「珈琲時光」 | こだわりの館blog版

「珈琲時光」

松竹
珈琲時光

特集【日本映画を語ろう!】

今週のお題は【外国の監督の描く日本、日本の監督の描く外国】です。
決して「ベスト・キッド」のような作品を取り上げる予定じゃございません。
まぁ詳しくは個々の作品で書いていきましょう。
本日はその第1弾として台湾のホウ・シャオシェンが小津安二郎にオマージュを捧げた「珈琲時光」
本当に何も起こらない作品。
これが小津安二郎のオマージュと言われてもね…。

2004年劇場公開作品
監督・脚本:ホウ・シャオシェン
出演:一青窈、浅野忠信、萩原聖人、余貴美子、小林稔侍、他

  フリーライターの陽子(一青窃)は資料探しに古書店街へ出向くうちに
  古書店二代目の肇(浅野忠信)と親しくなる。
  様々な資料について日々雑談を交わす2人。
  肇は陽子に想いを寄せているが、その気持ちを伝えられずにいる。
  ある日、高崎の実家に帰省した陽子。
  彼女は両親にある告白をするために帰省したのだ。
  それは彼女が妊娠していることを告げるために…。

前述の通り、この作品は台湾のホウ・シャオシェンが
彼が尊敬する小津安二郎にオマージュを捧げるために
小津安二郎生誕100周年の2003年に、
全て日本人キャスト、オール日本ロケで制作した日本映画であります。
ドラマチックな一大台湾近代史を描いた「悲情城市(1989)」を別格とすれば
「童年往事/時の流れ(1985)」「恋恋風塵(1987)」などホウ・シャオシェンの作品には
確かに日本映画に通じる、ゆったりとした時の流れを感じるところがありますし、
これといった事も起こらず、またそれをドラマチックには描こうとしないストイックさも
日本映画からの影響が大であることは確かでしょう。
しかしそのホウ・シャオシェンがこの「珈琲時光」を【日本映画】に対するオマージュではなく
小津安二郎という特定した“いち映画監督”にオマージュを捧げた作品となってくると
「ちょっと違うんじゃないの」と思えてくるのです。

ホウ・シャオシェンはこの作品を本当にストイックに描いています。
ドラマチックな要素を一切排して、淡々と登場人物たちのささやくかのような台詞だけで進めて行く
肇は陽子の恋愛もこれといった展開にはなりませんし、
この作品での唯一ドラマチックな要素ともいえる【陽子の妊娠】ですらも
それほどの大事にはならずに映画は終わってしまいます。
東京に住む人々の日々の何気ない息遣いだけが、作品の中で淡々と展開されるだけなのであります。
これを日常生活の一場面をスケッチしていた小津安二郎の作品とダブらせる事は、
一見妥当だと思わされます。
しかし小津安二郎の作品はここまでドラマチックな要素を排していたでしょうか?
私は逆だったと思うのですよ。
私から見た小津作品というのは、
日常の何気ない一場面ですら独特のカメラワークと音楽とで
劇的に盛り上げていた作家だったのではないでしょうか。

例えば「珈琲時光」でいうならば、高崎から出てきた両親に陽子が妊娠を告白するシーン。
ホウ・シャオシェンは妊娠を告白したものの、何か言いたいが言えずに淡々と食事をとる家族を
引きの映像で誰に焦点を絞ることなく描き、
これといった結論もなく打ち切るかのようにシーンを終了させていました。
では小津安二郎だったらどう撮っていたでしょう。
私が考えますに、何か言いたいが言えずにいる父親の背中をカメラは【下】から撮って、
父親につぶやくかのような台詞を言わせて
さりげなく音楽をかぶせて、次のシーンではアパートの外の風景を入れる…
何気ない家族の一風景ながら、父親の何も言えない無情感みたいなものを
小津安二郎なら劇的に盛り上げたと思うのですが…。

まぁあくまでもオマージュですから、なにも同じに撮らなくて良いわけで、
ホウ・シャオシェンなりのアプローチの方法で撮れば良いのでしょうが、
この「珈琲時光」。
日本を舞台とした日本映画でありながら、結局のところあまりにもホウ・シャオシェン色が強過ぎて
たまたま日本が舞台だった程度の、立派なホウ・シャオシェン作品になってしまっているんですね。
だから【立派なホウ・シャオシェン作品】であるにもかかわらず、
「小津に捧げるオマージュ作品」なんて言われると
尚更「ウソだろーっ」と思ってしまったわけであります。
これが「日本を舞台としながらホウ・シャオシェンはいかに自分流の作品を作れるか
あたりのコンセプトだったら大成功の作品であったでしょうけど…

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