トラステ賞(voi.1)
テーマ:作品: ショートショートフェイク・ローズ
今朝もばっちり9時半に、ぼそっと一言「おはよう」と青山さんは入ってきた。
「おはようございます、青山さん」
マダム幸子さんは清々しい朝そのままの爽やかな笑みと、朝いちばんの鳥のさえずりそのままの軽やかな声で青山さんを迎え入れた。
ここカフェ・ローズで、2年ほど前からすっかりお馴染みになった朝の光景。
定年をもうとっくの昔に済ませ、長年連れ添った妻も亡くし、今は息子夫婦のマンションにお世話になっている青山さんにとって、朝ごはんを終えてからの「ちょっと散歩してくるよ」の合図は、お嫁さんとの間の悪い時間から開放される始まりでもある。
「今日は朝からすごい陽射しだよ」
青山さんは誰にともなくそう言うと、窓際の明るい場所ではなくて、決まっていちばん奥のすみっこに座る。
お店が混み出すお昼前にはお嫁さんの待つ家に帰るけれど、さすがに紅茶だけで2時間ねばることは青山さんだって気がひける。
「青山さん、今日は何になさいます?」
幸子さんは必ず声をかけるとき「青山さん」と名前で呼んでくれる。
「紅茶をひとつ、いただこうかね」
「温かいのでいいんでしたよね?」
「暖かいなんてもんじゃないね、もう夏本番だね」と青山さんは、すっかり暑くなってしまった窓の外を苦々しく睨んだ。
春のいちばんいい季節をわしは逃してしまった。
一度でいいから、まだ街が騒々しくなる前に、幸子さんの柔らかい香りと「青山さん」と呼んでくれる歌声のような響きに酔いしれながら、木漏れ日の中を散歩できたらどんなにかすばらしいだろう。
青山さんは厨房に入る幸子さんの背中を遠慮がちにそっと見つめた。
どうせ客はいつもわし一人きりじゃないか。幸子さんじゃなくったって、マスター一人で店は充分きりもりできるというものだ。
今日も幸子さんはコツコツとチョークで子気味良い音を奏でながらランチメニューを黒板に書いている。
そして「さて、これでいいわ」と、歌うようにして黒板をお店の外に出しに行く。
今だ、今、声をかけないと、また誘う機会をなくしてしまう。
青山さんは今日も幸子さんの背中を追いかけようとするのだけれど、緊張のあまり腰はまるで固まってしまった鉛のよう。
あっという間にドアの向こう、眩しい外の光に幸子さんは吸い込まれていく。
あの、ドアを開けた瞬間に差し込む眩しい光にはきっとおまじないの力があるのだろう。
それを合図に決まって一気にお店は活気づく。きっとそのおまじないの光を浴びるために幸子さんは外へ出るのに違いない。
もしあの光に力があるのなら、わしも光を浴びさえすれば老いぼれたこの身でも一花咲かせられるというものだ。そして幸子さんを振り向かせられるというものだ。
そう思いながらも今日も願いが叶わなかった青山さんは、大きなため息を一つつくと、幸子さんが入れてくれた紅茶をそっと口に運ぶのだった。
マスターは厨房で黙々と仕込みの仕上げに取りかかっている。
自慢のデミグラスソースは魔法のように食べる人の心をほぐしてしまう。ハヤシライスは当店自慢の人気メニュー。
「あのじいさん、いつになったら10時開店ってことに気がつくんだろうね」
マスターは氷水に浸しておいたパリパリになったレタスを大きなザルにあけながら戻ってきた幸子さんに言った。
「だってメニューを立てかける椅子にどっしり腰をおろされていたら、誰だって中へどうぞって言うと思うわ。それにお嫁さんからもよろしくって言われてるし、どうせ私たちはもうお店にいるんだから紅茶の一杯くらい、作ってあげてもいいじゃない」
2年前、青山さんが腰をおろして休んでいた椅子の上にマダム幸子さんがメニューの黒板を立てかけると、カフェ・ローズは開店の合図。お客さんも少しずつだけれど確実に入ってくる。
さっそくお店の窓際、いちばんの特等席で赤ちゃんが大きな声で泣き出した。
お母さんがベビーカーをゆすってはみるものの、その声はますます激しくなるばかり。
幸子さんはお母さんの前にミルクティを静かに置いた。
ごめんなさい、子供がうるさくて。いつもだったらお昼寝の時間、ベビーカーの中で寝てくれるんだけど。たまには一人でゆっくりお茶でもしたいと思ってこうして来たときに限って寝てくれなくて。
そう心の中でお母さんはつぶやくのだけれど、それよりもまずはどうにか寝かしつけなければこの子は永遠に泣き続け、手がつけられなくなってしまう。
「すみません」と幸子さんへのお礼もそこそこに、お母さんは慌てて赤ちゃんを抱き上げる。
「気になさらず、赤ちゃんのいいようにしてあげてくださいね」と幸子さんが言い、厨房にいるマスターもにっこりとうなずいた。
「誰だって慣れない場所は落ち着かないものです」
すると、お店のいちばん奥の席から青山さんが話しかけた。
「すぐに居心地よくなりますから、お母さん。気持ちをゆっくり持つことですよ」
「ありがとうございます」
「わしは息子夫婦に煙たがれてましてね」と青山さんはお母さんに向かって、話し相手を見つけたとばかりにいつもの話をし始めた。マスターはまた始まったかと苦笑い。
ここに初めて来た日はやっぱり朝から暑かった。
それこそ何十年もの間、ずっとわしの手元にあった本をほとんどすべて捨てられてしまってね。
息子夫婦の世話になる気などなかったのに、同居したとたん、部屋が少しでも広く使えるようにと、まずはわしの本から処分しようということだ。
それはまったくもってひどい朝だった。
どうせ本当はわしを処分したかったに違いない。
「おやじはもう目が悪くて本なんて読めないじゃないか」などと言いよってね。早くわしがくたばればいいくらいにしか思ってないんだろう。嫁にしたって同じこと。
「お父さん、今日はお散歩日和ですね」などとぬかしてわしを追い出すことしか考えてない。
なんだかむしゃくしゃしてわしは歩きに歩いた。そしたら動悸が激しくなって立っていることさえできなくなって。
そしたらちょうどこの店があったんだ。
わしだって初めはこんな洒落た店なんぞ落ち着かなかったんだがね、今ではすっかり主みたいなものだよ。
青山さんは泣いてる赤ちゃんを見ながらゆっくりとうなずいた。
「そのうち嫌でも子供は大人になる。そしていつの間にかこっちの方が疎ましがられるのがおち。今のうち子供に相手してもらうことですな。今となっては自分の息子など、まったくもって相手のしようがないですからな」
そんなことは百も承知、とお母さんは思う。
でも今はとにかく一息つきたいだけ。この子を寝かしつけるのが先。お説教を聞きにここに来たんじゃない。
お母さんは青山さんから視線をはずして疲れた笑みを見せると、ミルクティもベビーカーもそのままに、赤ちゃんを抱きあげ、泣き止ませるためお店の外へと出て行った。
「私もすっかり昔を懐かしむ側になってしまいました」
聞き手がいなくなって一人取り残された青山さんに、今日は珍しく幸子さんは相づちを打った。
「そう、お店を始めたばかりの頃は接客も慣れなくてずいぶん緊張したものです。お水をお客さまにこぼしてしまったこともありました。最近はなんだかあの頃のことを思い出してばかりなんです。すぐ近くに新しくカフェがオープンしたでしょう。そのせいかもしれませんけどね」
そして遠慮がちに微笑むと、幸子さんはバラ模様の入ったビニール製のテーブルクロスをそっと撫でた。それは長い年月を思わせるのに充分なほど黄ばみ、模様も陽に焼けすっかり色あせ、ところどころはタバコの灰で黒ずんでいる。
こうしてカフェ・ローズの思い出がみんなの頭を静かにかすめたちょうどその時、お店のドアがゆっくり開いた。
「どうもお世話になりました」
赤ちゃんを寝かしつけているお母さんではなくて、入ってきたのは青山さんの息子のお嫁さん。
「いえいえ、こちらこそ」
「お父さん、お昼の時間ですよ。そろそろおうちに帰りましょうね」
幸子さんの笑顔に見送られながら、お嫁さんに支えられるようにして青山さんはすっかり賑わいだ通りの中へと消えて行った。
さあ、お母さんをお店に入れてさしあげなくちゃ、と幸子さんもすぐその後に続いて外へ出た。
***
今朝もばっちり9時半に、ぼそっと一言「おはよう」と青山さんは入ってきた。
「おはようございます、青山さん」
「ずいぶんときれいになったじゃあないですか」
青山さんは一歩足を踏み入れるや否や、テーブルクロスがすっかり新しくなったカフェ・ローズを見渡した。
「深いグリーンがきれいでしょう。新しいお店に対抗しようと思って、ちょっとだけですけど模様替えをしたんですよ」と幸子さんは目を細めた。
青山さんはすっかり印象が変わった店内に動揺してしまったのか、今日はお店のすみっこではなくて入口すぐのいちばん人気、たっぷりと明かりが降り注ぐ窓際の席に力が抜けたように座り込んだ。
「青山さん、今日は何になさいます?」
「こ、紅茶をいただくとしようかね」
こんなにも変わってしまうものなのか。幸子さんまで若々しく生き生きして見えるじゃないか。
青山さんは落ち着かなかった。何かにすがりたかった。今までのもの、使い古されたもの、馴染みのあるものに。
「幸子さん、そこにあるのは今までのテーブルクロスかい?」と青山さんは見つけたとばかり、お店入口のすぐ横に、紐でしっかりと結びつけられているものを指差した。
「ええ、これから捨てに行くところです」
「もったいない。まだまだ使えるじゃないですか」
「私も正直名残惜しいところもあったんですよ。この模様も気に入っていましたし、お店を始めた時から使っていましたしね。でも新しいお店がオープンするのを見ていたら私も心機一転、気持ちを新たにしたくなったんですよ」
幸子さんの声は今までにもましてきらきらと輝いていた。幸子さんの華やいだ姿に青山さんの胸ははりさけそうだった。
「これからはお店の名前に恥じないように、一輪でも本物のバラの花をテーブルに活けようと思ってるんです」
青山さんは思った。
そうだ、幸子さんにバラの花をプレゼントしよう。
ばあさんが毎日飽きもせずに庭でバラを育ててるじゃないか。虫ばかりがついて場所ばかりとってわしはうんざりしてたんだが。まあでも仕事から家に帰るだけの日々、庭なんか正直どうでもいいんだがな。
よかったよかった、売らんでよかった。本当なら庭の部分だけでも売ってしまった方がわしも楽できるってもんだが、駐車場だのになってしまったら私の楽しみがなくなるとか、ばあさんうるさいからどうでもよくなってたんだが、たまにはばあさんの言うことも役に立つというものだ。
青山さんは庭一面に咲き誇っているバラを思い描いた。
赤やピンクや黄色や白。甘い香りにむせりそうになりながら、ときに可憐に、ときに毒々しいほど艶やかに、色づくたくさんのバラの花たちを。
あれだけの花があれば一つや二つ、切ったところでばあさんに気づかれることはないだろう。
青山さんは自分の思いつきにたいそう満足した。それはすばらしい考えだった。
「わしがそいつを捨てに行くことにしよう。気にせんでいいから。まだまだわしだって使える人間なのだから」
さっきまでもったいないと言っていた青山さんが急に捨てようと言い出して、幸子さんとマスターは少し呆れて顔を見合わせた。
青山さんに力がみなぎった。じっとなどしていられなかった。
いつもより早く、幸子さんが黒板にメニューを書き始めたにも関わらず、もう居ても立ってもいられない。青山さんはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「さあ、これでいいわ」と幸子さんは言った。
「さあ、持っていくとしよう」と青山さんは言った。
束になったテーブルクロスを青山さんは力強く手に取ると、メニューの黒板を持つ幸子さんより先に勢いよく扉を開けた。
なんでこんな簡単なこと、幸子さんと外へ出ることが、今の今まで出来なかったのだろう。
青山さんは頭上に降り注ぐ、おまじないの眩しい陽の光に目を細めた。
「これからお花屋さんに行くところですけど、青山さん、一緒にいかがですか」と言う幸子さんの申し出に、「いや、わしもちょっと急用を思い出してな」と青山さんは丁重に断った。
青山さんの頭の中はすでにバラの花で一杯だった。この店も幸子さんも色鮮やかなバラに囲まれるのだ。
青山さんは、束ねられたテーブルクロスをゴミの山のてっぺんに力強くどさっと置いた。
そして、じりじりと照りつく光の中、とっくに色あせてしまったバラ模様は、青山さんの遠い記憶の庭で咲き乱れる花ように、ゆらゆらと光を放っていた。






