢見がちな人たちで、仕事や研究や趣味や、その他何かに打ち込んでいる。

だから時々、テレビでみかけたり、雑誌に登場していたりってこともある。
映画館で映画を見るときは、エンドロールのクレジットが途切れるまで、目を皿のようにしてみる。
彼の名前が出てくるかも?なんて思って。

そして、実際、会ってたりする。
恋人として「元サヤ」に戻るなんてことはありえないくらい、私がかつて愛した人たちは、今のパートナーをとても大事にしている。その幸せそうなオーラもまた私には嬉しくって。

私のよいところも、悪いところも、心の振幅が激しくて、コントロールが取れなくなったとき、どんな風になだめるか、ツボを心得ていて、絶妙なタイミングで救いの手を差し伸べてくれる人たち。
愛しているけれど、いっつも一緒じゃなくてもいいの。

別れたのには、私達なりに理由があり、譲れない何かが要因で別々の道を進むことを決めたのだから、それはそれで後悔していない。
どれだけ「いい男」になったとしても、そのことすら褒め称えながら、並んで陽気にお酒を飲み、語らい合える。それだけでいい。

その瞬間の、あの共有した時間は私達を結び付けてくれ、優しい関係をはぐくんでくれた。
そして、今がアルってこと、感謝です。

音信不通の人もいないわけじゃないけれど、なんとなく風の便りで感じるんだ。
今、どうしているかって、心を飛ばせば感じることができる。

でもね、今、愛している人が一番大切。
そばにいられればいいのになぁ。心のバランスがちゃんと取れて、通じ合えればいいのになあ。
離れていると不安っていうか、相手のことがわからなくなってくる。
二人で撮ってもらった写真を見ていると、すごく幸せそうで、告白しなくても、両想いだって確認できなくても、私達って「完璧なカップル」じゃない?なんて思ったりして。

いろんな激動の時の荒波を、沈まないように、溺れないように、必死でもがいて、しがみついて、自分らしくないくらい打ちひしがれて弱ったりしている今日この頃。
どうにか激流をやりすごして、ふとした穏やかな流れに体が浮いたとき、一人ぼっちなことが寂しかったりするけれど、でも、心は独りじゃなくて、ずっとずっと彼のことを考えて、彼と再会できたときのことを考えて、笑顔で「よかったね」って抱きしめてもらいたくって、一日、一日を素敵に生きたいって自分を励ましているから、私、今日生きていられるんだって思う。

昔の恋人に会えたら、それは楽しいと思うんだけど、でも、今、切実に私は「未来の恋人」の胸に飛び込んで、思いっきり強く抱きしめて、「大好きだ」って想いを伝えたい。

ひとつの仕事、一応納品できて、3日間の徹夜作業が一段落した解放感で、心に思い浮かぶのは、大好きな彼、ただ独りなのです。
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