かつて都市は栄えていた。
誰もが都市のきらめきに酔いしれた。
ところが、人々は皆あるとき都市の高飛車な態度が許せなくなった。
そこには、わずかながら誤解もあった。
みずからのビッグさに傲慢になったと人々は受け止めたが、
都市は本気で自分をビッグだと思っていたのではなく、
これくらいのジョークは
人々に受け入れられるはずだ、と甘く考えていたところもあったのだ。
しかし、人々には遊びの心はなかった。
都市に生きる人々は皆忙しく、それが冗談である可能性など
疑おうともしなかった。
やがて人々は都市から去った。
都市は廃れていった。
もっとも、幾人かの人々は都市に残り、都市で暮らし、
都市にいくらかのお金を落とした。
だが、それに対して、都市はじゅうぶんな見返りを与えることはできなかった。
彼はかつての勢いを取り戻すには年をとりすぎていたからだ。
それでも総じて人々は、彼のセンシティブで、パセティックで、
生き下手な部分を、今なお愛してもいた。
それは、そこに留まった人だけではなく、
都市を見捨てた人でさえもそうだった。
やがて、都市はその小ささや、いくらかの傷ついた姿にも拘わらず、
「ビッグ」と呼ばれるようになった。
皮肉かもしれない。だが、たとえそうだとしても
そこにまったくの畏敬の念がないわけではない。
都市は今も生きている。
かつて離れた人の中にも、再びそこで暮らそうとする人間もいる。
かつてのように都市を「トシちゃん」と呼ぶ人もいる。
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掌の虚構「犬を縫う」

テーマ:
ある朝、家の近くのオープンカフェで朝食をとっているときに、僕は彼女に尋ねてみた。
「ねえ、君、もしも獣医が休みの日に、うちのジョニーがけがをしたら
その傷口を縫うためには何が必要だと思う?」
僕たちの足元には愛犬のジョニー・グッドマンがいて、
愛くるしく尻尾を振っていた。
恐ろしく毛並みのいい彼の身体には現在のところ傷なんか存在しない。
だから、もちろんこれは仮定の話だ。もし、仮に、町の獣医がすべて休みをとり、
ハワイにでも出かけてしまった場合の話。
彼女は珈琲カップを片手に持ったまま本に目線を落としていた。
「何って、それはまず上等の肉がいるわね」
「上等の肉だって?」
「そうよ。大人しくさせなくちゃならないでしょ?」
「ああ、そうだね」
「ところで、犬を縫うのは誰がやるの?」
「もちろん僕だよ」
「そうなると、その間、私はかなり暇になるわけね」
「まあそうなるね」
「じゃあ私のためにパンケーキと紅茶と雑誌もいるわね」
「雑誌?」
「もちろん新しいワンピースを買うためよ。でも、新しいワンピースを
買うためにはこの靴じゃ駄目だし、このバッグでも駄目。
うん、絶対駄目だわ。ねえ、今から買い物に行きましょうよ」
彼女は本を鞄にしまうと、立ち上がった。ジョニー・グッドマンは彼女にじゃれつく。
「え……? いや、僕はいまジョニーの傷口を縫うために何が必要かって話をね……」
「だからショッピングよ、わからない人ね。何はさておき鞄と靴がなくっちゃ
どうにもならないわ」
どうにもならない……その言葉の逞しさの前では、
どんな災害想定も塵に等しい。
彼女はあらゆる災害に備えて、まず鞄と靴を買うに違いない。
「ごめん、でもこれは仮の話で、ジョニーは怪我なんかしていないし……」
「備えあれば憂いなし。まずは鞄と靴よ」
今やそれがたった一つの真実であるかのように
彼女は玄関へ向かっていた。
僕は諦めて立ち上がると、レジへ向かって会計を済ませた。
そして思った。もちろん買い物は鞄と靴だけでは済まないだろう、と。
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虚構の掌「ニセモノ」

テーマ:
例のゴーストライター問題が世間をにぎわせているようですね。
僕自身が、この一件で興味深く思ったのは、さてどこまでを自
己と捉えるかという問題。大衆の認識とか著作権がどうのこう
のの話ではなくてね。
たとえば、PCの前で、Wordを開いているときの僕は、
小説家、森晶麿。あるいは、どうにか売り物になる小説を書こ
うとあがく書き手、森晶麿であるのは間違いないだろうなと思
う。
では、ときおり受けるインタビューで作品について語っている
アイツは何者なんだろう、と思う時がある。いや、もちろんあ
れも森晶麿には違いない。違いないんだけど、書き手の森晶麿
としては「何だアイツは」なのだ。
人の苦心して書いたものをへらへらとさらさらと喋りやがって、と。
また、ブログの書き手である森晶麿に対しても、小説を書く森
晶麿は憤っている節がある。「またお前は宣伝か。いい気なも
んだな。俺が必死に書いたものでお金儲けか? ふざけるんじ
ゃねえよ」と。まったくである。ブログの書き手森晶麿はいい
加減なスポークスマンに甘んじている。ときにはくだらないジ
ョークも言い、一つ一つの発言の必然性も整合性もあんまり考
えない。小説を書く森晶麿としては、このブログの書き手たる
森晶麿を同じ森晶麿だなんて思いたくないに違いない。
僕だって信じられない。たとえば家庭に入って食器洗いだ洗濯
だ料理だ育児だと奔走している僕もいるけれど、やっぱりそい
つは別の森晶麿なんである。サムラナンチャラさんが影武者さ
んをどう思っていたのかは知らないが、相手にやらせておきな
がら自分のことのように語っているのは、案外そのときはホン
トに自分がやったような錯覚に陥っていたり(ある種のトラン
スみたいに)したのかもしれないな、などと思ったり。
じつはブログの書き手たる森晶麿やインタビューに答える森晶
麿も大した違いはないように思う。だってどう考えても、小説
を書いているときほど頭を使って喋っていない。あれこれ試し
てはみたけど、小説を書こうと思っている状態というのはあま
りに特殊な精神状態なので、通常とは違うのである。
受賞作なんて、8年前(9年だっけ?)の森晶麿の書いたものだ
から、はっきり言ってまったく別人の森晶麿のものだ。だから
受賞パーティーで壇上に上がるときはたいへん奇妙な気分だっ
た。パシャパシャカメラのシャッターを浴びながら「いやーす
いません、べつの森晶麿なんですが」と言いたい気持ちを押さ
えつつ「受賞の知らせはメイド喫茶で受けました」なんてしゃ
べっている。
25歳の青臭い文学青年が書いたものの恩恵を、文学なんか最近
じゃほとんど読まないテレオペだのコピーライターだの職を転
々としてきたならず者が受け取る。こんなことがあっていいは
ずがない。でも誰が反応してくれる?「僕は8年前の若い自分と
いうゴーストライターに書かせたので、僕自身は偽者なんです
ってば!」なんて必死で叫んでも、へえってなものだ。
誰もそれがそんなに大変なことだとは思わないし、悪いことだ
とも言ってくれない。なぜなら、しょせんどれも森晶麿だから
だ。そして、幸いなことにかつて僕の身体に存在していた森晶
麿によるものだったからだろう。
サムラナンチャラさんの場合は、肉体的にも独立した別の人間
を影武者にした。そこが問題なのであって、僕とは根本的に違
うかもしれない。でも僕は今でも本を書き上げた瞬間から、ニ
セモノ意識にさいなまれている。
「これを書いたのは先月の俺であって、もう今の俺とは何の関
係もない」本音で言えばそういうことだ。だから過去の作品を
褒められても貶されても何となく据わりが悪いのだ。本来褒め
られたりけなされたりされるべきは書いていた瞬間の自分以外
にはいないんじゃないかなという気がする。
ところで、あなたは自分がニセモノではないと言い切れますか?
僕はつねに作家になる前からいろんなニセモノ意識を感じてき
た。大学生の頃は、いま自分は大学生っぽいことをやってるけ
ど本当に大学生なのカナ、と思っていたし、小学生の頃だって
やっぱりそうだった。
半袖半ズボンなんか履いてるけど、実際のところどうだろう、と。
結婚して、子供ができてからも、大人としてのニセモノ感は満
載だし、それは同級生とか見てもそう感じた。しょせんみんな
「ごっこ」だ、と。いま、朝日新聞出版さんの雑誌「小説トリ
ッパー」連載の『偽恋愛小説家』の最終話の原稿を進めながら、
ふとそんなことを思ったのだった。
この話は、とある恋愛小説家にニセモノ疑惑が浮上するお話。
世界はさまざまなニセモノに満ちている。ちなみにいまこの文
章を書いている森晶麿にはそれはそれは長い牙と鋭く尖った鉤
鼻、黄色く光る眼がある。そしてもちろん本物だと主張しなが
ら、長い緑色の三本指で器用にキーボードを叩いている。
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