【私の2011年3月】

被災地では震災からの一周忌を、悲しみの内に終えています。

そんな折りに、昨晩地震が発生し、津波注意報も発令となり、岩手県沿岸部に於いては、避難勧告も出されました。
...
この津波注意報発令に、どれだけの方々が反応しただろうか?

私は震災時の記憶が蘇り、両親を連れて車で山へ逃げました。あの恐怖の記憶が・・・、二度と消えない悲惨な記憶が・・・、無意識の内に身体が避難場所へと急ぐのです。

その記憶・・・、それは震災発生から13日目の事。

津波によって作り出された瓦礫やヘドロの山を、自衛隊の部隊が、不眠不休で作業をし、我々にとって命を繋ぐ道となる道路を確保してくれました。

その道路を通り、私が当時勤めていた会社の女川工場の様子を見に行きました。そしてその工場の工場長が心配で・・・。

その頃の被災地は、どうにか車が通れる位に瓦礫が排除されていましたが、車を動かすガソリンがなく、移動手段は歩くか自転車でした。

私も自転車で女川に向かい、工場の有無を確かめようとした。すると・・・、工場がある地域は何と無風状態!えっ(゜ロ゜;!!女川は酷いと聞いていたが、大丈夫だったかぁと、安心しました。

でもその安心・・・、長くは続きませんでした。

女川高校がある国道の峠を登り切った瞬間・・・! 私は自転車諸ともその場に、崩れ落ちてしまいました・・・!!

街が・・・、無い・・・!!その場で見えるはずの無い海が、一見出来る・・・!! 見馴れた街並みが無い!!

そこには、生活の営みなどと言った事を感じる余地は・・・、ありませんでした・・・(-_-;)!!

もうろうとした意識の中で、私が目にしたのは・・・、手袋をせず血に染まった手で、必死になって我が子の名を呼びながら、瓦礫わ掻き分ける、若い母親の姿でした・・・(T_T)!!まるで狂ったように・・・(T_T)!!

そしてその地に舞い上がるホコリに染み入るのは・・・、磯の香りと腐った魚の匂い、そして・・・(T_T)、人の腐敗臭です・・・(T_T)!!

当日の女川には、登った所で20m位津波が押し寄せたそうですが、小高い丘の上にある町立病院の駐車場には、多くの人々が、安心して避難していたそうですが、残念ながら、そこにいた人々の多くが、流されてしまったそうです。

ではなぜそこに逃げたのか?それは其処が指定の避難場所だったからです・・・(-_-;)!!

そこまでの高さをも襲う津波の威力に私が覚えるのは、恐怖意外何物でもありませんでした!!

その恐怖、皆さんには味わって欲しくないです!!


【私の2011年3月】 最終回

ここ数日、被災地の人々は悲しみを新たにしながらも、何かしらに対しても力強い感じが伺えます。

それは、一周忌と言う新たな悲しみの中に、希望と、人々に対する信頼を得たからかに思います。
...
去年の3月とは、全く違う足取りと、威勢のいい掛け声や挨拶は、確かな心の復興に思えます。

その去年の3月は、前回までUPした内容なのですが、悲しい悲惨な出来事だけではありませんでした。 心から感じた感動感激もあります。

3月下旬当時は、我々在宅での避難者は、食糧の調達に苦労しました。

営業するスーパーやコンビニは数少なく、買える数量も限定される為、僅かな営業時間の中で、朝早くから並ばねばなりませんでした。

朝10時の開店に、夜中の1時頃に並び、買えるか買えないかの世界でした。

ガソリンを買うにしてもそう! 電話局が用意してくれた衛星電話にしてもそう!

何時間も並び続けた結果、目的を果たせぬ事もありました。しかし人々は、諦める事はしませんでした。 "明日があるさ"と・・・!!

ある日の夜中、いつも通りにスーパーの前で並んでいると、一般車両通行止の三陸道が、やけに通行車両が多いのに気付く!

見れば支援物資や建設車両を積んだ、自衛隊の車両と、日本全国から集結して来る警察のパトカー、消防車や救急車等の緊急車両が延々・・・、そう延々と切れ間なく北上して行ったのです!!

来る日も来る日も24時間切れ間なく延々と・・・!!

その光景に、我々は、見捨てられてはいないんだと、身体が震える感動を覚えました。

我々が住む日本、この日本と言う国の底力を、まざまざと見せ付けられました!!

"あぁ~、これで岩手の人々も助かる" そう感じたものでした!!

我々にとって平成23年3月とは、決して忘れる事などない、出来ない、人生で最大なる屈辱と絶望と、かすかな信頼を感じた時でした。

拙い文章で、申し訳ございませんでしたm(__)m!!これで【私の3月】を終えたいと思います。

ありがとうございましたm(__)m!!



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以上、ご紹介させて頂きました。

頑張ろう、東北!!





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