Mizki

●佐藤瑞樹/Mizki Sato
●執筆業/ex.2輪・4輪 racer/ex.WGP 500cc manager


テーマ:
●2012.Jan.追記/以下のお礼状を見やすくするために、このブログを更新しないことにしました。(広告だらけになり見にくくなるため)更新用のブログは先々作成予定、どうぞよろしくお願いいたします
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●レースにて、以前お世話になった方へ。
お元気でいらっしゃいましたでしょうか?
長い間 御無沙汰してしまい、本当に申し訳ありません。
感謝の気持ちを お伝えしたいと 思っていたのですが、
身体の具合が悪かったこともあって、
いつの間にか 時間ばかりが 過ぎてしまいました。

気持ちを整理し、こうしてお手紙を書き、
当時考えていたことを
ご報告させていただくのに、私には長い時間が必要でした。

お力をかしてくださった方のこと、ずっと、覚えていました。
有形無形に お力をかしてくださった方の 顔を、
今でも 思い出します。
文章などでは 伝えきれないと思いますが・・・
心より、どうもありがとうございました。

●思い返してみれば、10代の頃から’97年まで、
多くの 皆さまに 応援していただき、
2輪 及び 4輪レースに参戦、
全精力をかけて、活動することが できました。

大病して 手術・長期入院したり、
つらくて レースが大嫌いになって挫折したり、
ものすごく 良いことも 最悪なことも、いろいろありました。
(振り返ってみれば、自分でつらくしていましたネ・・。
周りの皆様に、大変 御迷惑をおかけしました。)

皆様のご好意により、夢を追いかけることができ、
心より 感謝いたしております。
本当に、どうもありがとうございました。

すべての結果は、周りの方々のお力のおかげだったと思っております。
周りにいてくれて、かかわってくださった方々との想い出。
それは大切な、私の中の 財産です。
...............
●近況ですが、現在の 仕事は
執筆業と講演、ラジオ出演(時々)などを やらせていただいております。
数年前に テニスを 始めまして、そのおかげで 運動することが 習慣になり
おかげさまで 大分 元気になれました。
現在は、仕事と勉学、テニス、サッカー(フットサル)に、忙しい日々です。
(レースは、時々カートの練習に 遊びで行く程度です。)

●レース時代、たくさんの方々が、私に お力を かしてくださったこと、
今でも思い出します。
『ただ ただ、速く走りたい、世界の 頂点を 目指したい』と、
わきめも ふらず つっぱしっていた あの頃には、
お礼の 一言すらお伝えできず、いつもギリギリな気持ちでいて、
心の余裕が なかったです。
そのことを 思い出すと、申しわけない気持ちでいっぱいです。

御迷惑も、たくさん かけたと 思います。
この場を かりて 改めて、
おわびと お礼の気持ちを お伝えさせていただければと 思います。
本当に どうも ありがとう ございました。Kaoru
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(以下は、長いお手紙です。本当に申し訳ないことに、体調が悪く、
年賀状のお返事を10年以上、全員に出していなかったりしたので、
連絡がとだえてしまっている方が大勢おります。
親しかったに宛てての長いお手紙ですので、
ごく親しかった方のみ、お読みいただけますと幸いです。)
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●・・・以前よく、『どうしてレースを始めたの?』と 質問されることがありました。
ほとんどの方には、自転車の延長で 走りはじめたことしか お話ししませんでしたが、
子供時代に起因する、
レース活動のバックグランドになった、私の人生観が存在していました。

当時はまだ若かったし、子供の頃に父が亡くなったキズは癒えていなかったし、
まわりの人にいろいろなことを話して同情をかうのもいやだという気持ちでいたし、
あまりに暗い、子供時代の自分の家庭環境を話すことにも、躊躇がありました。
自分では無意識でしたが、自分の心にふたをして、生きていた時期でもありました。
.........
●私の父は生前、東京の品川で会計事務所を 経営しておりました。
事務所が1階で家が2階だったため、
物心つく前からうちには常に多くの人が出入りしていました。

昼間は 普通の大企業の人々が 仕事の話をするために、
夜はおもに 倒産した会社の人々が
うちで食事とマ-ジャンをするためにやってきました。
当時 父は 参議院議員の秘書も していたので、
政治関係の人々も 食事とマージャンを共にするため、我が家に いらしていました。

とにかく沢山の人が出入りしている家だったわけですが、
おしなべて 皆『濃い』人々でした。
その人達には3歳位の時から11歳まで、
お金もうけの話、政治の話etc・・実にさまざまなことを 教わりました。

●父は、公認会計士でした。
品川で事務所を開業し、ねる間をおしんで働いていましたが、私が12歳の時、
突然この世を 去りました。一人で多角経営しすぎていた父は、
アメリカやヨーロッパからシャーリング機などの 工作機械の輸入の仕事と
工場経営もやっていて、会計事務所で かせいだ金を、
ほとんどすべて工場経営にまわして大赤字に。
亡くなった時には ものすごい借金が残り、土地や家は取られてしまいました。

●お葬式の次の日、まわりの大人に依頼され、会計事務所の 資料を、
中学校を 休み ドラム缶3本使い、丸3日かかって、私が 燃やしました。
その時、父の手書きで細かい字が書かれていた 会計の書類の山を見て、
『こんなもののために 死んだのか? バカバカしい!!』と 思いました。
あの時 私は、”自分は、好きなことをやる!”と 心に 決めました。

●さらに悪いことに、父の死後、私は家に いる所がなくなりました。
もの心ついた頃から元々、私は義母から虐待を受けていました。
理由は『私が父に、似ているから』だそうです・・・。
二人は愛のない夫婦でした。 
(残念ながら、子供の頃から 義母とはほとんど話らしい話をしたことがなく、
20数年程前から、ご縁がありません。)

父の死後、私は父の会計事務所を継ぐことを考えていたのですが、
いろいろあって やめにしました。

その後 義母の私に対する暴力はエスカレート、
朝、頭に何かあたる衝撃で 目が覚めたりすることが多々ありました。
あたったものは、時計だったりコップだったり、角材だったり・・。
夜は夜で、深夜まで家事をやらなくてはならず、
やはり殴られたり罵倒されたりしていました。

●15歳の時、ある日 家に帰ったら、私の荷物が
全部 捨てられていたことがありました。
その時は、泣いている私の変わりに、
友達が ものすごく怒って 抗議をしにきてくれたのですが、
当事者である義母は、薄ら笑いを浮かべていました。

そんな生活に耐えられなくなり、
小学生の頃から仲が良かった 音楽仲間を たよって家を出ました。
御飯が食べられなくて、どうやって生きていこうか、途方に暮れました。

道を 踏み外さなくてすんだのは、生前の 父の教えがあったのと、
子供の頃、外国人の友達といた時、
日本でいわゆる不良と呼ばれている人達が、
一人ではなにもできず、頭を使わない、ものすごく弱い人間性の
カッコ悪い人たちのように感じていたからかもしれません。

アパートでは、水道が止まったり電気がとまったりしていましたが、
若かったし、それまでの 支配と暴力の生活から のがれて ホッとできたし、
夢だけを追いかけていたし、なんとか 耐えられました。

そのアパートの裏の畑の人が親切なおじさんで、
ナスをもらって 焼き肉のたれで焼き、
食パン一斤買って、それで一週間 もたせたりしていました。
音楽仲間7人は 皆 陽気で、そんな食事を していても幸せでした。

お風呂がなかったので、外の水道のホースを のきに ひっかけて、
シャワーがわりに あびたりしていました。
『顔にぬるクリームが欲しいな』と思っていたら、
やさしいお姉さんが皆の顔に、バターをぬってくれたりしました。
そのうちの一人が そのまま炎天下に出て、帰ってきたら、
顔の皮が全部むけて戻ってきたのを見て、
ものすごくビックリしたのを覚えています。

その後、家賃 月1万円の アパートを借りました。
バイトの身では、たった一万円の家賃の支払いがきつくて、大変でした。

・・・当時のような貧しい生活は もうできないなと思いますが、
あの頃のこと、今でも懐かしく脳裏に浮かびます。

●そんな日々を送っていた時、
当時 おつきあいしていた彼が、自殺しました。
彼がなぜ そんなことをやったのか、当時の私には 理解できなかった。
その頃の記憶は、あまりありません。
しばらく声が出なくなったことを覚えています。

その後、音楽仲間が 乗っていたバイクが きっかけとなり、
子供の頃からの 自転車の延長で
『より遠くにいけるから便利』程度に思っていたバイクに乗り、
箱根の山に 通いはじめ、いつの間にか レースの世界に入ることに なりました。

昼間ファミレスで働き、定時制高校に行きながら、
大学受験の資格を得るため、大学入学検定試験を受けながら、
坊主 強制の チームに入り、先輩から みっちり
スパルタ教育でマシンの整備を教えていただきました。

大学も、お金がなくて 年間12万円の学費が払えなかった時期があり、
その上内臓の病気になって手術、治療のため 何度も入院。
除籍になったりしたこともありましたが そのたびに復学、
仕事を続けながら 通って、なんとか 卒業できました。

これまた子供の頃から父をみていて
無意識のうちに考えていたことなのですが、
なぜか『なんとしても大学は、絶対 出ておかないとまずい』と思ったのです。

今 振り返ってみると、無理して 卒業しておいて、良かったです。
いったい何人の友人に ノートを借りたことか・・・。
皆さん、ありがとうございました。

●国内のレースを12年走り、
マネージメントに転じて 世界GPに行くようになり、
世界中の 人に出会い、
皆にやさしくしていただき、大変お世話になって、
自分の居場所を見つけたように想っていました。

協力してくださった 多くの方々との 出会い、
大好きだった サーキットを 走り、素晴らしい時間を 過ごせた日々。
振り返ってみれば、それは なんという 幸運だったのでしょう?
改めて考えてみれば、
全部 協力してくださった方々のお力のおかげでした。

自分の力は 実は たいして 大きなものでは なかった・・・。
レースを通じて、そのことを おもい知りました。

●’92年~’96年、長年の 夢であった 世界GP(F1の 2輪版)。
2輪レースの 頂点を 極めた 人間が、世界中から 集まっていた 特別な 場所に、
運営の立場から 参加させていただけたことは、一生の思い出になりました。
実際の GPで 体験したことは、
いく前に 想像していた 世界とは、まったく 違うものでした。

『世界で もっとも 結果を 求められた場所』、
『世界中の、大きなエネルギーを 持つ人間が集まっていた場所』
あそこに集まっていた人々には、
なにか、特別なエネルギーが ありました。
それは、テレビの画面を通してでは、けして写らないものでした。

つらいことも 沢山あったけれど、本当に 行って 良かった。
実際に 行かなければ わからないこと、
見えないことが、とても多い業界でした。

●16年も かかわっていたレースを いきなりやめたのは、
深い悲しみがあったからです。
友人だと思っていた人に 金銭をだましとられてしまったことに加え、
そばにいた人からの暴力。
経営と執筆の連載、パソコン屋、宅急便屋でのバイト、
その他もろもろ・・・のかけもち仕事で毎日2時間の睡眠時間。
とてもキズついたし、無理しすぎて、疲れちゃったんですね。

『ものすごいバカだったな、私は』と、今は 思います。
あんなに がんばる必要は なかったし、
かえってそのことで、まわりに多大な 
ご迷惑を おかけしてしまったと考えています。

でもまあ、当時はとことんまでがんばって、
できる所までやらないと、
あきらめきれなかったのかもしれないな、とも 思います。
自分のいるところがなくて、
いつもいつも、不安で しかたがなかったし、
自分に自信がなかったから、
そうすることが必要だったのかもしれません。

ほとんど睡眠が 取れなくても、人に キズつけられても、
夢だけを追いかけてた時代。
ガマンして、 がんばり続けた数年。
・・・あまりにも、ガマン しすぎました。平気なふりをして。
(子供の頃から、平気なふりをするのは、得意なんです。
そのあたりは、いまだに変わっていないかもしれません。)

実は常に予算が足りなくて、
メカニックにギャラを高く払うために、
バイトしていたくらい苦しかった。
きっともう少ししたらラクになると、信じてた。
レースを世の中に広めていくんだ、という、使命感のようなものも あった。
それほどにレースが好きだった。

●まわりにいてくださった多くの協力者の方々には、
当時、つらかった胸のうちや 私の本音は 話せなかったけれど、
皆 よく、私の『八つあたり』に 耐えてくださいました。

本当は、そばにいてくれたこと、すごく心が救われていました。
ありがたかったと 思います。

●精神的な限界が来た時、
マネージメント会社も、パートナーとの関係も、
全て捨ててしまおう、全部やめよう、と決断しました。

16歳から、若かった時代を全てレースに捧げてきた私。
やめるまでには、葛藤がありました。
相手を悪者にすることも、できたでしょう。
けれども結局『究極的には、そこにいる自分が悪い』と、考えました。

一緒にいる人を選んだのも、レースをやると決めたのも、自分。

<イヤなら 最初からその場所に いなければよい。>
<そういう人と、かかわる場所から、はなれたら よい。> 
<元々、そういう人が、平気で まかり通っている場所。
相手は変えられない。それなら、自分が変わるしかない。>

それが 私の、自分の人生に 対する 責任の取り方でした。

●友達だと思っていた人に4百万も使い込まれていたことがわかった時には、
ただただ悲しくて、涙が止まらなかったです。

そして、その人が前に所属していたチームの人や、
周りの親しい人々に相談した結果、
だまって泣き寝入りする道を選びました。

『もしかすると これは、亡父からの知らせかもしれない』とも考え、
レースそのものも、やめる決断をしました。

●誰かをうらんだりする気持ちは、持たないことにしています。
それをやると、自分の心の中が、汚れるような気がしていて。

そう想えるのは、子供の頃から、
お坊さんに話を聞いていたからかもしれません。
ものごとを広く見て考え、智恵を得ることで、
自分の心に汚れた気持ちを入れたままにしないようにと、教わりました。

●申し訳ないことに、だまされたお金は、
当時のスポンサーだったMくんが、支払ってくれたようです。
(というのは、私はその後のことを、残念ながら、知らないのです。
Mくん、もしそうだったのだとしたら、本当にどうもありがとう。)
.....................
●レースを やって、楽しかったことは沢山あったけれど、
正直を言えば、終わりの数年は、喜び以上の 大きな失望が ありました。

あの時に 経験したことは、今の私の人生の、新しい基礎になっています。
世界GP運営や、鈴鹿4時間耐久レースなどで 経験できたことは、
今後の 活動に 生かしていこうと、固く 決意して おります。

●これからの 人生計画は、大病してしまって数年間 病院にいたので、
内臓の損傷から考えると、
現実問題として長生きは無理かもしれない、と感じています。
命には『物理的・限界』があるから、冷静に予想しなくては、と考えております。
(この先医学が発展したら、予想よりも 少し長く 生きられるように 
なれるかもしれませんけど。)

長かった 入院生活では、本当に 寝たきりになってしまって、
自分で カーテンを ひくことさえできなかった時期があったので、
今、自由に動けることが本当に嬉しいです。
大病してしまったし 年もとったけれど、
また元気になれて、命の延長時間をもらえた私は、本当に幸せものです。

●ゴチャゴチャと いろいろ 書きましたが、
おかげさまで 今は、落ち着いた生活をしております。
 
自分もそうですが、皆も年をとっているので、
他の方々の命の 残り時間もそう長くないはず。
少し努力して機会をつくらないと、
お世話になった方々に、生きている間にお会いする機会も、
そう何度もないのだろう・・・と、思っております。

『暗い』と言われるかもしれませんが、現実です。私は子供の頃に
父親を亡くしているから、命の有限さというものに対する考え方が、
同じ世代の他の方に比べ、少し認識が違うのかもしれません。

●現在は、おだやかな日々を過ごしております。
自分にとって害のある人間関係からはなれ、
思いきって新しい道を歩きだしたことが、良かったのだろうと思います。

前の自分はもう死んでしまって、この世にはいないみたい。
そう感じるくらい、私の人生にとって、レースをやめる決断をしたことは、
大きな出来事でした。

悩みが深かった頃の私のために、相談にのってくださった方々、
本当にくだらなくて無責任だった、当時の私の愚痴に
つきあってくださった方の心のやさしさに、深く感謝いたしております。

忍耐強く話におつきあいくださった方のおかげで、
今こうして 元気で生きていられます。(本当です)

『家族の愛』・・・それには 私は恵まれなかったけれど、
『友人からの愛』に、非常に 恵まれました。
本当に 本当に、どうも ありがとうございました。

何年も お会いしておらず、連絡も とっていなかった方々、
機会がありましたら、いつかまた、どこかで御会いできますよう。
その日を楽しみに、いたしております。
最後まで長文を読んでいただき、どうもありがとうございました。
それでは失礼いたします。

Kaoru

テーマ:
こんにちは。ようこそおいでくださいました。
このブログは少しづつ、更新してまいります。
どうぞよろしくお願いいたします。

(しばらくは、以下とデュアルで更新いたします。
コメントなどをいただきます際は、調整機能の都合により、
お手数ですが以下のほうへお願いいたします。
http://blogs.yahoo.co.jp/mizkiracing )

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