真冬の憂鬱 no.2

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     星子さんへ
     僕は奇跡的に進級できてましたけど、虚脱感といおうか何か言いようのない苦しみ・虚しさに襲われています。
     僕は懐かしい中学・高校時代を思い出してしまいます。星子さんとの文通が僕の心の支えとなっていたあの頃の日々を思い出して。
     元気だったあの頃…本当に元気だったあの頃…とっても暑がりでそしてお腹を膨らませれば大きく膨らんでいた僕のお腹。
     僕はそして家に居ながら星子さんとの思い出のペロポネソスの浜辺を思い出したりして懐かしさに浸っています。そして涙が溢れてくるのを僕は懸命にこらえています。 懐かしいあの頃、元気だったあの頃、あの頃は僕にも友達がいっぱいいて毎日プールへ行ったり自転車に乗って遊んで回っていました。もうすでにあの頃ノドの病気になっていたけれど、僕は元気でした。
     そして今、僕は好きな人ができました。でもまた片思いに終るような気がしないでもないんですけれど、でも僕はできるだけ頑張ろうと思っています。
     もうすっかり正月が近くなって寒さもかなり厳しくなってきました。僕らのペロポネソスの浜辺も今頃は白いカモメが僕らの少年少女時代を彷彿とさせるように飛んでいることと思います。元気いっぱいに白いカモメが僕らの僕らの懐かしい昔の日々をそのままに飛んでいると思います。
    
    
    
    
                              (12月29日)
     29、30とあと2日間僕は一生懸命出掛けよう。あのコと会うため。あと2日間僕は一生懸命出勤しよう。ちょっと辛いけど、きついけど、
     
     星子さんへ
     波の音も昔と違ってもう懐かしさも…昔ボクに元気を与えてくれていた浜辺のメロデイーではなくなっていることに僕は今朝やっと気付いて歩いています。僕の踏みしめる砂の音ももう寂しい響きしか僕の耳には与えてくれません。
     ○○さんへの恋を適わない恋だとあきらめてしまうことに僕は今苦しんでいるのだと思います。久しぶりに胸のときめきを覚えた僕。でもこの恋も虚しく僕一人の片思いに終ってしまうことに僕は今こんなに寂しい思いをしているのだと思います。
     劣等感と淋しさでいっぱいになって僕は今朝この浜辺を歩いています。もうカモメも目を覚して餌を探して飛回っているようです。僕らの頃のカモメときっともう違うカモメでしょうけれど。
     もう元気だった頃の僕はもう還ってこないのでしょうか。僕は……
    
    
    
    
                              (12月30日)
     僕は今年はこの浜辺を、恋人と一緒に歩きたいと思ってきた。僕は一年間そう思ってきた。でも僕は今年もこの浜辺を、たった一人で歩いている。誰とも手を繋ぐこともなく、たった一人で。この果てしない白い浜辺を。
    
    
     僕は一人きりだった。この一年間も。でも僕は今年の最後に、恋らしいものを経験した。まだ実るか実らないか解らないけど、僕はこの恋を追求めたい。追求めたらそこには『死』の洞穴が待っているかもしれないけど、僕はこの恋を追求めたい。どうせ実らぬ恋かもしれないけれど、僕の青春の最後の燃焼として、僕は追求めたい。
    
    
    
    
              (白い砂浜を歩きながら)
     負けるもんか。一人ぼっちの道だけど、誰も僕を慰めてはくれないけど、負けるもんか。僕は一生懸命勉強して、そうして悩み苦しんでいる人たちを救ってゆくんだ。負けるもんか。一人ぼっちだったって、淋しくったって、
    
    
    
    
                            (12月31日)
     白い砂浜を恋人と歩きたい。可愛い女の子と手を繋いで。
     僕は死にたくない。可愛い女の子と手を繋いで白い浜辺を歩きたい。
    
     あれから一週間が過ぎました。僕には辛い一週間でした。
     菊池さんは今いったい何をしていますか。もう正月で一家揃っておモチでも食べているのだと思います。
    
     僕の心は、冬の海のように荒れている。冷たい風や激しい風。死を望む僕の心のようだ。
     僕の心は飛んでゆこう。冷たい北風に乗って、遠い天草や雲仙へと、とても寒そうだけれど、とても辛そうだけれど。
    
     海に潜ったら、大きな鯛や小さな鯛、大きなヒラメや、大きな蟹が、僕を迎えてくれた。孤独な僕を迎えてくれた。
    
      春になると、きっと僕の心も明るくなるだろう。今はとっても寒い冬だけど、春になったら、きっと僕も明るくなるだろう。
    
     高総体のときのとても目の大きなとても美しかったもう思い出の霧の中へ消えて行こうとしているたぶん活水高校の一年生だった(昭和54年6月のとき)女の子へ。
    
     もうあれから9年半経ちました。もしも僕らがあのとき友達になっていたら僕の青春は…(きっとあなたは僕なしにきっととても楽しい青春時代を送っていたと…そして送っていると…そしてもう結婚されているような気がしますけど。でも僕は…僕は発狂寸前で…そして自殺直前で生きています。あれからの9年半、苦しいそして淋しい年月でした。僕の傍にもしも君が寄り添っていてたなら僕はいじけることも挫けることもなくこの27歳になるまで順調な人生を歩んでいたのかもしれません。でも僕の今までの人生は…そしてこの九年半は…屈折した苦しい年月でした。
     もしもあなたが僕の傍に寄り添っていてそして僕を励ましてくれていたならば僕は今のような苦境には落ち込まなかったでしょうし僕は悔いのない青春時代を送っていたにちがいありません。でも僕の青春時代…少年時代はどんなに屈折した苦しいものだったでしょう。
     あなたが居たならば…もしも僕の傍にあなたが寄り添っていてくれたならば僕の高三の6月からの人生はきっと悔いのない素晴らしいものになっていたのに違いありません。
     あなたの瞳に照らされて僕の17歳からの人生はきっと輝いた素晴らしいものになっていたのに違いありません。もしもあのとき僕が喋れていたならば…。でも僕のノドの病気が僕とあなたを友達にすることを許さなかったと言うか遠ざけました。僕はそのときの後悔で9年半経った27歳の今も酒を飲んだとき泣けてくるほどです。
    
     白い浜辺を歩きたいと思ってきた。誰か美しい少女と。
     でも僕は今も一人で歩いている。冬の冷たい北風の吹くどこまでも冷たい浜辺を。
     僕は一人でいつまでも歩き続けるのだろう。いつまでも。いつまでも。たった一人で。
    
     星子さんへ
     僕は今年はこの浜辺を美しい恋人と手を繋いで歩きたいと思ってきました。でも僕は北風の吹くこの浜辺を今年も一人で歩いています。冷たい冷たい波しぶきがときどき僕の頬に降り注いできます。そしてそれは僕の涙に変わろうとしているようです。僕のもう泣く気力も喪せたこの頬に。
    
     星子さんへ
     美しい少女との出会いも僕には空しい木の葉が冬の北風に吹かれて散ってゆくように僕の胸のなかで今北風に舞いながら凍り付いた地面に落ちてゆこうとしているようです。いつもの寂しい出会いと別れがまた僕の胸のなかで…僕だけの寂しい胸のなかで起ころうとしているようです。
    
     僕は勉強しなければならない。女の子のことなんか忘れて一生懸命に一生懸命に…僕は勉強しなければならない。
    
     愛子へ
     去年も…去年もだったけど今年も愛子は僕に連絡をくれなかったね。去年の正月は留年してとても苦しい正月だったけど今年の正月は進級できてホッ、とした正月を送りました。でも大晦日も正月もずっと病院にパソコンのアルバイトに通い続けたけど。
     もう愛子からの連絡が途絶えてどれ位たつかなあ、と考えています。思えば愛子が福岡に行った年…その年の12月ごろに手紙を何通かくれたきりじゃないのかなあ…と思います。
     僕はあの頃愛子のこと考えてなくて返事を書かなかったけど、そうして僕がまた愛子のことを懐かしく思い出して手紙を書き始めるようになったのはいつのことかなあと思います。
     たしかあれは僕が学2のまだ留年していなかった年の10月頃だったかなあ…と思います。いやあの頃は愛子との思い出を他の思い出に塗り変えようとしていたのではなかったかなあ。(あの頃僕は愛子の手紙を全て捨てたのだから)僕が愛子に思い出したように手紙を書いたのはそれから2ヶ月余りして留年して泥沼の正月を迎えた時なのじゃないかなあ、と思います。
     僕はこの頃またお酒を浴びるように飲むようになりました。今日、もうほとんど病院での仕事も終りました。一年間こんな僕を暖かく見守ってくれた病院の皆さんと別れるのが辛くて。それにこれからの一年間の卒業試験へ向けてのラストスパートの勉強に明け暮れると思える日々の淋しさ・せつなさを思って僕は今とても感傷的な気持ちに浸っています。
     これからの一年間はきっととても忙しくて僕にとっては辛い日々になるのかもしれません。恋人がいてくれたならば…たとえばこのまえから週に一回ぐらい来るようになったまだ19歳の純心短大のあのコなんかと。
     でも僕は劣等感や…
     あのコはとても綺麗で東高の後輩になるし… でも僕は
     僕はそうして創価学会へ戻ろうかどうしようかとても迷っています。僕には小さい頃から大学一年まで熱心にやってきた創価学会に対する郷愁があります。でも僕には中二の頃から僕の青春を台無しにしたノドの病気への怒りと恨みもあります。僕は激しく悩んでいます。創価学会に戻れば元気になれる。でも僕は自分の青春をノドの病気によって台無しにされた恨みと怒りもあります。
    
    
    
    
     星子さんへ                   (1月8日)
     昨日、天皇陛下がご逝去されました。僕らが育ってそして一緒に生きてきた昭和の時代は終りました。そして僕の胸の中も大きく変ろうとしているのを自覚しています。
     もう僕に少年の日々の思い出は思い出として忘れ去られようとしているように思えます。僕は勉強にこれから一年間必死に燃えようと思っています。高校の頃の日々などを思い出して必死に勉強しようと思っています。
     でも高校の頃を思い出すとその頃一生懸命していた創価学会の信心のことも思い出されてきます。僕と星子さんに壁を造ったノドの病気のことなどを
    
     星子さんへ
     ポカポカと暖かい日ですね。あさってから学校です。真冬で一番寒くなければならないのに海は夏の海のように輝いています。そして僕の瞼のなかに去来する目を瞑れば見えてくる美しい○○さんの笑顔なんかを僕はぼんやりと考えていました。
     吹いてくる風もぜんぜん冷たくありません。波もとてもおだやかでなんだか○○さんのことで最近苦しんできたときどき“死”のことを考えている僕を誘惑しているかのようです。
     孤独だった高校を卒業してからの九年近くの日々のことを思って僕はとても悲しくなってきています。高校を卒業したばかりのあの○○さんの美しさ・明るさ。僕はうじうじといじけてばかりいた自分の情けない姿。創価学会をやめなければ良かったのかもしれない。もし創価学会をやめてなかったならば僕はもうとっくに医者になってそして人格的にも立派になっていたと思えるのだけど。
     もう創価学会に戻るのも遅すぎるような、死神が○○さんの出現とともに僕を霊界へと霊界へと手招きしているようです。
    
    
    
    
     星子さんへ                 (1月10日 朝)
     僕らの白い浜辺ももう霧に覆われて見えなくなっていているような気がします。本当に思い返せば幸せだった僕らの少年少女時代。星子さんはもう少女のうちにあの世に旅立ってゆかれたけど僕はもうあれから12年近くも生きています。12年前と全然変わらないこの浜辺の風景だけどもう僕の目には曇ってしか見えません。
     昨夜も僕は眠れずにいろいろと考えました。○○さんのこと、対人緊張のこと、それが治らないまま最終学年を続けていってもどうせまた留年するような気がすること、そしてまたやはり自殺のことを考えたりしていました。
     今日は昨日とは違って海から吹いてくる風は冷たいです。今はちょうど昔の高校二年の1月のことだと思って卒業試験や国試へ向けて勉強のみに頑張ろうという決意も僕のこの対人緊張症のためつい挫けてしまいそうになります。
    
    
    
    
     星子さんへ                  (1月13日 金曜日)
     今でも死にたく思ってしまうことがあります。何も理由がないのにそう思ってしまうことがあります。僕にはやっぱり死神が憑いているんだと、その死神がこの白い浜辺へ吸い込まれるように消えていってくれたらいいんだけどと…僕は考えています。
     白い浜辺へ僕の体から霧のように離れていってくれて、そうして毎日湧いてくるこのどうしようもない希死念慮から逃れられたならと。
     僕は心休まる静かな日々を一日も早く迎えたい。のんびりとテレビを見てて、ときどき友達とドライブとかツーリングとかに行って、何にも悩みがなくて、幸せいっぱいの日々を、僕は一日も早く迎えたい。
    
    
    
    
                            (1月15日)
     もうあのコも少なくとも25歳にはなっていることを思うと僕はやりきれない淋しさ切なさにとらわれてしまう。淋しかった。あの日からの9年半の月日。僕がノドの病気に罹ってさえいなければ、そうしたら楽しかったのかもしれない9年半。もしも僕が中学時代、創価学会の信心を一生懸命してさえいなかったら罹らなかったであろうノドの病気。そして僕は今創価学会に戻ろうか戻るまいかと激しく悩んでいる。
     今日は一日じゅう家にいて勉強ばかりしていた。ふと湧いてくる虚しさや不安感、希死念慮。その度に僕は創価学会に戻ることを考えていた。不思議と元気になれる、ファイトや根性が湧いてくる。しかし僕の場合には顔がこわばったり向かないような気がする。
     星子さんが亡くなってから一年間して現れたとても目の大きなちょっとポッチャリとした女の子は
     9年半経った今も僕の胸に理想の女性像として残像のように…まるで夕陽の中の残像のように今も僕の胸の中に残っている。
     もしもあのとき喋れてたら、僕の人生はどう変わっていただろう。僕は今まで失敗ばかり、後悔ばかりしてきた。でも僕があのコを見つけだして
    
    
    
    
     星子さんへ                   (1月16日)
     僕は創価学会に戻って元気になろう。かつての元気だった自分に戻ろう。苦しくて辛かった少年時代だったけど、あの頃は少しも淋しくななかった。
    
    
    
    
                 (松山の川の畔)
     遠い昔の思い出がある。お酒を飲むたびに思い出してしまう思い出がある。もう十年も前のことになろうとするのだけど、僕は今も思い出してしまう思い出がある。松山の川のほとりの6月始めに、僕がまだ元気だった高校三年の頃の、懐かしいðニても悲しい思い出がある。もうきっとあのコも忘れているかもしれないけれど、僕は今も憶えている思い出がある。悲しい悲しいとても悲しい思い出だけど、今も酒を飲むたび思い出してくる思い出がある。
    
    
    
    
     星子さんへ                     (1月18日)
     もうすっかり僕も高校三年生の頃のような勉強のみに明け暮れる毎日に浸り込もうとしています。遊ぼうと思えば充分遊べるのですけど、悲しかった高校時代やとくに高校三年のとき…それに中学や小学校時代を思い出して、病気で苦しんでいる人たちを救ってゆくためにももう留年なんてしないでこのままスッ、と国家試験に合格するように頑張り始めました。
     でも一日中家に居るととても淋しいと言うか居たたまれない気分になってこの浜辺に出てきました。今外では雨が降っていてボクはこれをクルマのなかで書いています。
     もう僕らの思い出も洗い流してくれるように降っている雨です。もう本当に僕らの思い出は遠い昔のことになろうとしているようです。少なくとも僕にはそう思えてなりません。
    
    
    
    
     星子さんへ                     (1月24日)
     もうすっかりこの浜辺も変わってしまいました。僕の心が変わってこの浜辺ももうブルドーザーが来て浜辺を掘り起こしたり新しい岸壁を造ろうとしているような錯覚にとらわれてしまいます。でも本当はこの浜辺は星子さんが生きていて僕と文通したりしていた懐かしい幸せだった…そして元気いっぱいだったあの頃とすっかり変わっていません。人影のないことも…沖を飛ぶ白いカモメも…打ち寄せる波しぶきや石ころも。
     全く十数年前のあの頃と同んなじ風景です。この浜辺はきっとこれから何年も…何十年もそのままに僕がずっと生きている間変わることはないと思います。
     僕の目に映るブルドーザーが来てこの浜辺を掘り起こしたりする光景は僕のもう投げやりになりかけた心が描き出した幻なのにちがいありません。寂しさに疲れ果て…僕の頭に高三の2月から巣喰っている悪霊のたたりについ挫けそうになっている僕の目に映っている幻なのに違いありません。
     人恋しくて図書館に(とくに僕の思い出の深い長崎県立図書館に)勉強しに行っても僕は極度に緊張してしまって周りの人には迷惑を掛けるし勉強もはかどりません。高校二年や三年のときあれだけ集中してものすごく能率よく勉強できてたおにもう僕は悪霊にとり憑かれて極度に緊張してしまって勉強できません。それでとっても悲しいです。
     久しぶりに来たこの浜辺で僕は星子さんが死んでからもう何年経つかなあ、と指折り数えていました。もう10年7ヶ月経つんですね。星子さんが死んだのが13歳の5月だったからあと3ヶ月で11年になります。
     僕には本当に辛くて寂しい10年余りの月日でした。高校を卒業してからはノドの病気や言語障害のことで悩むことは少なくなりましたけど、その代わりに孤独が僕を苦しめるようになりました。中学や高校の頃の辛かったけど決して寂しさなんて味わわなかったあの頃の方が良かったような気がします。そして僕が高校を卒業してから9年近くの年月が過ぎ去りました。
    
    
    
    
                              (1月25日)
     昨夜も今朝も『死』のことについて考えていた。そして今、やはり創価学会に戻ろうかと考えている。勤行はしないでも、ただ通学のときや風呂に入っているときにだけでも題目を唱えるだけにしようかとも思っている。またそうすると僕にとり憑いている死神も去って行ってくれるような気がしないでもない。
     でも僕にはやはり疑問がある。ただ元気になるだけではないのだろうか。僕が創価学会に戻ろうと決意すると必ず悪いことが起こる。バイクが故障したりビデオが故障したり母が風邪をひいたりなど。
     僕はでも心の拠り所になるものが欲しいし、たしかに創価学会は元気にはなる。勉強を一生懸命やれるようになる。でも…
    
     僕は今でも浜辺を歩いている。てくてくと。もう27歳になった今も。あのはかなく悲しかった初恋の思い出を引きづりながら、あの中学から高校一年にかけてのはかない恋の思い出と幻影を追い求めながら僕は今日も歩いている。自殺のことを考えたりしながら。
    
     星子さんへ
     もう朝日が出てきて暗かったこの浜辺もやっと明るくなってきました。久しぶりに乗った僕の赤いプレリュードはまるでかつてのゴロのようです。ゴロのように僕にじゃれついてきたり落ち込んでいた僕の傍で僕の頬をあのざらざらした粗い舌でなめたりしてはくれませんけど。
     懐かしいあの頃の日々をつい思い出してしまう孤独なこの頃の日々です。早く僕も卒業して医者になれれば僕も元気になれるとは思うのですけど僕の対人緊張症はとても強く、そして少しも良くなってくれません。
     昨日は思い出の深い県立図書館で勉強しましたけど僕はやっぱりとても緊張してしまってあまり能率は上がらなかったようです。
    
    
    
    
               
     星子さんへ                    (1月25日)
     今日、姉が来ました。赤ちゃんももう4ヶ月を過ぎて体重も6キロ余りになっています。標準より身長も体重もとても大きく、萩では一番大きいのじゃないかと弘正さんは言っていました。
     僕は昨日もそして今日もお酒を飲んでこれを書いています。4日程、完全に禁酒していたのにまた昨日から元の僕に戻ってしまったようです。学校での苦しさ、激しい劣等感と自分の病気が治らないことへの焦り。この病気が治らないことにはとても勉強の能率が上がらないこと。そして淋しさ。僕は今日、1週間ぶり考正さんのためにクルマのエンジンがかかるかどうか試してみたらバッテリーは冬のためもあって上がってしまっていて仕方なくバイクと直結してエンジンをかけて二週間ぶりにクルマを運転しました。本当にクルマって全然寒くなくって快適ですけど、やはり神経をすり減らしてしまって勉強があまりできないようになってしまいます。
     僕は対人緊張症さえ治れば女の子とも楽しくつき合えれてそして楽しい青春時代を送れるのに…と思っています。今日も看護婦さんから声を掛けられました。でも僕は石のように固くなっていて下ばかり見ています。
    
    
    
    
                                (2月5日)
     もしも僕が創価学会に戻ったら、僕は中学高校の頃のように元気になれるだろう。今もまだ次々と押し寄せる死神の誘惑も消え去るだろう。そして僕は元気になって今度こそ第2の人生を歩み始めることができるだろう。悔しいけれど。僕の少年少女時代をめちゃくちゃにしたノドの病気が悔しいけど、僕は元気になれることができる。そして母や父や姉を安心させることができる。
    
    
    
    
                  
     星子さんへ                       (2月6日)
     僕は昨日から今朝までずっと創価学会に戻ることを考えていました。また今日学校から帰ってきて久しぶりに聖教新聞を読みました。でも僕はやっぱり中一の冬か中二の頃に懸かったノドの病気のため星子さんと友達になれなかったことなどを考えるとやっぱり創価学会に戻ることはやめようと今考えています。
     今お酒を飲んでいます。昨日飲まなかったから二日ぶりに飲んでいることになる訳だけど、僕の今までの人生…ノドの病気にならなかったらもっと…いやずっとマシな人生を…青春を送っていたようでとても悔しいです。
    
     僕らのこの浜辺も白いカモメが元気よく飛び交じっているけど、冬の北風に吹かれてそのカモメも今にも風に揺られて海の中に落っこちてしまいそうだ。あと一月もしないうちに春になるというのにとても冷たい北風が吹いている。僕の赤いプレリュードは今日エンジンがなかなかかからなかったぐらいだ。
     僕は楽に死ねる麻酔薬を手に入れた。でも死ぬにはまだ量があと2倍ぐらい要るようだ。
     僕は元気になりたいけれど、元気になるには創価学会に戻ればすぐに元気になれるけれど、星子さんと僕を結局引き放したまま星子さんを死なせたから、僕は創価学会に戻らない。たしかに創価学会が正しいと思うけど、星子さんのため僕は戻らない。たとえ僕が地獄に落ちたって、たとえ僕が自殺したって。
    
     でも創価学会に戻って星子さんの分までも広宣流布のために頑張って、そうして星子さんの供養をして星子さんを成仏させようかな。でも僕が広宣流布のために役に立つことって何だろう。創価学会を非難して広宣流布の邪魔をしている…そしてソ連が日本に攻め込んできたときには創価学会を弾圧して潰そうと考えている○○を潰すことを僕はすべきなのじゃないのだろうか。みんなの幸せのため…父や母や自分や星子ðウんたちのため僕は今何をしたらいいのか僕はとても迷っている。僕は何が真実なのか解らない。何が真実なのか…何を信じて生きて行けばいいのか…何を目標にして生きてゆけばいいのか僕には解らない。
    
    
    
    
                              (2月16日)
     僕らの悲しい思い出は僕の喉の病気によってめちゃくちゃにされた。だから僕は創価学会に戻らないでいる。創価学会のお祈りをし過ぎたために喉の病気になったのだから、幸せになりたいけど、元気になりたいけれど、僕は創価学会に戻れない。僕は創価学会に戻れない。戻りたいけど、戻って幸せになりたいけど。
    
    
    
    
                           日記   (3月4日)
     僕は創価学会に戻ろうかどうかとても迷っている。僕を喉の病気にさせたこの信心だけど、そのために僕は中二の頃からとても辛い思いや淋しい思いをしてきたけど、たしかに元気になれるから。本当に正しい宗教なのかもしれないから。
    
     もし僕が喉の病気に罹からなかったら、きっと星子さんとお友達になれてて、そうして星子さんは死なずに済んだようにも思える。でももしも僕が喉の病気にならなかったら僕はほかの女の子と付き合って、星子さんと文通さえしなかったかもしれない。なんとなく僕にはそんな気がする。喉の病気が却って僕と星子さんを引っつけたような、そんな気もする。
    
     久しぶりに乗ったプレリュードは、悲しい音をたてて東長崎の方へと向かっていた。
    
    
    
    
    
                               (3月7日)
     もしも僕が創価学会に戻ったら、窓から見えるこの光景も中学や高校と同じ(星子さんの生きていたのと同じ)光景を僕は見るような気がしてくるだろう。
     元気だったあの頃の自分にそうして戻るだろう。でも辛い日々も待ち構えているだろう。辛かったけど元気だった創価学会をとても純粋にしていた中学・高校時代。あまり喋れなかったけど、でも友達もたくさんいた中学・高校時代。苦しかったけど、でもまだ対人緊張症には罹ってなかったあの頃。あの頃は毎日学校帰りに県立図書館に寄って8時の閉館まで勉強していた。とても気合いが入ってとても能率が上がっていた。そして家では勤行と唱題や教学それに仏壇の掃除などばかりしていた。明るかったあの頃。辛かったけど幸せだったあの頃。僕は窓辺から海を見つめながらその頃の日々を思い出している。そうしてその頃の日々に帰りたいな、と願いながらも、もう一つふん切りがつかないでいる。もう一つ僕は確信と若さの情熱といったものを持てない。僕は昔のように夢中にはなれない。
    
    
    
    
    
                              (3月8日)
     星子さん。僕は創価学会に戻ることにした。まだ本当は少し迷っているけど、たしかに『自分は創価学会員だ』と思うだけで元気になれるし、苦しいとき(対人緊張などで)心のなかで題目を唱えると苦しさが和らぐから。そして勉強ができるようになるから。だから僕はひたむきに創価学会員としてこれからやっていこうと思っている。
     まだ勤行をすることへの疑問があって勤行はしてないけど(それにノドの病気のため勤行するのがとても苦痛だから)僕の心のなかは社会の最下層で苦しんでいた人たちをこれまでたくさん救ってきた(そしてこれからもたくさんの不幸せな人を救っていくであろう)創価学会のために頑張る情熱はとても強い。
     僕が創価学会の信心を一番熱心にしていたのは中学時代のことだから、創価学会に戻ることを思うと星子さんと文通したりしていた懐かしい中学時代の頃を思い出して目頭が熱くなってきそうです。
     もう遠く消えてゆこうとしていた星子さんの姿やゴロの姿が僕が創価学会に戻ることを決めただけでもう昨日のことのように僕の胸の中に懐かしく思い返されてくる。
    
    
    
                             (3月9日)
     真実は何処にあるのだろう。僕は今日も市民会館から県立図書館へ向かって歩きながらちょっぴり絶望の思いにとらわれた。もう春になろうとしている立山の上の青い空を僕は見つめていた。真実は創価学会にだろうか、それとも……
     僕は強い不安と心配に再び俯いた。真理は何なのだろう、何が正しいのだろう、僕はどう生きてゆけばいいのだろう。
    
    
                     完
    
    
    http://sky.geocities.jp/mmm82888/2975.htm
 

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真冬の憂欝 no.1

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         真冬の憂欝
                                          カメ太郎
                                                                                                      
    
    
     波の音がしている。『星子さん、僕だ、僕だよ、死にぞこないの僕だよ』
     死にぞこないの僕がまだこうして生きていて君に手を差し伸べている。苦しいから、苦しいからだ。
     カメ太郎さん、強くならなくちゃ。カメ太郎さん、強くならなくちゃ。
     僕はじゅうぶん強いつもりだ。でも厳しいんだ。あまりにも現実が厳しすぎるんだ。
     ----そして僕は現実と夢との境があまりよくわからなくなって陽炎のようにゆらゆらと揺れて歩いていた。
    
    
    
    
     いつまでこの苦しみが続くのだろう
     僕は疲れ果て
     寒さに震え
     そして寒くて森の中へ入ってゆけない
     いつまでこの苦しみが続くのだろう
    
    
     僕が死ぬのは
     きっと暖かくなってからだろう
     寒いと僕は
     森のなかへ入ってゆけない
     寒くて森のなかへ入ってゆけない
    
    
    
    
     僕は寂しかったから、だからだと思う。君にあんな気違いじみた手紙を出して、僕は、僕は本当に狂っていたのかもしれない。僕は馬鹿だった。君にあんな手紙を出してかえって君に嫌われてしまったこと、僕は、僕は、本当に馬鹿だった。
     僕はあのとき悪魔に呪われていたのかもしれない。僕の手は何者かに操られているようだった。ペンを持った僕の手は無意識のうちに動いていた。そうだ。僕は何者かに操られているようだった。ペンを持った僕の手は無意識のうちに動いていた。そうだ。僕は何者かに操られていた。何者かが僕の手を操っていた。
    
    
    
    
                                   (11月20日)
    『私…生きることが解らないの。カメ太郎さん、解る? 私には解らないわ。私には生きることの意味が解らないの』
    (僕は俯いたままだった。僕はなんて答えていいか解らなかった。激しい北風が僕の部屋に吹きつけていた。僕は答えることができなかった。
     冷たい北風はテレビやステレオのアンテナを通している穴から僅かに部屋の中に入ってきていた。僕はぼんやりと立ちつくしたまままだエアコンのスイッチを入れずに冷たい部屋の中に立っていた。
     去年の僕は死ぬことばかり考えていた。去年のちょうど今頃は毎日毎日、県立図書館や市民会館に勉強に通っていた。でも死ぬことばかりを…市民会館では7階まであるのでそこから飛び降りることばかりを考えていた。
     去年の今ごろ僕は死神にとりつかれていた。呪われたような留年のしかたをした。そして一年経ったいま僕は再びピンチに立たされている。同じ科目でまた留年するかもしれない。毎日毎日そのことで頭がいっぱいで僕はもう決して死ぬことなんて…そんな親不孝なことは決して考えるまいと…そうすると去年のように呪われたような留年のしかたをすると思って試験期間中だけは明るく…心を明るく保っていこうと心掛けていた。
     僕は再び去年のように敗れ果て再び去年と同じような暗い暗い正月を迎えるのかもしれない。でも進級できてたら僕はどんなに希望に満ちた正月を今度は迎えることができるだろう。
     僕は進級できてたら今度は元気一杯に正月を迎えてそして元気一杯に正月の間も勉強の予習にあてることだろう。
     本当に進級できてたら僕は今度は明るくなれて今までのくよくよした自分から脱却することができるのにと思う。
     僕はこんどは明るい正月を迎えたい。明るいクリスマスや正月を迎えたい。
    
    
    
    
     星子さんへ                    (12月11日)
     僕はいま勉強しながら死ぬことを考えていたけどやっぱり死ぬことはだめだなあと思い直している。親のためやっぱりどうしても自分は死んではいけないんだと僕は思い直した。親のためどうしてでも生きなければならないんだと思い直した。たとえ試験に落ちていたって死ぬことだけはやめなければならないんだと思う。本当に苦しいけど…試験の結果が分かるまでとっても苦しいけれど受かっているかもしれないしそれに受かっている可能性の方が高いと思うから死んではいけないんだと思い直した。
     でも落ちてたらと思うと僕の心はとても重くなって本当に死んでしまいたくなる。
     いまシトシトと雨が降っている。僕の心のような雨が僕が寝ている間から降っていたんだと気がついた。今年また留年したら何のアルバイトをしていったらいいのかと思う。
    
    
    
    
                              (12月12日)
     僕が恋人を見つけたとき、僕に第2の人生が始まるだろう。僕が恋人を見つけたとき僕にきっと新しい幸せな人生が僕を待っていてくれるだろう。きっと近いうちそうなるだろう。僕に新しい人生が、幸せな人生が、僕を待っていてくれるだろう。
     恋人を見つけよう。すると明るくなれるかもしれない。元気を取り戻すことができるかもしれない。新しい時代が始まるかもしれない。
     恋人を見つけよう。僕に元気をつけてくれる、僕に笑顔を作らせてくれる、恋人を見つけよう。
    
    
    
    
     星子さんへ
     去年、なぜ再試がなかったのかなあ、あの教授は僕が精神科に通院していることを知っているからだから再試をさせなかったんだろうと思って僕は今夜激しく落ち込んだ。医者のくせして精神科の病気に偏見をもつなんて僕はあの教授に対する怒りと憎しみに支配されていた。今年また落ちたら僕はその教授のために殺されたんだと…極端に言えばそう言えると思う。この一年の苦しさ…僕は何度も自殺しようとしたほどだった。○○先生に救われて僕は今まで死なずに生きてきましたけれどもし○○先生と巡り合うことがなかったなら僕のこの一年間はどんなに苦しいものとなっていただろうと思う。
     今少し希望に満ちている。今年はたぶん留年せずに進級できるだろうと思えるから来年の最後の年を勉強に打ち込んで僕は優等生に変身してそしてアメリカに留学してそして僕の喉の病気や言語障害の研究をしようかと思っている。
     今年は本当に苦しい一年間でしたけどどうにか生きてこられて本当に良かったと思っている。僕は成長してもう自殺なんか考えないような自分になった。本当に苦しい一年間だったけれども僕はもう以前のクヨクヨした自分ではなくなった。再び希望がかすかながら僕の目のまえに見えてきた。
     新しい時代が僕にとって始まろうとしている。もうクヨクヨしないこれからは明るくなった自分がこれからの一年、二年間を送っていくような気がしている。
    
    
    
    
    
     星子さんへ                                      (12月8日)
      もうこの海もすっかり冬の様相を呈してきました。星子さん、お変わりありませんか。僕もすっかり27才になりきった感じがしています。
     4度目の留年をするかもしれないという恐怖とこの頃毎日戦っています。今日、大事な試験が終わりました。でも僕の胸の中は不安でいっぱいで久しぶりにこんなに寒いのにこの浜辺へ学校から帰ってきたあとクルマでやってきました。 
     僕の不安な胸の中はこの冬の荒れた海のようです。今にも氷ついて割れてしまいそうな感じがたまらないわびしさ淋しさと一緒に湧いてきます。
     やっぱりこの海は終末の海だなあという感じが湧いてくる。もう僕は駄目でもうこのまま海の中へ飛び込んで消えていきたいとつい思ってしまう。
     でも僕には親がいるから…僕は星子さんのようには死ねない。僕には親を養っていかなければならない義務がある。星子さんのように海に飛び込んで死ねたらいいけれど僕にはやはり死ねない。僕には義務がある。僕はどんなに苦しくても生きていかなければならない。
     よく考えてみると星子さんが死んでから11年が経つ。暗い11年だった。寂しい辛い11年間だった。僕の人生は星子さんがあの夜の海に飛び込んだときにもう終わっていたのかもしれない気がする。
     もうだんだんと夜も更けてきている。でもクルマの中は暖かく音楽が流れていて僕は幸せだ。
     いつかきっと僕はこの海を星子さんでない誰かほかの女の人と歩くだろう。それがいつのことになるか解らないけれど。それが一日も早く来ることを僕は願っている。一日も早くそんな日が来ることを。
     僕の心は揺れている。創価学会に戻るべきか、そして戻れば茨の道が僕を待ち構えていることを知っているから、僕はとても迷っている。
     かつての元気だった僕の姿は、でも心の中には罰への不安があった。その不安に追われるように一生懸命一生懸命信心をしていた。
     そして僕は今、
     僕は絶望ばかりしていた。いつもクヨクヨしていた僕だった。でもこれからは僕は負けない。僕は真実の信仰に戻るのだから、これからは僕は決して負けない。
     これからはどんなに厳しいことがあっても信仰の力で乗りきっていく。僕は7年間の退転から再び立ち上がり、人のため苦しんでいる人のために、僕は命を賭けて戦うだろう。僕はもう自分の幸せを追い求めることはやめよう。文学への野心は捨てよう。ただ苦しんでいる人のために、僕はこれから毎日命賭けで戦ってゆく。
     僕は死ねない。母を幸せにするまで、父を幸せにするまで、今までとても苦労しながら僕を育ててきてくれた父や母のため、僕は死ねない。
     僕が死ぬときは、父や母が既に亡くなっているときだろう。そのときでないと僕は、どんなにしてでも石にかじりついてでも死ねない。父や母に親孝行し尽くすまで、僕は死ねない。
     幸せは何処にあるのだろう。窓を開ければ海も見えるし山も見えるし大きな公園も見える。でも幸せは何処にもない。陽の光に輝いている海だって山だって公園だって、幸せは何処にもない。
    
    
    
    
     星子さんへ
     明日、試験ですけど僕はこの一週間ほど創価学会に戻るべきかどうしようかとても迷っている。創価学会に戻れば元気は出ます。でも…
     喉の病気が戻れば、僕は明るくなって、そうして青春を謳歌することができるようになる。星子さんを死なせたようなことをもうしないでいいようになる。喉の病気さえ治ったら僕は明るくなれて、もう宗教のことを考えたりとかしないでいいようになる気がする。喉の病気さえ治したら。
     (※僕はこの冬休み喉の手術を受けようと思っている。そして治ったら)
    
    
    
    
    
                         (12月16日)
     僕は死のうとした。もう決して死ぬことなんて考えないようにしようと思っていた僕だったのに僕にはまだ死神がとりついていたのだろう。また呪われたような留年を僕は迎えようとしている。今度のクリスマスや正月こそはと思っていた僕だったのにまたまっ暗いまっ暗闇のクリスマスや正月を迎えようとしているようだ。
     僕は昨夜お酒をたくさん飲んだ。たくさんたくさん吐いた。母にたいへん迷惑をかけた。魚をたくさん吐いた。ケーキをたくさん食べてほとんどすべて吐いた。いま頭は二日酔いでボーッとしている。眠れなかった。睡眠薬をたくさんたくさん飲んだ。死にきれなかった。僕の体はもう睡眠薬には非常に強くなっている。赤玉ポートワインを半分ぐらい飲んだ。1、8リットルの赤玉ポートワインを半分ぐらい飲んだ。
    
    
    
    
     星子さんへ                              (12月17日)
     冬の海は厳しい。とても飛び込めやしない。とっても寂しいし、それに辛い。冷たくてとても飛び込めやしない。冷たすぎる。ちょうど僕らに対する世間の…ちょうどそのようだ。冷たすぎて冷たすぎて僕にはとても飛び込めそうにない。僕には夏の海…あの暖かい真夏の海ではなくてはとても飛び込めそうにない。僕には星子さんのようなそんな勇気は出てこない。僕には真冬の冷たい海に飛び込める勇気なんてとっても出てこない。
     僕には勇気がないのかもしれないし、それに僕にはまだ希望があるのかもしれない。だからまだ死ねないのかもしれないし、死なないのかもしれない。
     僕には不幸な人を救っていくという希望がまだあるし、それに僕には養っていかなければならない親がいるし、死のうにも死ねない。僕にはまだ希望や使命があるし、義務がある。僕はまだ死ねないんだ。僕はまだ死ねない。僕はまだ死んではいけないんだ。
    
    
    
    
    
     星子さんへ                              (12月18日)
     夜、眠れないときなんか、今でも星子さんのことを思い出してしまう。あの楽しかった文通のことなんかを思い出して懐かしさに浸ってしまう。
     でもあれから11年も経つ。もう忘れてしまわなければならない過去なのかもしれないけど、僕は忘れられない。
     悲しい過去なのかもしれない。でも僕には幸せな過去です。きっと僕が死ぬまで星子さんと続けた文通の思い出は僕の胸から消えないと思う。いつまでも少年時代の美しい思い出として僕の胸の中で輝き続けると思う。
    
    
    
    
    
         (12月19日 夜 激しい肉体労働のあとにて)
     今でも思い出せるあの中学時代の懐かしい日々。星子さんやゴロとのあの思い出の浜辺での出来事。波の音。波の香り。ゴロのなき声。星子さんの車輪の音。僕の足音。星子さんの歌声。
     それらとともに苦しい中学時代の学校生活の数々が思い出されてくる。それから逃げるように夕方になるとゴロを連れて通ったペロポネソスの浜辺。
     浜辺に着くとゴロと一緒に裏の林の中に横たわって星子さんの後ろ姿を見ていた。波の音やカモメの鳴き声とともに聞こえてくる星子さんの歌声と僕らをほんのりと包み込んでくれる夕陽。
    
    
    
    
     星子さんへ
     今の日々と少年の頃の日々を比べるとどちらがきつかったか僕には良く解りません。どちらもきつかったようで…でも今の希望の喪われた日々に比べるとまだ元気だった少年の頃の方がずっと良かったような気がします。
     明日死のう明日死のうと思って今まで死ぬのを延ばしてきました。でももう延ばされないような気がします。真理は僕にはなかった。真理は…人を救える道は。
    
    
    
    
     星子さんへ                     (12月19日)
     苦しみのない世界へ行きたい。争いも憎しみもなにもない世界へ行きたい。そうして静かに横たわり続けたい。静かにいつまでもそうしていたい。
     僕はいつも悔やんできた。いつも悔やんでばかりしてきた。でももう僕は悔やみたくない。これからは明るい人生を歩みたい。今度こそは明るい年月を送りたい。
     星子さん。明るい日々は来ないのかい。(…ええ、明るい日々は来ないわよ)でも僕はこれから明るい日々を送りたい。今度こそは明るい日々を送りたい。
     僕はいつも苦しんできた。苦しい少年時代を送ってきた。そしてもう27になった。僕の今までの人生は灰色だった。僕には青春がなかった。ただ虐げられた苦しい少年時代のつづきと寂しい一人ぼっちの20代の日々があるだけだった。
     星子さんへ
     今は不安と焦燥の日々だけど僕は中学や高校の頃はいつもこんな苦しい日々を送ってきた。そのことを思うと僕は耐えられるような気もする。ただ寂しいけど…友達がいなくてとても寂しいけど…
     まどろみかけた意識の中で、僕はゴロや星子さんのことを思い出している。苦しかったけれど元気だったあの頃の自分のことを、辛かったけれど希望に満ち溢れていたあの頃の自分のことを。
    
     悲しい現実は僕を、思い出の浜辺へと連れてゆく。潮風に吹かれて揺れている星子さんの横顔が思い出の中に蘇ってくる。哀しい哀しい思い出だけれど、辛かった頃の…そして今ももっと辛い毎日だけれど。
    
     毎日題目を真剣にあげていたあの頃の僕。苦しかったけれど決して負けていなかったあの頃の僕。元気で明るくて友達もたくさんいたあの頃の僕。もう夢のようにしか見えないけど、もう今では夢のようにしか見えないけれど。
    
     僕の自殺は正義のための自殺なのかもしれない。正義のための自殺もあるということを、僕は知っている。
    
    (暗い冷たい海の底から星子さんが僕を呼んでいる。懸命に懸命になって僕を呼んでいる。僕は岸壁に立ち尽くして冷たい冬の海には飛び込めないでいる。寒い北風が夕暮れの闇とともに僕を包み込もうとしている。僕らはあまりにも重たい宿業を持って生まれてきた。あまりにも重たくて僕もまた今死のうとしている。呪いなんだ、何かの呪いなんだ。あまりにも厳しくて星子さんは自ら命を絶っていったし僕もまた絶壁に立たされたような感じがしている。もう星子さんが死んでから11年半経っている。星子さんは14歳になったばかりのときに死んだ。僕は27歳になったばかりだ。 波が足元に砕け散っていっている。僕の人生のような重たい厳しい波が足元に渦巻いている。僕は死ねない。星子さんのように僕も死ねたらどんなに楽だろう、と思うけれど僕には死ねない。死んでたまるものか。僕は生きなければならないんだ。たとえこれからの人生が今までのように辛く苦しく厳しいものであっても僕は生きてゆかなくっちゃいけないんだ。
     僕が心のなかでそう叫ぶと、さっきまで僕の足首を掴もうと必死になっていた星子さんが急に再び海の底へと消えていってしまった。そうしてもう見えなくなってしまった。僕には○○さんへの思いもあるし、たとえ今度また留年してでも、そして今度の一年は辛い肉体労働ばかりの日々になろうとも僕は生きてゆくつもりだった。ごめんね、星子さん。ごめんね。
    
    
    
    
                         (S63・12・20)
     悲しみの夜は更けてゆき、僕はこれからどうやって生きてゆこうか、海に…僕の少年のころ僕のために自殺していった女の子を追って僕も海に…沈んでいこうか…とも思っている。
     でも外は寒くて海の水は冷たいし、僕は
     あのコは冷たい海の水の中に沈んでいった。とても辛かったと思うのに…僕が手紙の返事を出さないでいたばかりに誤解して…人はやっぱり自分だけが一番可愛いのだろうか。親や姉のことなんかを考えると僕はあのコのようには死ねない。冷たい海の中に、死ぬ前の苦しみに耐えてまで、僕は死ぬ勇気がない。ノホホンと、僕はノホホンとテレビを見たりしている。ノホホンと、でも哀しさをたたえながら。
    
    
    
    
    
     星子さんへ                                  日記(12月20日)
     僕の喪われた青春を取り戻したい…少なくとも青春をやり直したいという気持ちは強いです。そしてまた何が世のため人のためまた自分の生きがいになるのかと煩悶する今日この頃です。
     僕は人生をやり直したい。また今まで苦労をかけてきた親へ対する罪悪感とで僕は今にも胸が張り裂けてしまいそうな…できることならば死んでしまいたい…でも死ねない…親のため死ねない…今週の土曜日の進級判定で僕の生きるか死ぬかそれともほかの何かの道に自分の生きがいを見出すか…僕はとても煩悶しています。
     何か…何かが自分には足りない…でもそれが何なのか解らない。充実感というか何かが今の自分には欠けている。
     僕はそれがいったい何なのか解らない。僕には解らない。
     呪われたような自分の人生。少なくとも今までの自分の人生。それを思うと僕は気が狂ってしまいそうになる。僕は叫び出してしまいたくなる。
     少年の頃のあの充実していた日々に戻りたい。苦しかったけれども…たしかにとても苦しかったけれども充実していた日々に戻りたい。今思えばとても懐かしいあの頃の日々に僕は戻りたい。
     僕は死んではいけない。どんな苦境に立たされようとも、僕は死んでだけはいけない。母のため父のため僕は死んでだけはいけない。僕は自分が犠牲になってもどんなに辛くても生きていかなければならない。母のため父のためそしてほかにも僕が救えるかもしれない何人かの人のため、僕はどんなことがあっても生きて行かなければならない。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、死んでだけはいけない。
    
    
    
    
                               (12月21日)
     もう僕らには苦しい時代は過ぎ去ったね。僕の頭の中にはカビが生えているようだ。白くて青いカビで、僕はもう考えることも憶えることもできなくなったようだ。僕は呆然と海を見つめるだけだ。星子さんとの懐かしい思い出の海を、何の記憶もなく、何の感動もなく、僕は眺めるだけだ。
     いつの日にか幸福な日が僕にもやって来ると信じてきた。でも訪れてきたのは苦しみに沈む日々だった。いつかきっと僕も幸福になれると思ってきた。でも目の前には茫洋とした悲しい海しか見えない。絶望に満ちた悲しい海しか、僕には見えない。
     遠くに山があるし、すぐ近くに海があるし、僕らの育ってきた日見はとてもいい所だったけれど、僕らは苦しんできた。小さい頃から病気でとてもとても苦しんできた。
     苦しみの季節は過ぎ去り、僕にも幸せな季節がやって来ないかな、と僕はずっと窓辺から海を見つづけてきた。いつかきっと僕にも幸せな季節が来ないかなと。
    
    
    
    
                              (12月22日)
     もしも僕に力があったなら、苦しんでいる人を救ってあげる力があったなら、そうしたら僕は全てを賭けて僕は全てをそのことに賭けて毎日全力で駆けて行くんだけど、でもそのことがない。僕には自分の力を賭けるものがない。僕にはない。
    
     愛子へ
     去年、僕は今頃、死ぬことばかりを考えていました。そして今年も断崖絶壁に立たされているような感じです。
     昨日、アルバイト先で、愛子の再来のような女の子と巡り合いました。あの子が愛子の再来になってくれたらいいのに…と思っている今日です。
     明るくって元気で、ちょうど愛子のようでした。あと2日後に迫った進級発表ですけれど、もしあの子が僕の恋人になってくれたら僕は落ちていたっていい、とまで思っています。
     もう全く愛子との音信も途絶えましたけど愛子元気にしてますか。僕はこの手紙をこのまえ買ったソニーのプロデユース100EXというので書いてます。あと2日後に迫った進級発表のことで頭がいっぱいで眠れなくて書き始めました。自分には死神が憑いているという死神妄想に僕は正直言って囚われています。本当に僕に死神が憑いていたら僕はきっとまた留年しているでしょう。でも死神が憑いていなかったら僕は進級できてると思います。
     僕は死にたくありません。僕は早く医者になってアフリカかどこかに行って病気で苦しんでいる人たちを救ったりしたいです。でも僕に憑いている死神はとっても強くて僕のそういう心をも無にしてしまうのかもしれません。
     愛子。僕はまだ創価学会に戻ろうかどうしようか迷っている自分に気付いてハッ、としています。僕は小学三年生の頃から自分から始めてそれから大学一年まで一生懸命に…自分ほど真面目にやっているのはいないくらい熱心にやっていました。小学三年の頃、苦しくて苦しくてたまらなくてもう八方塞がりだと思って(家の人は母が少ししていたぐらいでしたけど)自分から始めたのですけど、やはり僕には創価学会の血が流れているというか、僕には創価学会しかないんだという思いにとらわれています。
     創価学会をすると元気になります。でも……
     死ぬ訳にはいかない。死んだ方が楽だろう…とは何度も思うけど、母や父のため死ねない。苦労してきた母や父のため死ねない。
    (冷たい北風が浜辺に吹き付けてきている。僕は死ねない。死んだ方がどんなに楽だろう…とは思うけれども僕は死ねない。
     僕は27年生きてきた。辛いことが多い27年間だった。でも……
    
    
    
    
                            (12月22日)
     その思いは絶望に沈んでいた僕の頭に題目の声とともに(たぶん姉の…そして母の題目の声とともに)忽然と湧いてきた。創価学会に戻ろう、創価学会の信心を再びしよう。僕は心の中で題目を唱え始めていた。久しぶりに題目を唱えていた。不思議と唱える度に力が湧いてくるな、とは思いつつも7年間否定し続けてきた僕だった。
     母のため…姉のため…父のため…僕は創価学会に戻ろう。思えば僕は半分自殺を決意してこの浜辺へ来たのだった。手に握られた柔道の帯を僕はそっとジャンバーの胸ポケットの中に蔵った。
     中学や高校の頃のように僕は再び信心をしよう。そして元気になろう。学会活動に励もう。そして福運をつけよう。
     涙が自然とにじんできていた。心の中で題目を唱えつつ僕はクルマの中へと引き返しつつあった。家に帰って御本尊様の前に座ろう。僕はとても懐かしく御本尊様のことを思い出していた。
     御本尊様すみません。お母さん、お父さん、お姉さん、すみません。
    
    
    
    
                            (12月24日 朝)
     星子さんへ。僕は久しぶりにこの浜辺に来ています。今日の夕方、進級の発表があります。僕は今日、病院のアルバイトをさぼって久しぶりにこの浜辺にやってきました。僕はプレッシャーに耐えきれなかったのです。
     病院のアルバイトを予告もしないで無断でさぼるなんて始めてだな、と思います。きっと熱田先生たちは僕が自殺したんじゃないのか、それとも神仏にお祈りしているのか、と思っていらっしゃると思います。
     家に電話かけても母が出て僕はいつものとおり家を出たことを熱田先生たちか誰か病院の人に言うと思います。そうすると病院の人たちはますます僕が自殺しに行ったんではないのか、と思うと思います。
     試験前から来てなかったからこの浜辺は一ヶ月ぶりぐらいだと思います。僕は十日ぶりぐらいにクルマを運転してこの浜辺にやってきました。僕のほとんど要らないこの赤いプレリュードは本当にもったいない気がします。
     今から森の中へ入っていって首を吊ろうかな、という気もしています。昨日は12時間ぐらいも眠りました。不思議なくらいとってもよく眠れて今朝は頭がとても爽やかです。
     去年もよくクリスマスから正月にかけてこの浜辺にやって来ていたことと思います。本当に去年のあの頃は苦しかったです。でも今年は進級できてるような気もします。でもやっぱりとても不安で今朝この浜辺にやって来ました。
     とっても悲しい眺めです。カモメは一羽さっき飛んでいるのを見かけたように思います。でも冬の冷たい海の中に消えていったような気もします。
     昨夜僕は『物質的欲望を棄て去ろう。そうして病気などで苦しんでいる人たちを救っていける霊能力者になろう』と決意してクルマを売ることワープロを売ること、もう決してオナニーはしないことなどを想いました。暗闇の中で何度も自律訓練法に励みました。また創価学会に戻ることやキリスト教の洗礼を受けることなども真剣に考えました。
     死ぬことなんて決して考えませんでした。でもこの浜辺にやって来ると、この浜辺の景色はいつも冬は“死”を僕に想起させるものがあるようでいま自殺を考えてもいます。
     本当にさっきから誰も通らなくて冬の冷たい風だけが吹いていて淋しい浜辺ですね。僕らの出会ったときは夏でそんなに淋しい感じは全然なかったのに。
     もう僕は僕らが出会ったときから2倍以上生きてきました。出会ったのが十二の頃でしたから。
     落ちてたら今度、僕はこの浜辺に死にに来るかもしれません。寒いからクルマで…そして点鼻薬の瓶を持って。
     僕は僕の人生を想っていました。淋しかった辛かった幼い頃からの自分の人生のことを想っていました。そうして宗教者になることを…宗教しか苦しんでいる人たちを救えないことを真剣に考えていました。
    
    『星子さん。真冬の黒い海を見ていると僕らの暗い…でも少しは明るく楽しかった少年少女時代を思い出すね。僕らの少年少女時代は本当に辛かったけどでも僕らは文通によって結ばれていたし夜遅くまで書いていた文通の手紙の思い出はもう27歳になった僕に少年の頃の懐かしい思い出として残っている。
     本当ðノあの頃は辛かったけどでも懐かしい思い出として…幸せな思い出として僕の胸に星のように輝いている。
     本当に僕の少年時代って冬の夜空のようだったけど、ところどころに見える星の瞬きはまるで僕らの文通の封筒のように見えるね。僕らの少年少女時代を彩ってきた僕らの文通の一つ一つみたいだね』
     ----そうして僕は一人涙ぐんでいた。僕の孤独を慰めてくれるものは何もなかった。僕はただ努力と信念とだけで生きることを決意していた。僕はやっぱり一人ぼっちだった。去年と同じように今年のクリスマスも一人ぼっちだった。
    
    『幸せは…幸せは何処にあるの?…カメ太郎さん… 幸せは…幸せは何処にあるの?…』
    『幸せは…何処にもないよ… 去年のようにまっ暗な海だね…星子さん。去年のクリスマスも寒くてとても暗かった。今年もまっ暗だね…星子さん。僕はこの一年幸せを求め続けてさまよってきた。でも幸せは僕には遂に掴まらなかった。幸せは僕には掴めないんだね。僕にはようやく解ったよ。宿命の黒い鉄鎖で僕はがんじがらめになっているんだ。その黒い鉄の鎖はほどけないよ。僕にはようやく解ったよ。人の運命って簡単には帰られないことを。僕はようやく解った』
     ----星子さんは去年のように裸で氷に濡れて冬の夜の海風に吹かれていた。僕はどうすることもできずそんな星子さんを見て立ちすくんでいた。僕に星子さんをその可哀想な境遇から救ってやることはどうしてでもできなかった。
    
    
    
    
    『カメ太郎先生、死んだらどうなるの? 死後の世界ってあるの?』
    『ああ、死後の世界はあるよ。たしかにある。でも死んではいけない。自殺だけはしてはいけない。僕も何度か死のうと思ったことがある。OKホームセンターの農薬の棚の前をフラフラと歩いていたこともあった。その前でどれを買おうかと迷って立ちすくんでいたこともある。あのとき買えなかった。農薬を買うのさえお金がもったいなく思った。たった数百円の農薬を。僕はあのとき、100円使うのさえ親に少しでもお金を残しておいてやりたかった。
     僕も何度も死のうとした。森の中に柔道の帯を持って入っていったこともある。でも寒くて死ねなかった。
     真冬なのにぽかぽかと暖かい夜、2年前の12月の25日のことだった。その日の夕方、留年が決まったのだった。僕は柔道の帯を持って森の中へ入った。でも僕はあとに残された親のことを考えると死ねなかった。
     君も、今まで育ててくれた両親のことを思うと死ねないだろう。君だけの命ではないんだ。君はどうでもよくても
     哀しみの海辺で僕は君の思い出を石ころを蹴りながら思い描いていた。もう十年も前になるとても悲しい思い出を十年前と変わらない波の音を聞きながら、僕は君の思い出を、涙をいっぱいにためながら思い出していた。                       (12月26日)
    
    
    
    
 

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    40年遅れのラブレター(第2稿)
    
                          カメ太郎
    
    
     もう16年前か17年前になります。カメ太郎が今の病院に務め始めたばかりの時、朝、菊池桃子さんと出会いました。菊池桃子さんはカメ太郎を見て笑っていました。カメ太郎は呆けているから「誰だったかな?見たことあるようだけど?」と思いながら、遅れまいと急ぎました。出会ったのは病院の勤務者の出入り口付近でした。菊池桃子さんは仕事が終わって帰っていたのでした。カメ太郎は今から仕事でした。
      
     歩いて遠くなりながらも、菊池桃子さんはカメ太郎の方を見て、クスクスと笑っていました。菊池桃子さんに間違いはありませんでした。思えば、菊池桃子さんは00大学病院付属看護学校に進んだと聞いていました。
    
     朝、8時45分ぐらいだったと思います。しかし、その後、菊池桃子さんの住所などを調べようとしましたが、00桃子と名前が変わっているはずと思って、00桃子を探しまして、一人見付かりましたが、全く菊池桃子さんには似ても似つかぬオバケ女でした。
    
     事務に尋ねても17年前に勤務していた看護婦の記録はもう消失していると思え、尋ねていません。それよりも高校卒業アルバムを見たら実家の住所は載っています。もう実家はなくなっているかも知れませんが、それに賭けるしかないと思っています。カメ太郎の高校卒業アルバムは誰か友達が持って行って返さずになっています。それで高校時代の友人に尋ねようと考えています。いや、高校卒業アルバムは今も有るような気がします。誰か友達が持って行って返さずになっているのは中学卒業アルバムと思います。
    
     僕たちは高校1年の時、同じクラスでした。吃音で心因性発声障害のカメ太郎は席がすぐ近くにも拘わらず、菊池桃子さんと余り喋らなかったと思います。でも、カメ太郎の悪友の大久保彦左衛門が「菊池桃子、カメ太郎が好きだそうだ!」と何回も言って、カメ太郎が菊池桃子さんを好きなことは公然なことになりました。
    
     カメ太郎と菊池桃子さんは中学が隣でした。カメ太郎が日見中学、菊池桃子さんが東長崎中学でした。ですから高校の時、自転車で菊池桃子さんの処に行こうと思えば簡単でした。
    
     高校1年の時、席がすぐ近くの時、カメ太郎が柔道部の何かのために(たぶん、高総体前に?)頭を丸刈りにしたことが有りました。そのとき、菊池桃子さんは「……ククク……」と笑っていました。菊池桃子さんの親しい友人のコクボデラックスは「可哀想やろ」と菊池桃子さんに言っていたのを思い出します。
    
     高校1年の文化祭の時、菊池桃子さんが茶道部でカメ太郎と大久保彦左衛門とで茶道部に行ったとき、菊池桃子さんが居て、カメ太郎を見て笑っていたことも思い出されます。そして今まで見たこともない濃ゆい色のお茶がとても美味しかったことも。
     
     この手紙はやっぱり出さないと思います。はかない思い出は、はかない思い出として、カメ太郎の胸の内に秘めたまま、カメ太郎は老いて死んでいきます。
    
     カメ太郎には娘が居ます。娘が一番可愛く、娘の育ってゆく様子をも守ることが、老いたカメ太郎の唯一の楽しみです。また、娘を悲しませないため、鬼嫁と別れるべきではないような気がします。
    
     昔も今も悩むカメ太郎です。どうしようかと途方に暮れています。暮れゆく夕陽を見つめながら途方に暮れています。
    
     この手紙はカメ太郎が棺桶の中に持って行きます。誰にも知られないようにするには、棺桶の中では駄目でしょう。カメ太郎、この手紙をゴム箱の中に捨てざるを得ません。これしか有りません。
    
     鬼嫁とこれ以上、一緒に暮らすのは苦痛でしか有りません。優しい菊池桃子さんと一緒に老後は送りたいと熱望しているカメ太郎です。
    
     老後、お茶のみ友達として、菊池桃子さんと一緒に成りたいです。一緒に暮らせなくても、お茶のみ友達に成りたいです。あの、もう40年前に成る高校1年生時代、あの頃は一番、人生の中で輝いていました。苦しかったけど、カメ太郎は三学期、吃音で国語の本を読めなくなって、登校拒否に陥ったけど、輝いています。何故かなあ?と思います。
    
     それは菊池桃子さんの笑顔のためと思います。菊池桃子さんの美しい、おそらくこの世で一番美しい笑顔が本当は苦しいカメ太郎の高校1年生時代を輝かせています。
    
     本当なら、菊池桃子さんのこの世で一番美しい笑顔が無かったなら、カメ太郎の高校1年生時代は黒く塗り潰されたものになっていたでしょう。でも、菊池桃子さんの笑顔で、美しく輝いているのです。
    
     そうでした。カメ太郎は浪人時代、菊池桃子さんに手紙を書いたのでした。そして返事が来ました。「意味が、わかんな〜い」という手紙でした。カメ太郎は浪人時代、発狂していて、10通余りの手紙を、色々な女の子に出したのでした。すべてすべて返事が無かったと記憶します。いや、返事が数通有りました。
    
     発狂したため、現役時代より遙かに下の大学に一浪して入ったのでした。現役時代でも軽く入れた大学でした。そこでカメ太郎は屈辱の11年もの大学時代を送ったのでした。留年させられっぱなしで、11年も大学時代を送ってしまったのです。しかも、友達の居ない一人ぼっちの大学時代を。
    
     カメ太郎は高校1年の時に、菊池桃子さんに手紙を出していたら良かったのです。そうしたら現役の時、落ちるか入るか際どい帝国大学を受けず、家から通える大学を受けていたはずです。そうしたらカメ太郎は苦労すること無く、ノホホンと人生を送っていたと思います。カメ太郎は入るか落ちるか際どい帝国大学を受験するため、最後のラストスパートの時、二次試験直前に、発狂してしまったのです。今も、発狂しています。
    
     悪友の大久保彦左衛門が長崎大水害の時、菊池桃子さんが死んだ、と言っていました。でも、17年前、幽霊のように菊池桃子さんと病院の出入り口で会ったのです。大久保彦左衛門はやっぱりどうしようもない悪友です。カメ太郎から10万円 借りてから音沙汰が全くなくなりました。あの頃は虎の子の10万円でしたが、根性の腐り果てた大久保彦左衛門は、それからトンズラしたのです。今は音信不通になっています。
    
     17年前に見た菊池桃子さんは幽霊ではなく、生き霊だったのか、菊池桃子さんのことを知っている人が居ないし、名簿にも「00桃子」が無いから、本当に生き霊だったのか、全く混乱しているカメ太郎です。生き霊ではなく、幽霊でした。
    
     その大久保彦左衛門は今も独身で、00新聞社に勤めているようですが、赤いスポーツカーを乗り回していると、大久保彦左衛門と00中学小学時代、同じ学年で、家も近くで、大久保彦左衛門の家に行ったこともあるという患者さんが言っていました。大久保彦左衛門と友達だったと言っていました。妹や母親は良いが、父親が良くない、とも言っていました。
    
     本当にカメ太郎は今からの人生のことを思って煩悶しています。娘が可愛いと言っても、鬼嫁とは、もう暮らしたく有りません。老後は菊池桃子さんと送りたいという熱望は捨てきれません。やはり愛し合った者同士でなければ、一緒に暮らすことは苦痛でしかありません。
    
     菊池桃子さんの生き霊とでも良い、幽霊とでも良い、一緒に安穏とした老後を送りたいです。カメ太郎はもう人生に疲れ果てています。
     暖かくなったら、菊池桃子さんと一緒に魚釣りに行くことを計画中です。生き霊の菊池桃子さんとでも良い、幽霊の菊池桃子さんとでも良い。
    
     どうしようもない倦怠感がカメ太郎にはあります。お墓の入り口がポッカリと空いていて、カメ太郎が入ってくるのを待っているような気もします。
    
     今、濃ゆいコーヒーを飲んできました。倦怠感がもの凄く、10日ほど、カフェイン断ちを決心して実行していましたが、10日で頓挫しました。カフェイン断ちして代わりにカルピスを飲んでいたら、糖尿病になるのでは、と思ってです。コーヒーを飲まない代わりにカルピスばかりカメ太郎は飲んでいました。
    
     思い出される高校1年の頃の担任の名前が出て来ませんが、生物の先生をしていた先生は、大久保彦左衛門が言うには「長崎大水害で死んだと新聞に載っていた」と言うことでした。「新聞の死者欄に0000と名前が載っていた」と本当のことのように言っていました。菊池桃子さんも殺した大久保彦左衛門です。本当か嘘なのか、全く分かりません。0000先生が長崎大水害で死ななかったとしても、今は老いて死んでいるでしょう。
    
     大久保彦左衛門は赤いスポーツカーを買ったと言って自慢しにカメ太郎の家に来たことがあります。たしかプレリュードの最新型の赤だったと記憶します。金の無い大久保彦左衛門がそんなものを買って、女の子を引っ掛けようと考えてのことだろうと思いました。これは大久保彦左衛門やカメ太郎が33ぐらいの時ではないかと思います。このときに10万円貸して、それから全く連絡が取れなくなったのです。携帯に電話しても出なくなりました。今、魚釣りで大久保彦左衛門の家の前を通ることがときどきありますが、クルマがあるかどうかを見ることもしません。
    
     大久保彦左衛門は今度見掛けたら、海に落とそうと思っています。
    
     あの大久保彦左衛門は赤いスポーツカーのプレリュードの最新型に乗っても、大久保彦左衛門の顔が酷いから、誰も大久保彦左衛門のクルマには乗って来ないということを大久保彦左衛門は分からないのかな?とあの頃から不審でした。やっぱり今も独身ということです。それを言った患者さんは大久保彦左衛門の家の近くに住んでおり、大久保彦左衛門の家のいろんな詳細なことを知っていましたし、誠実で信頼できる患者さんでした。今は退院しているようです。 
    
     本当に余生を菊池桃子さんと一緒に送りたいです。鬼嫁とは別れようと思います。しかし、菊池桃子さんがどうなのかが分かりません。菊池桃子さんは夫婦仲良く暮らしているのでは?と怖れています。旦那さんが死んで独り身だったらカメ太郎は今すぐに菊池桃子さんと結婚します。
    
     子供の養育費を2人だから月に40万送らないといけないでしょうが、カメ太郎は今は高給取りになっています。それくらい大丈夫です。カメ太郎は晩婚で再婚であり、子供は未だ、小学6年と小学4年です。子供を取ることは出来ないでしょう。せめて娘だけでも取りたいですが、適わないでしょう。
    
     警察官をしている森山海太郎に頼んで、菊池桃子さんの実家の住所が、卒業アルバムに載ってあるはずだから、そこに出したら届く可能性は高いと思っています。愛のある女性と一緒に暮らしたいのです。 また、自衛隊か何かの処へ就職しようか、そうして離婚でなくて、一人暮らしをした方が良い、とも考えています。自衛隊の医者は不足して困っていると聞いています。それに右翼思想に被れに被れている困ったカメ太郎です。
     でも、自衛隊の処は65歳定年?だから、それからどうやって就職したら良いのかと、自衛隊で良い再就職の処を選んでくれるかな?とも考えています。
    
     カメ太郎はしぶとく生きるのです。カメ太郎は長生きするのです(がっぷりと口を開けているお墓の入り口には入りません)。そして菊池桃子さんが旦那さんが死んで独り身になったとき、菊池桃子さんと一緒に暮らすのです。普通、旦那さんの方が早く死にます。もう死んでいるかな?
    
     カメ太郎は家に魚釣り道具が沢山あります。でも、その中から使うのだけ、持って自衛隊の処に移り住めば良いのです。やっぱり菊池桃子さんを捨てて、若い女性の方が良いかな?フィリピン人の若い女性の方が良いかな?
    
     本当に、高校1年の時に菊池桃子さんにラブレターを出して、そうして付き合って結婚していたら、今のような苦境には陥らなかったと後悔しているカメ太郎です。
     幸せな結婚をして、誰もが羨む幸福な人生を、もし高校1年の時に菊池桃子さんにラブレターを出していたら成っていたはずと思います。吃音で心因性発声障害だから口で告白するのは難しかったのです。席がすぐ近くの時も、だから余り喋ることできませんでした。
    
     もし、菊池桃子さんと付き合っていたら心の余裕があって、合格するか際どい帝国大学医学部を受けずに、合格絶対確実の地元の00大学医学部を受けて、余裕で追い込みの勉強をして、追い込みの勉強に発狂することなく、大学でも留年を繰り返すことなく、幸せな大学生活そして学生時代に菊池桃子さんと結婚して子供を儲けて、幸せな人生を歩んでいたと思います。
     カメ太郎は浪人時代、発狂していて、帝国大学医学部を受けずに、現役でも確実に入れた家から通える00大学医学部に1浪して入ったのです。
    
     カメ太郎は馬鹿で浪人時代の最初の頃、5月だったと思います。魚釣りは35歳か40歳頃まで中止しよう(それまでは女遊びに熱中しよう)と考えて、魚釣りを中止したのです。魚釣りしていて、そう決心し、釣り竿を釣り場の近くに居た小学生か中学生の少年にあげました。いや、釣り場から自転車で帰り始めたとき、牧島付近で少年にあげました。魚釣りがカメ太郎の精神を浄化してくれていたのに。また、浪人しなかったら魚釣りを中止することはなかったと思います。 
     2月終盤の2次試験直前に魚釣り行くことを一時中止しなかったら(2月中旬まで日曜日は父と船で朝から夕方まで、魚釣りに行っていた)、カメ太郎は発狂することはなかったはずです。魚釣りがストレスを発散というか精神を浄化してくれていました。本当にカメ太郎にとって魚釣りは精神衛生上、非常に良かったのです。
    
     出すのが遅かった、余りにも遅かった、といつものように後悔しているカメ太郎です。40年、出すのが遅れました。
    
     40年、もう取り返しがつかないと思います。もう、お墓の中に入る方が近いのですから。カメ太郎も年老いました。カメは一万年生きると言われますが、カメ太郎は高校時代の紅顔の美少年では無くなってきています。まだ、少年時代の美少年の面影を残しては居ますが。
    
    「若返って、ずっと若いときのままで生きることが出来る薬がアメリカで発明された」とベンジャミン・フルフォード氏がYoutube で言っていましたが、本当かな?と思います。それならその薬を欲しいなあ、と思います。
    
     もう一度、高校時代をエンジョイしたい気持ちで一杯です。今は寒くて、今年の冬は寒くて、魚釣りは冬眠しています。カメは冬は寒くて冬眠するのが普通です。冬眠しないカメが去年までのカメ太郎でしたが、今年は異常に寒くて冬眠しています。去年までのカメ太郎が異常だったのです。
    
     カメ太郎は浪人時代、菊池桃子さんに書いた手紙の下書きも持ちません。どんなことを書いたかの記憶もありません。もっと、意味が分かるように、書くべきであったと後悔しています。度胸のないカメ太郎はあやふやに書いたのだと思います。
    
     (18歳の9月頃に書いたカメ太郎の手紙、下書きかコピーが出て来た)
     菊池桃子さん、お元気ですか、お久しぶりです。カメ太郎は発狂して大学に落ちてしまい、今、発狂したまま浪人生活を、家で送っています。毎日のように県立図書館か市民会館の青年の家に行って勉強しています。
     この前、菊池桃子さんが矢上の役所前に立っているのを見ました。大久保彦左衛門が?時頃、菊池桃子さんが矢上の役所前に立っていると言っていたからです。カメ太郎は原付バイクでその前を通ったのか、バスから見たのか、バスからでした、原付バイクの免許を取りに大村まで行っていた途中のことでした。
     そして〜〜そして〜〜
     今も、あの元気だった高校1年時代のことが蘇ります。あの頃は苦しかったけど楽しかった。何よりも元気でした。高校1年のあのクラスは楽しかったですね。
     カメ太郎は菊池桃子さんがカメ太郎を好いていてくれたことを、今になって気づきました。遅かったです。超鈍感なカメ太郎です。
     山の端に日が暮れてゆくとき、カメ太郎は悲しい思いにいつも襲われます。菊池桃子さんと一緒だったら、菊池桃子さんと付き合うことができるなら、カメ太郎の寂しい心も報われると思います。
     そして〜〜そして〜〜
     夜空を見上げるとカメ太郎の涙のような星がスーッと流れてゆきます。アーッ、お星さんも悲しんでいるんだなあ、と思います。
     カメ太郎は全人類を救うため、命を賭けようと決意しています。カメ太郎は全人類を救う戦士として戦うことを決意しています。まず最初に長崎の人々を救おうと思っています。そのため、今、カメ太郎は奮闘努力しています。全人類を救うためです。
     カメ太郎は宗教を起こします。全人類を救うためです。菊池桃子さんはカメ太郎の最初の信者になりませんか?
     今はその布教に懸命ですが、誰も聞く耳を持ちません。しかし、全人類を救っていかなければ。毎日、懸命に布教しています。
     全人類を救うため、カメ太郎は負けずに毎日布教に懸命です。命をもちろん賭けています。いや、命を100個賭けています。懸命です。いや、命を千個、一万個賭けています。
     全人類が可哀相でならないのです。カメ太郎の救いを求めている全人類のためにカメ太郎は立ち上がったのです。
     カメ太郎は恋にうつつを抜かしている場合ではないのです。全人類が悲鳴を上げて待っています。全人類を救うため、全人類を救うため、カメ太郎は命を賭けています。
     全人類の悲鳴が聞こえてくるのです。カメ太郎は全人類を救わねばなりません。悲壮な決意です。
     そして〜〜そして〜〜
     カメ太郎は救援を頼むため、カメの星に行こうとも考えています。でも、カメの星まで行く宇宙船がありません。それで困っています。
     カメ太郎の全人類を救うという決意は固いです。一人では、全人類を救うのは困難です。カメの星からの救援を期待しています。
    
    
    
    (完)
    (編集者募集!!混乱してきました!!)
     

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40年遅れのラブレター(第1稿)

 

                      カメ太郎

 

 

 もう16年前か17年前になります。カメ太郎が今の病院に務め始めたばかりの時、朝、菊池桃子さんと出会いました。菊池桃子さんはカメ太郎を見て笑っていました。カメ太郎は呆けているから「誰だったかな?見たことあるようだけど?」と思いながら、遅れまいと急ぎました。出会ったのは病院の勤務者の出入り口付近でした。

 

 朝、8時45分ぐらいだったと思います。しかし、その後、菊池桃子さんの住所などを調べようとしましたが、00智子と名前が変わっているはずと思って、00桃子を探しまして、一人見付かりましたが、全く菊池桃子さんには似ても似つかぬオバケでした。

 

 事務に尋ねても17年前に勤務していた看護婦の記録はもう消失していると思え、尋ねていません。それよりも高校卒業アルバムを見たら実家の住所は載っています。もう実家はなくなっているかも知れませんが、それに賭けるしかないと思っています。カメ太郎の高校卒業アルバムは誰か友達が持って行って返さずになっています。それで高校時代の友人に尋ねようと考えています。いや、高校卒業アルバムは今も有るような気がします。誰か友達が持って行って返さずになっているのは中学卒業アルバムとも思います。

 

 僕たちは高校1年の時、同じクラスでした。吃音で心因性発声障害のカメ太郎は席がすぐ近くにも拘わらず、菊池桃子さんと余り喋らなかったと思います。でも、カメ太郎の悪友の大久保彦左衛門が「菊池桃子、カメ太郎が好きだそうだ!」と何回も言って、カメ太郎が菊池桃子さんを好きなことは公然なことになりました。

 

 カメ太郎と菊池桃子さんは中学が隣でした。カメ太郎が日見中学、菊池桃子さんが東長崎中学でした。ですから高校の時、自転車で菊池桃子さんの処に行こうと思えば簡単でした。

 

 高校1年の時、席がすぐ近くの時、カメ太郎が柔道部の何かのために(たぶん、高総体前に?)頭を丸刈りにしたことが有りました。そのとき、菊池桃子さんは「……ククク……」と笑っていました。菊池桃子さんの親しい友人のコクボデラックスは「可哀想やろ」と菊池桃子さんに言っていたのを思い出します。

 

 高校1年の文化祭の時、菊池桃子さんが茶道部でカメ太郎と大久保彦左衛門とで茶道部に行ったとき、菊池桃子さんが居て、カメ太郎を見て笑っていたことも思い出されます。そして今まで見たこともない濃ゆい色のお茶がとても美味しかったことも。

 

 この手紙はやっぱり出さないと思います。はかない思い出は、はかない思い出として、カメ太郎の胸の内に秘めたまま、カメ太郎は老いて死んでいきます。

 

 カメ太郎には娘が居ます。娘が一番可愛く、娘の育ってゆく様子をも守ることが、老いたカメ太郎の唯一の楽しみです。また、娘を悲しませないため、鬼嫁と別れるべきではないような気がします。

 

 昔も今も悩むカメ太郎です。どうしようかと途方に暮れています。暮れゆく夕陽を見つめながら途方に暮れています。

 

 この手紙はカメ太郎が棺桶の中に持って行きます。誰にも知られないようにするには、棺桶の中では駄目でしょう。カメ太郎、この手紙をゴム箱の中に捨てざるを得ません。これしか有りません。

 

 鬼嫁とこれ以上、一緒に暮らすのは苦痛でしか有りません。優しい菊池桃子さんと一緒に老後は送りたいと熱望しているカメ太郎です。

 

 老後、お茶のみ友達として、菊池桃子さんと一緒に成りたいです。一緒に暮らせなくても、お茶のみ友達に成りたいです。あの、もう40年前に成る高校1年生時代、あの頃は一番、人生の中で輝いていました。苦しかったけど、カメ太郎は三学期、吃音で国語の本を読まなくなって、登校拒否に陥ったけど、輝いています。何故かなあ?と思います。

 

 それは菊池桃子さんの笑顔のためと思います。菊池桃子さんの美しい、おそらくこの世で一番美しい笑顔が本当は苦しいカメ太郎の高校1年生時代を輝かせています。

 

 本当なら、菊池桃子さんのこの世で一番美しい笑顔が無かったなら、カメ太郎の高校1年生時代は黒く塗り潰されたものになっていたでしょう。でも、菊池桃子さんの笑顔で、美しく輝いているのです。

 

 そうでした。カメ太郎は浪人時代、菊池桃子さんに手紙を書いたのでした。そして返事が来ました。「意味が、わかんな〜い」という手紙でした。カメ太郎は浪人時代、発狂して、10通余りの手紙を、色々な女の子に出したのでした。すべてすべて返事が無かったと記憶します。いや、返事が数通有りました。

 

 発狂したため、現役時代より遙かに下の大学に一浪して入ったのでした。現役時代でも軽く入れた大学でした。そこでカメ太郎は屈辱の11年も大学時代を送ったのでした。留年させられっぱなしで、11年も大学時代を送ってしまったのです。しかも、一人ぼっちの大学時代を。

 

 カメ太郎は高校1年の時に、菊池桃子さんに手紙を出していたら良かったのです。そうしたら現役の時、落ちるか入るか際どい旧帝国大学を受けず、家から通える大学を受けていたはずです。そうしたらカメ太郎は苦労すること無く、ノホホンと人生を送っていたと思います。カメ太郎は入るか落ちるか際どい旧帝国大学を受験するため、最後のラストスパートの時、二次試験直前に、発狂してしまったのです。今も、発狂しています。

 

 悪友の大久保彦左衛門が長崎大水害の時、菊池桃子さんが死んだ、と言っていました。でも、17年前、幽霊のように菊池桃子さんと病院の出入り口で会ったのです。大久保彦左衛門はやっぱりどうしようもない悪友です。カメ太郎から10万円 借りてから音沙汰が全くなくなりました。あの頃は虎の子の10万円でしたが、根性の腐り果てた大久保彦左衛門は、それからトンズラしたのです。今は音信不通になっています。

 

 17年前に見た菊池桃子さんは幽霊ではなく、生き霊だったのか、菊池桃子さんのことを知っている人が居ないし、名簿にも「00桃子」が無いから、本当に生き霊だったのか、全く混乱しているカメ太郎です。生き霊ではなく、幽霊でした。

 

 その大久保彦左衛門は今も独身で、長崎新聞社に勤めているようですが、赤いスポーツカーを乗り回していると、大久保彦左衛門と飯盛中学時代、同じ学年で、家も近くで、大久保彦左衛門の家に行ったこともあるという患者さんが言っていました。妹や母親は良いが、父親が良くない、とも言っていました。

 

 カメ太郎は浪人時代、菊池桃子さんに書いた手紙の下書きも持ちません。どんなことを書いたかの記憶もありません。もっと、意味が分かるように、書くべきであったと後悔しています。度胸のないカメ太郎はあやふやに書いたのだと思います。

 

 (18歳の時に書いたカメ太郎の手紙)

 菊池桃子さん、お元気ですか、お久しぶりです。カメ太郎は発狂して大学に落ちてしまい、今、発狂したまま浪人生活を、家で送っています。毎日のように県立図書館か市民会館の青年の家に行って勉強しています。

 この前、菊池桃子さんが矢上の停留所前に立っているのを見ました。大久保彦左衛門が?時頃、菊池桃子さんが矢上の停留所前に立っていると言っていたからです。カメ太郎は原付バイクでその前を通ったのか、バスから見たのか、バスからでした、原付バイクの免許を取りに大村まで行っていた途中のことでした。

 そして〜〜そして〜〜

 今も、あの元気だった高校1年時代のことが蘇ります。あの頃は苦しかったけど楽しかった。何よりも元気でした。

 

(完)

 

 

愛子(長野より)

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      愛子(長野より)

 

 愛子。出さないつもりの手紙だけれど書く。もう僕たちの手紙の交換がなくなってから何年が過ぎただろう。もう10年にもなるのかもしれない。

 僕は一人で長野に来ている。僕の病気はそのままで、今も昔と同じように苦しんでいる。でも治る道を僕は見つけかけている。

 僕は33になった。愛子はもちろんもう結婚したろう。愛子は僕より5つ年下でそして誕生日が4月3日だったかとても早かったから愛子はもう29になっている。

 僕はまだ結婚していない。病気でまだ苦しんでいるから結婚できない。仕事も長崎でできずこんな遠いところまで来た。ここしか就職口がなかった。

 たしか僕たちの文通が途切れたのが愛子が福岡へ就職して行って半年後ぐらいじゃなかったかな、と思う。僕は馬鹿だから無茶苦茶な手紙を書いた。常識知らずの僕だから僕は滅茶苦茶な手紙を書いた。

 もう遠い遠い過去のことになっている。愛子が福岡の空のなかに私の手紙は消えて行ったの、と書いていたのを思い出す。そうだ。僕が統一教会の姉ちゃんに魅かれ愛子への手紙を書かなくなったのだった。

 あ れは僕が大学の4年目のことになると思う。僕たちが出会ったのが僕が大学二年目が終わり3年目にはいる前の春休みのことだった。柔道部の春の合宿の時だっ た。僕が夕方の練習が終わり家まで留年の通知が届いてないか自宅の郵便受けを覗きに行ってみんなより遅くなってしまって愛子たちと一緒に夕ご飯を食べたと きだった。

 創価学会の組織にも長野ではまだ付いていない気がする。もう負けられないせっぱつまった今なのに自分は呑気すぎるのだろうか。パソコンばっかりしている。でもパソコンでゲームしているのではなくてパソコンの研究や医学の論文や手紙を書いたりしている。

 

 もう届かない手紙と知っていながら僕は寂しくて書いているのかもしれない。このゴールデンウイークも僕はたった独りで過ごした。長崎から遠く離れたこの長野で僕は独りで寂しく過ごした。

 一日が経った。もう明日からいつも通りの日々が始まる。来週が勝負だと思う。来週立派にやり通せば僕を見る目もかなりいいものとなるだろう。来週で僕の評価が、一応の評価が決まるのだと思う。

 独りっきりも今日で終わる。明日からは平常通りの日々が始まる。朝8時半に1分も遅れずに出社してそして夕方5時までの仕事が始まる。夕方5時までだから楽だ。

 

 愛子にはまだ知らせてないように思うけど、僕は今から3年9ヵ月ぐらい前に交通事故にあって脳挫傷で4日半意識を失った。2ヵ月入院していた。それ以来、人の名前とか覚え切れなくなっている。記憶力障害に自分は陥っている。そしてよく頭がポヤーッとする。

 僕 は愛子に手紙を時々出していたと思う。でもすべて届かずに届出人不明のまま僕のところに2ヵ月ぐらいして戻ってきていたと思う。あれは僕が3度目の留年の 時だった。僕が精神病院から出した手紙を愛子は僕が精神病院に入院していてそしてそこから出しているのだと思ったのだろう。実際は精神病院でアルバイトし ながら書いた手紙だったのに。

 あれ以来だった。僕がいくら手紙を書いて出しても愛子からは何の返事も来なくなったのは。それ以来、愛子に出した手紙は届出人不明のまま戻ってくるようになった。

 

 この長野には野口五郎岳というものがある。3000mも する高い山だ。長野ではないけどこの北アルプスには高見岳というのもある。でも愛子山とか愛子岳なんていうのはないようだ。そして長野には川中島合戦場と いうのがちゃんとした地名になっていて川中島町@@というのがいくつもある。いや、よく地図を見ると川中島合戦場という町の名前はない。でも川中島@@や 川中島@@@という地名はたくさんある。

 もう遠くなってしまった愛子。長野の僕のところに飛んできてくれないかな。渡り鳥では哀しいからジェット機のような愛子になって飛んできてくれないかな。 

 

 

 愛子と文通したりときどき合ったりしていたあの愛子が高校生だった頃、僕は小さい頃から続けていた創価学会の信仰を忘れていた。そして宗教なんてないんだ、迷信なんだ、と言ったりしていた。その頃の自分には宗教心が全くなかった。

 精神科の病院でアルバイトをしていた年の次の年に僕は7年半ぶりに創価学会に戻った。精神科の薬を貰い始めて3年が経っていた。

 その僕が7年半ぶりに創価学会に戻ったのは医学部最後の年にあたる病院実習が始まっていたときだった。自分はいじけ果てていた。そのことを教官からも注意されたりしていた。

 あの春休みの3月、僕は創価学会の学生部のところに電話をした。そしてそれから7カ 月、僕は再び少年時代を思い出したようにして信仰をした。

 しかし自分は10月頃行き詰まってまた退転した。それは病院実習が終わって卒業試験が始まろうとしているときだった。自分の病気が自分を苦しめ続けていた。そしてどうしようもなかった。

 自 分はキリスト教の教会に通い始めた。そして洗礼を受ける直前に至った。しかし自分は創価学会の信仰を忘れてはいなかった。自分の病気故に“自分には創価学 会の信仰が向かないのではないだろうか。創価学会の信仰が向かないものも10人に1人ぐらい居るのではないだろうか”と考えすぎていた。

 5ヶ月経って自分は再び創価学会に戻った。そのときは4度目の留年が始まっていた。再び落とした科目は病院実習をしなければならなかった。つまり患者さんと喋らなければならなかった。患者さんと喋るためには自分には創価学会の信仰が必要だった。

 しかしその年も7ヵ月後同じように退転した。前の年もそうだったが病院実習があっているときは自分は創価学会の信仰をする。しかし病院実習が終わり卒業試験に突入すると人間性なんかどうでもいいから退転し他の宗教に自分の病気を治す道を求めてしまう。

 そしてその年も自分は呪われたように1科目だけ引っかかり卒業延期になった。そして8月終りに行われたその1科目の試験のあと僕はバイクで事故ったのだった。4日半、夢の中をさまよい続け、夢から覚めたあとも1ヵ月はぼんやりとなっていて

 

(火曜日)

 愛 子。今日は朝2時間題目をあげて行ったからとても元気だった。明日からずっと朝2時間の題目に挑戦しようと思っている。何事をするのも自信があってそして 充実していた。もちろん院長と2人で長野県の医師会主催の講演会に行って始まって2分ぐらいしてからずっと寝ていて院長に恥をかかせたと思えて少し不安に もなっているけど。

 院長はその講演会の始まる前、時間があったのでいろいろ喋ったとき、僕に誰かお嫁さんを紹介すると言っていた。僕も相手が良かったら結婚しようと思っている。でも僕は創価学会の女子部の人と結婚するのがいいような気がする。だから迷っている。

 講演会の終わったあと新しいスポーツジムに行き、そこにはサンドバックもあった。そこのスポーツジムでいつものように限界近く運動した。そして今はとても疲れている。

 

(土曜日)

 僕は愛子と手を握ったこともたしかないと思う.僕たちはただ公園を歩いたり,バス停まで歩いたりしただけだった. 

 いろいろ喋った.喋ることはたくさんあるはずなのに僕たちは意外と無口だった.本当に喋ることはたくさんたくさんあるはずなのに僕たちは静かに公園を歩いたりバス停まで歩いたりした.

 

(日曜日)

 一人ぼっちの僕は今日午前中は布団の上でごろごろしていて本を読んだりしていた.そして昼ごろから勤行したりして元気が出てパソコンしたり3時ごろからスポーツプラザへ行ったりした。でもなぜか今日は自分にどうしようもない抑欝感がついてまわっている。

 長野の県立図書館にも見物に行った。いつも行くダイエーはやめてソゴウというダイエーの前にある大きなスーパーに行ったが電化製品などはなく僕の買いたいものはなかったので760円のコーヒーを4本買って駐ヤ代にした。

 昨日、ダイエーでテレビとビデオデッキを買った。今夜F1が見られる。久しぶりにF1を見る。

 テレビは3万円した。20型のテレビだ。ビデオデッキは9、900円だった。モノラルのビデオデッキだ。昨夜ビデオデッキやテレビの調整をした。今日のこのどうしようもない憂鬱感はテレビは見るまいと心に硬く決めていたその決意を忘れたからかもしれない。

 

 遠い昔に僕らの間にはかない愛があったこと、愛子はまだ憶えているだろうか。僕はまだ憶えている。長野の独りぼっちの夕暮れに佇みながら、まだぼんやりと遠い過去のことを懐かしく懐かしく思い出している。

 

 悲しい過去の思い出も、愛子とのことを考えると、懐かしく懐かしく思い出されてくる。僕の少年時代は決して明るいものではなかった。暗く苦しいものだったと思う。でも愛子とのことを思い出すと何故か微笑んでしまうほど楽しい思い出のように思えてしまう。

 

(火曜日)

 もう夢の中に消えてしまった愛子.はかない手紙を僕は書いている.届かない手紙,長野の寒い空の中に消えて行く手紙,愛子は今どこに住んでいるのかなあ.福岡かなあ,それとも長崎に帰っているのかなあ.

 た ぶん,愛子は福岡で結婚して今は福岡か何処かに住んでいるのだろう.もう子供も二人ぐらいいるのかもしれない.そして僕のことなんて忘れ去ってもう思い出 せないようになっているのかもしれない.ああ,ずっと昔にそういう人が居たわ,としか思い出せないようになっているような気がする.

 

(水曜日)

 愛子.今日は疲れている.今日,学会の部長が僕の住む古いでも上等で鉄筋コンクリートで丈夫な僕の住んでいるところに来た。部長はここは男子部の拠点にしたいと言っていた。僕もそれで大喜びだ。何かで広宣流布の役にたちたいと思っていた僕はここにずっと住もうと思った。

 

(木曜日)

 悲しみに耐えろ。自分より不幸な人がいる。その人たちのために生きれ。屈辱に、屈辱に、耐え抜け。

 不幸な人を救うんだ。人から馬鹿にされる自分だけど、不幸な人を救ってゆくんだ。

(土曜日)

 愛子。また、孤独な2日間が始まっている。土曜、日曜とほとんど誰とも喋らないような気がする。でも僕は今一つの決意をしかけている。中学生の頃、中学2年の頃、その頃の自分に完全復活するんだ、と。

 中2の頃の自分に完全復活しないと、今の自分は挫けてしまう。あの頃の元気いっぱいでとても明るかった自分、すでに喉の病気に罹っていて苦しんでいたけど明るかった自分。とっても明るかった自分。創価学会の信仰に一生懸命だった自分。元気いっぱいだった自分。

 

(夕方)

 愛子。もう夕方になった。僕には今の仕事を首にならないかという心配や悩みがたくさんある。

 精神科医のくせに精神安定剤を多量すぎるほど飲んでいること、飲まなければ喋れないし対人緊張が緩くならない。喋り方を治したり対人緊張を緩くするため、自分はいろんなことをしてきたし、今もいろんなことをしている。

 自分の病気が治らない。どうしても治らない。

 テンプレート療法で治そうとさっきテンプレートをはめたままスポーツプラザで一時間近くサンドバックを打ってきた。もう一カ月近く続けている。でも僕の病気は一進一退でなかなか良くならない。

 

5月24日(水曜日)

 愛子。長野も暑い。仕事は今のところうまくいっているようだ。でもやはり心配だ。でも題目をたくさんあげて成功していこう、うまくやっていこうと思っている。

 1日2時間は最低でもあげなければならないし、あげるべきだし、実際1日2時間の題目を続けていると思う。でも本当は一日3時間を目指すべきなのにと反省している。

 学会活動をあんまりやってない。その代わりに題目をたくさんあげなければいけないのに。もう自分には敗北は許されない、またこの病院でならなんとか医者としてやってゆけると思う。

 ほんとにこの手紙、愛子に出すべきかと悩んでいる。どうしようかと思っている。

 

5月26日(金曜日)

 愛子。僕は今、酒を飲んでいる。長野に来て始めての酒だ。自分一人で自分の部屋で飲んでいる。寂しいお化け屋敷みたいなこの家で自分一人で飲んでいる。耐えきれなかった。ワインが目の前にあって遂飲もうという気になってしまった。

 何カ月ぶりだろう。いや、長崎にいるときは晩酌でよく飲んでいたから1カ月ぶりぐらいだと思う。長崎から来てちょうど1カ月が経とうとしている。まだ1カ月経っていないような気がする。

 今、5月の26日だからたしか自分が長崎を飛び出してきたのが4月の24日ぐらいではなかったかと思う。1カ月ぐらい、毎日パンばかり食べてきたけど、今夜遂に紐が切れたような気がする。

 

5月27日(土曜日)

 愛 子。僕は今も苦しんでいる。愛子とのときの苦しみが今も続いている。僕の病気はまだ治ってない。全然治ってない。ただ薬を飲んでその場しのぎをかろうじて やっているだけだ。それもその場しのぎにはなってなく、僕は周りの人からおかしいと思われているし、自分自身も苦しくてたまらない。

 星状神経節ブロックに少し望みを持ったり、テンプレート療法に賭けてたり、πーwaterに 望みを持ったり、いろいろやっているけど、自分に一番あった治療法はテンプレート療法だと思う。そのため毎晩スポーツプラザでボクシングのサンドバックを 叩き続けたりしている。いつも1時間ぐらいしている。佐賀にいた頃はもっとすごくて毎晩1時間半、フラフラになってアパートに帰ると勤行するのがやっとと いうぐらい毎晩サンドバック叩きなどスポーツプラザで走ったりなど運動していた。長野のスポーツプラザには走るところがなくてサンドバック叩きぐらいしか できない。

 

 愛子。僕はパンばかり食べて生きている。本当に毎日食パンと水だけしか少なくともアパートでは食べていない。でも病院で昼飯に食堂で食べているからなんとかなっているのかもしれない。今も食パンを口にくわえたり食べたりしながらこれを書いている。

 

愛子へ(6月8日)

 愛 子。僕は4年近く前のバイクの事故で今日が何日であるのかがあんまり解らない。もしかしたら6月の9日かもしれない。何日も手紙を書かなかったけど僕は題 目に挑戦していたし、(つまり信仰の惰性に気付いて題目だけでもたくさんあげようと思って)パンを食べてすぐ寝てしまうというのが続いてしまった。それに 幽霊屋敷のようなところからちゃんとしたアパートへ引っ越してきてまだあんまり片付けてもいない。

 僕はこの前、びっくりしたけど、長野市は標高450mしかないことを知った。このこともう書いたかもしれない。でもこんな山奥に思えるところが標高450mだなんてびっくりした。

 ”長野沈没”とか、太平洋から大津波が来たら長野までやられてしまうんではないかと思って僕はちょっとびっくりしている。

 新しいアパートは2LDKというのかなあ、大きくて夫婦で住めるぐらい大きい。そして出窓があって僕はそこに一本50円で買った母の日のプレゼントの花をたくさん買ってきて飾っている。

 

6月15日(木曜)

 本当に僕は長野に来て始めてお酒を飲んでいる。この前は飲む寸前でワインの蓋を開けるのがなくて飲まなかった。でも今日は壁に物を吊すのに使うハンガーのソケットのようなのでうまく抜けて始めて長野に来てお酒を飲んでいる。長野に来てもう1カ月半は経っている。

 飲むための刺身も何もない。ただワインと食パンしか僕のアパートにはない。そして僕の部屋は何故か痒い。アパートの壁か絨毯か何かと僕の皮膚がアレルギー反応を起こしているようだ。

 ワインはアルコール分が14%で750ccある。つまみも何もないからもうこのへんで飲むのをやめようと思っている。

 長野に来てはいろいろなことが虚しくて愛子に手紙を書いたりすると長崎のことが思い出されてきてなんだか楽しくなる。

 もうワインを飲むのはやめようと思う。体じゅうが痒くて痒くてたまらない。

 

 本当に何もない。まだ長野に来て何もない。長崎に帰ろうかとこの頃思うようになってきた。そう思う余裕ができたのかもしれない。

 

6月19日(月曜)

 愛子。思い出のなかの愛子。僕は結婚するかもしれない。相手lはあまり好きではないと少なくとも現在はそう思っている。将来の出世のための策略的な結婚を僕はしようと考えている。長野で一番大きな個人病院の娘と結婚しようかと考えている。策略的なロマンも何もない疲れはてたような走り続けて疲れはてたような結婚だ。

 現 在僕は、疲れはてている。毎日パンと水の生活からなのかもしれない。いやそれよりも4年前の交通事故の脳挫傷の後遺症で体がきつくてきつくてたまらないの だと思う。毎朝題目を2時間ぐらいあげている。勤行もしているから2時間20分は仏壇の前でお祈りをしている。そうでないといろいろなことが心配で心配で やりきれない。夕方5時半には仕事は終わるがそれからの憂鬱も僕は仏壇の前で題目を唱えたりまたは一人ダイエーまで買い物に行ったりして過ごしている。買 い物がたくさんたくさん家に溜まっている。

 

 生きること、それを僕は再び長野に来て考え始めている。

 

7月22日(土曜日)

 愛子、愛子はまともな人間だった。でも僕は毎日を生きるのに精いっぱいの人間だ。障害がある。どうしてでも治らない病気がある。長崎から長野までやってきた。就職口が他になかったからだ。

 親 も寂しいと思う。こんな親不孝な自分であることに罪悪感を感じてしまう。毎日パソコンに凝っている馬鹿な自分だ。創価学会の活動に凝ればいいのに僕はパソ コンに凝っている。でもちょうどいいところでバランスをとってやってゆこうと、またそれが一番広布のためにもいいんではないかと思っている。でもやっぱり 信仰の熱心さが今一つ足りないと反省している。これでは佐賀での失敗を繰り返すことになるような気がしてならない。

 信仰一筋になることだと思う。もう自分は33歳で、もうすぐ34歳だ。冗談はもう通じない。佐賀の時よりも今は信仰が惰性に陥っているような気がする。

 

7月23日(日曜)

 愛 子。思い出の中の愛子。もう会わないと思うけど、何故か書いている。人恋しさに、長崎恋しさに、書いているのかもしれない。どうせ出さない。そして今、仕 事に少し行き詰まってきている。信仰の甘さからだ。信仰が惰性に流されかけているからだ。信仰に頑張らなければ佐賀での失敗をまた繰り返してしまう。

 今、夜2時半なのに起きてきてこれをワープロで打っている。眠れない。 

 

                        完

 

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朧月(長野)no.2

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 7月9日

 今日、患者さんが一人も来なかった。今の自分の立場は危ないと思う。長野に帰ることをも思う。今日、診察室で静かに題目を唱えながら長崎での開業をも考えた。題目を唱えると元気が出てくる。そうしてそう思う。でも失敗は許されない。無謀なことは慎むべきだ。
 今日は夏なのに何故か涼しかった。自分は今の職場で安い給料で大人しく誰にも迷惑をかけないようにして過ごしてゆこうかとも思う。物忘れは更に酷くなってきている。臨床を続けることは不可能に近いとやはり思う。
 今朝も魔が競い、退転を思った。しかし思い留まった。自分はこの信心をしているとリラックスできなくて苦しくそして退転を思ってしまう。でも元気が出る。10人に1人ぐらいこの信心が向かない人がいるのではないかというかつての思いを再び思い浮かべた。そして気功法をしようと本気で思った。
 気功法とこの信仰と両方やり遂げるのが自分の使命なのかもしれない。本当にそれこそ自分の使命なのかもしれない。これを書きながらそう考えてしまう。

 鍼をしても気休めに過ぎないことが多い。そのことを考え、人生とはこんなものだと思った。妥協と世渡り、それを患者さんのいない診察室で思った。

 飽き性の自分は鍼にも飽き始めてきているのかもしれない。
 世渡りを考える。人生は妥協と要領なのだと考える。正義感は捨て、妥協と要領を考えなければならないと考えてしまう。理想は捨てなければならないのだと考えてしまう。

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 美しき有沢のおばちゃん。美しきπ-water のおばちゃん。長野は住み良かったです。それに暑がり屋の僕には涼しくて夏も過ごしやすくて良かったです。
 冬も、僕が過ごしたその年の冬は例年にない大雪だったそうですが、暑がり屋の僕には過ごしやすかったです。
 雪に何度か滑べって、激しく腰などを打ったこともありました。2回か3回ぐらいそういうことがありました。長崎は一年に1回ぐらい雪が積もるぐらいです。それも昼にはもうほとんど溶けてしまうというのが長崎です。長野は僕には本当に別世界のようでした。異境の地のようでした。
 長野は海が無くて、川と池しかなくて、海ばかりの長崎から来た僕にはやはり異郷の地のようでした。
 魚釣りをしても淡水魚しか釣れない長野は僕にはやはり異郷の地でした。でもパソコンがソフトもハードも豊富で安くてとても良かったです。仕事が終わって、鍼をしてもらいに行ってから、パソコンショップに行って外国製のソフトを見たり買ったりできました。またパソコン本体も安かったです。



  美しき有沢のおばちゃんへ
 もう九州は夏なので、暑くて、クーラー無しでは暮らせないようになっています。九州は暑いです。長野は夏でも朝方は冷え込んでいました。夏でも朝方寒くて毛布を被らなければいけなかった長野は懐かしいです。九州での日々は厳しいです。脳外の病院です。精神科の常識は通用しません。きついのが当然といったような病院です。
 でも僕は痴呆性老人相手の医者として迎え入れられました。ですからかなり自由は利きます。でもそれでも精神科の頃の楽さに比べるととてもきついです。


 久しぶりに書いています。僕はこれを誰に書こうかと考えましたが、幻のローソンの美少女に出すことにしようと思っています。久しぶりお酒を飲んでいます。ですから久しぶり書いています。長崎にはお盆以来戻っていません。今、8月30日です。それ以来の酒です。
 明日は日曜日ですが、今週も戻りませんでした。戻らないという電話も入れていません。夕方まで忙しくて電話する暇がありませんでした。そして夕方4時半からあわてて院長と副院長と3人で福岡大学の鍼の研究会へ行きました。そして疲れ果て一人で戻ってきました。
 お酒を飲みたかったです。お酒を飲むのを2週間近く我慢していたと思います。8月14日か13日から飲んでいません。飲みたいけど一人で飲んでも悲しいから飲みませんでした。
 近くの看護学校の僕たちの病院の看護婦さんを好きです。でも、向こうはどう思っているか解らないという悲しさがあります。
 今日は土曜日で忙しくてご飯を食べる暇が無くて今、夜の11時にお酒をこうして飲んでいるわけです。今日はまだ何も食べていません。あと35分で今日は終わります。9時近くから4時半まで外来の患者さんの診察に追われ昼飯を食べる暇もありませんでした。
 外来の患者さんが美味しいお酒を持ってきてくれると言ってくれました。僕はホワイトリカーで良いような人間ですけど、父は喜ぶだろうと言いました。
 その患者さんは奥さんの長年の腰痛を僕の得意の足の臑鍼バリバリ療法で治った患者さんです。胃経が悪かったためにその腰痛になっていたのだと思います。夫に当たるその人はほとんど何処も悪くありません。ただ奥さんが長年どうしても良くならない長年の腰痛で苦しんでおられてそれを苦にしておられたようです。
 創価学会は負けてはならないという指導を胸に頑張っています。でも、題目が忙しさにかまけてかあまり上がらないでこれではいけないと思っています。

 美しき女性は何処にでも居るのだということを最近実感しています。長野の僕が長野を去る数日前に見た美しかった美少女も九州にも居るんだと最近やっと思ってきました。近くの看護学校に通う女の子のことを考えてそう思っています。
 でも、恋とは厳しくて難しいものだということを実感しています。

 


 酒を飲んでも一人
     

 美しきπ-water のおばちゃんへ
 僕が長野を去る数日前に夜ローソンで見た菊池桃子タイプの幻の美少女が新館3階のよく見ていたあの看護婦さんだったと今、思っています。
 よく考えれば確かに似ています。もしもあのとき声を掛けていたら僕の人生は今とはかなり異なっていたでしょう。住み良い長野。でも僕たちの病院があんなにマスコミに滅茶苦茶に報道されてもう潰れるかもしれないことを考えると悲しいです。長野の平和はあの病院が有ったためなのに、マスコミは滅茶苦茶に報道して、もう長野も治安が悪くなることになりました。
 暴力団を収容し、身寄りのない人を収容し、僕たちの病院はとても良いことをしていました。マスコミは共産党が握っていてそしてあのような報道をしたのだと思っています。僕たちの病院は正しいことをしていました。ただちょっと、脱税の仕方が要領よく無かっただけだと今、確信しています。
 院長は変わっていましたけどとても人情家でいい人でした。あんないい人は日本中探しても滅多にいないほどいい人でした。鍼の先生も共産党の流す噂をそのままに信じていました。鍼の先生も知らず知らずに共産党に騙されていました。たしかに院長は看護学生の将来を踏みにじるようなことをしました。変わった院長でした。瞬間湯沸かし器のような常識外れの院長でした。看護学生の女の子の将来を暗澹とさせたことはでも、看護学生が頑張ればそれでもうよくなることです。看護学生が頑張らなかったら院長のその滅茶苦茶な電話も無かったことになるし、院長の電話をおかしい変わった院長が掛けたものと思わせるのがその看護学校を卒業したばかりの女の子の努力と使命だと思います。

 9月28日(日曜日)に九州である精神科の学会に参加するからそのとき会うという執拗なまでの電話が一日3回ほども掛かってきていたのに、その前の週の水曜日から全く掛かって来なくなったのは不思議です。あれは、だから、9月の24日から突然電話がかかって来なくなりました。

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 11月8日 夜11時半

 長野でセブンイレブンで見た美しい少女へ

 もうセブンイレブンの辺りも雪化粧が始まっていると思います。11月の半ばに差し掛かろうとしています。僕が去ったのは7月7日朝3時半でした。その何日か前に夜セブンイレブンで出会ったのだからあのときは暑かったです。梅雨の明けようとしている暑い暑い夜でした。少なくとも暑がりやの僕には暑い夜でした。
 ですから僕はそのとき、クーラーの風の吹き出し口にずっと立っていました。でも、長野は冬になるとすぐに雪化粧になります。僕が居たその冬が特別に雪の多い冬でした。10月の半ば頃から道路が凍結し始めてクルマのタイヤを雪道用のタイヤに履き替えたのでした。スパイクタイヤだったか何というタイヤだったか、よく思い出せません。
 半年近くそのタイヤを履いていました。そのタイヤを普通のタイヤに履き替えたのが4月になってからだったと記憶しています。ですからちょうど半年間、そのタイヤを履いていたのかもしれません。そのタイヤを履き替えるのが暖かい地方で育ってきた自分には大変でした。それが長野の欠点の一番だったと思います。
 ローソンとセブンイレブンを僕は取り違えていました。ローソンでなくってセブンイレブンであることを2月の終わりに再び長野へ行ったとき知りました。いつも夜、荷物を運んで行っていたところはローソンでなくってセブンイレブンであることを3月頃、その前を通って気付きました。長野に戻ってすぐならば2月の終わりにそう気付いたのかもしれません。
 思い出のそのコンビニエンスストアがローソンでなくってセブンイレブンであることを知って僕は少し落胆しました。何故ならローソンの方がロマンチックな感じを覚えるからです。あれは院長夫人の自転車を漕ぎながら気付いたのでしょうか? それとも新院長一家から食事の招待を受けたとき気付いたのか、よく思い出せません。
 長野は住み良くて、今でも戻っても良いですけど、突然、九州で精神医学界の総会がある寸前から、それまで毎日のように電話が掛かってきていたのに掛からなくなったのは不思議です。僕はその総会に出席するのを拒否され、病院の存続も危うくなったため電話する余裕も無くなったのだと思ったりしています。
 新しく精神科の医者が応募してきたため僕は入り用では無くなったのかなとも思います。でも、おそらくたぶん、病院の存続が危うくなったため、僕のところに電話する余裕も無くなったか、こっちの病院から政治的に圧力が掛かったため電話することを突然中止したのだとも推測しています。
 長野はたしか11月の始めにはすでに道路が凍結し始めて雪用タイヤを履かなければならなかったように思います。僕は一回そのタイヤで3月15日頃お見合に博多までクルマで高速でなくって下の普通の道を使って23時間かそれ以上かけて行ったのでした。そして悲しくその見合いは向こうから断りの電話が掛かってきたのでした。

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 長野を去る数日前、ローソンで見た幻の美少女へ

 僕はもう、長野へは行かないと思います。このまましぶとく福岡のこの病院でやってゆこうと思っています。僕には信仰があります。惰性の信仰かもしれないけれど信仰があります。だからしぶとくて、僕は負けません。
 あんな奴がどうやってやってゆけてると院長たちは不思議がっているかもしれません。しかし僕は挫けないから、しぶといから、やってゆけています。こんなにしぶとい奴は初めてというほどの人間だと自分自身思っています。
 大学時代、留年を何年も続けながらも挫け果てることはなかった自分を友人たちは、ガッツが有る奴だ、と感心していました。最後になると創価学会の信仰が有って挫け果てなかった自分は不思議に他の人には思えたと思います。
 他の人なら自殺するような境遇でも自殺しない、耐えきる自分の存在は、友人たちには奇妙にも思えたと思います。宿命に負けそうになりながら、負けない自分。とても厳しい宿命なのに際どく生きて行っている自分、創価学会の信仰は惰性に流されながらも、自殺直前になると再び創価学会の信仰を思い出して、他の宗教を辞めて、自殺しないで来た自分。不思議な存在に他の人たちには見えたと思います。
 僕は御本尊様と聖教新聞と人間革命の本とで厳しい少年時代を生き抜いてきました。厳しい少年時代でした。でも僕は元気だったです。
 久しぶりに書きます。長野からの電話が突然途絶えたのは、新しい院長が九州での精神科学会に参加してその序でに僕に会っていこうと毎日のように電話をかけていた時でした。あれは9月の最後の日曜日に九州で行われる学会に新院長および同病院の精神科の医師たちが参加すると勇んでいたときでした。その数日前、たしか水曜日から、それまで毎日のように電話が有っていたのに突然掛からなくなったのでした。僕は日本の精神医学界から、来るな、と言われたために、そのためにもう僕への電話どころではなくなり、病院の存続自体が危うくなったからだと思っています。
 だから僕はもう、あなたに会うことは無いと思います。また、九州にも菊池桃子に似たポッチャリタイプの女の子は居るからです。

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         去年の8月初めの頃、セブンイレブンで出会った目の大きいポッチャリとした女の方へ


 僕は僕が長野を去る数日前、去年の8月初めの頃、セブンイレブンで出会った僕好みの美しい女性があなただということを最近になってようやく気付きました。僕の間違いかもしれません。でも、きっとあなただったのだと今思っています。
 美しかったです。僕は新館3Fの看護婦さんをしているあなたであることに気付きませんでした。とても美しかったです。でも僕はそのとき長野を去る決意は固く、喋りかけることはできませんでした。それに僕は今まで、喋り方がおかしいため悲しい思い出を幾つも経験していましたのでとても喋りかけることはできませんでした。
 喋ると幻滅されるという悲しい経験を今まで幾つも経験してきました。中学生、小学生の頃からですから僕は悲しい失恋の思い出ばかりでした。
 今、福岡の病院に勤めています。条件は決して良くはありません。状況も決して良くはありません。でも僕もそろそろ身を固めなければならないと最近強く思っています。
 身を固めるならあなたとしたいです。あなたのような気立てが良くて僕好みの女性は九州にはほとんど居ません。
 でも長野から九州までは遠く、無理なのではないかと思ってもいます。でもできれば九州まで来てもらいたいです。僕は去年の8月、九州に戻ってきてからずっと、長野を去る数日前にセブンイレブンで出会った僕好みの女性のことをずっと心に掛けてきました。今も瞼に残っています。とても美しかったです。

P、S、
 長野の自然に溢れた土地柄、懐かしいです。長崎や福岡はすぐ側に海があります。川はほんのちょっとしかありません。
 大きな川に2mぐらいの鯉が泳いでいると聞いていました。何百年も生きている鯉もたくさん居ると聞いていました。そして他にも、幻の魚がいると聞いていました。
 今、自分の住んでいるところは福岡市の町はずれで田圃に囲まれていて新築の2DKのアパートは夜になると食用カエルが鳴きます。田園都市のようなところです。
 長野と九州では温暖の差もあり、異郷のようなところです。九州ではスパイクタイヤに履き替える必要はありません。冬でも雪が降る日は珍しいですし、雪が降り積もる日もほとんどありません。
 でも夏が暑いです。暑がりやの僕には夏は辛いです。それに最近は野菜ばっかり食べて暑がりを治そうとしています。

    福岡県前原市大字浦志279
     レオパレス浦志205号
          カメ太郎
     TEL 092-321-0343

     長野市どんぐり山695
      どんぐり山病院

 新館3Fの去年の8月初めの頃、セブンイレブンで出会った目の大きいポッチャリとした看護婦さんへ

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 長野の幻の看護婦さんへ

 僕はここ九州で意外と頑張っています。甘いところは確かに有ります。でも頑張っています。漫画先生と言われながら明るく元気に、本当にみんながびっくりするほど頑張っています。いつ首になるか、と思いながらももう8カ月福岡の病院で頑張っています。
 僕はしぶといです。しぶといだけが取り柄の僕です。脳外の頃は立ちながら眠って頑張っていた自分です。自分には根性が有ります。根性だけが有ります。
 もう、アパートの自分の部屋には食用カエルの鳴き声は聞こえなくなりました。近所の人達が総出で取り捕まえたようです。懐かしいあの豚の鳴き声のような鳴き声は聞こえなくなりました。
 小さな川はただのどぶ川と変わりました。静かなとき、ドブンッ、と飛び込む音が聞こえていたあの小さな溝と言うか、どぶ川はただの水の澱みと変わりました。
 それで少し寂しいです。今はお酒も飲まなくなりました。以前、そのカエルの鳴き声と一緒に飲んでいた酒も今は全く飲まなくなりました。今はもう完全に機会飲酒です。
 修行僧になろうと思ってもいました。しかし、今、土曜日の夜、長崎の実家に帰ってきて、お酒を飲んでいます。そしてこれを書いています。
 週末だけ修行僧でなくなる、自分にそう妥協しています。少し妥協がなければ、とても無理だという甘い考えです。甘い考えのようです。

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 美しきπ-water のおばちゃんへ

 今日、院長が逮捕されて刑務所に1年間服役する姿が昨日テレビで放映されたと母から電話で聞きました。午前中の診察が2時ぐらいに一息着いたときに長崎の実家の店に電話したら母が出てそう言っていました。この頃、長野からの電話が無いなあ、と不思議に思っていたときでした。アパートの電話番号を替えたけど、病院の電話番号は変わってないのに電話が無いなあ、今自分は鍼に幻滅し、新たな道を捜そうとしているのに、と思っているときなのに、と思っていました。長野に帰ろうかなあ、と思い始めているときなのに、今がチャンスなのに、と不思議に思っていました。
 今、自分は、長野に帰ろうかな、どうせ精神薬理学に空席は何処にも無いだろうなあ、と思っています。でも長野は遠く、でも長野は遠くても住みやすくて自分は好きでした。
 諦観の念、でも僕には最後のまだ果たさなければならない使命があります。精神薬理に——でも分裂病は薬理学で治るようなものではないようにも思えて僕は考え込んでいました。
 また、あの長野で、週末になるとパソコンショップをウロウロする自分に戻ろうかな、戻るのかな、と思っています。長野はパソコンが安いし、珍しいCDがよく有って良かったです。それにこの福岡のようにパソコンショップが遠くて不便でなくて駐車場もちゃんと有るし、それに平日もパソコンショップに出かけられる暇も有りました。
 平日も仕事は5時半に終わってたから、パソコンショップは8時まで開いていたから、鍼に行かない日は、ときどき平日もパソコンショップに行っていた。あの頃は、ウィンドウ95が出たばかりの頃で、またマックのシステム7.5も出始めたばかりの頃だった。パイオニアのマックが有って、それが本体だけで9万円して、音はとても良かったけど、僕はその頃、compac だったから買わなかった。あの、7月最初の頃の夜、セブンイレブンで出会った同じ病院の看護婦さんを、誰だか解らなくて、本当に解らなくて、そして3日後ぐらいに僕は長崎へ夜逃げした。
                    (平成10年2月28日夕方、夜)

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               夢男

 長崎に、でも今は福岡に、夢男は居た。この前は、長崎の親元で7カ月間、生きていた。そしてその前は長野県の脱税で有名になった大きな精神科の病院に居た。ずーずーしく医者で生きてきた。誰もが、おまえは研究者しか無理だ、というのに研究者にならず、医者できた。でもやはり今、行き詰まりつつ有るようだけど、しぶとい夢男は死なず、で生きている。
 いつもは、しぶとく、酒を飲まないのに、今日は飲んでいる。この頃は、このようにお酒をときどき(2日に1回ぐらい)飲むようになってきた。しぶとい男なのに、もう疲れ果てかけている、のかもしれない。
 
 夢が、追い求める夢が、無くなりつつあるのかもしれない。必死に、努力の限界に近い毎日を送ってきたあのエネルギーは何処へ行ってしまったんだ。

 でも今、一つの道が有る。それは中国の水牛角粉で分裂病を治す、という治療法の研究を始めようとしている。
 今、この男の勤めている福岡の病院は、中国鍼で有名な脳神経外科の病院だけど、院長がデイケアや老健施設など手を広げすぎて危ない状態にあるけど、まだこの危険な状態に気付いている人はほとんど居ないようだ。もしかしたら、自惚れだけど、自分しか居ないのかもしれない。

 でも、みんな、今は、医療状勢はとても厳しくて、黒字にするのがとても難しくて、正直にしたら必ず赤字になることを知っているのかもしれない。僕の、自惚れなのかもしれない。

                    完
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朧月(長野)no.1

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     朧月(長野)


                            カメ太郎
                                                                      

 8月7日の夜に僕は長崎に逃げて帰った。その何日か前の日のことだった。僕は長崎の実家に夜、荷物を送っていた。夜でなければ怪しまれるのでいつも夜クルマに乗せてコンビニエンスストアへ向かっていた。その夜に出会った。
 僕はそのとき荷物をレジーに出して冷房の吹き出し口を見つけていたのでそこに立っていた。
 もう何日こういう夜を過ごしていただろう。長崎の実家へのこの荷物送りはピークを過ぎていたと思う。初めの頃は1週間に1回ぐらい。次は3日に1回ぐらい。次は毎日のように。
 実家への荷物送りは秘密裏のうちに行わなければならなかった。またこのコンビニエンスストアは宅急便のように早くはないが半額もしない引っ越し便を扱っていた。そのためアパートから比較的離れたこのコンビニエンスストアばかりを使っていた。でも、アパートから真っ直ぐの道をクルマでひた走るだけのいつも通り慣れた道だった。夜、テンプレートを填めて何度この道を往復しただろう。ボクシングをするスポーツセンターが休みの日には。テンプレートを填めて走って片道5分程度の短い距離だった。でも、狭い道だった。
 
 時刻は12時近かったのではないかと思う。他にお客は居なかった。真夜中でも2人働いている比較的に大きいコンビニエンスストアだから9時10時ではなかった。11時には少なくともなっていた。
 そのとき病院の看護婦である吊り目さんが誰か友達と思われる同じ年頃の女性とともに入ってきた。吊り目さんとは担当の患者さんが同じであり、その患者さんがなかなか良くならず吊り目さんはかなり僕に対して悪感情を持っていた。もちろん僕は知らないふりをして立ち続けていた。一列向こうには週刊誌などのコーナーがあり僕はそこを向いていた。
 僕は冷房の吹き出し口にぼんやりと立っていた。きっと何故そこに立っているのか、何をしているのか少し訝しかったと思う。
 するともう一人の僕好みの女の子が僕と喋りたいというように週刊誌などのコーナーに歩いてきた。明らかに僕と喋りたいという意志が見られた。
 僕は喋らなかった。喋りかけたら九州へ帰る計画が挫折してしまう。喋ってはいけないと思ったし、喋るのがおかしい自分は今までのいつものように喋りかけきれなかった。いつものいつもの繰り返しだった。

 僕が長野から居なくなった次の日にこの子と吊り目さんが僕のことを病院で喋っていたということだった。僕はその子が同じどんぐり山病院に勤めていることを知らなかった。今まで見たことのないようだった。でも2月の終わり頃、一時僕を長野に連れ帰った副院長になった先生は「新館2階に若い子はあの2人しか居ない。」「カメ太郎先生が居なくなった次に日に看護婦の吊り目さんともう一人の子が夜、カメ太郎先生を000で見たことを喋っていた。」「π-water のおばちゃんが“あんたたち、そんな遅い時間に何していたの?”と言っていた。」と言っていた。
 僕がその子が新館3階のあの子であることを気付いたのは5月半ばのことだった。副院長になった先生は、「新館2階」とは言わなくて「新館」とだけ言ったのを自分が聞き違えていたと思われる。10カ月ぐらい気付くのに遅れた。新しい勤務先である福岡で仕事に行き詰まり首になるのではないかと思われ長野へ帰ることを考え始めた頃、偶然気付いた。でも今も本当にあの子なのか、少し心配である。
 もしこのときこの子と喋っていたら僕は長野から帰らず現在のような苦境に陥っていなかった。そしてあの居心地の良いアパートで幸せに暮らしていたと思う。

 僕は2月の終わりから1カ月ほど長野に戻っていた頃、ある日曜日、日直をしていたとき、新館3階の患者さんが具合が悪くなって行ったときその子が居た。そして僕に非常に親しげにしてくるので訝しかったがあのときのあの子であることを考えると納得がいく。たしかによく似ている、でもそのとき自分は新館2階にその看護婦さんが居ると聞き間違えていた。

          5月18日 日曜日 長崎の実家に福岡より帰ってきていて

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         去年の8月初めの頃、セブンイレブンで出会った目の大きいポッチャリとした女の方へ


 僕は僕が長野を去る数日前、去年の8月初めの頃、セブンイレブンで出会った僕好みの美しい女性があなただということを最近になってようやく気付きました。僕の間違いかもしれません。でも、きっとあなただったのだと今思っています。
 美しかったです。僕は新館3Fの看護婦さんをしているあなたであることに気付きませんでした。とても美しかったです。でも僕はそのとき長野を去る決意は固く、喋りかけることはできませんでした。それに僕は今まで、喋り方がおかしいため悲しい思い出を幾つも経験していましたのでとても喋りかけることはできませんでした。
 喋ると幻滅されるという悲しい経験を今まで幾つも経験してきました。中学生、小学生の頃からですから僕は悲しい失恋の思い出ばかりでした。
 今、福岡の病院に勤めています。条件は決して良くはありません。状況も決して良くはありません。でも僕もそろそろ身を固めなければならないと最近強く思っています。
 身を固めるならあなたとしたいです。あなたのような気立てが良くて僕好みの女性は九州にはほとんど居ません。
 でも長野から九州までは遠く、無理なのではないかと思ってもいます。でもできれば九州まで来てもらいたいです。僕は去年の8月、九州に戻ってきてからずっと、長野を去る数日前にセブンイレブンで出会った僕好みの女性のことをずっと心に掛けてきました。今も瞼に残っています。とても美しかったです。

P、S、
 長野の自然に溢れた土地柄、懐かしいです。長崎や福岡はすぐ側に海があります。川はほんのちょっとしかありません。
 大きな川に2mぐらいの鯉が泳いでいると聞いていました。何百年も生きている鯉もたくさん居ると聞いていました。そして他にも、幻の魚がいると聞いていました。
 今、自分の住んでいるところは福岡市の町はずれで田圃に囲まれていて新築の2DKのアパートは夜になると食用カエルが鳴きます。田園都市のようなところです。
 長野と九州では温暖の差もあり、異郷のようなところです。九州ではスパイクタイヤに履き替える必要はありません。冬でも雪が降る日は珍しいですし、雪が降り積もる日もほとんどありません。
 でも夏が暑いです。暑がりやの僕には夏は辛いです。それに最近は野菜ばっかり食べて暑がりを治そうとしています。

 福岡での日々は厳しく、長野でのようにのんびりとした気楽な日々ではありません。長野はとても住みよかったです。だから長野に帰ろうか?と思う毎日です。弱気になると長野に帰ることを思います。長野でのんびりと暮らそうかな、と思うこの頃です。
 
   福岡県前原市大字浦志279
     レオパレス浦志205号
          カメ太郎
      TEL 092-321-0343

 本当に長野は住み良かったです。涼しくて、女の人が目が大きくてポッチャリしていて僕好みでとても良かったです。今、九州は厳しいです。本当に長野に帰ることを思うこの頃です。
 厳しい日々に耐えきれるか僕には解りません。

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     長野市どんぐり山695
      どんぐり山病院

 新館3Fの去年の8月初めの頃、セブンイレブンで出会った目の大きいポッチャリとした看護婦さんへ

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 今、5月28日。福岡での毎日は、長野での日々のようにのんびりとしたものではなく、疲れ果てる日々が続いている。
 長野の創価学会の長に指導を求めたとき「長野にずっと居なさい」と言われた。それは理屈を越えた正しい指導だったような気がする。
 今の日々が厳しい。長野でのように暢気な日々ではない。 
 長野の創価学会の長は僕が長野に住み続ければ幸せになれることを見越してそう言われたような気がする。

 涼しい長野。湖や大きな川がたくさん有ってそこには大きな珍しい魚が生きている。


 自分は研究者としてやってゆくべきでした。一度、研究者への道を進み始めながらも長野県の病院からの執拗な勧誘に負け、研究者としての道を閉ざし、再び臨床の分野に進んだことは間違いだったと思います。しかし、間違えても自分は負けない人間です。創価学会です。勝つしかないのです。長野に再び、いや三度、戻ることも考えはします。あの夜、僕が長野を去る数日前、コンビニエンスストアで見たあなたの姿は今も僕の瞼に残っています。
 新館3階のよく見ているあなたであることを僕は全然気が付きませんでした。思えば、よく似ています。でも、つい最近まで解らなかったのです。解ったのは、福岡での仕事に行き詰まりかけていた10日ほど前のことでした。現実の厳しさに負けそうになりかけていた僕の脳裏に突然浮かんできました。
 長野でのんびりと過ごそうかという考えもあります。長野は自分にはとても住み良かったです。のんびりしていて、自然一杯で、僕好みの女性がとても多くて、住み良くて、僕は好きでした。世間の風潮に流された僕は間違ったのかもしれません。
 でも、福岡で負けるわけにもいかないのです。長野でのんびð閧ニ、という誘惑のような考えによく囚われます。でも、自分には使命があると思っています。負けられません。分裂病や神経症で苦しんでいる人たちを助ける画期的な治療法を見つけ出さなければいけないのです。


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 あの夜、冷房の吹き出し口で涼みながら、もう決めていた長野脱出を思い留まらせる魔の働きかと思いました。いや、これは長崎に帰ってきてあの夜の美しい女の子のことを思い出しながらそう思ったのでした。
 美しかったです。もう何日後かに迫った長野脱出がその目の前の美しい女の子に喋り掛けたら崩れてしまうとそのときは少しはたしかに思ったと思います。たしかにあのとき喋り掛けていたら崩れたと思います。しかし自分は喋り掛けませんでした。今まで、自分のおかしい喋り方でどれだけ悲しい思い出を築いてきたかを考えました。
 自信が無かったのです。悲しい恋の思い出が数多く有りました。高校3年の頃の高総体でのバスケットボールを観戦していたときの女の子----もう何年前になるでしょう。今35だから17年前のことになります。美しい女の子でした。高総体の初日だったと思います。17年前、1980年6月初旬のことでした。あなたとそっくりの目の大きいポッチャリとした女の子でした。
 僕好みのそしてとても美しい女の子でした。あなたと本当にそっくりでした。僕より2つ年下としてもう33にはなっています。たしか活水高校の女の子でした。
 僕はそのときも喋り掛けなかったのです。その女の子が僕とお話をしたいという意志表示をどんなにしても僕は喋り掛けませんでした。あの悲しい思い出からもう17年経っている。今、今日、6月3日です。たしかあの17年前の高総体の日も6月3日だったと思います。

 長野になぜこんなに美人が多いのか不思議でした。他の人はそうは言いません。でも僕好みの女性が長野にはたくさんいました。5人に1人は菊池桃子と病院のナンバー2になった00先生と長野に向かう汽車の中で話したものでした。長崎や福岡には菊池桃子は30人に1人ぐらいしか居ません。いや、僕の好みそのものの女性が長野にはたくさん居て九州にはほとんど居ません。
それは長野には菊池桃子が4人に1人居て九州には菊池桃子が50人に1人しか居ないと言って良いと思います。それほど長野には僕好みの目が大きくてポッチャリタイプの女性がたくさん居ました。
 
 そして長野はパソコンが安くて店がたくさんありました。福岡に今住んでいますが中心地に行かないとパソコンをたくさん置いているところはなくてとても不便です。長野は駐車場はタダです。福岡は中心地まで遠く、駐車場も高く一時間500円も取られます。
 それに長野は大きな安いパソコンショップまで自転車で10分も掛からないで行けます。クルマでは遠くのパソコンショップにも20分も掛からないで行けます。そして珍しい海外のソフトもよく置いてありました。
 そして長野は大きな川がたくさん有って、僕の親父は魚釣りが大好きだけど僕の父は長野に来たら淡水魚釣りに凝るのではないかなと思います。長崎では考えられない鯉や鮒や雷魚やいろんな不思議な魚が長野ではたくさん釣れるので父は喜ぶような気がする。父は長崎に舟を持っていて毎週魚釣りに行っているから長崎から離れるのは父にはとても辛いことだと思っていたけど長野に来たら今までほとんどしたことのない淡水魚釣りに凝り始めてかえって喜ぶような気がする。
 海がなくて山と川だけだけど、それがかえって父には淡水魚釣りができて良いような気がする。

 長野に戻ろう、長野に戻ろう、もう鍼の勉強は充分した。あとはこれを精神科の病気で苦しんでいる人たちに応用するだけなのかもしれない。



 最近、何処の病院も金儲けのために動いている。良心的な病院は経営困難に陥り破産していったりしている。大学病院など公立の病院は儲ける必要はないからみんな大赤字だ。儲けようと思わなかったら赤字になってしまう。良心的に行おうと思えば赤字になってしまう。
 どんぐり山病院は身寄りの無い人を救ってきたし、行き倒れの人を救ってきた。だからあの脱税は見逃すべきなのに共産党系のマスコミの陰謀と思う、有ること無いことをごちゃ混ぜにして報道した。悪いことは強調して、良いことはほとんど触れずに。
 逮捕された初代の院長はものすごく人情家でおそらくこれほど人情家の人は居ないくらい人情家だった。奥さんもとても良い人だった。子供も長男を除いてはとても良い人間だった。しかし今、長男が跡を継いでいる。
 金儲け、サービス業である病院、自分は失望している。自分が今勤めている病院は金儲けに奔走している。何処の私立の病院もほとんど総てそうだとは思うが、患者の幸せを思う心、何処でもそうだとは思うがやはり幻滅してしまうところがある。


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 自分の心の弱さに呆れてしまうことがよく有る。誰でもこうだとは思いながらも、自分は特別に厳しい状況に有るのだから、----しかし、余りにも厳しすぎる状況を思うと、----長野に帰るしかないように思えるときがよくある。楽天家すぎるほど楽天家の自分も、状況は実際余りにも厳しいことを考えると、長野に帰るしかないように思える。
 長野には僕好みの女性がたくさん居るから、僕は僕好みの女の子と結婚して、そうして平凡に生きてゆこうとよく考える。20代の先生との誓いを捨て、平凡にのんびりと生きてゆこうかとよく考えてしまう。分裂病を治すことは不可能、神経症さえ治すことは至難の業で、鍼で治そうと心に決めた決意はもう捨ててしまおうとよく考えてしまう。
 自分が今考えて実行している足による病気治癒の方法を長野でゆっくりと考えてゆこうと思ってしまう。親は遠く離れた長野に僕が住むのだから寂しいとは思うけれど、僕は生まれながらにしてこういう不幸な病気を背負っている。仕方がないんだ、妥協するしかないんだ、とよく思ってしまう。
 長野で生きてゆくのが自分の使命の道なのだと思えることがよくある。大学院を途中で退学し、長野のその病院へ去った自分は実は自分の本来の使命の道をそうやって進んでいたんだと思えることがある。そしてその思いが最近段々と強まりつつある。
 そして自分が九州へとこうして帰ってきて今こういう日々を送っているのも長野で大きく羽ばたくための勉強のときで、自分は再び長野へ帰って自分の使命の道を歩むんだ、長野は涼しくてものすごく暑がりの自分にはとても過ごしやすい土地なのだからやはり自分がこれから生きてゆく使命の地なんだと思えることがよくある。もう勉強はかなり行ったからそろそろ帰ろう、帰るべきだ、と思えることがよくある。
 長野で再び精神病への戦いを始めるんだ、長野はとても僕には住みやすくて僕がこれから一生を過ごすべき土地だとどうしても思える。
 この福岡の新築のマンションはとても住みやすくなってðォていて、日曜日ずっと居ても楽しい。しかし、安逸に耽ってはいけない、青年は苦難を自ら選んで進んでゆかなければならない、という先生の指導を思い起こす。
 もう一度、もう一度長野で戦おう、そうだんだんと思うようになってきた。福岡での仕事に行き詰まり掛けてきた。長野に帰ろう、長野でこれから生きてゆくのが自分の使命なのだと思える。
 自分の使命の地が長野なんだと思える。福岡でこのまま安逸として暮らすのか、それでいいのか、と思うことが数日前からあるようになった。
 
 福岡は長崎に近く、毎週週末に帰れる。長崎で何か有ったときはすぐに帰れる。長野は遠い。飛行機でしか往復することは不可能に近い。
 使命の道が何処なのか、煩悶する。長野か、福岡か、解らない。

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  美しき有沢のおばちゃん元気でしょうか? 美しきπ-water のおばちゃん元気でしょうか? 僕は疲れ果てました。毎日、ネクタイをはめていかなければならない福岡での病院の日々に疲れ果てました。長野に戻ることを本気で考えています。そして長野を去る数日前、夜、ローソンで見た幻の美少女が誰であるかということをこのまえ解りました。
 連絡を待ってます。
 
 tel 092-321-0343   カメ太郎

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 僕が新しく移り住んだところは住むのに良くはありません。パソコンショップは遠いところにしかないし、長野より田舎です。福岡の繁華街までクルマで15kmほどで、時間は1時間はかかります。そして土地勘はないし、とても不便しています。
 給料も安いですし、当直がありません。当直があったら長野に居たときより高い給料になると思うのですけど。
 長野は土曜日も休みでしたが、ここは土曜日も午後3時くらいまで居なければいけません。長野は完全週休2日だったのにここは週休1日だけです。仕事も昼食を夕方頃とるような毎日です。辛いです。長野に帰ろうとよく思います。
 ですからパソコンにも流行に遅れてしまいます。パソコンを触っている暇があまり無いといった感じです。辛いです。長野の日々はのんびりしていて、とても良かったです。
 クルマで気ままにパソコンショップなどを行き来できた長野。首になることを畏れないで仕事をできた長野。呑気に働けた長野。院長の一家も長男以外はとても良い人だった。
 長野に帰ろう、僕が菊池桃子と思ったあの子が居るし、僕はあの子と結婚したら幸せになれると思えるし、あの子のような女の子は九州にはとても居ない。僕は幸せになるために長野に行ったんだ。九州でのこんな日々は休息なんだ。休息はもう終わった。
 
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  美しき有沢のおばちゃんへ
 また長野に戻って可哀想な別館1階の患者さんたちの世話を一緒にしたいという思いは強いです。でも今は、院長は逮捕されて新しい院長になっています。新しい院長は2月に帰ったときは良かったですけど、院長が逮捕される前のドラ息子に戻ったら厭というか、1回目の長野を去る一つの大きな原因になったのがその長男が自分を苛めるからでした。僕は心のなかで僕の心の支えである“11、23、1994”という言葉を唱えながら耐えていました。
 別館3階でその苛めがよく行われていました。アルコールの患者さんの中にはそれを見て自分に声を掛ける患者さんがいました。その患者さんは不当に長期に亘って入院させられていることを激しく不満に思い、よく自分にその不満を言っていました。
 よく考えると別館1階の患者さんは本当に恵まれない人が多く、退院させようにもさせられない患者さんたちで一杯でした。心根は優しいのだけど、アルコールに弱いというか、退院させるとアルコールに溺れてしまう患者さんや生まれつき知能の低い患者さんで一杯でした。その患者さんたちを介護するのは本当に大変だったと思います。でも3階の荒くれ男の集まりを思えばみんな心根の優しい人たちばかりでとても楽しい処だったと思い出しています。
 別館1階の患者さんたちはそれだからとても良かったと記憶しています。

 別館1階のアルコールの患者さんの中に前代の院長が脱税問題で逮捕されて長男が院長となったとき回診のとき新しい院長に酒に酔いながら不満をぶち掛けている患者さんがいました。職業安定所に行かせると酒を飲む、そういう患者さんでした。
 たいへんだったと思います。

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 あの夜、冷房の吹き出し口で、朧月を見るように僕は君を見た。美しい女性が誰であるのかを僕はそのとき解らなかった。あなたは朧月のように美しく本のコーナーの方に(僕が立っているすぐ前の方に)歩いていった。でも僕は喋りかけなかった。こういうとき、喋れば悲しい事が起こっていた。そういう悲しい過去の思い出が僕には有った。
 僕は喋り掛けなかった。誰だか解らなかった。いつもよく見ている新館3階の看護婦さんであることに気付かなかった。看護婦姿のいつもの君とは違って見えた。
 そして長崎に帰ってきて、あの夜、コンビニエンスストアで見た美しい女性のことがとても気に掛かっていた。長野で、僕が、長野を去ろう、九州に帰ろう、と心に決めていたとき、なぜ美しい、とても美しい女性が現れたのか、不思議だった。もう、荷物の3分の2ぐらい、長崎の実家に送っていた。アパートは、もう、荷物が少なくなっていた。帰る準備は、充分に整い始めていた。
 あのとき何故そのような美しい女性が現れたのか、長崎に帰ってきて不思議だった。何故なのか、とても煩悶した。そして2月の終わり、僕が幻のように長野に帰ったとき、たしか長野に帰ってまだ1週間も過ぎていなかった頃、一太郎先生が日曜日の日直を厭がって僕に回したとき、偶然のように新館3階の患者さんが具合が悪くなって、そして僕が駆けつけたとき、君がいた。でも、そのときでも、僕は君があのときの女性であることに気付かなかった。
 あのとき、とても僕に愛想良く振る舞っていた君、僕はそれが何故なのか、そのとき解らなかった。それが解ったのは、つい1カ月ほど前のことだった。

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 今、朧月が出てカエルが泣いています。雨カエルなのか、食用カエルなのか、解りません。でも、ときおり、大きなジャブンという音がしますから、食用カエルなのだと思います。
 長野に帰ろうか、この福岡でしぶとく生きてゆくか、際どいところと思います。院長の考え一つで自分は首になります。いつ首になるか、際どいところと自分は判断しています。
 長野では息子が院長になったにしても前の院長は家では健在ですから息子の考え次第で首ということにはなりません。長野に戻れば快適な日々が再び訪れると思います。快適すぎて信仰が惰性に流されるという日々が再び訪れると思えます。
 自分は鍼に賭けようという決意で今生きています。経絡敏感人という希な人間であること2、3日前、気付きました。経絡敏感人だから神経症などで苦しめられています。しかしこれを使命に変えるのだという決意があります。しかし危ない際どいところです。
 今の職場で勝利者にならなければならないという使命が自分にはあります。今、再び、佐賀でのときのように、朝3時間近く唱題をして仕事に行くという毎日を再びやり抜かなければ必ず敗北してしまう厳しい状況にあります。佐賀でのその日々はもう3年近く前のことになります。今の自分は、もう体力的にも衰え、その気力を再び奮い起こすことは困難です。
 でも、困難でも、再びあの頃の気力を奮い起こさなければという自覚はあります。しかしやはり気力も体力も衰え困難です。
 困難でもやらなければ、再びあの頃の決意に立たなければ、土俵際、断崖絶壁の状況にある自分です。
 長野以外では、土俵際、断崖絶壁の中で生きてきた自分であります。土俵際、断崖絶壁に慣れていると言っても良いのかもしれません。

 長野しか自分が生きる道はない、自分はそう最近思ってもきました。
   
         *(結局、出さなかった、書きながら途中から出さないと思った手紙) 

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  朧月のように君は歩いた。僕の目の前の本のコーナーへと。でも僕は喋り掛けなかった。過去に悲しい悲しい思い出をたくさんたくさん経験してきたから、だから僕は喋り掛けなかった。
 いつもいつも僕はこういうとき口を閉ざしたままだった。喋れば嫌われる。悲しいその思い出が僕の目に走馬燈のように浮かんでいた。
 中学・高校・浪人時代・大学時代、悲しい思い出ばかりだった。高校3年の高総体のときの女の子に似ていた。目が大きくて、ちょっとポッチャリとしていて。
 僕とお話をしたいという明らかな意志表示も高総体での女の子に似ていた。あれから18年、僕はまた同じような経験をするようだった。
 長野で過ごした今まで1年3カ月の月日が走馬燈のように僕の目に映っていた。喋りきれない。喋ると笑われる。1年3カ月過ごした長崎から遠い異国のような土地で僕は始めて僕の幻のような女の子と出会った。
 長野には僕好みの美しい女性はたくさん居た。でもこれほど僕の好みにぴったりの女性は初めてだった。
 美しい女性だった。


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 美しきπ-water のおばちゃんへ

 僕はもうπ-water を飲まなくなりました。今は鍼による治療に追い回されていてそれどころではないからです。
 自分にはπ-water はあまり効きませんでした。本に書いてあるようにはなかなか効かないことを痛感しています。それが何故なのか解りません。
 鍼治療に訪れる人たち、中には確かにどうにかして助けてやらなければならないと思う人たちもいます。でも中には「家でサロンパスでも貼っておけ。」と言いたくなりたいような人たちも数多いです。そしてここはどんぐり山病院のようにのんびりとした病院ではありません。脳外科の病院です。適当に年休を取ることは許されません。日曜日しか休みはありません。土曜日も午後5時ぐらいまで居なければいけません。2時には土日の当直の先生が入りますが、鍼の急患が入ったら自分が対応しなければなりません。2回前は成功しました。大成功でした。でも、前回は失敗でした。そしてそれが何故なのか解りません。医学的に説明不可能です。
 東洋医学の分野です。

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愛子(完)no.5

テーマ:


    
    
    
     真実は何なのか、と僕は考えてしまう。生きることは何なのか、と僕は考えてしまう。そうしてときどき絶望感にとらわれてしまう。楽しいことがないから。希望があまり見あたらないから。
    
    
     愛子
     僕らの海はもう遠い海になってしまっている。もう愛子が福岡へ行ってから何年になるのかなあ。僕は三年も留年したし、いつが何年前のことだったのか思い出せないようになっています。
     僕らは○○の岸壁で楽しく語り合ったけど、僕は愛子を傷付けそして愛子が次の日
    
    
    
     僕らの恋は白い鳩になってもう何年も前に長崎から飛び立っていっただろう。僕が精神病者となり果てて精神病院から福岡の愛子へ手紙を書いてから愛子から全く手紙が来なくなったことを僕はこの頃やっと気付きました。
     愛子。僕は立ち直っているのに。小さい頃から中学・高校そして大学一年まで一生懸命していた創価学会の信仰を再び始めて立ち直っているのに。
     もう遠い昔の恋物語になろうとしているんだなあ、と思ってしまいます。僕と愛子が最後に会ってからもう5年ぐらいになろうとしているんじゃないかなあと思います。あのクリスマスの頃の雪の降るとても寒い夕方から。
     僕の手紙は、僕は真心を込めて書いたつもりなのに、愛子に嫌われて……
    
    
    
    
     愛子へ
     僕は酒ばっかり飲んで、以前3ヶ月近く住んだことのある福岡の町並みを、とても淋しく思いながら、愛子がそこで今何をしているのかなあ、と思いながら、悲しくて、愛子の手紙を全て捨ててしまった後悔の思いや、もう過ぎ去ってしまった元気だった青春の頃の思い出を振り返りながら、昼間から酒ばっかり飲んでいます。愛子のところに電話する勇気もないし、僕は酒ばっかり、酒ばっかり飲んで、やっと2、3時間眠っています。
    
    
    
    
     愛子
     あの12月の最後の夜のことを覚えているかい。僕らはあれ以来会わなかった。あの寒い12月の夜、僕らは護国神社の周りの道を肩を寄せ合うようにして歩いた。小雪がぱらついていたね。
     午後6時ぐらいだったと思う。僕らは本屋で待ち合わせてそれから護国神社の周りの道を歩いた。もう外はまっ暗だった。
     愛子は『寒い、寒い』と言っていた。オーバーを着ていない愛子には本当に寒い日だったと思う。でも暑がり屋の僕は学校から本屋の前まで250ccのバイクに乗って来た。
     あの日から僕らは4年半も会ってない。冷たい寒い12月のあの夕暮れから、僕らはずっと離れ離れになっている。愛子は博多で、僕はそのままずっと長崎で、僕らはお互い離れ離れに暮らしてきた。僕はとても寂しかった。愛子は青春を謳歌していたような気がする。でも僕はその頃から精神病者に変わり果て、ずっと孤独な年月を送った。とくにこの2年半はずっと一人きりだった。
    
    
    
    
           (学四・三月)
     愛子
     君と一緒に歩いた護国神社の前の小さな道、もう春になりかけた今、歩いている。君を苦しめ、僕たちの間を裂いた僕の対人緊張症はそのままで、僕はまた留年するかもしれない。一生懸命、一生懸命勉強しているけど、僕の頭には少ししか入らなくて……。
    
    
    
    
     愛子へ
     今さらこんな手紙書くのも恥ずかしいけど懐しくなってきて、いま愛子はどうしているかなあと思って書き始めました。
     このまえ手紙書いたのはいつだったかなあ、と思っています。去年は留年していてとても苦しかったです。今年はやっと最終学年に進めて毎日勉強で大変です。ときどき挫けそうになることもあるけれど、僕はこのまえから小さい頃から大学一年まで一生懸命にやっていた創価学会の信心を再び始めたからもう落ち込んだり挫けたりしなくなりました。
     学校で叱られて落ち込んで帰ってきても仏壇の前に座って題目をあげてたらすっきりとします。それに創価学会に戻って本当の友達ができたしもうあんまり寂しさを感じなくなりました。
     今、夜の11時で少しお酒を飲んで書いてるのでちょっと字が乱れていると思うけどゴメンネ。愛子、元気にしてましたか? もう結婚したのかもしれないのにこんな手紙を書いてすみません。
     僕の部屋に僕専用の電話機を引いたことを書いたかなあと思います。電話番号は0958-39-4557です。パイオニアの留守番電話機を使っています。でもほとんど誰からも電話はかかって来なくて淋しいです。
     毎日勉強に追われながらも真実は何なのだろうかと、また正義は何なのだろうかと煩悶しています。創価学会をやめてただの日蓮正宗の信徒になろうかと考えたり、創価学会の改革派に付こうか、と考えたりして迷っています。
     僕もこの頃やっと愛子と会っていた頃の元気な僕に戻ってきました。2年ぐらいとても性格的にも暗くて自分のことしか考えきれない自分に陥っていました。今もまだ信仰に思い切れなくて毎晩お酒を飲んでるダメな僕ですけどでも確かに少しづつ自分が立ち直っていっているのを感じています。愛子と会ったりしていた頃の僕は信仰をやめていて落ち込んではいなかったけれど人間的に駄目な僕でした。
      すみません。もう眠くなってきたのでこのへんでやめます。
      お元気で。
                       長崎市界町9の2  ○○カメ太郎
    
    
    
    
           (7月6日)
     愛子はもう何年福岡に住んでいるのかなあと思います。もう5年も住んでるんじゃないのかなあ、と思って、僕がたった3ヶ月ぐらいしか住まなかった悲しい予備校時代の思い出の福岡の町を(自転車で駆け巡っていた福岡の町を)そしてその頃創価学会の信仰に燃えていて元気だった僕を、まだ若くて未来への希望に溢れていた僕を、人生の厳しさに(人生が自分の思うようにならないことをまだ知らなかったあの頃の僕の姿を)とても懐しく思い出しています。
     舞鶴公園のポプラの並木や
     もしも僕が卒業して九大に行ったなら、舞鶴公園の並木道は僕らの並木道になるだろう。僕らは肩を寄せ合ってその並木道を歩くだろう。お互い悲しい過去を背負ったまま、これからは幸せになろうと誓い合いながら、僕らはその並木道を歩くだろう。
    
    
    
    
    
           (7月7日)
     もしも僕が愛子と博多の町を歩いてみたら、いま手元にあって出そうか出すまいかとても迷っている手紙を出して、そうして夏休みになって、真夏の赤い太陽が照り始めるようになって、僕が孤独で愛子に会いたくてたまらなくなって、バイクに乗って、愛子に会いに行ったなら。
     よく考えてみると今日は七夕の日です。今日、仏間にインバーターのエアコンを入れました。工賃も含めて14万2千円かかりました。NECのエアコンで中味は全くサンヨーのと同んなじで、NECは今までエアコンを出したことがなかったのでダイエーでとても安く売っていました。
     もうすぐ夏休みですけど、僕はこの夏休みは仏間で勤行・唱題と勉強に明け暮れようと思っています。このままではきっと留年してしまうと思うけど、信仰を基本にして高校や浪人の頃のように病魔にも負けずにきっと卒業試験と医師国家試験に一発で合格してみせるつもりです。この頃、題目は3分ぐらいしかあげていませんが、勤行はするようになったのでとても元気になりました。本当にやっぱり創価学会というか日蓮正宗を広めるのが正義なんだなあ、と思っています。
     今も教授から怒られたりして辛い毎日ですけど、家に帰ってきて夜の勤行をして落ち込んでいる自分を直しています。辛い毎日ですけど、愛子と会っていたときのような挫折をあまり知らない元気だった僕とは今は本当に違っています。辛さについ負けそうになるけれど、そんなときは真夜中にでも仏壇の前に座って勤行したり題目をあげたりします。そうして僕は懸命にこらえているのだと思っています。毎日の辛さに。孤独と親への罪悪感に。
     
     
     愛子と、明るい愛子と、歩きたい。福岡の町を。どこか淋しい福岡の町を。愛子と肩を寄せ合って歩きたい。
    
    
     愛子の手紙を捨てたときの僕は、自分の過去を塗り変えようとしていた。学2のあの頃、留年する前のあの頃、一日3時間ぐらいしか眠れなかったあの頃、家にいろいろと悪い事が起こったり、僕はオカルトに凝ってたり、共産党の病院の奨学金を貰おうと共産党の病院へ行ってたり、僕はあの頃狂っていた。せっかくの僕の(そして愛子の)青春の形見を捨ててしまった。熊本の共産党の病院へ、自殺しようかどうしようか迷いながらクルマで旅立つとき、僕は愛子との手紙の入った袋を捨てた。
    
    
     愛子と福岡の町を歩くとき、僕にも青春が戻って来るだろう。元気だった22、3歳のあの頃の僕、きっと僕に青春が戻ってくるだろう。元気だったあの頃の自分が、まだ自信に溢れていたあの頃の自分が。
    
    
     愛子。僕らが手を繋いで歩くときは福岡の町はまっ暗でもう2時、3時くらいなのかなあ。僕らはきっと僕らのアパートに向かって歩いているのだと思う。もう2時、3時でほとんど人通りのない薬院や○○の通りを僕らは。
     まるでそこは5年前の護国神社の周りの道のようだね。あのときは12月でとても寒くて、そして夕方でほとんどまっ暗で。
     5年前と愛子はちっとも変わってないし(ちょっと大人になったなあ、という感じはあるけれど)僕は苦しくてとても淋しい3年近くの年月を経てきてそれにすっかり痩せてしまったけれどこの頃また創価学会の信仰を始めたから元気になりかけている。僕は元気になりかけたから久しぶりに愛子に手紙を出したのだし、電話でも明るく喋って、そうして今から福岡へ行くからね、とクルマに乗って夜の9時なのに家を飛び出したのだった。愛子に会いたくて、久しぶりに愛子に会いたくて。
     僕がクルマを置いてきた所から愛子のアパートまでちょっと歩かなければならなくって、今僕らはこうやって歩いているけれど(そうして愛子は5年前の護国神社の道のときのように言葉少なく俯いているけれど)僕も3時間半もクルマをまっ暗な中を運転してきて疲れているんだよ。でも愛子と出会えた嬉しさに今こうやってとめどもなく喋っているけれど。
     愛子。愛子が福岡に来たときも高校を卒業してすぐだったけど、僕も大学受験に失敗して高校を卒業してすぐ福岡に来たんだ。2ヶ月して僕は長崎に帰ってしまったけど福岡での2ヶ月は本当に楽しかった。苦しいことの方がずっとずっと多かったけど(だから福岡の予備校を2ヶ月でやめて、そしてまた夏休みの頃、一週間ぐらい福岡に戻ってきたりしていたんだけれど)あの頃は毎日三時間題目をあげていたから楽しかった。
    
    
    
    
                       (7月8日 夕方)
     赤坂の夜の道を愛子と歩くことを考えると、(あの少し緩やかな坂道を。大きな高級マンションが立ち並んでいるあの通りを。綺麗な舗装されたばかりのあの道を)休みの日、一日じゅう家に居て酒を飲んでいる僕に(なんだかこの頃お酒のためかとても吃りがひどくなってしまった僕だけど)本当に19の頃の僕に帰ったような(元気だった、未来への希望に溢れていた僕に)帰ったような気がします。
     あの頃、一生懸命だった僕。信仰と勉強とそして自転車競技に一生懸命だった僕。あの頃は永松と(永松は結局九大の物理学科に現役で入ったけれどもパチンコで100万円借金を作ったりして放校になったけれど。高校の頃はとても真面目だったけれど)夜のこの警固の道を2時3時ぐらいに歩いたのだった。あの頃僕は浪人していたけれど、来春は京医に入るのだと燃えていた。もうその頃発病していたのだけど自分では気付いていなかった。
     もうあれから9年が経つ。9年間、始めの頃僕は元気だった。でも留年を重ねるにつれて僕は“死”を願うようになっていった。何事にも楽しさや喜びを得られないようになっていた。
     苦しい後半の4年間だった。自殺の一歩手前で僕は4年間生きてきた。そしてこの頃再び創価学会の信仰に励み始めた。19や20の頃、そして中学・高校の頃の自分に舞い戻ったような気もしていて、毎日とても元気になって楽しくなっていて不思議な気がする。
     自分にはやっぱり日蓮正宗の信仰をするより他に生きてゆく道はないような気がする。こんな僕が生きてゆくためには。僕には創価学会の信仰をやっていかなければ駄目なような気がする。
    
    
    
    
                         (7月10日 夜  酒)
     愛子。僕は以前福岡の街の中を本当に自信に溢れて歩いていたことがあった。あれは僕が18の頃だった。春から夏へ変わろうとしているときだった。僕は元気だった。浪人していたけど、来年はもっといい大学に(京医か東大理三に入るんだ)と思っていた。
     あの頃の僕は自信でいっぱいで、それに決して不幸でも淋しくもなかった。友達や知り合いはたくさんいたし、僕は元気で、折伏をしようと福岡の友達の所を駆け回っていたぐらいだった。
     僕はその頃まだ自分の病気には気づいていなかった。教室でとても緊張してしまって頭がよく働かないのをあんまり気にしていなかった。成績がものすごく下がったのもあまり気にしていなかった。僕はひたすら題目を毎日3時間ぐらいあげていて、とても元気だった。
     あの福岡の町。綺麗に化粧した女の人たちがたくさん歩いている町。みんなみんないい洋服を着ていてみんなとても綺麗に化粧していた。
     僕の思い出の中の女の子よりももっと魅力的な女の子もたくさん福岡の町を歩いていた。みんなとても綺麗だった。綺麗な女の人ばかりが九州じゅうから博多の町に集まっているんだ、と僕はその頃思っていた。
     毎日、僕は天神に食料品などを買い込みに行ってたし(その頃僕は自転車競技でオリンピックに出て金メダルを取るんだと、悲しい辛い中学・高校時代の埋め合わせのためにそうするんだと本気で思っていたから)ときどき見る寮の近くの女の子はみんな綺麗だった。
    
    
    
    
                             (6月30日)
     僕の悲しい癖は、君を傷つけ、君を悲しませ、そして君を遠く福岡へとやってしまった。
     僕のこの悲しい癖は、高三の終わり頃、一生懸命受験勉強していた頃に付いてしまった。
     君を悲しませ、君に次の日の期末テストの勉強をできなくさせ、一番就職に大事なテストだったのに、歴史で赤点を取らせて、僕が君が一番に志望していた就職先をダメにしてしまった。この僕が。こんな僕が。
    
     君も悲しんだし僕も悲しんだ。僕は一人きりの淋しい年月をそれから何年も過ごしたし、僕はそれに2年ぐらい前から何度も自殺を決意したぐらいだった。三度も留年したし、それにまた留年するかもしれないし。
    
    
    
    
                           (H1,7,12)
     愛子
     もしも僕が創価学会をずっとずっと続けていたならば、僕の人生は、そして愛子の人生はとても違ったものになっていたと思う。もし僕が愛子と知り合ったときまだ信仰を続けていたら僕は一年近くの空白もなくて、そのまま僕が20歳半の頃からずっとつき合っていたと思う。それに愛子に辛い思いをさせたりなんてしなかったと思う。
     そして僕はもうとっくに結婚していて(愛子でなくっても誰か女の人と結婚していて)毎日仕事と信仰に追われていたと思う。きっと今の現在の僕とずっとずっと違った、そしてずっとずっと幸せで恵まれた状況にあったと思う。でも現在の僕は苦しくって、とってもとっても苦しくって、宗教に身を捧げるようにしていてやっと生き延びているような僕です。
     大学一年の十一月、僕はクラブや勉強や文学、それに信仰とあまりにも荷が重すぎて行き詰まり果てて、そうして信仰を捨ててしまった。信仰を捨てて本当に肩の荷が降りたような気がした。それまでは信仰のために一日少なくとも3時間は取られていたから。
     でも僕は信仰をやめて、人間的に堕落し始めていた。自分のことしか考えきれない自分になっていっていた。そして愛子と出会う4ヶ月前の合コンで僕が中学三年の頃からずっと片思いをし続けてきた女のコと偶然一緒になってそして冷たくふられてそのコは僕のクラブの親友になびいていった。
     僕はだからあの頃はとても苦しかった。愛子と出会わなかったら僕はもう寂しさに耐えかねて(それに人間不信にもなって)発狂していたかもしれない。
     僕があの頃発狂しなかったのは愛子たちの明るさや元気さに触れて人間不信になりかけていた僕の心に灯を灯してくれたからだと思う。僕は親友に裏切られ、クラブのみんなから蔑まされていた。
     素直に信心していたら良かった。素直に信心してたらもうとっくに卒業していただろう。高三の2月13日、東小島の霊能力者のところにノドの病気を治して貰いに行かなかったら、僕はこんなたいへんな病気に懸かってなくて、現役で九大医学部に入ってて、そうしてもうとっくに医者になっていただろう。もしもあのときあんなところに行かなかったら、たとえ行っても心霊治療を受けずに断って帰ってきてたら、そうしたら今ごろ僕は。
    
    
    
     カワサキのFTに僕はその頃乗っていた。愛子と始めて待ち合わせをしたとき(デートをしたとき)、僕はあの護国神社に僕が自分で塗った黒塗りのカワサキのFTで行った。思い出のあのFTもでも今はなくて、もう何処かのクズ鉄になってしまって、まるで僕らの恋のように、まるで僕らの青春のように。 
                           (H1,8,27)
    
    
    
    
    
    
                     (東支那海を望む丘の上にて)
     愛子へ
     ずっとずっと昔にあの大きな海の向こうに大きな大陸があってムー大陸と呼んでいた。今僕らが見ているのは五島列島か中国大陸だけれど、太平洋の方に行くとずっとずっと昔、大きな大きな島がハワイ諸島のところにあってとても栄えていたのだって。そして僕らは前世、そこでも恋人どうしだったのかもしれない。
     冷たくなった秋の風が僕の体を打ってるけど、僕は死ねない。僕が死ぬときは、もう海の向こうの中国大陸が見えなくなったときだろう。
     でもそのとき僕はきっと死んでいると思う。目が見えなくなって、僕がベットの上で、苦しんでいるときだと思う。
    
    
    
    
     夜11時半ごろ電話が鳴った。でもそれは一回で切れた。僕はいろいろと考えた。もしかしたら君なのかって。福岡の君からかって。一人でアパート住まいしている君からかって
    
    
    
    
     僕は立っていた。12月のあの雪の降る寒い夕方、君を待って本屋の前で、250ccのバイクの横で待っていた。6時頃、君が来ると思って待っていた。
    
    
    
    
                        (H1,11,16)
     君は僕のために希望していた博多の会社に入れずにベスト電器の店員となった。君への罪悪感と、そして今君は何しているのだろう、何処に(たぶんまだ博多に住んでいると思うけど)引っ越していって、そうして今どうしているのだろう。僕の手紙が宛先人不明のまま戻ってきたから君はもうベスト電器をやめたのだと思う。そしてもしかしたらもう結婚して(誰かと一緒に住んで)いるのかもしれない。
     僕は君をとても傷つけた。高校三年生の大事なときに君をものすごく傷つけ、期末テストでものすごく悪い点数を取らせて、希望していた会社に入らなくさせた。僕は君の一生をめちゃくちゃにしたのかもしれない。そして君は今、(僕より5つ年下で早生まれだから23歳になっている君は博多の何処かで誰かの男と一緒に暮らしているのかもしれない。
    
    
    
    
    
                         (1989、11、17)
     君は福岡のアパートで、23歳の青春を、もしかしたら誰か男のひとと一緒に送っているのかもしれない。長崎には僕や(君を苦しませた…本当は本当は愛していたんだけど、君は福岡の博多の僕が浪人の頃自転車でよく通っていた道のどこかのアパートに君は住んでいて、一人か二人か解らないけど…幸せな人生をこれから歩んでくれることを思っている。そう思って愛子のことを悲しく思い出している。
     君が今から幸せな人生を歩んでくれることを、無責任な僕だけど、君を苦しませた僕だけど、僕は君が病気にも何にも犯されずに幸せに過ごしてくれることを、そうして僕らが老人になって久しぶりに会って、僕たちの人生が幸せだったことを確かめあいたい。
    
    
    
    
     君は福岡のアパートから僕にときどき電話をくれてるようにも思う。でもいつも二回(三回鳴ると録音されるから)で切れているように思う。君は僕を思い出して懐かしがって僕にときどき日曜日に(それも午前中に)電話をくれているのだと思うのだけれど。
     もしも僕が死ぬことができたなら、眠るように、そして母や父にも迷惑をかけないで、一人ぼっちで、死ぬことができたなら。
     君は福岡で楽しい日々を、もしかしたら寂しい日々を送っているのかもしれない。僕もこの前、10月だったと思うけど、福岡まで創価学会の会合で行ったんだ。君のすぐ傍に僕は行ったんだ。でも会えなかったけれど。日曜日でポカポカと暖かい日だったけれど。
     僕は会合が終わってからバスを待つまでの間、近くの公園のベンチの上で寝ころんで一時間近く眠った。夢を見た。君の夢だったかどうかあんまり自信がないけれど、昼ご飯を食べたあと、僕は陽の光に照らされながら博多の南区の公園のベンチで一時間くらい眠ったðB
    
    
    
    
     君は寂しさを残して去っていって、僕は一年後、あんまり寂しくなって精神科の門をくぐった。君は
    
    
    
    
     愛子
     君は結婚して、もう遠い遠い福岡でなくてもっと遠い岡山か大阪あたりに行っているような気がする。君がベスト電器の寮から出てアパートかそれとも間借りかに(たしかアパートだったと思うけど)住むようになって僕が出した手紙が宛先不明のまま寂しく戻ってきたとき、あれは夏のことだったと思う。僕が比較的元気だった創価学会をしていた頃の夏休みの頃のことだったと思う。
     君は六年ぐらい前、白い鳩になって長崎駅を飛び立って福岡へ行き、そしてそれから2年ぐらい君からときどき手紙が来たりしていたけど僕は返事を出さなかった。僕は金持ちのお嬢さんと結婚するんだ、とても家柄のいい女の人と結婚するんだ、と思っていた贅沢な僕だった。
     愛子が居た頃は元気だった僕は、愛子が福岡へ行ってからちょうど一年ぐらい経ってから欝病みたいになって今年の春頃まで苦しんできた。今も卒業試験があっていてそして落ちそうでとても苦しんでいるけど
    
    
    
    
     君が僕にくれた文庫本を僕は何処へやってしまった。君を忘れていたあるときに。誰かほかの女の子と結婚するんだと思っていたあるときに。
     12月の、寒い、夕暮れ時に、君がバスへ駆け始めながら僕に渡したその文庫本の題名は何だったか僕は思い出せない。もう四年も五年も前のことだから。寒い夕暮れ時の、雪の降りそうな日のことだったから。
     君はその文庫本を僕に手渡して今にも発車しようとしているバスまで走っていった。12月の、ちょうど今頃だったと思う。雪が桜の花のように散っていて、とても寒かった日のことだったと思う。
     君は雪のなかへと走っていっていた。君の背中は雪で白く覆われ始めていた。君は僕のもとからバスへと元気いっぱい走って行っていた。あの6年前の雪の日に。
     白い雪のなかに消えてゆく君を、僕から遠ざかって走ってゆく君を、僕はバス停まで見送っていた。雪のなかに吸い込まれていくように消えてゆく君の駆けてゆく姿は悲しげで、僕は愛子のためなら何でもしよう、と思った。でもそれが最後の出会いになるなんて。12月の寒い日のその日の出会いが僕らの最後の出会いになるなんて。
     雪のなかに消えていった君と、僕はもう6年間も会っていないのだろう。君には充実した6年間だったかもしれない。でも僕は一人ぼっちのずっと一人ぼっちの6年間だった。
     あの日、僕はハム無線の本を読んで君を待っていたっけ。その日は君と最後に会った日よりもずっと寒い日だった。雪がどんどん降っていたけど、僕はバイクのカワサキFT250に乗ってそこまで来た。雪がどんどんと激しく降ってきていた。もう目の前も見えないくらい激しく降ってきていた。
    
    
    
    
     君は福岡でどんなクリスマスイブを送っているのだろう。僕は長崎で、いつものように一人ぼっちのクリスマスイブを送っている。一人でお酒を飲みながら。テレビを見て泣きながら。
     君と一緒に歩いたあの道は、いつも5時か6時頃で薄暗くて、そしてとても寒くて、雪が降っていた。白い白い雪が、僕らの肩に降り注いできていた。
     君を捜して、僕一人で、あの道を駆けて歩いたことがあった。あの日はとても寒い日で、とても寒がりやの君には、いつもの本屋さんまで行くのがとても辛かったと僕は思うけど。でも僕は一人で雪の降る暗い道のなかを君を捜して走った。
    
    
    
    
     君はもう23歳になって、今度の暮れに長崎に帰ってくると思うけど、僕に電話してくれるだろうか。卒業試験に追われて、孤独で、孤独でたまらない僕に。
     君から電話がかかってきたら僕はどんなに喜ぶだろう。僕は結婚の申し込みをするかもしれない。毎日毎日が自殺直前の苦しい日々だから、それに親のためにも、僕は君に結婚の申し込みをするかもしれない。
     五年ぶりに見る君の姿は変わっているだろう。僕はやつれ果てて、頬骨が出てて、顔色がまっ白になっていて、かつての元気だった僕とはすっかり変わっているのを見て君は驚くだろう。
     もしも君と会うとしたら、あの雪の降っていたとても寒い夕方から、5年ぶりのことになるのだけど。本当に5年ぶりのことになるのだけど。
     あの頃の純粋だった君。元気だった僕。僕らが5年ぶりに出会って。
     もうあの日から千五百日余りも経ってしまった。僕が変わったように、君もとても変わったと思う。でも僕らの心は五年前のあの雪の日のままで、僕らはきっと
    
    
    
    
    
                          (12月28日)
     幸せな君は、もう僕なんて目のなかにないのだろう。でも僕はアフリカや南アジアなんかで苦しんでいる人たちのために命を捧げる決意がある。もう君なんて僕の目のなかにはないような気もする。
     もう正月が近づいてきて君も実家に帰り始めてると思う。でも僕の胸にはもう君はいない。僕は一人で
    
    
    
     君とあの燈台の下で誓えば良かった。でも僕らはずっと無言だった。僕らは俯いていて、雪が降っていたっけ。
    
    
    
    
     君はそんなに雪の降るあの日、凍えるような夕方、僕を待つのを嫌がったのだろうか。いや、君の友だちだと思う君から送って貰った写真に載っていた可愛い2人の女の子が愛子の代わりかもしれないけれど、愛子が今日来れないことを知らせにか本屋に来ていたけれど。
     でも僕はその本屋の前を愛子がいないかな、と思いながらバイクでゆっくりと行ったり来たりした。雪が降っていて僕はマフラーをしていてその2人の女の子も寒そうだった。
     とても寒がりやの愛子、ごめんね。あんな日に呼び出してごめんね。それにもっと学校から近い所で待ち合わせをしていたら良かったのにと僕はとても反省している。
     雪がこんこんと降っていて、僕はバイクの上で君を捜していた。雪がこんこんと降っていて、君が来なくて僕は悲しかった。
    
    
    
    
                            (1月12日)
     君はバイクに乗って海へ行きたいと言っていた。でもあの頃のバイクはもう無くて(もう5年も6年も前のことになるから。3年ぐらい前、僕のそのバイクが公園の隅に捨てられていたと後輩が言っていたけれど)そして正月ももう過ぎて君はもう福岡へ帰っていったと思う。僕のことなど全く考えてなくて。
    
     
    
    
     愛子。僕たちは二人だけで幸せになるんだと、手紙に書いてきたと思うけど、誰からも見捨てられても、ただ友達からだけで祝福されると思うけど、親から見捨てられても、一人だけで幸せになるんだと。
    
    
    
    
     君とあの燈台までの道を歩いたことがあっただろ。君がまだ高校三年生の頃、君はセーラー服を着ていた。秋でもう冷たい風が吹いていて僕はバイクに乗るときの防風ジャンバーを着ていて、でもそれでも寒かったことを(寒がりやの君は僕よりもっと寒かったようなのを)僕は今でもときどき思い出してしまう。辛くなったとき、夜遅く茶碗を洗っている昼間の仕事で疲れている母の体のことを思いながら。
     君はあのとき言ったと思う。
    『私、県外就職に決めました』
     そう言ってるとき僕を見つめる君の目はとても哀しげだった。燈台の下でだったと思う。
     もう一番星が出ていたと思う。長い気まずい沈黙のあと僕は言ったと思う。
    『ほら、あの星も長崎に居てもまったく同じに見えるんだ。まったく同じ方向に見えるんだ』と。
     帰り際、鈴虫の声が聞こえていた。僕らは無言で歩いていた。俯く君を……県外就職にしたと言った君を慰めるために僕は何か言わなければならなかったのだけど僕は吃って喋れなかった。
     ……鈴虫が鳴いていた。たしかに鈴虫が鳴いていた。僕らを慰めるように鈴虫が鳴いていた。
     僕たちは鈴虫の鳴いているその小道を急いで戻っていった。すぐ近くに愛子の住んでるアパートが見えていたし、海岸への入り口に置いてきた僕のカワサキのFTも見えていた。愛子は『カメ太郎さん。帰り際、寒いでしょ』と言った。僕は『いや、僕は暑がりやだから。とっても暑がりやだから寒くないよ』と言った。
     でもとても冷たい風がそのとき僕の顔を打っていた。
    
    
     僕は君との恋以来、恋みたいなものをしていない。君とは結局手も繋がなかった。でもたくさん手紙のやり取りをしたし、電話もしたし、何回かデートもしたし、あれはたしかに恋だったと思う。僕が今まで始めて恋をしたというか、女の子とつき合った経験だった。
     君は遠く福岡へ旅立ってしまい、やがて音信不通となってしまった。君は寮を出てアパート暮らしを始めたようだけど、君はもう(手紙に精神病院のことを書いたことが一番いけなかったのだと思うけど)僕のことを避けるようになってしまったようだ。
    
    
    
    
                          90・2・14
     愛子
     もう僕らの青春は戻って来ない。僕らは幸せを目指して、毎日毎日醜い日々を送らなければいけないと思う。辛いけど、本当に辛いけど……
    
    
    
    
     愛子へ
    『僕は何をしてたんだ。今まで何をしてたんだ』という思いで、台所で働く母の後ろ姿を見ながら
    
    
    
    
     灯台の向こうに僕らの楽園があって、魚が戯れていて、海藻が生い茂っていて、みんな幸せで、僕も幸せな世界がきっとあると、僕は確信している。
     君は高校三年生なのに強かった。僕は君より5つ年上なのに弱かった。僕らは冷たい北風の吹きすさぶ灯台の下で語り合った。本当に君は元気で、僕のために志望していた会社に行けなくなったことを少しも顔に出さなかった。本当に君は元気で、北風のように寂しい僕の心を慰めてくれていた。
     灯台の向こうに、僕らの幸せな世界があることを、君も、僕も知っている。とても幸せな世界があることを。
    
    
    『もう灯台にも灯りがついたね』
    『ええ、もう灯台にも灯りがついたわ』
    『もう薄暗くなってきたね』
    『ええ、もう薄暗くなってきたわ』
    ……僕と愛子はとりとめもない話をしていた。
    『もう暗くなってきたね』
    『ええ、何処が足元か解らないくらい』
    ……僕はそれでもピョンッ、ピョンッと飛び跳ねるように歩いていたが愛子は僕よりずっと遅れてゆっくりと岩場を歩いてきていた。もう夕陽は海の向こうに沈みかけようとしていた。
    
    
    
    
     僕も、君も、幸せを追い求めてきたけれども、幸せは何処にもないね。もう東長崎のゴミ焼場に、僕らの手紙のように捨てられ焼かれていったのかもしれない。僕は何ヵ月ぶりぐらいにお酒を(おとそを)飲んでいるけれど(…何杯も…何杯も…)“幸せ”って何処にも見当たらないことを(たぶん、今、帰省している愛子のことを考えながら、そうして精神病院の一室から出した手紙をとても後悔しながら、精神病院って世間の目はとても厳しく、愛子は僕が狂って精神病院の一室から手紙を書いているのだと誤解したようだけれども)辛い毎日の羅列に終止符を打ちたい、と僕は3年ぐらい前から望んでいたけれども、幸せは遠くて、僕は苦しんで、とても苦しんで、そして右往左往して、僕はノイローゼになりかけている。今にも僕の頭はパンクしてしまいそうになっている。
     幸せは何処にあるんだと、僕は昨日も昨夜も暗闇のなかを探索し続けた。僕には“幸せは何処に在るのか”解らなかった。冷たい世間の目と、厳しすぎる現実の目が、僕を覆って暗くしていた。
                      1991・1・1  AM 6:00
    
    
    
    
                               完
    
    http://sky.geocities.jp/mmm82888/2975.htm

愛子(完)no.4

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     愛子
     もう君のことはずっと前のことになるのに僕はまだ君のことにこだわっている。僕は君へ犯した罪のために、いや君のことを思ってじゃなくて君を傷つけた悪い癖のために、ずっと人を避けてきた。淋しい淋しい毎日だった。人と会うととても緊張してしまう僕はなるべく一人でいようとしてきた。教室でも友達を作らずなるべく人から離れた所に一人ポツンと居るようにしてきた。それに僕は授業に出てもとても緊張してしまってあんまり勉強もできずに3年も留年してしまった。
    
    
    
    
     カメ太郎さん、元気にしていますか? 私、何度も何度もカメ太郎さんの家に電話したのですけどいつもいつも居なかったからそのうち電話するのが億劫になって…
    (天井を見ていると思い出されてくる愛子の手紙の端々ももう今の僕には遠い昔の思い出になりつつある。すべて僕が、そして手紙を捨ててしまったことが悪いんだ。
    
    
    
    
     愛子。僕らが始めてデートしたあの護国神社での待ち合わせの時間は何時だったかな? あれは5時半じゃなかったかな? それとも、あれは僕が解剖実習で遅くなるかもしれないということで5時半から6時15分までの何時かだった。愛子、期末試験前日の日に呼び出してごめんね。そしてそのために。
     僕はこの手記をなんだか気が変になりそうな心地のまま書いている。僕は創価学会に戻ろうか戻るまいか迷っているけどやっぱり戻るまいと思っている。このまま発狂するか死んでしまうかもしれないけど僕は芸術の方を取ろうと思っている。
     僕は今御飯前なんだけど(晩御飯前に書きものするってここ2年ほどの僕にはとても珍しいことなんだけど)さっきお風呂に入っていたら霊感みたいなものが湧いてきて『書かなくっちゃいけない、書かなくっちゃいけない』と思ったから今こうして書いている訳なんだ。
     愛子。僕はもう死ぬかもしれない。その予感に踊らされるようにして僕は今これを書いているんだ。
     死ぬ前に愛子への罪滅ぼしと言うか、最後に書いておかなくっちゃならないことがたくさんあるような気がして。
    
    
    
    
    『愛子。今頃電話してきたってもう遅いよ。もう僕の心は半ば亡霊になりかけている。僕はもう淋しさや辛さ・苦しさに耐えきれない。愛子の声ももう僕を元気づけてはくれない。僕の魂はもう半分霊界へ旅立っているんだ。僕の人生は挫折や苦労の連続だった。僕はもう疲れきった。もう27年になるだろう、僕がこの世に生き続けてから。僕は僕と同じ年のみんなが次々に結婚していって幸せな第2の人生をスタートさせているのに僕には第一の人生も悲惨なものだった。あまりにも過去が今思えば悲惨だったために僕は今こうやって死んでゆくのかもしれないし……たぶんそのために死んでゆくのだと思う。愛子。電話するのがもう一日でも早かったならよかったのに。昨日までの僕にはまだ立ち直れるチャンスと勇気があった』
    (僕はガチャンと電話を切った。深いため息を僕はついていた。その深いため息が何回も何回も続いていた。永遠に、きっと僕が死ぬまでこのため息は続くらしかった。
    ……愛子、遅すぎたんだ。せめてあと一日でも早かったならば。愛子、遅すぎたんだ。
    
    
    
    
     愛子へ
     この部屋に居ると懐かしいあの頃のことを思い出してきます。あれは何年前のことだったでしょう。僕はよくこの部屋から愛子に手紙を書いてました。生理や細菌などの実験の合間を縫って。あれは僕が学一(3年生)のときでした。僕は今学三(5年生)であれからまた2年留年しましたからもう4年も前のことになります。
     4年前、あの頃僕はまだ元気いっぱいで、自信に溢れていて、希望に満ちていました。でも今もう疲れ切ったというか、希望や自信がはかなく崩れ去り僕は毎日沈んでいます。小さい頃から大学一年までやっていた創価学会に戻ろうか、という気もよくします。僕はもうかつての元気だった僕ではありません。自殺をしようとしたほどの落ち込み果てた落ちぶれ果てた僕になってしまいました。
     本当にあの頃は元気でした。教養で一年留年していましたけど、もう留年することはないと思っていましたし。でもあれから2年も留年して、愛子と文通したり会ってたりしていた年真面目に勉強していたら良かったととても悔やんでいます。
     もうそうしたら卒業して半年が経っていたはずです。でもその年留年して泥沼にはまり込んで卒業まであと少なくとも一年半あります。
     愛子。元気にしていますか。愛子もずいぶん変わっていることと思います。もうあれから四年経っていますから。
     もう愛子の思い出も雲の上のようなものにしか僕には思い出されません。でも遠い昔本当にあった純粋な愛の思い出として今から社会へ巣立つ僕にとても懐かしい青春の記念としていつまでも残り続けると思います。本当に有り難う。そうして迷惑ばかりかけ続けてごめんね。
    
    
    
    
    
     愛子へ
     僕は文学を捨てるかどうかとても迷っている。僕は昨夜もあまり眠れなかった。睡眠薬を飲んで朝までたっぷり寝てそして朝冴えた頭で小説を書こうという気と、夜2時頃から眠れなくなって、勉強したりしていました。でも勉強も頭に入らずまた布団の中に入ったけど眠れず、クスリを飲むべきか飲むべきでないか激しく悩みました。
     来週の土曜日は僕の誕生日ですけど僕はまた淋しい一人っきりの誕生日を迎えるんだなあと思います。僕の27歳の誕生日を。愛子からプレゼントでも来ないかなあと心待ちにしながら。
     僕の頭はぽーっとなっています。よく眠れなかったから。試験が近づいているのにこれではだめなのに。
    
    
    
    
    
     愛子へ
     僕の心にできた空白は大きく大きく、僕は飛び立ってゆきたい。もう愛子の福岡も嫌だ。どこか知らないところへ、白い霧に覆われた静かな山奥のようなところへと、僕は行きたい。そして一人っきりでとぼとぼとそこを歩いてみたい。僕の心が晴れるときまで。
     もう愛子の福岡も悲しみに満ちていて、町を歩けば家々から嗚咽の声が漏れてきそうで、僕は人のいない静かな山奥へと、ゆっくりと歩いてゆきたい。そしてどこかに大きな腰掛ける石があったら、そこに座って僕の今までの人生を振り返ってみたり、思い出に耽ってみたり、でも寒いような、冬の山奥は寒いような気がする。僕はこたつを出して、そしてその中で時を過ごそうかなと思う。ポカポカとしたこたつの中で、何も考えず、学校にも行かず、静かに時の過ぎてゆくのを待っていようかなと思う。
    (二十七歳の誕生日を8日後に控えたある暗い朝に)
    
    
    
    
    
     愛子
     僕の二十七歳の誕生日はもう夜の7時半になろうとしている。僕は一人お酒を飲んでそして夜ごはんを食べて2回へ上がって来てこれを書いてます。淋しい僕の二十七歳の誕生日はこうしてもう終わろうとしています。誰に祝われることもなくひっそりとした淋しい二十七歳の誕生日を。
     2、3日前からとても寒くなってきて僕は昨日も今日もバイクでなくてクルマで学校へ行きました。家ではエアコンを入れてもまだ寒いです。
    ……夜が明けた。僕の誕生日は何も祝われないままに夜が明けた。
    
    
    
    
     君と歩いたあの道を僕はいつまでも忘れないだろう。あの冬の道を…僕はいつまでも忘れないだろう。あれはもう4年前のことだった。寒い寒いもう日がとっぷりと暮れていた学校帰りのことだった。あのころ僕は元気だった。僕にはまだ希望があった。でも今はすべての希望がことごとく崩れてしまったようなそんな気がする。
     あの護国神社のまわりの道を僕らは歩いたっけ。もう時刻は6時半だったと思う。12月なのでもうまっ暗だった。
     でも僕らは元気にその道を歩いたっけ。君は『寒い、寒い』と言ってたけど暑がりやの僕にはそんなに寒くはなかった。
     あの暗い夜道を歩いて以来僕らは会ってない。あの寒いあの日から僕らは出会わなくなった。あの日、黒い悪魔が僕らを取り囲んでいたっけ。僕らの心はあまりにも純粋ですぐに護国神社の周りに浮遊していた悪魔からいたずらされてしまったのかもしれない。
     あの悲しい別れの夜、愛子は走ってバスへと向かった。商業高校までのバス停へみんながたくさんバスに今にも乗り込もうとしている所へと愛子は走っていった。僕は愛子から贈られたプレゼントを持ったまま悲しく揺れ動く闇に向かって走ってゆく愛子の後ろ姿を見送っていた。もうこれが僕らの最後の別れになるとも知らずに。
     あれから何度か愛子から手紙が来た。でもそのころの僕は孤独ではなかった。僕は愛子に返事を書かなかった。僕はこれから違う人間になるんだと心に決めていた。どこか金持ちのお嬢さんと結婚しよう、と考えていた僕だった。
     愛子があの日僕に渡したプレゼントは小さな綺麗な文庫本だった。いつかその本は失われていた僕の心が愛子から離れていた僕が統一教会の綺麗なお姉さんに憧れて愛子のことを考えなくなっていたあの悲しい時期に。
    
    
    
    
     愛子へ
     僕は創価学会へ戻ることにしました。七年前、小さいころから熱心にやってきた創価学会をやめてから、僕はいろいろな宗教を転々としてきました。瞑想法やヨガもやってきました。でもそれらは何も僕の心を支えてはくれませんでした。僕は落ち込むばかりでした。2年前からノイローゼになってよく湧いてくる希死念慮と戦う日々にもう疲れ果てて、あれだけ感情的に嫌っていた創価学会に僕は戻ることにしました。僕はやっと最終学年になりました。ちゃんと勉強したら一年後には卒業して国家試験にも合格して医者になると思います。でも創価学会をしなかったら僕は暗いうじうじした自分から脱皮できないと思います。明るく元気になってそうして頭も冴えるし勉強のための意欲も湧いてきます。
     きょうは今さっきまで学生部の活動をしてきました。何年間も続いてきた孤独感が今日一日で消え去った感じがします。
    
    
    
    
     愛子へ
     このまえ手紙出したけどまだ返事が来ないので心配です。僕たちは今、夏の合宿のまっ最中です。さっき晩飯を食べたあとみんなで稲佐山まで行ってきました。稲佐山からは愛子の住んでる香焼町は灯の消えた闇の中に静かな湖のような長崎港の沿岸に淋しげに見えて僕はとても悲しい気分に浸りました。
     闇の向こうに浮かぶ香焼の100万トンドックの向こうに愛子は住んでいるんだあ、今ごろ何しているのかなあ、と思ってとても悲しい思いに浸っていました。観光客も来てて僕は先輩からバスガイドさんに話しかけさせられました。でもとってもいいガイドさんで僕が『もうすぐある試合のために柔道の合宿をしています』と言うと、『どこから来られたのですか?』と言われたので僕は先輩からせかされるままに『東京から』と答えました。
     ガイドさんは東京から長崎まで合宿に来たのを少しも不思議がらずに信じていたようでした。
     思えばそのガイドさんは愛子によく似ていたようでした。僕は久しぶりに女のひとと喋ったのでとても胸がときめきました。そして春ごろからもずっと続いていた心のわだかまりもかなり薄れたような気もしました。
     でも少し薄れたように思える僕の心の淋しさも明日の夜になるとまた元に戻っていると思います。せめて僕が合宿が終わって家に帰って名古屋まで試合に行くまでに愛子から手紙が来ていないかなあと思っています。
    ※(教養留年の夏、僕が愛子に2度目の手紙を出してまだ返事が来なくて心配していた頃に書いたもの)
     愛子からは翌年の春まで全く連絡が途絶えたきりだった。
    
    
    
    
    
     愛子へ
     僕は昨日一人で香焼の浜辺まで行ってきました。もう僕が手紙を出してから2ヶ月が過ぎようとしています。9月も過ぎ10月になりかけています。もうバイクに乗るのも少し寒いくらいになってきました。
     僕は名古屋に行ったとき買ってきたおみやげをバックに入れてバックを秋になりかけた9月の風になびかせながら愛子の住んでいる香焼のアパートの近くまで行ったけど。そして捜したらきっと愛子の家が見つかったんだろうけど僕は自分で黒のメタリックに塗ったカワサキFT250に乗って愛子の住んでるアパートを通り越してすぐ傍の海辺へ行きました。
     まだ午後3時半過ぎで愛子はまだたぶん学校なんだろうとは思っていましたけれど朝からずっと家に居て勉強してたらとても淋しくなって。
     すぐ近くに愛子の住んでいるだろうと思うアパートなどがあったしすぐ傍をアスファルトの道が通っていたのでそんなにロマンチックなところではなかったけれど、もしかしたら愛子がもう帰ってきててそのアパートに居て浜辺を歩いている僕を見つけて駆け寄ってきてくれないかな、とか想像しました。
     体育祭も文化祭もどこももう終わっているようだし何の用事もないので早く帰って来てはいないだろうなあとは思っていましたけれど。
     もう秋になりかけた浜辺は幾艘も舟が行き来していましたけれど波はとても静かでまるで湖のようでした。僕がこのまえ手紙に書いた少年の頃の思い出の浜辺はこんなに静かではありません。いつでも波の音がしてて風も強いです。でもその思い出の浜辺は人けが全くないところで何時間も佇んでいても人から変に思われるとかそういうことは全くありませんでした。
     なんだか愛子から手紙が来なくなったのはそのことを書いたからかなあ、とか浜辺を歩きながら思っていました。
     波の音ももう僕から離れていった愛子の、(僕が悪いんだ、僕が2回目の手紙で初恋のことなんかをくどくどと書いたのがいけなかったんだ、全て全て僕が悪いんだ)淋しい涙の滴る音のようにも聞こえました。2度目の手紙でいろんな変なことを書いたボク。もうすぐ22歳になるのにまだずっと一人ぼっちのボク。もう経済とか教育に現役で入った人たちはもう就職活動を始めているのにまだ九医を受け直そうかと考えているボク。馬鹿なボク。本当に馬鹿なボクだな、と思います。
                    ※(結局出さなかった手紙)
    
    
    
    
    
     愛子へ
     もうすっかり僕らの出会った商業高校での春の合宿での思い出も北風とともに僕の心のなかから消え去ってゆこうとしているようです。僕の淋しく辛かった留年時代も終わりを迎えつつあります。そうして今、後期の試験のための勉強を後輩の下宿でやっていたところです。
     僕は4月ごろ怠けていて選択科目をギリギリまでしか取っていないので今とても大変です。一つでも落とせないので焦っています。もう僕らが出会ってから一年近くが経とうとしています。夏ごろ2回目の手紙で変なことばかり書いて本当にすみません。僕は手紙を書くといつもああなってしまうというか自分でもとても反省しています。
     もうすぐ愛子も高校三年生になるんだなあと思うと虚しく過ぎてしまった一年の早さを僕は耐えられないような残念さとともに思い返してしまいます。もし愛子と一緒に過ごしていたらどんなに楽しく充実した一年になっていただろうと思うととても残念です。
     鏡も僕は朝からまだ誰とも口をきいていません。朝11時ごろこの後輩の下宿にやってきてもうすぐ4時ですけど今までずっと勉強ばかりしていました。3日後から試験が始まります。
     この後輩の下宿はコタツしかないのでちょっと寒いです。でももうすぐこの寒い季節も過ぎ去り再び僕らが出会った頃のような春がすぐ近くに迫っていることを思うと寒さも吹き飛んでしまうような気がします。
     僕は柔道はもうやめようと思っています。柔道部の人間関係が厭だし勉強にも専念したいし。
     だから今度の春の合宿で愛子と再会することはできないのでこの手紙を書き始めました。淋しさにいたたまれないような気がして。
     振り返ってみればこの一年は孤独な一年だったなあと思います。学校行ってもほとんど誰も知った人がいないし柔道もさぼりがちだったしみんなのようにアルバイトも僕は全然やらなかったし。
     でもバイクいじりをよくしていたなあと思います。9月に中型バイクの免許をとって
    
    
    
    
     愛子
     僕は君に迷惑をかけ、母や父にも苦労をかけどおしてきた。死にたくてたまらないけど…今日も昨日も何度も絶望感に駆られて自殺を思ったけれども、僕はやはり死ねない。
     今も柔道の帯を持って裏の森で首を括ろうという誘惑に駆られているけど、心の中でひたすら題目を唱えながら堪えています。
     早く卒業して楽になりたい。医者になれば僕のこのどうしようもない憂欝感も吹き飛ぶと思うけど。絶望感も消え去ると思うけど。そうして僕と同じような悩みやまた他の悩みで苦しんでいる人を救ってゆくよう僕は懸命になって、命を懸けて戦うと思うのだけど。
    
    
     愛子
     今もときどき絶望感にとらわれてしまう。でももう春になったから、眩しい陽の光が僕を照らしてくれるようになったから、元気な小鳥のように僕も元気になって、明るくなって、そうして父や母を安心させてあげよう。僕も明るくなって父や母を安心させてあげよう。
    
    

愛子(完)no.3

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     愛子。僕らの恋はもう終わったような気がする。愛子はもう手紙も電話もくれなくなったし僕から何通愛子からの返事の来ない手紙を出したかなあ。
     もう僕は27歳になろうとしているし僕より5つ年下の愛子は22歳でもう結婚するかもしれない年齢だし。
     でも僕は思うけど僕の青春はこれからなのかなあと思います。今まで本当に暗かったけど僕の青春って、少なくとも30歳までは結婚しないで青春を謳歌したいなあ、と思っています。
     僕の赤いプレリュードは恋人を乗せることなくもう2年半も経ちました。そしてこの7ヶ月ほどはほとんど乗っていません。あんまり神経質すぎる僕はクルマを運転すると頭がとても疲れてしまって勉強できないし混んでるときはとても時間がかかるし。
     愛子はもう結婚するのかもしれないけど、だから返事をくれなくなったのかもしれないけど、でも僕は自分は今からが青春なんだ、僕にとって青春は今からなんだ、と思って希望を持ってもう自殺なんて考えることなしに、たとえあと何年留年したって、何年留年したって負けずに頑張っていくつもりです。
     いつもいつも泣きべそのような意気地のないことばかり書いた手紙ばかり出しててごめんね。僕はこれから明るく生きていこうと何故か今日思っています。
    
    
    
    
     愛子へ
     もう新聞配達の音が聞こえてくるようになりました。僕の不眠症はこの頃めっきりひどくなってきました。もうどんな睡眠薬も効かないようになってきました。腹いっぱい食べてすぐ寝ることが今の一番の睡眠法です。
     この頃はめっきり朝晩は冷えてくるようになりました。もう愛子は僕から離れていった架空の中の女性だけれど、僕は淋しさにいたたまれなくてこの手紙を書いています。
     福岡はクルマやトラックの音、それに酔客の声などで喧しいだろ。でも愛子は長崎をたってからもう3年半になるのかな。僕は長崎で一人で淋しくて。
     今、僕の家の周りでは鳩が唸りをあげて飛んでいます。次から次へと何故か僕の部屋の前を横切って。そして福岡へ飛んでゆくのかなあ。この朝、愛子への思いを乗せて福岡まで飛んでいってくれるのかなあと錯覚されます。
    
    
        (僕の思いは白い鳩に乗って)
     僕の思いは白い鳩に乗って、福岡の愛子の所まで今旅立ったようです。僕が福岡の愛子のことを考えていると、窓辺の白い鳩が僕の思いを伝えようと福岡まで飛び立っていってくれたようです。もうほとんどあきらめかけ忘れかけていた愛子のことだけど、僕を救ってくれるのはとても気立てが良くて明るい愛子しかいないんじゃないかとか、そんなことを今朝思っていたら、僕の窓辺から白い鳩が幾羽も幾羽も福岡目指して飛んでいったようです。寂しい僕の心を慰めようと、飛び立っていってくれたようです。
    
    
    
    
     愛子へ
     もう遠く過ぎ去ってしまった愛子との思い出も、ああ、僕が悪魔にとり憑かれていた去年の秋ごろ、愛子の手紙を全部(そして僕が愛子に宛てて出した手紙のコピーも)捨ててしまったこと昨夜ものすごく後悔しました。僕の最高の青春のときが愛子と文通したりしていたときのことだったんだなあとか思って。
     愛子。僕はまた希死念慮に捕らわれるようになってしまった。愛子たちの手紙を全て全て捨ててしまったあの頃の悪魔にとり憑かれていた僕はなんて馬鹿だったんだと。
     愛子。僕らの青春は、そして僕らの思い出も、もう帰って来ない。僕が愛子の手紙を捨ててしまったため。あの(今もかもしれないけど)死神にとり憑かれていた日々のことを考えて。
     愛子。僕は今日にでも死のうかな。苦しいから、生きてゆくのが苦しくて辛くてたまらないから、今日にでも。
    
         (僕は羽立とう)
     僕は愛子との思い出を、虚しく虚しく捨ててしまって、そうして白い霊界へと羽立とう。白い霊界へと、愛子との清らかだった交際のことも忘れて、今日にでも、明日にでも、僕は羽立とう。白い白いもう苦しむことのない霊界へと。
     愛子との思い出のいっぱい詰まった手紙の束を捨ててしまったことをとても後悔しながら、とってもとっても後悔しながら、後悔して泣きながら。
    
    
    
    
     君をクルマの助手席に乗せて、僕はこの海へ来たかった。君は遠く福岡へ旅立ってしまい、そして僕はまた留年して、寂しさを紛らわすこともできなくなった。一生懸命勉強をすると気も紛れると思うのだけれど、留年したからあまり勉強しないでいいし、それに僕はアルバイトもできないし……
     僕は鳩になって君の住む福岡へと飛んでゆきたい。
                        (学一留 七月)
    
    
    
    
     僕が疲れ果てたとき、そっと胸を貸してくれる女のコが欲しかった。でもそのコは福岡へ行きもう長崎には居ない。もう帰って来たくないと言って、長崎からそのコは去っていった。
    
    
     僕が寂しさに打ちひしがれ始めたとき愛子はいなくなっていた。僕が留年して、そして留年していることを親に内緒にして毎朝家を出て誰も居ない友人の下宿で時間を過ごすとき、夕暮れまでそうやって時間を過ごすとき、僕は寂しくって、福岡の方の空を見上げるけど、たぶん愛子が居ると思う方向を見上げるけど、すずめや赤とんぼが飛んでいて、とても寂しくて、それに愛子は店の仕事でとても忙しいと思うから。
    
    
    
     愛子。僕は昨夜愛子と僕の手紙が夢の中でぽんっと何処からか、たぶん天国からだったような気がするけれど、落ちてくる夢を見ました。神さまが僕に、与えて下さったんだなあと僕は思いました。
     もし、本当に愛子と僕の(僕のはいいから愛子のだけでも)見つかったら(何処か押入れの奥とかから)僕はまた明るくなって(愛子と文通したりしていたときのように明るくなって)そうしてまた死のうとか考えてきたことを僕は元気いっぱいに振り切れると思うんだけど。
    
    
    
    
           (愛子)
     僕は愛子の黄色い封筒に乗って、翼立とう。天国へ向かって、もう愛子との思い出のいっぱい詰まった愛子の手紙の束を捨ててしまった僕だから、そんなとっても罪深い僕だから、それにもう苦しいから、毎日の生活が苦しくてたまらないから、飛んでゆきたい。愛子の黄色い手紙に乗って、福岡の空はもうダメだから、ただ天国へと、天国へと、僕は飛んでゆきたい。
    
    
    
    
     愛子。僕らの思い出は何処に行ってしまったんだろう。僕らの青春はいったい何処に。
     僕らの青春はもう還って来ないんだね。愛子の手紙の束のなかに詰めこまれていた僕らの愛と青春は。もう還って来ないんだね。そうして僕らはもう別々に道を歩いていっている。僕らは別々に。もう僕らの青春の思い出も消え失せて。
     時は流れてゆく。僕らの思い出を乗せて、遠く彼方に押しやりながら、そうして僕らの思い出はもうずっと遠くに押し流されてしまって、もう戻って来ない。淋しいけれどもう戻って来ない。
     僕は淋しくて泣きわめきたいほどだけど、もう戻って来ない。もう戻って来ない。僕らの思い出は戻って来ない。
    
    
    
    
         (僕は死ねない)
     愛子。僕は落ち込み果てて立ち上がれない。僕は落ち込み果てて、立ち上がる勇気が、そして希望が、見えない。もう見えない。僕には希望と勇気という二字が。
     でも愛子。僕は父や母のため死ねない。父や母の姿を今朝学校へ来るときちょっと見たけど、淋しげで、もしも僕が死んだら、どんなに悲しむだろうと思うと、僕はやっぱり死ねない。そうして親の前では、できる限り元気な振りをしていなければいけない。少なくとも親の前では。
     僕には首吊りの丸い輪しか見えないけれど、僕は死ねない。僕は決して死ねない。
    
    
    
    
    
    
                     10月1日 p.m.4:06
     愛子へ。
     もう一度文通したいけど、もう僕らの青春は還ってこないんだね。もう一度、もう一度文通したくてたまらないけれど。
     あの頃と比べてもう愛子は変わってしまったし僕も変わってしまった。大切な僕らの青春のかたみをほとんど捨ててしまった僕は、本当に惜しいことをしたと昨日夢で唸らされたほどです。
     もう一度、本当にもう一度文通し直したいけれど。本当にもう一度、もう一度。
     誰か愛子に代わる女の子を僕は見つけよう。誰か愛子に代わる女の子を。
    
    
    
    
     僕は長崎から鳩になって飛び立って、福岡まで愛子に会いに行きたいけれど、でも僕には翼がなくって福岡まで飛び立てない。それに僕にはそんな勇気も自身もないし。
    
    
    
    
     僕は夕暮れ時に長崎を飛び立って真夜中近くに愛子の住む福岡へ着くと思うけど、うまくいったら着くと思うけど。
     僕は寂しく飛び立って、愛子に会えるか愛子が僕にどう接してくれるか思い悩みながら、鳩になって長崎から博多へと飛んでゆくだろう。
     とっても寂しい鳩になって寂しさでいっぱいの鳩になって、涙でもみくちゃになって。
                       (学一留 七月)
    
    
    
    
     僕は愛子の手紙が、せめてコピーでも出て来ないかと押入れやそして今夜は文芸部の部室まで行って探し回ったけど僕は何も見つけ出せなかった。僕はやっぱりあの悪魔に完全に捕らわれていた期間、愛子との手紙をほとんど完全に捨ててしまったんだね。そしてもう戻って来ないんだね。
     僕は病気だったんだ、あの頃。悪魔に捕らわれて完全に病気だったんだ。
    
    
    
    
     あれはいつのことだったろう。愛子が福岡へ行った年の秋のことだった。10月11月と愛子からたて続けに手紙がきたけれど僕は返事を書かなかった。あのとき僕は何をしていたのだろう。僕はあの頃すっかり愛子のこと忘れかけていた。今思い返せば愛子が感傷的になって書いてきたとても美しい手紙だったけれども。たしかその一部のコピーだけが残っているだけだと思うけれども。
     愛子はあの頃淋しがって僕に手紙を書いてきていたけれども、僕は、僕は淋しくなかったのだろうか? 僕はあの頃勉強が忙しかったし愛子のことを忘れよう忘れようと努力していたのだった。
     あれは学一留年の秋のことだった。その夏にバイクもクルマも売ったり廃車にしたりいてバス通学に切り換えたのだった。そして学2の5月にクルマの赤いプレリュードを買うまでバス通学を続けたのだった。
    
    
    
    
     愛子へ
     僕は本当に夢の中だけで生きている悲しい男なのかもしれません。愛子へのこの頃の手紙は本当にもう現実の世界からは懸け離れていているような気がします。でももしかしたら夢の中で生きてゆける幸せな男なのかもしれません。
     愛子への手紙を書くことによって僕はどんなにこの苦しい時代慰められたものでしょう。僕は本当に幸せでした。
     僕たちが手紙を交換したりしてたもう4、5年も前になるあの時代はもう本当に懐かしくて今となってはもう本当に涙が出てきそうな気さえしてきます。
    
    
    
    
     明るかった頃の、元気だった頃の、あの頃の僕はもう遠い空の彼方へ消えてしまって、今ここに居るのは、抜け殻になたようなもう愛子の知らない僕だ。あの頃とは全然違う、もう抜け殻になった僕だ。
    
    
    
    
     愛子へ
     僕はもうダメだ。僕は昨夜気力を湧かせようと思って麦飯をたくさん食べた。でもお酒もまた飲んでしまった。僕はそうして今自己嫌悪や絶望感と戦いつつこれを書いている訳です。
    
    
      楽になりたい。中学や高校の頃の気力が、少なくとも愛子と文通したりしていた頃の気力が僕に戻ってきたら、そうしたら僕は強く強くなれると思うのだけど。
     僕も強く強く。
    
    
     愛子
     僕は寝てばかりいます。僕は強く強くなりたいのだけど、僕は眠ってばかりいます。いつまでもいつまでも家ではずっと寝てばかりいます。
     そしていろいろ鮮明な夢ばかり見ています。怖い怖い夢が多いのだけど。
    
    
    
    
     愛子
     僕は胸のときめきも何ももう感じなくなってしまった。そうしてもう悲しみだけが僕の胸を支配しています。27歳になろうとしている僕と、何もできない僕と。
    
    
      僕は強くなりたい。昔の僕のように、元気いっぱいだった以前の僕に、僕は戻りたい。
    
      少年の頃の僕の毎日は今と比べものにならないくらい厳しい毎日だったけど僕は元気だったしいつも明るく決して挫けなかった。今の僕は挫けかけている。
     中学の頃や高校の頃、僕は毎日ノドの病気や吃りなどで学校で苦しんできた。毎日毎日針のむしろに座らされたような学校生活だった。あの頃のことを思えば今はどんなに楽だろう。あの頃の僕はとっても強かったのに。
    
    
        (もしも僕が今度進級できたら)
     もしも僕が今度進級できたら、そうしたらあと一年ちょっとで卒業だから、僕は高校三年の頃を思い出して一生懸命勉強しよう。そうして早く親孝行ができるように、卒業試験に落っこちないように、国家試験を楽にパスするように、一生懸命勉強しよう。詩や小説を書くのも少し控えて、僕は一生懸命勉強しよう。
     そうして僕は明るさを取り戻すかもしれない。少なくとも高校三年生の頃の元気さやバイタリティーは取り戻せる気がするのだけど。
     今度進級できたら僕は変わるかもしれない。辛かったけど元気だった高校三年の頃を思い出して、僕は変わるかもしれない。とても元気になれるかもしれない。
    
    
    
    
     僕の手に、力があったならば、僕は一生懸命になって、困っている人のために苦しんでいる人のために、毎日駆け回ると思うのだけど。もし僕に力があったならば。
     でも現実の僕は全然力がなくて、あの高校生だった愛子を傷付けたりした悪い癖があって、顔のこわばりがあって、僕は人を救えない。人を救おうとしても逆に人を傷つけるだけで、それで僕はいつも一人っきりで部屋に閉じ込もってそうしてほとんど誰とも喋らない。そうして一人淋しさに打ち沈んでいる。ずっと、ずっと、もう九年も前から。
    
    
    
    
     愛子
     高校三年生だった君を傷つけた僕は、あの大事な試験の前の日に呼び出してそして傷つけてしまった僕は、そうして君の進路を狂わせてしまった僕は、僕はいったいどうしたら君への罪を償えばいいのだろう。僕はいったいどうやって。
     でも君を傷つけた僕の悪い癖(顔のこわばり)は、もう九年間も僕を苦しめてきて、その間僕はどんなに苦しんできただろう。僕はこの癖のためこれからもずっと一人っきりであることを思うと、僕は死んでしまいたいとよく思ってしまう。もうこんな苦しい淋しい毎日からさよならしたいから、前途に光が見えないから。