• 26 Oct
    • 義母もまた同じだった。

      昔ながらの座布団、まだ夏のを積んだままだった。もう10月も終わるっていうのに。夏用10枚、冬用10枚ある。結婚して24年半、この家に越してきて14年、子どもが亡くなった今回まで一度も出す機会がなかった。田舎の母屋へ嫁ぐ私の荷物には必須だったが、同居から始めた義実家には元から立派なのがあったわけで、これはいわば「飾り」だった。飾りではあったが、私に恥をかかせまいと用意してくれた両親の思いは、痛いほど感じていた。それでも、予想外の不手際などがあり、後から困ることもあった。親は悲しんで、私を不憫がった。義母はそんな私を周りから守ってくれた。その時初めて、義母もまた味方を探しながら、ずっとそこで暮らして来たのだと知った。やっと、その座布団を冬用のものに入れ替えた。来客があるからだ。遅くなってしまったけれど、手入れだけは今後もしていこう。今なら言えると思う。「私は私のやり方で大事にしていく。

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  • 13 Oct
    • 分け隔てなく育てることは出来なかった。

      森林浴に行ってきた。家族みんなでよく行った場所を通って。私達には、家族連れで賑わう行楽地も街中のレストランも縁遠かった。でも、自然の中の、あまり人が来ないような場所なら、息子はもちろん私たち親も娘も伸び伸びと遊んだり食べたりすることが出来た。だからそこは、数少ないかけがえのない場所だった。息子が養護学校の中学部に入る頃には、往復の車中で起こすパニックの対処が難しくなり足が遠のいたが、それまではこの季節、毎年のように行っていた。あの頃はまだ秘密の場所だったはずなんだけど、今日は家族連れがけっこういた。みな楽しそうに、肉やトウモロコシを焼いていた。(夫・撮影)バーベキューは準備にも食べている最中にも息子から目を離すことが多くなるので、カセットコンロとフライパン持参だ。肉も野菜もジャージャーと一緒くたに焼く。焼きたてを薄い紙皿に乗せて渡すと、喋れない息子が「熱っ」と言葉を発するような顔を見せる。その顔が見たくて、何度も焼いて渡す。そのたび息子は顔をギュっとさせる。するとまだ幼かった娘が言うのだ、「お兄ちゃん、熱かったらふーふーしようね。お水、飲もうね。」って。娘の一人暮らしも二年半経過。就職活動やら来月の学園祭の準備やら、それを支えるアルバイトに追われる日々を送っている。計画的に履修できていたようで、授業はもう実験以外には週5コマだという。遠い人になりつつある。でも、追いかければまだ間に合うと思う。

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  • 25 Aug
    • 障害福祉サービスと、私。

      亡くなった息子が施設を利用し始めたのは、養護学校小学部1年の時。ショートステイ。私の坐骨神経痛悪化が理由だった。息子はスクールバスの停留所までなかなか歩けず、でも歩かせて、間に合いそうにないと最後はおぶった。それが良くなかった。もう一つの施設とは中学部に入って直ぐからの付き合い。娘の塾やピアノ練習を優先させようと毎週決まった曜日に使い始めたのがきっかけ。まだ出来てすぐの頃で、新しい建物の匂いがしてた。入所者は18歳以上の大人?ばかり。養護学校のママ友からは「●ちゃん(息子)、ちょっと可哀想」と言われた。進路指導部役員をしていた私は、自宅からも養護学校からも近いこれら2つの施設を、「放課後支援」でも学齢期の子供が利用できるようにと、担当教諭と共に熱心にアプローチしていた。もし息子の障害が軽度で、福祉サービスと言ってもまだまだ先の話だと思っていたら、あんなには頑張れなかった。いつだって我が子と自分中心。これが本音。結果さえ出せば誰にも何も言われずに済むと思って動いていた。やがて希望が叶い、その施設は学齢期の子へ向けたサービスを条件付きで開始する。私は息子をせっせと送り迎えし、短時間でも利用した。利用しなければ色々な意味で後に繋がっていかない、息子の自立へも結びつかない、という理由ももちろんあったが、それで出来た時間を自分や娘のためにしっかりと使ってきた。当時はまだサービス体系が整備途上で旧法に縛られてもいたが、その旧法の中でこそ出来る”臨機応変”が通用する時代でもあった。利用者が増え、養護学校のスクールバスもその施設の近くに停まるようになった。役員どうし力を合わせた結果だと思う。制度もルールも、使う人が増えて要望が正しく届くことで変わっていく。そこへ10年後に息子が入所することになるとは予想さえしていなかったけれど。  障害福祉サービスに関する法律は、何度も何度も見直されてきた。そのたび、保護者・施設側はもちろん、行政の担当者さえ右往左往することも多々。まだ当事者がネット等で得た情報を、足で稼いで確認していく時代だった。こんな私の経験など、既にかなり古い。親の会の方も脱会して5年経つ。この先、親や自分がサービスを受ける側に立ったとき、私は過去のそんな自分をどう振り返るんだろう。未明から久しぶりの雨。しかも土砂降り。息子が亡くなって90日。

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  • 14 Aug
    • わが子の初盆。

      息子は声を出すことがほとんどなかった。「ちょうだい」が最後の言葉になるまでの7年ほどは、少ないながらも発語があったが、「うー」とか「あー」などの声を出すこと自体どんどん減っていった。それはこの子が持つ障害の特徴の一つだと知って納得したが、今思えばあれは言葉でさえなかったように思う。伝達手段として使っていないと感じてたからだ。声もそうだが、泣くとか涙を流すとかも滅多になかった。あったとしても、喜怒哀楽に伴うものではなく生理現象として出る涙。最後に息子の頬を涙が伝うところを見たのは、今年の正月明け、いつまでも体調が悪く寝ていた私の隣に入ってきた時だったと思う。大好きなコーラを口に含んだままだったから、単にむせただけ。ゴボッ、グオッ、となり、しまいには「うううー」と声を出しながら幾筋もの涙を流した。可哀想だったけれど、私の横に寝に来るなんて滅多にないので(幼児の頃から母親の後追いなどはしなかった)、ちょっと嬉しかった。むせながら流す涙も出すうめき声も、たまらなく愛しかった。「お母さん、まだ寝てるのか? いい加減に起きろよー」とでも思っていたんだろうか。なんて、そんなわけない。「ダメダメ、口に何かいれたまま寝たら。」と、意味なんぞ通じない息子に話しかけながら、濡れた頬をこの右手で拭った。嫌がる素振りも見せず、ジッとしてた。23歳。もう大人になってる息子とひとつ布団に入れるだなんて、私は幸せ者だったんだ。などとキーを打ちながらまた泣いてるんだけど、もうそろそろ息子も私の涙に飽きたろうな。先月からの胃の不調がようやく回復。食欲は戻りきらないが、もう何でも食べられるようになった。画像は、生前の息子の好物。私が食べたり飲んだり出来たので撮っておいた。ゆうべ一人暮らしをしている娘が帰ってきた。家族が揃った息子の初盆である。

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  • 07 Aug
    • 誰かと比べているうちは。

      今まで交流があって亡くなった子は2人。どちらも自閉症の男児。一人は同学年で17歳の時、もう一人は一つ年下の子でまだ7歳だった。その7歳の子の方は、養護学校のスクールバスにいつも同じ場所から乗ってた。バス停までのこの4人はなかなか進めないことが多かったが、いつも必死で歩かせた。「歩けるのに歩かせない」のは間違いだと、お互い強く信じてたからだ。うちの息子はよく、池に帽子を投げたり、歩く意味がわからず道に寝転んでしまって動けなくなったりした。「救急車呼びましょうか?」と通りがかった人に声をかけられ、「いいえ、この子は大丈夫なんです。ごめんなさい。ありがとうございます。」と必死で頭を下げたことも。そんなときその子の母親は、私に優しくこう言ってくれた。「頑張ろうねぇー。ねっ。頑張ろう!」お互い元気で若かった。その彼女は我が子が亡くなって半年ほどで、障害のある子供と関わるボランティアを始めた。━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─息子のいた施設。入所が決まってこのブログで報告した時、「罪悪感で涙が溢れた。」と書いた記憶がある。今回も偉そうに書いてしまった。「息子の死を無駄にせずにすむかもしれない」などと。今、彼女の事を思い出してそんな自分が酷くちっぽけに感じた。息子は選択する自由が一つもなかった。私がそうさせてきた。なのに私は、自分だけのためにそう書いてしまったのだ。あのお母さん、今頃どうしてるだろう。ボランティアを続けてるだろうか。わりと近所に住んでるのに、もう10年以上は顔を見ていないと思う。会いたいような、会いたくないような気持ちだ。誰かと比べているうちは、一生このまんまの私。こういう時はとりあえず体を動かそう。まずは夫を送り出し、日が高くなる前に伸びてしまった雑草を引こう。

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  • 26 Jul
    • 認めたくないから、逃げる。

      人が死んだら何も残らないんだな。 残していると思うのは生きてる人間の夢だ。そういえば、ここんとこ息子は夢に出てこない。1歳半検診では順調に育っていると言われた息子。一語文も平均の数には届かないものの出ていた。すでに断乳は完了。オムツ外しもほぼ終えており、偏食もなかった。問題はない、と思っていた。だが、遊んでいても笑わない、寝ずに朝までキーキー喚く、母親である私の後追いを全くしないなど、育児書の隅々まで読んでも書かれていないようなことが起き始めていた。それも毎日だ。検診の時、私はそこをきちんと伝えられなかった。「遅れている」「少し様子が変だ」という事実を否定することに必死になっていた。やがてそれは息子のパニック、常同行動、自傷・他害行為の頻発により認めざるを得なくなった。役所にまずは相談。紹介された県立病院へ行く。そこでも私はまだ、医師の診断の仕方に疑問を抱く。ここで初めて親に相談。障害児を診ている父の従兄弟(整形外科医)を訪ねることになった。その人が、かつて共に仕事をした先輩ドクターを紹介してくれた。その児童精神科の先生との付き合いが20年にも及ぶとは思わなかったが、私達親子は何度も救われてきた。本当に何度も。「お母さん、お父さん、この子はね、『自閉症』です」「割合でいえば1000人に1人から2人ぐらい(当時)が持っている障害です」「娘さんは何ヶ月?」「よぅ遠い所を連れてきたね。」・・・・その年に生まれた娘は、まだ生後4ヶ月を過ぎたばかり。息子は3歳直前になってた。このパソコンの斜め前に、遺影と同じものが入った写真立てを置いている。あれから21年経ったんだなぁと思いながらこれを打ってる。この写真の中の息子は、滅多に見せなかった笑顔。どの方向からでも目が合う。 それが辛くて、時々私は目をそらしてしまう。さあ、ちょっと何か食べられるものをこさえよう。食べて、薬を飲もう。

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  • 27 Jun
    • 生活リズムを、取り戻す。

      同病で治療を頑張っている人達の記事を読めば、こんな私でも「よし、頑張ろう!」と前は思えてた。その人達が自分よりも症状が重いからとか過酷な環境にいるからではなく、考え方が具体的かつ建設的なものだったからだ。当時の私はやみくもに前向きで何かにつけ急いていた。家事や息子の世話を、なるべく痛くなく怠くなく出来る身体を取り戻そう。出来ればもう一度踊れる身体を取り返そう。そんな漠然とした目標を掲げいつも焦っていた。馬鹿だったなぁ、頭悪いよなぁ、と思うけど、今の自分よりもずっと努力していたように思う。病勢は緩い方だが、病気そのものや治療についてももっと知りたいという欲があった。今日は息子の初めての月命日である。後飾り祭壇の前、いつもと同じ気持ちで座り手を合わせた。そしていつもと同じように、夫を送り出した直後からゴソゴソと片付けをしていた。計画性もなくあっちこっちと手をつけてしまう。どれも中途半端なまま別の場所に移ってしまう。「まだ他に捨てられるものはないだろうか」と探してしまう。息子が亡くなったことで他人様の来訪が増え、この気持ちに拍車がかかっている。物の多い空間や生活が元々大嫌いなのだが、探せば次々と不要なものが目に付くのだ。もしかしたら、捨てるために探しているのかもしれない。夜は頭が冴えてなかなか思うように眠れず、昼間ボーっとしながら家の中をこのような気持ちで片付けている。こもっている。触るもの見るもの、亡くなった息子に結びつけ泣いている。満中陰の準備も途中で放り出して。これももしかたしたら、泣きたいために探しているのかもしれない。これって、変なんじゃないか?まずは体力を回復させよう。しっかり食べて、ちゃんと眠って、日常を取り戻そう。そして大切な息子の供養をしていこう。外の空気も吸いにいこう。読んで頂きありがとうございます。

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  • 17 Jun
    • しきたり。同居していた頃の記憶。

      亡くなって3週間。昨日は3回目の墓参りに行ってきた。細かい草を引いて帰ったが、とにかく暑かった。何かの雑草にやられ、酷いクシャミがしばらく続いた。帰りに義実家へ。義母はそれまでにも2回、息子の好きだったものを持って参りに行ってくれたという。冷たいお茶を飲みながらの会話。言葉を飲み込む。同居していた頃を思い出しながら。出来るだけゆっくりと供養だけをしていきたいと思っていたが、新たな課題が持ち上がりそうな気配。息子の障害が確定したのが3歳直前。一年後に私のうつ病悪化で入院。退院して数ヵ月後にまた入院。それを経て同居を解消した。まわりにはずいぶん迷惑をかけてきた。書いてみればこの数行だ。けれどその数年は、田舎のしきたりを知らずに育った私にとって驚きと苦痛の連続だった。しきたりというのは、10年20年では変わらないものだ。あの家にとって、そんな私と息子の存在意義は何だったのだろう。こうやってキーを打っている自分が、私であって私じゃないような気がしてきた。,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,私は医者の悪口を言えない。人のせいにだけするのは嫌いだ。腫れた自分の指を見て、検査で数値が出なくてもリウマチ専門医を訪ねようとしなかった自分が馬鹿だったと心底思ってる。確定診断がつくまで約2年遠回り。出遅れたリウマチ治療。全ては自分の無知から招いたこと。怖々使った抗リウマチ薬。徐々に増量し効いてきて動けるようになった。体力は下降気味であるが、目標も少しずつクリアしている。でも、治療をもっと早く始めていたら未来は変わっていたのではないか。息子は死なずに済んだのではないか。行きつ戻りつしながらも、気持ちはまた其処まで戻ってしまう。誰かに何かを否定してもらいたいわけじゃない。知識が乏しければあらゆる可能性を疑うことが出来ない。短絡的にして安直。その結果だ。都合の良い後付けの理由なんぞ、探せばいくらでもあるし作れる。風呂に入っていても、人参を刻んでいても、洗濯物を干していても、息子の顔や動く姿が目に浮かぶ。涙が滲んで来る。息子の部屋に長くは居られない。とりあえず今日の予定をこなそう。銀行にもまた行かなきゃ。お返しの品選びの前に住所確認だ。家のまわりの草も伸びてる。暑いなぁ・・・

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  • 10 Feb
    • 自閉症児 と クラゲ

      きっと喜ばないだろうなぁ、と思いながら行った水族館。エレベーターはもちろんエスカレーターも怖がってしまい、息子は全く動かない。担ごうとした夫を、私が制止した。パニックになったまま乗せても、その先の私たちはきっと楽しめないと思ったから。事情を話すと、重い扉の向こう、緩いらせん状の階段に案内された。いや・・・スロープだったか・・・。記憶が斑だ。最上階まではかなりの距離。暗い。 暗いことは平気な当の息子。表情も変えずズンズン進む。娘がすぐあとへ続いた。息が切れたのは私たち夫婦。けれど、係りの人とこの四人だけが登ってきた道中は、ちょっと偉い人になった気分だった。スロープをスタスタと降りながら、たくさんの魚たちを見た。予想通りどれにも興味を示さなかった息子だけど、このクラゲの前に来た時だけ、少しじっとした。見ていたように思うけど、親の自己満足だきっと。あれから10年近く。以来一度も行ってない。 おはようございます。みよっちです。挨拶があとになりました。連休の朝、当地は晴れて寒いです。これは先日、昔の写真を整理していて見つけました。関西にお住まいの方なら、どこの水族館かわかるでしょうね。 前にも書きましたが、知的障害児を連れての外出は何かと困難でした。当時は夫婦ともにまだ若く子供たちも小さかったので、日曜日の度に何処かへ連れて行ってました。いや・・「家で遊ぶ」ということ自体が難しい子供だったので、「いたたまれず」っていうのが本音です。そんな息子が喜べる場所はなかなか見つからず、行っても途方にくれたことが度々。どんよりした気持ちのまま帰宅したりね。そんなこんなも、今となっては懐かしいです。 娘から写メが届きました。「お母さん、ありがと!すっごい雪~」サークルの皆さんと行ったんです。一度も連れて行ってやれなかったスキー旅行。これからもどんどんこうやって楽しんで欲しいなぁ。このクラゲ・・・名前はなんていうのでしょう?亀は・・・ウミガメでしょうか。いつかもう一度、夫婦で行ってみようかな。みなさま、大切な人と良い連休を。ブログランキングに参加しています。ポチポチッと応援していただけると嬉しいですm(_ _)m     人気ブログランキングへ にほんブログ村

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  • 25 Jan
    • こう思うてみたらええんでないのかなぁ

      ゆうべ・・・たしかに息子はなかなか寝なかった。たしかに私は泣いて叫んだ。けれど・・・徹夜にはならなかった。息子を無事施設まで送っていけた。昼も半時間ほど眠れた。起きて、冷凍にあったピザ一枚とてんこ盛りの白いご飯を「関西人は粉モンに粉モンや!」とブツブツ言いながら美味しく食べられた。病院の駐車場待ちもほぼ無しだった。「なあんだ、いいことだらけだ、今日。」そう思いながら帰り道、渋滞した県道から空を目掛けてパチリ。ボケてますが。19年前、鬱病が悪化して一度目の入院をしたとき、私の鬱に最初に気づいてくれた愛知県の息子の主治医に、夜になるとよく電話をかけた。許された病棟でしかうろつけなかったけれど、公衆電話は1台だけあった。十円玉をたくさん握り締め、泣きながら話す。「先生、私はどうしたらいいんでしょうか。息子の療育が止まってしまってます。娘とも、もう何十日も会っていません・・・私の顔、忘れるんじゃないでしょうか」「お母さん、こう思うてみたらどうかなぁ」「今日一日をなぁ、朝・昼・晩と生きてこれたでしょう。もうそれで十分なんだよねぇ。こう、思うてみたらええんでないのかなぁ」日が長くなった。寒さはこれからが本番だけれど、ずっと冬ってわけじゃぁない。朝昼晩、ただそれを繰り返していければいいんだよ、というその言葉を、病院の帰りこの空を見ながら、ぼんやり思い出した。

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  • 06 Oct























































































































































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みよっち

自己紹介:
1963年生まれ。リウマチ確定の2ヶ月後(2010.9)からブログ開始。2013年5月、息子が亡くな...

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