*この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

 

 

 アナタベは、はらわたが煮えくり返る思いだった。
 そもそも、対局が終わった時点で、不愉快の頂点に達していた。ミウに三連敗だと? しかも、今日は完敗だ。ミウの研究にはまってしまっていたことに気付いたときには、もう終盤に入って、勝負形にもならなかった。
 角換わりで4五桂というのは、見過ごしていた。迂闊だったということだ。
 ミウごときに負けてしまうなんて。今年になってミウごときに三連敗かよ!
 ミウは、二年前からコンピュータソフトを使って研究しているだろうし、若いときには一日の将棋の勉強時間を聞かれて「二十四時間」と答えたやつだ。奴のソフト相手に研究しつくしていた順にハマったんだと、てっきり思った。
 帰宅してすぐにコンピュータソフトを立ち上げて、手順を入力した。そうか、4五桂の段階で先手が指しやすいか。なるほどね、こっちは考えすぎて悪手、悪手と重ねてしまった。早い段階で手駒の角を自陣に打つべきか。しかし、中盤以降もミウの手は急所急所でツボにハマった妙手を繰り出してきた。これもソフトの読み筋に出てくる。
「まずいよ、相当だね。終盤まで研究が届いていたんですか」
 思わず、アナタベ覇王はつぶやいていた。
 あと十日ほどで、覇王戦七番勝負が始まる。将棋界の最高峰の棋戦、優勝賞金四千二百万円。
 挑戦者はミウ九段だ。
 ――くそっ!

 

 部屋のドアが開いて、ヨメさんが顔をのぞかせた。
「もう遅いから、先に寝るね。めずらしいね。負けて、君がそんなにわかりやすいのは」
「うるさいなあ。勝手に先に寝ててよ」
「だから、寝るって。阿久間さんから電話があったわよ。何時でもいいから、電話ほしいって言ってたけど」

 

 キッチンの冷蔵庫からビールをもってきて、一口飲んで怒りを冷まそうとしながら、阿久間三段に電話した。スマホには、阿久間からの電話をくれというメールが何通も届いていた。
 研究会のメンバーだが、あまり好きではない。若手の多い研究会の中では、ロートルで棋力もたいしたことない。すり寄ってくるタイプで、アナタベに従順だから、仲間にしてやっている。
「今日は覇王、災難でしたねえ」
 電話に出た阿久間は、いつもより馴れ馴れしい声で話した。
「ミウ九段が飛車先交換に来たときに4二角だったんでしょうか。いやいや、上手の手から水でしたね。それから、4四角成の辺りで3三角と打つんですか」
 このやろう、と声が出そうになる。こいつも許さないぞ。
「ご機嫌、損じましたかねえ。まあ、もう少し聞いてください。私、今日は覇王の一局を勉強させてもらおうと思って、朝からインターネットで観戦してたんですよ。コンピュータソフトで研究しながら。覇王、ミウにやられましたよ。ミウ九段は今日も席を外すことが多かったでしょ。まあ、その間に、私もソフトでいろいろ手を調べていたんですけど、やっぱり近頃のソフトはすごい手を絞り出してくるんですよね。そのうち、ミウ九段が席に戻って、ソフトの読み筋にあった絶妙手を指すんですよ。先月くらいから噂が立ってましたけど、覇王に使ってくるとはね。私も唖然と見ていたんですけど、まあ、覇王も途中でお気づきになってたんでしょうけどねえ。困ったもんです。どうしますか、覇王」
 アナタベの中で血が逆流する。
「ミウ九段が対局中にコンピュータソフトを使っていたと言うんですか」
「何をとぼけて。8五桂や5五桂、中終盤であんな絶妙手を次々に繰り出せる人間がいるわけないでしょう。失礼ながら、覇王、藪先生でも無理でしょう。いや、それよりも、私はミウが覇王相手に堂々と不正をしたのがすごいと驚きましたが」
 アナタベは、自分が冷静だと思った。電話を持った手が震えているが、燃え上がりすぎた怒りが凝縮し、体の芯に冷たく固まっていくようだ。
「阿久間さん、ありがとうございます。少し疲れたんで一度休んでから、また連絡します」
 できるだけ平静を装い、電話を切った。
 窓の外が明るくなってきていた。
 

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