*この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

 

 里安九段に志茂九段・理事から電話があったのは、日曜日の夜だった。
 明日、自宅に来てくれないかという。若いころ、藪君、森中君といっしょに毎週、志茂先生のマンションに行って研究会をしていたものだが、もう何十年ぶりになるだろう。里安の胸には懐かしい思いが過ぎったが、志茂先生の声がなにやら暗い。
「それが、里安君、あまり愉快な話じゃないんだ」
 金曜日、アナタベ覇王から志茂先生に電話があったという。アナタベ君は、ミウ九段が不正を行っていると言い、将棋界が危ないから、至急に藪三冠や志茂先生、里安と内々で相談したいということらしい。
「ミウ九段の不正って、例の対局中にコンピュータソフトを使っているんじゃないかっていう噂だったら、先月の月例会で話し合いもしたし、先週、規制の通知も常務会から出されたじゃないですか」
「うん、そうなんだが、アナタベ覇王が非常な勢いで、なにか、証拠があるような話をするんだ。詳しくは、藪君や里安君がいるところで話したいと言って、よくわからないんだが」
「アナタベ君もときどき感情的になって抑えが効かなくなりますよね。でも、将棋界が危ないって何なんですか」


 里安は、アナタベとは距離を置いていた。
 一回り以上年下で、普段は謙虚な振りをしながら、自分の都合によっては一変し、声が大きくなり押しが強くなる。
 ときに不愉快な後輩だった。十年位前の式典で、里安たちを指して「おっさん」と呼び、「おっさんたちには負けません」とあいさつした。アナタベが二十二歳、里安たちが三十六歳くらいのころだったか。
「私も急に藪君や君に内密に会うなんていうのも、少し変な流れだと思うんだが、アナタベ君が収まらないんだ。なんとか頼むよ」
 恩人の志茂先生だが、どうも近年はしがらみか何かで昔とは少し違ってきているのが残念だ。
「藪君はどうすると言っているんですか」
「藪君も拝み倒した。どうせ後でわかるだろうから白状しておくと、藪君を拝み倒すとき、君も来てくれるから、と言わせてもらった。頭を下げる、頼む」
 最後は、深刻な調子ではなく、半分冗談のような声だった。
「わかりました。伺います」

 

 アナタベ君のタイトル防衛戦である覇王戦は一週間後だ。
 覇王位は将棋七大タイトルの内で最も賞金金額が大きいタイトルであるし、なにより、アナタベ君にとっては十期にも及ぶ特別なものだ。研究や作戦のために直前の大事な時期だろうに、何を話したいというのだろう。
 挑戦者となったミウ九段は、一昨年にコンピュータソフトとの棋戦に出場し、A級棋士として最初の敗者となったが、その後、ソフトを使っての研究を重ねているようで、今期の覇王戦予選も踏み込んだ差し手で鮮やかな勝利を決めたりもしている。
 里安より五つ年下の後輩で、まじめ一筋、将棋への熱意は認めているところだが、コンピュータで研究するのは、残念だった。里安は、コンピュータに頼る研究は良くないと思っている。
 最近では、強い棋士に対しては、対局中にコンピュータソフトに差し手を検討させているんじゃないかという噂が立つことがあるが、先月あたりはミウ九段に疑いがかけられていたらしい。
 そんな噂には、勝てない棋士の妬みやっかみの空気を感じてしまう。里安は嫌悪感が顔に出てしまうので、そういう話を持ちかける棋士はいない。それでも、つい耳に入ってしまう。ミウ九段も気の毒だ。
 もっとも、三年ほど前、最初にコンピュータソフト不正疑惑の噂がたったのは、当時驚異的な強さを発揮していたアナタベ君だった。
 全く、コンピュータソフトは困ったものだと思う。

 

 翌日は、志茂先生の自宅を夜七時半に伺うことになった。
 志茂先生宅に着くと、びっくりさせられた。谷上会長がいて、さらに、アナタベ君の隣には、天野君がいる。
 谷上会長は、五十代半ばとなった今こそ活躍が少なくなったが、史上最年少二十一歳で名人位を獲得し、永世名人の資格を有して、現在、将棋連盟の会長を務めている。
 一方、天野君は二十八歳で名人位を獲得したばかりだ。
 藪三冠とアナタベ覇王、そして里安自身もタイトル獲得十三期の実力者で棋士会会長でもある。
 将棋界のトップがほとんど、そろってしまっていた。
 天野君の後ろには、やはり有望な若手の万田七段もいる。
 

 

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