心を浄化して幸せになる法則

虚空の彼方を観る力 無音の調べを聴く力 水井伸輔(Shin)Blog

丁寧にお答え頂きありがとうございます。
自称悟った人が瞑想方法を押している辺りも、水井さんのおっしゃる事がリンクしてきます。
洗脳は怖いですね・・・。
自分から洗脳されにいってる、というか、なんというか・・・。

悟りブームみたいな事になっておりますが、個人的に感ずるのは、例えば6人家族で、5人悟って1人残った場合。
その1人が学校でいじめられてる場合。
悟りブームの言葉で言うなら、他の家族5人は「いじめなんて最初からなかったんだよ」「アナタもいじめもないんだよ」「幻想なんだよ」とか言うんでしょうか。
ハッキリ言うて笑えるようなとんでもない状況ですが、こういう事なんでしょうね、ほんと。
この場合、悟ってない最後の1人は生きていけないような気がします。
だから、こういうのは悟りでもなんでもないし、おっしゃるような洗脳だと思います。

もし悟ったのなら、世の中が解っているのだから、わざわざ彼岸の境地からの言葉で話する必要はないし、自分も悟る以前を体験してるのなら悟っていない人の感覚も解るはずなのに、なぜ彼岸からの言葉しか出ないのか不思議でなりませんが、洗脳だとすると合致しますね。
彼岸に渡ったら言葉も何もかも忘れるんでしょうか。あり得ないですよ、ほんと。
オウム信者に何言うても無駄、日本語通じない、という感じですもんね。

本当の悟りはおっしゃるように、世界を文字通り悟ったのだから、他人の痛みとか、苦しみとか解るから、その人のための言葉が出ると思うんですけど、これも自分の勝手な解釈にすぎませんが、仏陀は少なくともそうしていました。



スピリチュアルに興味を持つ人は、救いを求めているわけですよね。

社会の中でうまく行かなかった、認められなかった、病気になった、事故に遭った、不幸になった…

昭和の時代なら、どこかの新興宗教に入っていたのでしょうが、今は、宗教団体も力を失いつつあります。

そこで、もっとゆるやかな感じのスピリチュアルに興味を持つのだと思います。


人間は、弱い存在ですし、救いを求めて何かにすがりつきたいと思うのは、当然のことです。

古くからの伝統宗教もコミュニティを失い、新興宗教も力を失った現代では、スピリチュアルの世界に救いを求めることは、自然なことだと思います。


スピリチュアルの世界に救いを求めた時、そこには二つの道があります。

ひとつは、現実的に努力して、人生に喜びを見出したり、健康になったり、良い人間関係を形成していく道。

現実的で、地道な努力が必要であり、時間もかかります。


もうひとつは、何らかの思想を信じることによって、その場で、インスタントな癒しを得ようとする道。

こういう思想は、努力を否定したり、現実と折り合わないような世界観を信じさせることが多いです。

なぜなら、現実と折り合うような教えの場合、どうしても、地に足をつけた現実的な努力が必要とされるからです。


20年くらい前ですが、法の華三法行という、詐欺的なカルト教団がありました。

本当に酷い詐欺師たちが、宗教を利用して暴利を貪っていた異常な教団でした。


法の華のセミナーでは、「最高です!」と一日中連呼させるというベタな洗脳手法を用いていました。

「今が最高! 今が最高!」と自己暗示をかけさせるのです。

このカルト教団は、教祖たちが600億もの巨額詐欺で実刑になりましたが、今でも名前を変えて活動を続けています。


なぜ、このような悪徳詐欺教団が、一時期でも信者を増やしたのか。

それは、「今が最高」と自己暗示をかけることが、ある種のインスタントな癒しになっていたからだと思います。


「今が最高」だと思える根拠など、何もないのです。

根拠がなくても、そう思うようにするのが、自己暗示です。

根拠があるなら、暗示をかける必要などないのですから。


オリンピックでメダルを目指して、子供の頃から、血の滲むような努力をする。

その結果、オリンピックで金メダルを受賞したとしましょう。

その選手は、「今が最高」の境地を、リアルに味わうはずです。


その境地には、根拠があります。

努力をして、自分の力で、社会に認められたという根拠です。

ですから、「最高です!」などと連呼して、自己暗示をかける必要などないのです。


金メダルを受賞するような最高の喜びを味わってみたい。

多くの人は、そのように思っているかもしれません。

そのためには、どうすればいいでしょうか。


スポーツ選手であれば、毎日、死ぬほどの努力をするでしょう。

体操銅メダリストの知念孝さんと食事をさせていただいた時に、知念さんは、毎日12時間練習していたと僕に言いました。

ストレッチだけで、毎日3時間くらいするそうです。

そういう現実的な努力をして、オリンピックという舞台で結果を残し、最高の喜びを得る。

これが、現実的な道ですよね。


しかし、そういう努力をするには、あらゆることを犠牲にして、大変な労力を注ぎ、強い忍耐力で、毎日の練習を続けなければなりません。

だからこそ、オリンピックでメダルを受賞できるのです。

そのような喜びには、その背後に、それだけの努力と苦労があるのです。


これが、宇宙の法則だと僕は思います。

大きなプラスを得るには、大きなマイナスを支払わなければならない。

陰と陽が、バランスをとるのです。


ところが、法の華のようなカルト教団は、自己暗示によって、「今が最高」の境地を無理やり作り出そうとします。

何日間も「最高です!」と大声で連呼させ続け、渋谷の雑踏で、「最高です! 最高です!」と絶叫させる。

こんな自己暗示と洗脳で、今が最高の境地になれると、本気で思っているのでしょうか。


そもそも、オリンピックで金メダルを受賞しても、最高だと歓喜する状態は、長くは続かないでしょう。

一週間もすれば、次の大会のことが気になり始めます。

そして次は、金メダリストとしての大変な重圧を感じながら、競技をしなければなりません。

子供の頃から、血の滲むような努力をして、確固とした結果を出しても、最高の境地は、数日と続かないのです。


それなのに、セミナーを受けただけで、今が最高の境地が、永遠に続くわけがありません。

だから、もっと金を払えば、もっと素晴らしい境地になれる、もっと財産を捧げれば、もっと幸福になれる…そのように煽られて、多額のお金を奪われるのです。

オウム真理教も、多額のお布施をすれば、ステージ(オウムでの悟りの境地)が上がり、歓喜の境地に至れると洗脳していました。


金を払ってセミナーを受けただけで、至福や歓喜の境地が、永遠に続くなどという馬鹿げたことがあるはずがありません。

詐欺師たちに騙されているだけです。


しかし、このような手法は、今の悟り系のビジネスに似ていると思いませんか?

もちろん、法の華やオウムのように、露骨な金銭の搾取はしていないでしょう。

宗教団体のような閉鎖的な組織にもしていないと思います。

でも、セミナーやセッションを受けたら、悟ったり、覚醒したり、至福の境地になれると宣伝しているなら、それは20年前の悪徳カルト教団がやっていた手法と、ほとんど同じではないでしょうか。


オリンピックを例に出したのは、オリンピックで金メダルを取ることが素晴らしいとか、至福を与えてくれるとか、そんなことを言いたかったわけではありません。

オリンピックで金メダルを取ったところで、その喜びは永続しないのです。

それでも、その喜びを得るために、長年、血の滲むような努力をしなければなりません。

根拠のある、基盤のしっかりとした喜びを感じるためには、大変な犠牲を払う必要があるのです。


それなのに、金を払ってセミナーやセッションを受けただけで、歓喜や至福を感じるような境地が、永続するわけがないのです。

根拠の無い自己暗示をかけたところで、本質は何も変わっていないのです。

だから、もっともっと悟り系の本を読みたくなるのです。

セミナーやセッションを受けたくなるのです。


僕は、本物の悟りは、存在すると思っています。

しかし、それは、ある時、急に悟って、それで全てが終わりといったものではないと思います。

少しずつ、悟りが深まり、人間性が成熟していく。


スピリチュアルや宗教など知らなくても、この社会の中で、あの人は立派な人だ、あの人は成熟した人だ、と言われることと同じだと思います。

人間的に成熟した人は、悟りが深い人です。

そういう人に、人生とは何か、生きるとは何かを聞いてみればいいと思います。

そうすれば、きっと含蓄のある、深い言葉を語ってくれるでしょう。


そういう成熟が、さらに深くなり、すべてに対する慈悲や愛に目覚め、自然に、全ての存在に神性を感じるようになっていくのです。

でも、そうやってナチュラルに悟りが深まった人たちは、自分の悟りの境地を、ことさら人に語ろうとはしないでしょう。

ましてや、セミナーやセッションなど、しないと思います。

なぜなら、そのような境地は、セミナーやセッションでは得られないことを知っているからです。


「オリンピックに出場して、メダルを取りたい人は、百万を払って、私のセミナーを受けてください!

数日間セミナーを受ければ、あなたはオリンピックでメダルを取ることができます!」

こんなセミナーがあったら、受講しますか?


百万を払って受講したら、危ない薬を注射されて、いきなり運動能力が100倍になったとします。

でもそれは、一ヶ月しか効果が維持しません。

その効果を維持させるためには、また百万、その人に払わなければなりません。

そうやって、危険な薬を打ち続けて、最後には、体がボロボロになって、再起不能になります。

残ったのは、多額の借金と、ボロボロの体だけです。

法の華やオウムがやっていたのは、そういうことです。


僕は、喜びや至福を感じたいなら、人間としての、当たり前の努力を続けていくことが大切だと思います。

それが、生きるということではないでしょうか。


何のために僕たちは、生まれてきたのでしょう。

この社会の中で、いいことも嫌なことも、楽しいことも苦しいことも、いろんな多様な経験をしながら、ひとつずつ気づき、ひとつずつ学び、自分の力で成長し、それによって生きる喜びを感じるためではないでしょうか。

それこそが、本物の喜びではないでしょうか。


奉仕をすること、与えること、愛すること、許すこと…

そういった日常生活での小さな努力を積み重ね、それが何十年も経った時に、その利他の芽が、揺るぎのない大木へと成長するのではないでしょうか。

僕はそれが、真の悟りへの道だと思います。


そこには、根拠のある喜び、根拠のある安らぎが存在します。

多くの人々を愛し、多くの人々に愛されたという、誰にも否定することのできない確固たる体験が、そこにはあるからです。

そういう悟りを得た人は、人の悟り体験に、過剰な興味を持つことはないと思います。。

人の悟り体験など、自分には、ほとんど役に立たないことを知っているからです。

なぜなら、人の主観的な体験など、自分の人生経験からの揺るぎない学びに比べたら、大した価値はないからです。


人間は、自分で体験して学ばなければ、真に成長することはない。

それがわかっている人は、与えられた人生を、謙虚に生きるだけです。

弱くても、未熟でも、失敗をしても、それが今の自分なのですから、そこから一歩ずつ学んでいくしかありません。

しかし、たとえ小さな一歩でも、それが確固とした学びに繋がっていることを知っているので、安心感があるのです。


自己暗示によって、安らぎを得ようとしても、何の根拠もありませんから、本質的には不安定です。

だから、本を読み続けて、自己暗示をかけ続けるしかありません。

セミナーやセッションに行って、強力な暗示を施してもらうしかないのです。

油断をすると、いつもの不安感、罪悪感、怒り、恐怖心がよみがえってきます。

だから、毎日、悟り系の本を読んで、自己暗示をかけ続けなければなりません。


不安でも、未熟でも、罪悪感があっても、恐怖があっても、怒りや憎悪が湧いてきても、それが今の自分ですよね。

それが今の自分なのですから、それと共に、生きていくしかないのです。

でも、人生の中で、いろんな嫌なことやうれしいこと、愛し愛されること、奉仕をすること、助けられること、そういったことを経験していき、自然に僕たちは、気づき、学んでいきます。

何年か経った時、ああ、もう恨むのはやめよう、憎むのはやめよう、もう自分の幸せだけを考えて生きていこう、と思えるようになります。

生きることの、ささやかな喜びに気づき、何もしなくても幸せかもしれない、と思えるようになります。

そういうことが、ひとつの悟りなのです。


ひとつ学んで、ひとつ悟ります。

そして、またひとつ学び、またひとつ悟ります。

人生とは、その繰り返しです。


そうやって、悟りを深めていくと、自然に、全ての内に真我を感じたり、すべてが創造主によって愛されているのを、実感するようになるかもしれません。

本で読んだり、誰かのセッションを受けて、そのような世界観になるのではないのです。


いろんな人生を経験し、酸いも甘いも知って、愛すること、憎むこと、裏切られること、助けられること、そういった多様な体験を味わって、それらを自分の力で乗り越えた先に、深い気づきと悟りの境地があるのです。


子供の頃は、みんなそう思っていませんでしたか?

もっといろんな体験がしたい、もっと学びたい、もっと成長したいと思っていませんでしたか?

僕たちは、そのために、人生の試練や困難を、乗り越えてきたのではないでしょうか。


インスタントに悟れるなら、世界中の子供たちに、悟り系のセッションを受けさせればいいのです。

そうすれば、あっという間に、世界は平和になり、人類は至福の境地になります。

イジメも、引きこもりも、全てが解決するでしょう。


そんなこと、あり得ないことはわかりますよね。

子供に、悟り系のセッションやセミナーを受けさせますか?


コメントに書かれているように、イジメられて苦しんでいる子供に、

「イジメなど存在しない。

あなたも存在しない。

ただ愛がそこにあるだけです。

愛が、全ての現象として生じているだけです。

あなたは、何も心配することはないのです。

心配をしているあなたなど、はじめから存在しないのですから…」


こんな親だったら、僕は家出するでしょうね。

あるいは、家の窓ガラスでも叩き割って、「これも愛の現れだね」と親に言うでしょう。


確かに、「心配しているあなたなど存在しない」とか、「苦しんでいるあなたなど、はじめからいなかった」とか、そういうことを言われたら、少しは楽になる人もいるでしょう。

それは、「心配したり、苦しんでいるのは、自分のエゴ・自我に過ぎないから、あなたの本質は、そうやって苦しんでいる自我ではなく、もっと奥にある真我ですよ」ということを言っているのかもしれません。


でも、僕の経験から言えることは、そのような気づきというのは、人生の中で、自然に生じるものだけが、本物だということです。

人が言ったり、本に書いてあることを知ったところで、それは知識と観念に過ぎません。


そういう知識や観念も、自分の人生の学びの参考にするなら、役に立つと思います。

しかし、それに依存して、まるで自分が高度な悟りを得たように思い込むなら、それは自己暗示や洗脳と同じことです。


大して練習もしていない選手が、「俺は金メダリストだ、金メダリストだ」とメンタルトレーニングをしたところで、何の意味があるのでしょうか。

でも、金メダルが取れるほどの練習をしている選手は、そんな自己暗示をかけなくても、自然に、自分は金メダルが取れるかもしれないという思いが、湧いてくるものなのです。


僕は、難しいことを言っているわけでもないし、特殊なことを言っているわけでもありません。

こんなことは、歌の世界でも、ピアノなどの楽器の練習でも、スポーツや武道やダンスでも、当たり前のことなのです。

ちょっと練習したくらいで、思い上がっている生徒がいたら、現実はそんなに甘くはないということを、きちんと教えてあげるのがトレーナーの役割です。


でも、芸能の世界でも、「プロになれますよ、有名になれますよ」と何の根拠もない幻想を抱かせて、高額なレッスン費を搾取する悪徳スクールはあります。

「君は凄いね、プロになれるよ、有名になれるよ!」と口ではいいことを言って、金だけ搾取して、内容のないレッスンを続けるのです。

僕は、そういう悪徳スクールを沢山見てきて、なんて残酷なんだろうと思いました。


僕は、吉本興業のNSCという養成所の歌のクラスに通っていたことがありますが、吉本で契約したところで、プロとして食べていくのは難しいだろうと思っていました。

なぜなら、吉本の音楽事務所で活動しているアーティストたちは、全然有名ではなかったからです。

でも、一緒に学んでいた若い女の子たちは、吉本の養成所に行けば、プロになれるかもしれないと思っていました。

僕は、この世界はそんなに甘くないことを知っていましたが、彼女たちは、そういう夢と幻想を抱いていたのです。


それである時、吉本が、自分たちを積極的にプロモーションしてくれないので、彼女たちは、直談判に行きました。

僕はその場にはいなかったのですが、後で話を聞いたら、彼女たちは泣きながら、偉い人たちに、「約束が違うじゃないですか!」と抗議したということです。


そんなことを言ったところで、売れないものは売れないのです。

それが現実です。

それでも、彼女たちが、歌手として食べていくことを諦めずに、10年も20年も、大変な努力をし続けたなら、きっと歌手として食べていくことができるだろうと僕は思います。

自分でライブをして、自分の歌を愛してくれる観客を、地道に作っていけばいいのです。

本当に実力があれば、それを認めてくれる人は、少しずつ増えていきます。


そういう歌手は、芸能界の論理で、無理やり売り込まれた人たちよりも、遥かに実力があるし、地道に活動を続けていくことができるはずです。

本物の歌手を目指すというのは、そういうことだと僕は思っています。

何もないところから、ひとりずつ、観客を作っていく。

血の滲むような努力が必要だと思いますが、歌を本当に愛しているなら、そういう努力も可能なはずです。


ボイストレーナーとしての僕は、ずっとそういうことを伝えてきました。

甘い幻想を抱かせて、高額なレッスン代を搾取し、あとは何の責任も取らない者たちこそ、本当に残酷な人間たちだと僕は思います。

まさしく、悪徳カルト教団の教祖たちは、そのような人間たちです。


スピリチュアルの世界でも、地道な努力が必要なのです。

時間など存在しない、カルマなど存在しない、修行や努力など必要ない…

それが本当なら、楽でいいでしょう。

そう信じるだけで、一流の歌手やピアニストになれたり、オリンピックのメダリストになれるなら、こんなに楽なことはありません。


学んでは悩み、悩んでは気づき、気づいてはまた壁に突き当たる。

そうやってみんな、自分の技術を高めていきます。

人生も同じでしょう。

僕たちは、いろんな経験をしてきました。

苦しかったこと、悲しかったこと、絶望したこと、憎悪したこと、いろんなことがありましたよね。

でも、そういう体験があったからこそ、いろんなことに気づくことができたのではないでしょうか。


最初からすべて悟っていて、もう何もする必要がないなら、一体何のために今まで生きてきたのでしょう。

今まで苦労したり、悩んだり、苦しんできたのは、すべて無駄だったのでしょうか。


「いや、そういう体験があったから、悟りの教えに巡り会って、目覚めることができました」

そう言う人もいるかもしれません。

もしそうであるなら、過去の人生経験が、気づきや学びを与えてくれたことは、否定できないはずです。

それなのに、ある時急に目覚めて、もう何もする必要がなくなった、と思い込んでいること自体が、成長を自ら放棄したことになるということに、気づかないのでしょうか。


それはまるで、ピアニストが、「自分は究極の演奏ができるようになったから、もう何の練習もする必要はない」と言っているのと同じです。

歌手が、「無の境地で歌えるようになったので、私はもう何もしません」と言っているようなものです。


無の境地で歌えるようになっても、基礎的なトレーニングはしなければなりません。

なぜなら、無の境地と、歌の実力とは、違うレベルのものだからです。

僕は、20年以上、歌の修行をしてきて、ある程度、無の境地で歌うことができるようになりました。

しかし、無の境地で歌えることと、実際の歌の技術とは、違うのです。


これは、歌でも、楽器演奏でも、スポーツや武道でも、本当に無の境地で動くことができるようになった人なら、理解してもらえると思います。

無の境地ということと、具体的な動きの洗練というのは、また別の次元なのです。

そして、無の境地にも深みがありますし、具体的な技術の向上にも、無限のレベルがあります。


悟りにも、無限の深みがあるはずです。

そして、それは日々の地道な修行や、社会の中での様々な経験によって、自然に身についていくものなのです。

そういうナチュラルな気づきと悟りは、どこまでも現実的ですし、当たり前のことしか言わないかもしれません。

イジメられている子に、「苦しんでいるあなたは、いないのです」などとは言わないでしょう。

苦しんでいる子には、「苦しいね、つらいね」と一緒になって、苦しんであげるのではないですか?

その苦しみを、自分が少しでも引き受けてあげようと思うのではないですか?

同じ目線に立って、苦しみを引き受け、現実的に対処できる方法を、一緒に考えてあげるのではないでしょうか。

そういう人のほうが、僕は遥かに、悟った人であると思います。

そして僕たちが、人の苦しみを理解し、寄り添うことができるようになるためには、自分自身がいろんな苦しみを経験し、それを乗り越えていかなければならないのです。

子供の頃のように、もっと単純に、自分の人生を味わい、学んでいかなければならないのです。


自分をごまかすのではなく、素の自分になって、素の自分を見るしかありません。

そこには、怒りや憎しみがあり、傲慢で、ケチで、思いやりがなく、意地悪な部分があるかもしれません。

でも、そんな心の穢れを、きちんと見ることができなければ、それを現実的に清めていくこともできないのです。


美味しい方法、楽をして一気に悟れる方法、すべてが一瞬にして解決する方法など、存在しません。

僕たちは、そういう方法に飛びついてしまう心の弱さを持っています。

でも、そこにあるのは幻想や妄想、自己暗示や洗脳だと思います。


普通の人として、普通に生きていくということ。

簡単なことのようですが、とても難しいことです。


すぐにでも楽になりたい、すぐに幸福になりたい、人生が思い通りになってほしい…

そういう欲望が、僕たちの中に、根強くあるからです。


でも結局、僕たちは、人生の中から学んでいくしかないのです。

もちろん、悟り系の本に傾倒するのも、それはそれで人生経験のひとつなのかもしれません。


ただ、僕の書いたことを、心の片隅に、そっと留めておいてほしいのです。

そして、高額なセミナーやセッションに勧誘された時、日常の生活と折り合わなくなった時に、ふと思い出してほしいのです。

そうすれば、一線を越えてしまうことを、防ぐことができると思います。


僕も、悟りを求めて、生きてきました。

本当に長い間、そうやって悟りの境地を求め続けてきたと思います。


でも、やはりそれは、何もない自分が、むき出しの人生の中から、掴み取っていくしかないのです。

悔しくて泣いた夜も、人生に絶望した時期もありました。

誰しもが、そういうことは経験していると思います。

そこから、ひとつずつ学び、ひとつずつ気づき、ひとつずつ悟っていくしかありません。

植物を育てるように、小さな新芽から、揺るぎない大木へと、人生の悟りを、育てていきたいと思います。
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