ワビサビのブログ
Amebaでブログを始めよう!

レシプロ機

昔、ロケで北海道に出張したときに、札幌空港から函館空港までYS‐11に搭乗しました。


札幌空港って知ってます?千歳空港とは別の小さい空港で、たしか丘珠(おかだま)空港とか呼ばれてました。


戦争中に、北海道の防空を任務とした陸軍の一式戦闘機の部隊が展開してた飛行場だと思います。


昭和20年で一式戦とは、ちと心もとない部隊です。


ちなみに一式とは皇紀2601年の末尾の1をとったもので、昭和でいえば16年、キリスト教暦では1941年ですね。


海軍は2600年の末尾の0をとって零式(れいしき)と呼びました。


有名な零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)はここからきてます。

ゼロ戦(ぜろせん)という言い方は、俗称ですね。ゼロは英語ですもの。

海軍は陸軍よりさばけてましたが、英語をいれたりはしません。

ゼロ戦(ぜろせん)と言うのは戦後のことです。


何でも張り合うことばっかりで、仲が悪かった陸軍は100式にしました。

意地でも零式(れいしき)は使いたくなかったんだね。


だから100式重爆とかあります。あんまり活躍しなかったけど。

僕は1995年にラバウルの東飛行場で残骸見てきました。100式重爆「呑竜」。


愛称で一式戦は「隼(はやぶさ)」と言いましたが、公示されたのは終戦間際の昭和19年です。

昭和16年にデビューした戦闘機の愛称が決まったのが19年です。

官製ってそんなもの。お役所仕事なんだね。軍隊も。

だから、当時は誰もそんな名称では呼んでませんでした。だって昭和19年以前には無かったんだもの。

愛称が。


旧軍の人たちは、普通は計画時の番号で呼んでます。

何で?

ややこしいのです。紀元2601年に正式採用されたら一式とつくやりかただと、

同年に同じ種類が2機種採用になったら困るのです。

戦場でキチガイ見たいになってるときに間違えてしまいます。


紀元2602年には2機種採用になり、2式単座戦闘機=2式単戦と、2式複座戦闘機=2式複戦ができました。


2式単戦は航続力が無くてスピード一点張りの局地戦闘機。インターセプターです。敵の爆撃機が来たら、さっと飛び立ち急上昇、迎撃するのが役目。


2式複戦は複座で双発。エンジンが二つあります。長距離飛行で、味方の爆撃機を護衛するのが役目。全然違う意図で作られてます。

でも同じ戦闘機のカテゴリーに入ります。


ちなみにそれ以外では、偵察機、爆撃機なんかがあります。


もう面倒ですね。単純なのが一番。

というわけで、軍人さんたちは一式戦闘機はキ-43(きのよんさん)と呼びました。

機体計画番号の頭がキで43は43番目の計画というわけです。


2式単戦はキ-44(きのよんよん)、2式複戦はキ-45(きのよんご)です。

戦後の呼び名は2式単戦は「しょうき」、2式複戦は「とりゅう」っていいます。


さて、YS-11ですが、乗り心地は良かったです。

ターボプロップですから、ジェットエンジンの推進軸を延長してプロペラを回す方式です。

素晴らしいエンジンですが、実はイギリス製です。


後方への噴進力だけで飛ぶジェットエンジンは、無理やり推力で強引に飛ばす感じ。

でもプロペラがあると、機体後流へ流れる空気に乗って飛んでる感じ。

自然なのです。

ジェットエンジンの場合、強力な推進力を前提に、機体を効率よく飛ばす形状にしてるから、

推進力が無くなると墜落します。すぐ落ちます。惰性では上手く揚力が出ないのです。


プロペラの推進力に上手く機体を乗せて飛ぶYSは、エンジンが止まっても飛びます。

上手く滑走できるはずです。高度によるけど、グライダーみたいに上手く惰性で飛びます。


YSを設計した方々は、戦争中に大手飛行機メーカーで中心的な働きをしていた方々です。

三菱の堀越技師をはじめ、中島、川西、川崎といった主力の戦闘機や爆撃機を作った方々です。

5人のサムライとか言われてましたが、気も我も強い皆さんですから、持論を曲げなくて取りまとめに苦労されたとか。


最後までYSに関わった方こそ、川崎の土井技師です。

ドイツ人のフォークト先生に指示して、ひとりで60機種以上を作った方です。

土井さんの名前を知らない方でも、飛燕の愛称の戦闘機、陸軍3式戦闘機(キ-61/きのろくいち)は知ってるでしょう。

ダイムラーベンツのDB601液冷エンジンを搭載した、日本で一番急降下速度が速い飛行機です。

形状も美人です。

この土井さんは山形出身です。

いまはシャッター商店街と化した「すずらん街」という駅前の商店街に、土井カバン店があります。

山形では土井という苗字はそんなに多くありません。

戦後は川崎の工場のあった岐阜に住まわれ、大学の教授でした。10年位前にお亡くなりになりました。

東大の航空学科へいかれました。7名のうち山形中学出身が2名です。松山中学からも2名だったと思います。


5年ほど前に、河口湖交通博物館へ行きました。

富士5湖のひとつ河口湖です。

山梨県の自動車教習場の経営者の方がやっている博物館で、夏しか開館しません。

そこで、復元の零式艦戦21型を見てきました。


ヤップ島で朽ち果てた残骸を6機分収集して、分解、使える部品は使い、それ以外は当時のスペックで特注したもの。

栄エンジンはシリンダー内は生きてました。密閉状態だったから腐食してなかったそうです。


zero_type21

当時のエンジンは外国製の良いとこ取りの混生なんですね。カーチスライト社系のエンジンとブリストル系のエンジンとか全部分解して、寄せ集めみたいなことしてます。

空冷エンジンは三菱と中島が主力。液冷エンジンは川崎と愛知時計電気が主力です。


外国会社のエンジンにそれぞれ特長があるのは、しかるべき理由があるからです。

それを無視して、全部混ぜ合わせてみたら短所がいっぱい出てきました。

最高のとこだけ集めたつもりが、それぞれの持つ悪いとこを出すことになったんですね。


まあ、機体設計は良しとしてもエンジンはコピーもどき、エンジン補機類は、すべてコピー。

高分子ポリマーなんか民間では全然発展していないから、塩化ビニール類もなし。

ハイテンションコードなんかビニール被服じゃなくて和紙で巻いてるから、地上じゃ普通でも、

高度が上がるとコロナ放電を起こしてしまい、プラグに点火させることができなくなってしまい

14気筒あるのに何基かは死んでるから、額面どおりの馬力が出ないのです。

馬力が出ないということは、スピードが出ないということと、上昇力も落ちること。

つまり空戦では勝てないということ。


それから、日本人好みの凝った設計も、量産の足を引っ張った。とにかく、不必要なまでに工程が多い。

名人業を前提にしてるから、熟練工が徴兵でいなくなり、穴を学徒動員で埋めだすと、数はできても飛べないやつばっかり。

試運転で壊れちゃう。またパイロットも下手になってすぐ壊す。

もう戦うどころじゃない。

残念でした。


船の名前

旧海軍の艦船名に一定の基準があることは、少しでも船に興味のある方ならご存知かと思います。


戦艦は旧国名(長門とか陸奥とか大和とか)、一等巡洋艦は山岳名(鳥海とか妙高とか)、二等巡洋艦は河川名(最上とか北上とか名取とか)、駆逐艦は天候気象名(雪風とか秋月とか春雨とか吹雪とか)、航空母艦は吉祥動物名で後に山岳名(瑞鶴とか飛竜とか、後に天城とか笠置、鞍馬とか)


現在の海上自衛隊(海自)も同様の決まりがあり、護衛艦DD(駆逐艦)は天候気象名、DE(護衛駆逐艦)は河川名、DDH(ヘリコプター搭載艦)は山岳名、SS(潜水艦)は海象名、PF(フリゲイト)は草木名とかになってました。


でも最近変わってきたのに気が付きました。


まず、DDG(ミサイル護衛艦)ですが、「あまつかぜ」から「はたかぜ」クラスまで大体天候気象名だったのですが、イージス護衛艦から山岳名に変更されました。


昔で言う巡洋艦クラスなのですね、扱いが。きっと。


「こんごう」「きりしま」「みょうこう」「ちょうかい」ときたのです。


旧海軍の巡洋戦艦金剛型4隻のうち、「はるな」と「ひえい」はDDHで使われてますから、勢い余って残り2隻をつけたのはわかりますが、一等巡洋艦妙高型4隻(妙高、那智、羽黒、足柄)のうちからは、「みょうこう」だけで、「ちょうかい」は別の型の一等巡洋艦高尾型4隻(高雄、愛宕、鳥海、摩耶)からきました。


うーん。旧海軍を想起させないように、絡めてできたか。ストレートに4隻揃えるとまずいかなー。


それで次のイージス艦は何なるかなと見てたら、「あたご」「あしがら」ときました。

この間衝突事故したあたご型。先月2番艦のあしがらが就役しました。

高尾型と妙高型の混合です。

次にイージスシステム搭載艦ができれば、残りは「たかお」「まや」「はぐろ」「なち」のどれかです。

先の戦争以前の装甲巡洋艦や巡洋戦艦までいれると「いこま」「いぶき」「つくば」「あさま」「あずま」なんかのこってますけど。「あずま」は訓練支援艦に付いてるからないよ。


今度海自のDDHの新型ができます。進水は終わりました。

今度は航空母艦型の全通式の甲板です。見かけは空母ですが、着艦制動索もなければカタパルトもスキージャンプ勾配もありません。

ヘリしか運用できません。無理して垂直離発着機を載せても、その強烈なエンジンの爆風に耐えるだけの装備や甲板強度がないので使えません。シーハリヤーなどを搭載しても、過荷重状態では離艦できないのです。ペーロード不足で、最小限の武器を搭載して艦隊防空に運用するとしても、防空戦闘機が必要な時代っていつ?先の戦争じゃあるまいし、ミサイルやCIWSで十分。まして対潜水艦にも使えませんから無意味。

(某左翼政党や某国がヒステリックに騒ぐでしょうが)


さて艦名ですが、正直驚きました。「ひゅうが」です。小学生の頃読んだ本で、旧国名も海自の船に付けてもよくなったということは記憶していたのですが、まさか戦艦の名前とは。


てっきり、山岳名で旧海軍の航空母艦系となると思い、きっと「あかぎ」か「あまぎ」「かつらぎ」「かさぎ」「いこま」「あそ」なんかになると思っていたから。


でも思い当たる節あります。伊勢型戦艦の伊勢と日向は、第5、第6砲塔を撤去して水上機を運用できるように改装されました。搭載機は彗星艦爆と水爆の瑞雲。もっともレイテ沖海戦には搭載機0でしたから、だだの砲塔数が少ない戦艦でしかなかったけど。


アイノコです。戦艦と航空母艦の。どっちとしても中途半端で使い物にならなかった。


「ひゅうが」かー。じゃ2番艦は「いせ」?

海自は予想をはずして喜んでる。よし深読みだ。

旧国名で航空関係。あった。「かが」と「しなの」。


加賀はともかく信濃は縁起よくない。できて10日で沈められた大和の姉妹艦。不吉。


瀬戸内海で爆沈した陸奥の名前を継いだ、日本初の原子力船「むつ」。これも放射能漏れ起こして、ずっと係留されっぱなしで、やっとディーゼルに機関を変えてみらいと船名も変えて復活。

縁起よくない名前継ぐのはよくないのです。


加賀ねー。真珠湾でも活躍したしたしねー。でもミッドウェイであっけなく沈んだし。4万トンの巨大な空母だよ。全長260メーターもあるのに、たった数発の中型爆弾250キロ程度であっけなさすぎない?大きさ1mくらいの爆弾だよ。あんまし運良くないかも。


じゃやっぱり「いせ」かな。

「ひゅうが」「いせ」/「ひゅうが」「かが」?/「ひゅうが」「しなの」?

源氏の共食い

山形市の宮町。そこには鳥海月山両所宮(ちょうかいがっさんりょうしょのみや)という大きな神社があります。


参道正面に城のような大きな山門があって、これは氏子さんが寄進したらしいです。


城下町を縄張りする(設計する)際には、外敵の浸入を防ぐため、道は鉤型に直角に曲げるとか、家来の家屋を防衛線上に配置するとかありますが、


主城が落城した場合に、逃げ込んで抵抗するために「詰めの城」として、大きな寺社仏閣を城下町の東西南北に置くことがあります。


鳥海月山両所宮は北の「詰めの城」の目的もあり、山形城下の最北に位置しています。


立派な門は城の楼閣のようにも見えますが、最上家内紛の際には加担した別当が処分されたそうです。


山門は江戸期なので、その頃は現存する形では無かったとは思いますが。


その山門には両側に大きな像が安置されております。


普通は仁王像とかが安置してある場所に、平安時代の正装のような立派な武家の像があるので、

何かと思っておりました。


どうも前九年、後三年の役で、東北の豪族を制圧するために京都から派遣されてきた源頼義と義家のようです。


そもそも源氏とは、天皇の子供です。


その当時は早く死ぬ子供も多く、血統を絶やさないために、側室を置いて沢山子供を作りました。


ですが、あまり多くても、今度は成人してから皇位継承に争いのもとになったり、経費がかかりすぎて困るので、


ある程度を皇太子(東宮)やその予備として残して、残りは臣籍降下、つまり天皇家から民間人として出してしまいます。


有名なところでは桓武天皇(平安京を作り奈良から京都に遷都した方)の子供で臣籍降下したものには「平」姓を与え、平氏と名乗らせました。(心平安で安らかなれ)という意味で「平」だったようです。


源氏は天皇家がその源(みなもと)という意味で付けられたようで、清和天皇の清和源氏、文徳源氏などが有名です。


清和天皇は30代で早く亡くなるのですが、子供は50人以上いたようです。


鳥羽天皇の系統では、天皇の子供でも遊郭で遊女になっていたそうです。


母親の身分とか出自によっては、そうそうに身分を剥奪されてしまうのです。


臣籍降下して民間に下った源氏や平氏は、もう京都では食べていけません。官位も高くなく、荘園もないからです。


それぞれ地方に広がり、民間と交わり土着して拠点を持つようになります。


前九年・後三年の役の頼義、義家親子は、正式に朝廷から派遣されたのですが、結局は奥州藤原の成立を許してしまい、あまり受けは良くなかったようです。


義家は俗に八幡太郎義家と言われ、武門の神として源氏の氏神となります。全国各地に八幡神社がありますが、義家を祭るところも多いのです。


義家の弟、義光は笛の名人として有名ですが、山梨の甲府近辺に土着して、その子孫は武田氏になります。


足利幕府を開いた、足利氏も源氏の子孫です。


平氏と源氏の決定的な差を付けたのが、保元・平治の乱です。


崇徳上皇と後白河天皇との対立、摂関家内の対立に、武門が加わり内戦となります。


保元の乱は源氏最大の共食いになります。


河内源氏長男の義朝と、父親以下兄弟全てが戦い、長男が勝利します。


勝った長男は、京の河原で自分の父親以下兄弟とその子供全ての首をはねるのです。


義為だけは助かりますが、九州へは帰れずに伊豆に渡ったとか伝説を残すだけになります。


勝利した義朝も、次の平治の乱では敗れて、その子供も殺されますが、まだ幼かった頼朝以下3名は助けられます。


鎌倉幕府開府で源氏は、武家の頭領として復活しますが、また兄弟間の殺し合いと、子供間で殺し合い、結局


正式な系統は滅びます。


貧しい頃は仲が良く、立派になると喧嘩するのは世の常でしょうか。