今年の秋口からになるが、新ウィーン楽派と言われる作曲家の音楽にはまっている。中でも、最近、良く聴いているのがヴェーベルン(ウェーベルンとも表記される。1883-1945)。没年が第二次大戦が終わった年になっているのは偶然では無い。伝記によると、1945年9月15日に、煙草を吸いにベランダに出た時、占領軍の米兵に闇取引のスパイの合図をしに出たと誤認され射殺されてしまったという。もし、この愚かな米兵がいなければ、戦後の現代音楽の様相は大きく変わっていただろうと思う。つまり、彼が長生きしてくれたら、素晴らしい作品を引き続き発表し続けて、現在のような現代音楽の低迷(混迷と拡散の中、きわめてマイナーなジャンルに押し込められるという事態)は避けられたのではないだろうか。もちろん、歴史にifはありえないが。それと、この事件は、米国の伝統文化に対する蹂躙を象徴している点でも、象徴的であると私は思う。
アントン・ヴェーベルンは、大変寡作で、作品番号がついた全作品を通して聴いても、3~4時間程度で済むのではないだろうか。寡作の一方で、一つ一つの作品は珠玉と言って良い。とりわけ、「ピアノのための変奏曲作品27」は十二音技法を駆使した傑作である。3つの部分から成り、演奏時間はわずか7分程度。この7分が、聴き方によっては無限の時間に思えるほど凝縮された内容となっている。ここに、楽譜を掲示できないのが残念だが、興味のある方は楽譜を見るなり、ピアノを弾ける人は実際に演奏するなどしていただければと思う。
同作品の代表的な演奏かどうかは、意見が分かれるかもしれないが、二人の名ピアニストの演奏を聴き比べてみた。グレン・グールドと内田光子。クラシック好きな人はもちろん、興味の無い方でも名前は聴いたことがあると思う。
まず、グレン・グールド。Youtube上にもアップされている演奏があり、大変なアクセス件数となっている。彼のこの作品の演奏については、冷たい情熱という言葉が当てはまる。グレン・グールドの特色(あ、これってグレン・グールドだ、というクセ)として、左手と右手が全く等価に動かされており、しかも音の粒が揃っている点が挙げられよう。くっきりと音符の姿が立ち上ってくるような演奏。その特色が、ヴェーベルンの演奏では遺憾なく発揮されている。ヴェーベルンの難しさは、音楽の方向性、指向性の希薄さにあると思う。十二音に等しく役割を与えれば、十二音技法の考え方は、主音への回帰と調性の縛りを脱却するということは、すなわち、音価の間での支配・被支配の関係性を抜け出すということであるから、それは必然であろう。グレン・グールドの演奏は、まさに、「一音一音を音空間に解き放つ」ものとなっている。音色が澄んでいることと、神業的なテクニックを持っているので、解き放たれた音に熱を込めるゆとりも生まれる。
次に内田光子の演奏について。収録されたCD(シェーンベルクのピアノ協奏曲、アルバン・ベルクのピアノソナタなどと同時収録。フィリップス。ちなみに、ピアノ協奏曲はブーレーズ指揮、クリーブランド管)によると、録音年が2000年と比較的新しい。こちらの演奏は、グレン・グールドのアプローチとは真逆に感じられる。まず、「感情」が先にあり、その表象として音のテクスチュアを構築しているように解釈できる。決然とした意思が打鍵の強さに表れている。ヴェーベルンを初めて聴く人にとっては、内田光子の演奏の方が、感興に満ちている分、分かりやすくとっつきやすいと思う。ここからは私の想像だが、内田光子の解釈は、ウェーベルンの初期作品(夏風の中で、など)と、十二音技法を使うようになってからの作品の間に、連続性を持たせようとしているのではないだろうか。ウェーベルンの初期作品には、マーラーの後期交響曲の残照が聞こえる。つまり、ロマン派への惜別とオマージュが、本来、理論的にはロマン派の対立軸であるべき十二音技法の音楽にも忍び込んでくる。そういう、人間臭いウェーベルンを、内田光子は作品から読み取っているのではないだろうか。
私は、どちらのピアニストも大変好きであり、優劣は付けがたい(そもそも、優劣をつけるものでもない)。ただ、心がざわめく時や、怒り、悲しみなどネガティブな感情が高まったときには、グレン・グールドの演奏は、本当にその熱を冷まし、落ち着けてくれる。そういえば、グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲は、「羊たちの沈黙」でレスター教授が愛聴していたのではなかったか。ある意味、グールドの演奏は鎮静剤のようで、どんな人間でも一聴で、まともな瞬間に立ち返らせる力があるように思える。内田光子の演奏は、逆に気分を高揚させたいときの方がしっくりくるかもしれない。
厳格な音楽理論の衣をまとっている外観に比べて、解釈の多様性及び受け入れる度量の大きい音楽の「内実」は、聴き手の側にも色々なシチュエーションでの聴き方を提供してくれる。この点に、ヴェーベルンの素晴らしさと際立った独自性があると思う。聴き方を制約しない(あるいは聴き方の制約が少ない)作曲家は実は少なく、思いつくままに挙げても、シベリウス、グリーグ、フォーレ、武満徹ぐらいか。異論はあるかもしれないが。ちなみに、聴き方が制約される(≒ある程度、その作曲家の「宗旨」に共感が必要)作曲家も私は好きである。実は、ワグネリアンであったり、ブルックナーおたくであったりもする。だが、日が照っても雨が降ってもワーグナーというのはちょっとどうだろう。クラシック音楽は、構えて聴くのがちょっと、という人には特に、ヴェーベルンを是非お奨めしたい。


