2007-04-07

フリージアvol.22 最終回

テーマ:小説:フリージア

私の中で確かなものを感じる。

克弘に頼るのでも、津崎に求めるのでもない、強い光のようなものを。

そして私はその光を解き放さないではいられない。

私の中から外へ向かって。新しい命へ向かって。


雨はいつの間にかやんでいた。

空が少しずつ、少しずつ、白くなりだしていた。

朝が来る。


私の目はゆっくりとまわりを見渡すことができた。

あたり一面、真っ白な霧に覆われていた。

私はどうやら丘の中腹にいるようだった。

丘の向こうには海があるのだろう。波の音があたり一帯を静寂へと導いていた。


私はずっと孤独だった。

私は今まで、ずっと受け入れることしかしてこなかった。

その人のすべてを受け入れるだけということは、結局のところ、自分で自分の存在を消してしまう作業にほかならなかった。

私は自分の存在を消すことで、人を愛する行為を怠ってきた。

そんな孤独は孤独ですらない。

愛することは、深く傷つき、ときには血も流す。

私はそこからひたすら逃げていた。

自分から飛び込み、傷つくことを恐れるあまり、私は愛そのものさえもわからなくなっていた。

愛されることさえ見えなくなっていた。

その歪みだったのだ。

私のからだが、いつもそんな私に悲鳴をあげていたのだった。


私は愛さなければならない。

たぶんこれからも孤独を感じていくことにそう変わりはないのかもしれない。

でも孤独でいることの意味を私が変えなければならない。

私はやっと、私のからだの奥底に押しつぶしてきた光を感じとることができたのだから。

私は逃げずに存在しながら傷つき、それでも愛することをやめないで孤独でいようと思う。


何かが変わり始めている。

私の中で確実に変わり始めているのがわかる。


私は目を凝らした。


丘は一面、白いフリージアで覆われていた。

丘の向こうにあるであろう海岸線まで、どこまでもフリージアが咲いている。

花はみな、朝日を待っていた。

今までの闇に耐え、霧をかきわけるように、白々と明るくなり始めている東の空へ向かって、

一斉に花を咲かせていた。

一本一本のフリージアが、たったひとりで大地に静かに根をはり、風に逆らうことなく、力強く咲いていた。

誰に頼ることもなくすべてを受け入れ、そして、すべてを包みこむ美しい香りを、見返りのない愛を注いでいた。

私もこうありたい。

この丘に咲くフリージアのようでありたい。


私は空を見上げた。

闇は完全に終わりを告げようとしていた。

風を体中に浴びて、これから昇ってくるであろう陽の光を強く感じた。

そして空へ向かって大きく背伸びをするように、私は立ち上がった。


と、そのとき、太陽の光がひとつの線となって一瞬にして丘一面を走りぬけた。

私は眩しくて目をあけていられなかった。

あまりにも激しく、熱く、痛いくらいに光が私の中を突き抜けていく。

まるで己の意志でもって私を貫いているかのように。

私のからだの中で芽生えていた光がこの陽の光と衝突して、からだの外へはじき飛ばされるように閃光した。


アツイ――――――――――――――!


私のからだが引き裂かれていく。
ヒキサカレテイク


私はなにが起こったのか、再び真っ暗な闇の中へ投げ出されたみたいで、

痛みも、私のからだの存在も、自分のいる場所もなにもかもわからなくなっていた。

ただ私はとてもおだやかで静かな気分だった。

それと同時に、何もない、何も見えない闇が私の存在そのものを呑み込むように、

重たく私の中へと入りこんでくるのを感じた。


でも、もう私は大丈夫だ。

私は何も恐れてはいない。

私はこのままゆっくりと、静かに、闇を切り裂くように、大きく目を開けよう。
そしてこの新しい朝に、

この新しい命に、

私も光を降り注ぐのだ。


そして、私も再び生まれる。

そう、この太陽の光とともに。



<完>





2007-03-28

フリージアvol.21

テーマ:小説:フリージア

* * *


私はふと目を覚ました。
真っ暗だった。

いったい今は何時なんだろう。

まだ暗闇に目が慣れなくて何も見ることができない。

ひんやりとした空気が私を撫でた。

風だ。

遠くの方ではかすかに波の音が聞こえる。


私はしばらく風の音とも波の音ともつかない音に耳を傾ける。

すると、すぐ耳元で心地よくくり返す、草がさわさわと揺れる小さな音がした。

とても静かだ。

私はどうやら外で眠ってしまっていたようだ。


ここはいったいどこだろう。

私のからだはまだ目覚めていないようで、動かすことができない。

私の意識だけが、ゆっくりと静かに、鮮明になっていく。


私は何が悲しかったのだろう。

まぶたが未だに熱を帯びていて、眠りにつく前に私はひどく泣いていたことを思いだす。

まぶたが重い。

また目を閉じて眠ってしまいたくなるほど、心地よい気だるさが私を覆っている。


私は津崎とセックスしていたのだ。

津崎はもう二度と、電話をかけてはこないだろう。

そして二度と会うこともないだろう。

私も津崎も終始ことばを交わすこともなかったけれど、津崎は涙こそ流しはしなかったけれど、

ふたりはこれが最後になるということをはっきりと感じとっていた。


私のからだは精いっぱい津崎を受け入れていた。

受け入れるという意味では、それこそ今までにないほど、私のからだは津崎のからだに反応し、感じていた。

それなのに、矛盾しているのだけれど、私はまったく津崎を必要としていなかった。

そして津崎もそのことを知ったのだ。

どんなに私に愛を注いでも、実を結ぶことがないことを、

そして私の心もからだも完全に違う方向を向いて歩きだしているということを。


悪いのは私のからだではなく、私自身だったのだ。

私は最初から最後まで津崎の愛を受け止めることができなかった。

津崎の愛に気づくことさえできなかったのだ。


「ごめんなさい」

私は津崎を抱きしめながらこう言うしかなかった。

津崎のからだは、私の中で激しく燃え、悲しみで打ち震えていた。
そんなに泣かないで。


津崎の精液が私のからだを濡らしつづけた。

それは涙となって、いつまでもいつまでも私に降り注ぐので、私のからだが溶け出してしまうほどだった。

どろどろになって、そのまま地中に埋もれてしまうほど、私のからだがカタチをなさなくなるほど、

ひたすら悲しみが降り注いでいた――――雨だ。


雨が降っていた。

冷たい雨だった。

私は避けることもしないで、ただこの雨をからだの細胞ひとつひとつに至るまで染みこませていた。

それでも寒くはなかった。

私の中に芽生えているなにかが、私を暖めてくれていた。

雨はそんな私を知ってか知らずか、執拗なまでに降り続いた。

そんなに降ったところで私の中の火種は消えはしない。

それでもかまわない。

私はいつまでも浴びていたいと思った。


私はひとりだった。

どうしようもなくひとりきりだった。

でも寂しくはなかった。


私は克弘を想った。

克弘の泣き顔を私は一度も見たことがない。

もし泣くとしたら何を想って泣くのだろう。

克弘の涙は、いったいどういうカタチとなって私の中へ降り注いでいくのだろう。

津崎と同じ悲しみでもって、この雨のように私の火種に嫉妬するのだろうか。

もし、万が一そうなったら私は今度こそ、克弘をしっかり抱きしめようと思う。

克弘の顔はこの暗闇でうまく見ることができないけれど。

そして、ごめんね、と私は抱きしめながらも、きっと謝ることしかできないのだろう。

私は今、まさに乗り越えようとしているのだ。

克弘も津崎も、そして今まで私の中を通り過ぎて行った人たちすべてから、私は、乗り越える。





2007-03-12

フリージアvol.20

テーマ:小説:フリージア

* * *


「痛いっ――!」


私は分娩台から飛び上がりそうになった。担当の先生が私の会陰を切ったのだ。


私はその少し前に、股を広げた体勢をとらされていた。

意識が朦朧となりながらも、陣痛で気がおかしくなりそうになりながらも、

それでも人前で、先生や看護婦さんたちが右往左往しているところで股を広げるのは、やはり少なからず抵抗があった。

先生はキャスターつきの椅子に座り私の股の前で身構えると、

私の産道がよく見えるように背後からスポットライトを調節するよう、看護婦さんに指示をだしていた。

そしていきなり切られたのだ。

何も告げられないまま、消え入りそうな意識の中で、まだ少しだけ漂っていた羞恥心の中で。


「サクッ」という、厚みのある肉をはさみで切る生々しい音がはっきりと聞こえた。

雑誌などでは、会陰切開は麻酔を使ってやるから痛みは感じないし、

会陰自体も紙のようにペラペラになっていて、それよりも陣痛のほうでよっぽど苦しんでいるから、

いつ切られたのかさえ気がつかないほどだと書かれていたのに、ウソだ。

痛い。

肉を切られた痛さが体中を走り回る。
イタイ。


私の産道がどのくらい出産にそなえて変化しているのかはわからない。

でも、出産を急いで進めなければという焦りが、

先生の少し尖った話し方からも看護婦さんが慌ただしく私の周りを歩き回る音からも感じられた。

とにかく子供の心拍数が著しく乱れていて、一向に平常に戻ってくれなかった。


「ううっ・・・・・」
私は切られた痛みに耐えかねて身悶えしていると、今までにないほどの陣痛の波が襲ってきた。

もういきまずにはいられない。

ずっと「ひーひーふー」の複式呼吸で陣痛の波をどうにかごまかしてきたけれど、

もうそんな子供だましのようなことでは通用しない。

とにかく産道のあたりから何かが出たがっていて、それをふんばらずにはいられない。

浣腸を我慢するどころではない。


「いきみたい、先生、いきみたいんです・・・・」


私はうなるように声を絞りだして訴えた。すると看護婦さんが、
「いきめばいいのよ。さあ、陣痛の波と一緒に思いっきりいきんで、おしりの方に力を伝えるのよ」

と大きな声で弾みをつけるように言った。

ところがどんなにいきんでも、いきんでも、産道にすぐ出たがっているもの―― 子供 ――は出てきてくれない。


「ううっ・・・・」


いきむとき思わず声が漏れてしまう。

声を出すというのは、痛みや苦しみを軽減させ、発散させる力があることを改めて知る。

この辛さをやり過ごしたい。


「声を出しちゃだめでしょ。声を出すと力がそこから抜けていってうまくいかないの。がまんして。がまんして頑張るの!」


看護婦さんからげきが飛ぶ。

一方、担当の先生は私の産道をにらんでいたかと思うと突然「院長を呼べ!」と叫んでいる。

助産婦さんが院内放送を流したり、直接院長先生の家に電話をしたりするのだけれど、どうにもつながらない。

担当の先生は「もういい!」と投げやりに叫ぶと「君たちはそっちへ回って、押して」と、

看護婦さんと助産婦さんに指示を出している。


「痛いけど、子供をこうやって押し出すからね」

と看護婦さんが言うやいなや、ふたりは私の胸のすぐ下あたりを、体ごと重心をかけて思いっきり押し始めた。

そして先生は、私のはちきれんばかりの産道の入口に更に手を突っ込むようにして子供を導きだそうとしている。


助けて――――

私のからだがどうにかなってしまいそう。このままでは私が壊れてしまう。

ダレカタスケテ――――


助けを求めたところで誰も救ってはくれない。

自分でどうにかするしかない。

いきむことを止めたくても、子供が出たがっていていきまないではいられない。

グリップを握る手は力を入れすぎてしびれていた。

いきんで押し出す力は私にまだ残っているのだろうか。

とにかく、力いっぱいいきんで、漏れそうになる声を呑み込んで、

引き裂かれそうな私のからだに全神経を集中するしかない。


もっと強く。強く。強く。強く―――――――――――――――――





2007-03-01

フリージアvol.19

テーマ:小説:フリージア

なにをしていても不安でいてもたってもいられなくなってしまった。

私のからだが勝手に生きている。そんな気がしてしかたがなかった。

克弘は私のこの暴走するからだを知らない。知られたくない。今を壊したくない。


私はこの私のからだごと、どこかに縛り付けてしまいたかった。

私は津崎との感覚を私のからだに再び刻みつけることによって、

せめて今まで生きてきた私自身を、肉体の感覚も含めて、確認し納得しておきたかった。

私は私のままなのだと。


津崎に会いたい。

そう思わずにはいられなくなった。


妊娠7ヶ月を過ぎた頃、私は何年かぶりに津崎に会った。
駅の改札を出たところで津崎は待っていた。

少し角の取れたような津崎の笑顔がそこにあった。

私のすっかり変わってしまったおなかに少し目をやると「お久しぶり。元気そうだね」と言って津崎は微笑んだ。


「ええ」私は自分のおなかをさすりながら言った。

津崎の顔をまともに見ることができない。
「今日は大丈夫なの?」
「・・・・」私は黙ったままうなずいた。
「君に触れてもいいってこと?」津崎は小さな声で訊いた。
私はまた黙ったままうなずいて、ほんの少し、視線を津崎に移した。

私の目の前で微笑んだまま、津崎も小さくうなずいていた。



津崎は、初めて会ったときのようにやさしかった。

なぜ今頃になって私が会おうだなんて言い出したのかを訊きだそうともせず、

津崎は、ただひたすら私のからだを全身でそっと抱きしめてくれた。


私のからだは昔のままなのだろうか。

津崎は、まるで暴走しようとする私のからだをなだめ、封印するかのようにやさしく抱いた。

それは私が妊婦だからだけではないように思えた。

おなかをいたわるというよりも、私そのものをまるで元には戻らない想い出にでも触れるかのように、

悲しそうな心で包みこんでいた。


津崎のからだは泣いていた。

ゆっくりと快感の階段を一段ずつ昇るたびに、津崎のからだは悲しみで震えていくのがわかった。

こんな悲しいセックスは初めてだった。

私のほうが、いつの間にか慰めるように津崎を受け入れ、強く抱きしめていた。

津崎のからだがこぼす涙を一つ残らずかき集めるようにして。


津崎との最後のセックスは、まるで今まで津崎を強く求めていた私のからだを、

お互いの奥深くへとそっと葬る儀式のようだった。

こんなに強く交わっているにもかかわらず、

二度と同じ明日を見ることのない、この場に取り残されてしまったお互いの亡き骸を、

ふたりはひたすら味わうしかなかった。





2007-02-22

フリージアvol.18

テーマ:小説:フリージア

津崎はあの日以来、私が会えないと言った日以来、自分から会おうとは決して言わなかった。

でも、極たまにではあるけれど津崎からの電話はあった。

当然会話にはならなかった。

ただでさえ日常会話がなかったふたりなのに、

会う約束もしない電話など、いったいなにを話せばいいのだろう。


「元気?」と必ず津崎は訊く。

私はこもった声で「ええ」と応える。

あとはしばしの空白。

私はここで切ってしまってもよかった。

そうしてしまえば、拒絶しているという態度を津崎に充分示せるはずなのに。

私はいつもここで、この重たい沈黙になぜか負けてしまう。

切れないのだ。

執拗なまでの津崎の接触に私は嫌悪感さえ抱いているのに、

津崎から次に出てくる言葉がいったいなんなのか、私はいつも待ってしまうのだ。


私はきっと、津崎が何か言ってくれることを心の底で望んでいたのかもしれない。

そしてこの沈黙の中で私は、津崎と関わっていた自分のことを、

汚れていくと思っていたからだの感覚を思い出す。

私のからだが目を覚ます。

すると津崎は、私の蘇ってくる感覚を断ち切るように、

きまって「そっか」と独り言ともため息ともいえる、呑み込むような言葉を吐くと

「じゃあ、また、元気で」と言って、必ず先に電話を切ってしまうのだった。

私が「結婚する」と言っても「妊娠した」と言っても、

きまって津崎は「そっか」と言うだけだった。


こんな時間が何度かくり返された。


克弘にこんなことを知られたくなかった。

私は克弘と別れたくない。

津崎から電話がかかってくる度に、私は結婚生活を壊されてしまうのでは、という思いが頭をよぎった。

でも本当のところ、私が、壊してしまいそうで怖かったのだ。

私自身は今の幸せを壊そうだなんて微塵も思ってはいない。

それどころか私には破壊するほどの勇気の一欠けらも、パワーも持ち合わせてなどいない。

それなのにときどき感じるのだ。

私の中のなにかが、

異様なまでに現状から爆発したがっていることを。


優柔不断な私をせかすようにして、

からだの奥からなにかが私を刺激していることを。


今回私は妊娠して、より一層強くそれを感じるようになった。

私のからだは私と離れたところで存在し、私を苦しめている。

今までとも違う、また新たな方向へ進もうとしている私のからだ。

私はどうしてもこのからだを私自身につなぎとめておきたかった。

このままでは私が私でなくなってしまう。

そう思っただけで恐ろしくなった。


誰がはっきりと知っているというものではないけれど、

少なくとも津崎は私のからだの本質を知っていたと思う。

極せまい範囲の人間同士がもっている、

共通するなにかをお互い嗅ぎつける本能というものでもあるのだろうか。

私に言い寄ってきた人たちはきっと、私の中の共通部分を本能的に嗅ぎつけていたのかもしれない。

その臭覚の鋭い本能を身につけていた人だけが、私のところへやってきた。

その多くは性的な興奮となって表へあらわれて。

そういう人たちが私と交わろうとしていたのだ。

それがただ表面上のセックスを目的としていたのか、

それとも、動物的本能による子孫繁栄という使命だったのかわからないけれど。


そういう意味では克弘はいちばん、その共通部分を持ち合わせていない、

私のところへやってくる最もタイプではない側の人間だった。


その克弘と私は結ばれ、私は今まさに新しい命を身ごもっている。

そのことを私のからだはどう思っているのだろう。

私の意志決定で選んだ克弘との、この命のことを。





2007-02-10

フリージアvol.17

テーマ:小説:フリージア

* * *


私が分娩台の上で相変わらず苦しんでいる間に、カーテン1枚を隔てた隣の分娩台で、

産気づいた妊婦がひとりあとから来て、まるで出産雑誌で掲載されている美しい出産シーンのように、

陣痛で苦しそうな声が少しの時間聞こえたけれど、

いきみ方も看護婦さんに「とても上手よ」と褒められながら、

誰が慌てるわけでもなく、あっとい間に出産し、

子供の産声が分娩室に響き渡ると、後産の処理もあっという間に済んだらしく、

すっかり何事もなかったかのようにきれいに片付いていて、

いつの間にかまた、私ひとりが苦しんでいた。


陣痛の間隔は、もうこの頃は2分くらいしかなかったと思う。

でもそのほんの少しの時間、痛みから一瞬でも解き放たれると、

私の意識は体力の消耗とともに遠のいてしまっていた。
 
妊娠したと知ったとき、とてもうれしかった。

克弘と私のあいだに新しい命が生まれるなんて、うまく想像できなかった。

この私たちの生活している空間に、この日常に、知らない命が新たに存在する。

くすぐったいような照れくさいような、私をどきどきさせる克弘との子供。


今までの私はそんなに子供が好きだったわけでもなかったけれど、

不思議なくらい自然におなかの子供を受け入れていた。

病院で、初めておなかの中の豆つぶほどの胎児を超音波で見たとき、

私は感動のあまり涙がでてきてしまった。

その豆つぶは、すでに心臓の機能を果たしていてトクトクと脈を打っていた。

私のおなかの中で、新しい命はパワー全開で生きていた。


つわりは思っていたよりも軽く、さほど辛くもなかったけれど、

安定期に入っても、やはり特定の臭いには過剰に敏感になっていて、

その臭いを嗅いでしまうと気持ち悪くなった。

でもそれ以外はとくに大事に至るようなこともなくて、外出など日常生活も比較的自由に行動していた。

私はおなかが次第に大きくなってくると、無意識にいつもおなかをいたわるように撫で、

おなかの子供にいつも話しかけていた。

そうすると私の気持ちのほうが安らいだ。


私の分身だとか、血がつながっているという感覚はぜんぜんなくて、

私とはまったく別の生きものをおなかで飼っているといった感覚のほうが近い。

でもこのまだ世に誕生していない命であっても、

まさに私とともに生きているという実感が不思議と私の心を落ち着かせた。

人間、やっぱりひとりよりふたり、というよりひとりの中にもうひとり。


私は個である孤独からしばし解放された。

けれどもなんともいえない不安が、時折、どうしようもなく私を襲った。


私は克弘とつきあうようになって、はじめて津崎に別れを告げたのだ。

私は確信したのだ。

克弘こそ私のことを、私のからだから救ってくれるひとなのだと。

うまく言えないけれど、私は今まで私のからだに支配され、翻弄されつづけてきた。

私のからだが求め、欲しがる男というのは、必ずしも私の日常における相性とは一致しなかった。

津崎がまさにそうだった。

私は克弘と一緒にいることで私のからだを私の支配下に置きたかった。

私自身を安定した人間にしたかった。

結婚するということはある意味、拘束しあい、安定を余儀なくされること。

私はそれを喜んで引き受けた。


しかし、今また私はからだに支配され始めている。

私のからだは、今度は私の意識とは関係のないところで新しい命の誕生を喜び、

血肉を捧げている。

それはホルモンバランスの変化によってつわりという症状となって表れ、

味覚や臭覚、食欲の感じ方がいつのまにか変わってしまっていたり、

あるいは突然の吐き気や眠気に襲われたりした。

そしておなかを支えるために背中や腰、お尻にかけて皮下脂肪が増えはじめるという、

肉付きそのものが変わるだけではなくて、心までもが影響を受け、やたら感傷的になったりもした。

そして外から見てもわかるとおり、おなかが風船のごとく膨れていくことに、私は少しずつうろたえ始めていた。

おなかの子供はもちろん愛しい。

おなかの中で動いているのを感じるときは何とも言えないほど愛しくなる。

でも、それとはまったく別に、

私のからだが私を置いてひとり暴走していくような気がしてならなかったのだ。


津崎に出会ったときに似ている。

私のからだが向かおうとするベクトルはぜんぜん違うけれど、

強く引っ張られているのを感じる。

そう、このおなかの中の命に、私は圧倒され始めている。


私は何年かぶりに津崎に会いたくなった。




2007-02-01

フリージアvol.16

テーマ:小説:フリージア

私は津崎と会うこと自体を終わらせたいと本気で思った。

克弘とつきあうようになってから、一度だけ惰性で津崎に会ったのだけれど、

初めて私のからだが津崎を拒絶した。

津崎も私の変化に気がついたと思う。

普段にも増して激しく私を求めた。

でもそれがかえってお互いを虚しく空回りさせた。
津崎は数日後、すぐにまた会おうと私を呼び出した。


駅の改札口で津崎は待っていた。
私は津崎の前に行くとうつむき、呟くように「お待たせ」と言った。

すると津崎はいつものごとく、行こうか、とだけ言うと私の腰に手をおいて歩き始めようとした。

これから向かう先はどこかも、これからの予定も何も言わずに、

津崎はいつも歩きだしてしまうのだった。

でも今日になって初めて、私から行きたい先を告げた。


「ちょっとお茶でもしていきませんか」


津崎の顔はいつになくこわばっていた。


私は津崎が前を早足で歩いていくのを必死で追いかけていた。

結局喫茶店へ入るわけでもなく、

津崎と私はただひたすら目的地もないまま街を歩き続けていたのだ。

私の決心が津崎のペースに呑み込まれてかき消されてしまう前に、

信号待ちの交差点で津崎と並んだ瞬間、私は言葉を走らせた。


「ごめんなさい、もう会えない」


「由希子は自分をわかっていないんだよ。

とても純粋で、美しいものをもっているのに、未だに気づいてないだろ。

僕は由希子のそんな姿を見るたびに、どうしても放っておけなくなる。

触れずにはいられなくなるんだ。」

と津崎は独り言のように前を向いたまま、静かに言った。


「ごめんなさい」


私は津崎の言葉を最後までうまく呑み込めないまま、

そう繰り返すのがやっとだった。


信号が青に変わった。

津崎は、今度はゆっくりと、視線はずっと遠くにしたまま歩き出した。


「孤独な花。

誰のためにでもない、誰に育てられているでもない、ひとりで根をはって生きていく花。

ぼくはいろんな国へ行くだろ。

いろんな国をひとりでまわっていると、必ずそういう花を見つける。

そしてそれをとても美しいと思う。

でも日本に帰ってくるとそんな花なんてどこにも咲いちゃいない。

雑草だって誰かにちゃんと守られているんだ。

でもそんな中で、由希子が孤独な花だった。」


私はなんて言葉を返せばいいかわからなかった。

津崎は黙っていた。

もうなにもしゃべらなかった。

私が泣いた。

このまま、歩きながら立ち止まることもなく、津崎にさよならを言って別れたあとも。


津崎が最後に、また電話する、と言って背中を向けたとき、

いつも別れるときに言うその台詞を聞いたとき、

私から別れを告げているのに、

私はどうしようもないくらい胸が痛かった。




2007-01-16

フリージアvol.15

テーマ:小説:フリージア

***


私は津崎と別れたかった。


私は純粋な恋愛がしたかった。

いったい純粋な恋愛というものが、果たして存在するのであろうか。

でもその頃の私には、ごく普通な出会いかた、いや、合コンでもナンパでも、

たとえどんな出会い方であったとしても、まずその人の氏素性を知る、という段階を踏まえることが必要だった。

そういうその人の本質でないところを知ってから好きになりたかった。

そしてその人の性格や趣味趣向、ものの考え方、価値観に共感しながら、

初めてその人を好きになって、その人の肉体に触れたいと思う、そして私自身の肉体にも触れてほしいと思う、

それが純粋な恋愛関係というものだと思っていた。


でも実際は、頭で好意的に思った人とはいつもうまくいかなかった。

なかには映画の好みとか、最近行った展覧会の話とかで盛り上がり、

そんなことがきっかけでお互い好意を抱き、食事や映画に行ったりした人もいたのだけれど、

いざ、私がその人にむかって少しでも自分のことについて話そうとすると、

だいたいにおいて自分の長所短所を話したくなるときというのはそのひとに甘えたくなるときだったりするのだけれど、

そうすると、その相手の人は少し戸惑ったようにして必ず身を引いてしまうのだった。

もしくは、それこそお互いのからだが求め合い、引き寄せあうようにしてつきあった人もいたけれど、

そういう人は結婚していたり、同じようにして引き寄せあった別の女の人がいたりして、

すでに上手くいかない状況にあった。


どっちにしろ、たいていどの人も私に甘えたいだけであって、

家族のことや仕事のこと、うまくいかない人間関係など、私にさんざん愚痴をこぼし、

励まされ、私のからだをさんざん抱き、満足すると去ってしまうのだった。


私はいつもひとり取り残された。

そしてその寂しさを紛らわすため、

風の訪れのように何の気なしにやってくる津崎の誘いに、私はまた応じてしまうのだった。


そんなときに克弘に出会った。

私はその頃、勤めていた職場の上司とうまくいかず、

それも結局は肉体関係によるものだったのだけれど、会社を変えた。

そしてその新しい職場に克弘がいたのだった。


私は克弘に飛びついた。

ようやく日の目を見た思いだった。

実際日中だろうとどこだろうと人目を気にしないでふたり並んで歩くだけで幸せだった。

私は克弘に会うたびごとに、私自身が浄化されていくような心地のよさを感じた。

そして、あまり片付いていない彼の部屋でぎこちないキスを交わし、狭いベッドでぎこちないセックスをした。

私はこうして彼の空間にいることも、

彼の案外経験が多くないであろうセックスも、

ひとつひとつが愛しく、うれしかった。



2007-01-04

フリージア vol.14

テーマ:小説:フリージア

お昼になろうというのに私の子宮口はほとんど開かなかった。

定期的に助産婦さんが私の産道の状態を調べに来てくれるのだけれど、

私の膣に指を押し込むたびに「まだぜんぜんだめだわ」とため息にも似たことばを吐いていく。

そしてふたたび指を抜かれるたびごとに、ぬるっと生暖かい羊水が股にまとわりついて気持ちが悪い。


こんなにもう陣痛で苦しんでいるのに、まだまだだなんて。

私の産道は今いったいどんな状態なのだろう。

子宮口は子供の頭が通るように最大直径10センチほどまでに広がるという。

私の子宮口はまだ2センチにも満たないらしい。

すでにおなかの中に子供がいるということで充分不思議だったけれど、

これから産むまでに更に私のからだは変化しようというのだ。


ただ、今の私には神秘的だなんていう感慨に浸る余裕はまったくなかった。

それこそ私のからだが私の意識をとおりこして、子供が孵化する道具になっていくのを、

ひたすら痛みに耐えながら指をくわえて待っているしかない。


結局、このまま待ちつづけていると、またいつ子供の状態が悪化するかもわからないので、

陣痛促進剤を投与して出産を早める処置をすることになった。


私は最後まで耐えられるのだろうか。

出産するとき誰もが通らなければならないこの陣痛、

私だけ弱音を吐くわけにはいかない、と気を張ってはいたものの、

正直手段は選ばないから早く終わってほしいと願った。

このまま永遠に逃れられないのではないかと思えるほど執拗にやってくるこの痛み。

陣痛の間隔はすでに5分をきってきていた。


「それじゃあ、分娩室へ行きましょう」

と助産婦さんは、私の陣痛が止む5分の間を見計らって言った。


本来ならまだ分娩室へ行くまでの準備が私のからだはできていなかったのだけれど、

陣痛促進剤の効果や子供の影響も考えて早めに控え室から移った。

不思議なものであれだけ陣痛のときは苦しむのに、その波がおさまるとすうっと痛みもきれいに消えていく。

ベッドの上でのたうちまわっていても、陣痛が来なければ自分でちゃんと立ち上がって歩くことができた。


分娩台の上で私はどれくらい苦しめばいいのだろう。

おなかの中の子も陣痛の波とともに次第にまた苦しくなってきたようで、

心拍数が徐々に減りはじめ、危険を知らせる電子音が監視装置から頻繁に鳴りだす。

そのたび私のまわりをせわしなく行ったり来たりしている看護婦さんに

「深呼吸をもっとしっかりしなさい」と繰り返し叱れてしまう。


助産婦さんは、陣痛で私のからだがエビのように萎縮し、

祈るように「ひーひーふ―」と息をしだすと、すぐに駆けつけてくれて、

無言で私の痛みでわれそうな腰を拳骨で思い切りぐいぐいと押し上げてくれた。


私はそのたびごとにこの狭い分娩台から落ちそうになって、必死に背もたれにしがみついた。

私はそうやって押し上げられるたびに、分娩台のありとあらゆるところにがんがんぶつかった。

それでも、分娩台の上で目一杯揺さぶられアザだらけになっても、

陣痛を少しでもやりすごすことができる、この助産婦さんのお構いなしの力強いマッサージは

心底ありがたかったし、なによりも誰かがそばにいてくれるということに、

私はとても励まされ、癒された。





2006-12-14

フリージアvol.13

テーマ:小説:フリージア

私はいい加減私のからだだけでなく、私自身に対峙してほしいと思った。

それができないのなら付き合うべきではないとも。

私自身、津崎のことをどう思っているのか、恋愛感情があるのかさえもよくわからなかった。

私は津崎のこうしたなりふり構わない行為に嫌悪感さえ抱いていた。

それなのに私はいつも津崎を求めていた。


たしかに津崎のどこか日本人離れしたところに魅力は感じていた。

津崎に会うと、いつも異国の匂いがして、窮屈な日本にいることをほんの少しだけ忘れることができた。

結婚しているなんてことは、彼にとっては自分が日本人であるがための些細な帳尻あわせみたいなもののように思えた。

それくらいどこにも属さない自由で孤独な人だった。


私のほうも、津崎が自分の家のことについて何ひとつ話さないのをいいことに、彼の奥さんを思いやるなんていう真っ当な感情には、結局これっぽっちも至らなかったし、果たして奥さんとはどんな人間なのかイメージさえ持てなかった。

そして私のからだは、いつでもどこでもそんな津崎のことを本能的に受け入れていた。


私は津崎に会うたび、心もからだもどんどん汚れていくように思えてならなかった。

そんな自分を、私はどうしていいかわからなかった。


***


私はとりあえず分娩室から、ベッドが置いてある控え室に移された。

いつおなかの子供になにが起きるかわからないため、点滴はつけたまま、監視装置もつけたまま。

克弘は打ち合わせの時間がせまってきてしまったので、励ましの言葉にも少し不安げな色を残しつつ、部屋からでていった。


陣痛はひと波やってくるごとに、急速に耐えがたくなっていった。

背骨をはさんだ腰のあたりが割れそう痛くなる。

仰向けになんてとてもじゃないけれど寝てられない。

私はエビのように丸く縮こまった。

あの母親学級で学んだ腹式呼吸。

ひーひーふーと息をする必要性が今、わかる。

痛みでパニックに陥りそうになるからだ。


人はパニックに陥ると、息ができなくなる、というか息を止めてしまう。

息ができないとますますパニックになる。

その悪循環の繰り返し。

そして妊婦の場合、酸素をおなかに送ってやらないと子供まで苦しくなってしまう。

ただでさえ我が子は一度呼吸困難、まさにパニックに陥っているのだ。

私は頭でちゃんと「ひーひーふー」と唱えながら息をすることだけに集中した。

親指で腰を強く圧迫して、痛みに耐えながら。


すると今度は唇や指先がしびれてきた。

息を吸ってばかりいたので過呼吸になってしまったのだ。

看護婦さんにビニール袋をもらって口にあて、酸素を取りすぎないようにしなければならなかった。

それでも陣痛がやってくると腹式呼吸だけに集中しなければ痛くて、気が狂いそうだった。
 
ベッドの上で、気が狂うほど、私は孤独だった。
ただ息をすることだけに、しがみつくしかない。
心を強くもって、そう、強くよ、強く。
ひーひーふー、ひーひーふー・・・・・・




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