来年は、蕨宿開宿400年と三和町建設70周年が重なります。三和町については、ここで新ネタを記すわけにはいかない(後のお楽しみとさせてください)ので、蕨宿に関係して「近代 蕨」の一端についてネタをご提供したいと思います。
それは「蕨町道路元標」です。旧中仙道と蕨駅前通りの交差点、セブンイレブン前に、石製の道路元標が存在します。案内版もありますので、ご存知の方も多いと思います。
この元標、実のところ、もとは道路を挟んで反対側、昔、パン屋さんだった現在は個人の住宅か鰻屋さんの方にあったことが考えられるのです。
これについては、道路元標設置に関する埼玉県の告示が、大正9年4月9日付で公表され、そこには「大字蕨町字前谷耕地25番地先(前谷耕地は、現在の旧中仙道と国道17号にはさまれた島状の区域)」と記され(この他、告示の下書きとなる稟議書類も場所は同じ)、これを現在設置されている場所の旧名に当てると、旧下町(後に須賀町、郵便局の方向)側は字荒井前(ついでに旧中町(市役所方向)側は、蕨町字宮田)となるため、なんらかの原因で、今の場所に移動したという指摘ができることになります。(ちなみに、大正九年時点で、現在の国道17号は存在していませんので、現在の旧中仙道が国道9号となっています)
この移動に関連が考えられるのが、昭和初期の新国道9号(現在の17号)の開通と、旧中仙道から国道17号、戸田方面に至る蕨白子線(かつては白子道と呼ばれ、江戸時代、笹目方面から助郷のため蕨宿に赴いた方が使われていました。この道は、旧中仙道より駅の方向へ、御殿道としてつながり、現在、餃子屋さんのところで左を旧御殿屋敷(現在の和楽備神社の前身)、右を要害通り方向に続く道に突き当たります。餃子から先の、駅方向は田んぼや畑があるのみで、駅前に続く道ができるのは、鉄道の蕨駅ができた以降となります。よくよく駅前通りを旧中仙道から見ると、きれいに一直線になっているわけでなく、神社入口と市民会館入口の所で屈折していて、江戸時代からある道に駅前通りを接続させるため、工夫を施した様子がわかります)の拡幅によって、移動となった可能性が指摘できます。
加えて、石製元標は、大正11年8月18日付けの内務省令20号で「石材その他耐久性材料を使用すべし」と指示がなされるので、それ以前の設置となった蕨の場合、旧中仙道をはさんで反対側にあったと考えられる元標は、石製でなかったという可能性(たとえば木製)もあるわけです。また、先の要因による移動の際に、石製となったともいえます。ただし、この辺はもう少し裏づけが必要となります。
ついでに、隣町の戸田は、現在の国道17号沿いの吉野家がある場所の近く、名称は「戸田村道路元標」で、設置場所は「大字上戸田字前谷1662番地先(稟議書類も同じ)」でした。ここにあったとされる石製の元標は、現在、戸田市市役所隣の後谷公園内に移転されています。
どうして公園内にあるのかということですが、残念なことに戸田の元標は、いつの間にか埋められてしまったらしく(戦後、必要でなくなったためと思われます)、国道17号拡幅工事の際に発見され、ようやく地上にお出ましとなりました。では、何故に埋められてしまったのかということなのですが、これについては、蕨のように旧中仙道と異なる場所に国道17号が開通されたのと違い、旧戸田村の区域は、旧中仙道を拡幅することで現在の国道17号が成り立っている場所が多いため、発見される以前の整備等の工事の際に埋められてしまったという可能性も指摘できます。