堕天使のイデア15 | ユークリッド空間の音

堕天使のイデア15

 真野は、改めてその絵に目を移す。いったん見てしまうと、その魔力のあまり、まばたきもできなくなる。
 おや……?
 真野はあることに気づいた。
「このナイフ――、どこかで見たことがあります。確か、水川さんの別宅に、こんな柄の形をしたナイフの絵が一枚あったような……」
 これを聞くや否や、雨宮は凄い形相になった。
「何だと? 間違いないのか」
「え、ええ」
 その気迫に、こちらがたじろいでしまう。
「この絵ではいびつに描かれていますけど、別宅では、かなり整った形に描かれたものがありました」
 緑色の柄。象嵌されたアクアブルーの宝石。少し反った刀身。かなり似たものが間違いなく存在していた。
「こっちの女性はどうだ」
 雨宮は、溶解しつつある女性を指す。
 その悪魔のような瞳に囚われ、記憶の糸に閃光が走る。
「あ――、なんとなくですが……、雰囲気の似ている女性の胸像があったようななかったような……」
「確かめるぞ」
 何を思い立ったのか、雨宮は真野を引っ張って、樹里の別宅に連れてきた。理由を聞かされないまま、真野の見た二枚の絵を確認させられる破目になる。
 ふたつともすぐに同定できた。ナイフの絵はひとつしかなかったし、人物画は複数あったが、アトリエの絵の女性の面影は見紛うことはなかった。雨宮は、「六号くらいの大きさかな」と漏らした。
 改めて見ると、ぞっとする絵である。ナイフの佇まいには、まるでいくつもの傷を作ってきたような静謐な狂気が籠められている。一方の女性は、その存在自体が虚ろである。
雨宮もそれを食い入るように見つめていた。顎を撫で、顔を近づけ、ぽつりと漏らした。
「真野くんさあ、この女の人、被害者の佐々田さんに似てない?」
「え?」
 まさか。そんなことが……と思いつつ絵を顧み、真野は驚愕した。
 佐々田麻美だ! ついさっきまで気づかなかったのに。輪郭も目もまったく彼女と重ならなかったのに。雨宮に言われた今では、間違いなく佐々田麻美に見える。
 一気に目が覚めた。見えなかった糸がと繋がった。
 樹里と被害者を結ぶ線。当たり前のことゆえに見逃していた。画家とモデルだ。
 それにしても……、
「雨宮さん、よく気がつきましたね」
「きみもちゃんと見えたじゃないか」
「そこが不思議なんです。どうして気づかなかったんだろう」
「気づかなかったのは不思議じゃあないよ。モデルの面影はほとんどないんだから。普通、気づくほうがヘンだ」
「はあ?」
「わたしたちが刑事だから、このモデルは被害者だと判ったんだよ」
 雨宮の言葉の意味がまったく理解できない。
「ともあれ、樹里と被害者に面識があったことは確認できた」
「でも、これ、証拠になるでしょうか」
「決め手にはならないね。水川女史が否定したら何もならない」
「それに、ふたりに関係があったとしても、肝心の動機は何ですか。それに水川さんはどうやって被害者をモデルとして採用したんでしょう。ふたりが会った形跡はないんでしょ?」
「モデルとしての仕事は、藤原女史が仲介したんだろう」
「どうしてそんな面倒なことを」
「もちろん、水川女史は被害者をモデルとして雇ったことを知られたくなかったんだよ。さて、真野くん。二点ほど確認してもらいたいことがある。最近、水川女史がこの絵にあるようなナイフを購入しなかったか。それから、彼女の邸宅にある冷凍室には、覗き窓があるかどうか」
 どこから思いついたのか想像もつかない注文だ。ただ、雨宮の横顔には確信が満ちていた。

 

 雨宮の求めた確認はすぐに裏が取れた。樹里は間違いなく宝剣を購入していた。篠塚貿易という会社と、三ヶ月前に取り引きをしていた。また、水川邸の冷凍室には、真空断熱を利用した覗き窓が設えられていた。
「この調査、どんな意味があるんですか」
 真野が首を傾げると、雨宮は苦笑した。
「まだ解らないの?」
「解りません」
「凶器は恐らくあのナイフ。画伯は被害者をモデルにした絵とナイフをモデルにした絵を描いている。被害者はなぜか水川女史の所有する敷地に埋められていた。さらに、彼女は土砂崩れで現れた死体を見ても、埋めなおそうとはしなかった。もうひとつ。検死による死亡推定時刻は一ヶ月前なのに、死体の体内には二ヶ月前に死亡したということを仄めかす痕跡が残されていた。これを繋げれば動機が見える」

 

 


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