森:みなさんこんばんは。活字ラジオの時間がやって参りました。本日は黒猫はお休みをいただいていまして、僕だけでお送りします。黒猫の登場する活字ラジオは、来月5日、文庫版『黒猫の約束あるいは遡行未来』が発売となる夜にでも臨時営業させていただきたく。

 

さて、では今夜は一人で何を話そうかなと考えたんですが、特に話すこともないので、近況でも言っておきましょうか。

近況→忙しいです。このうえなく忙しい。
一応、黒猫の約束文庫化作業と、再来月の文庫版『恋路ヶ島サービスエリアとその夜の獣たち』の作業もひと段落した感じなのではありますが、にもかかわらずちっとも仕事が楽にならない。まあそのへんは例年通りといえば例年通り。
いつもと違うのは、新作映画とかがまったくチェックできていないことですかね。(あ、でもコーエン兄弟の『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』はようやくチェックできた。とてもよかった)でも音楽はおかげでずっと聞いてます。これはまさに仕事のおかげだね。仕事してないときは音楽聞けないもの。子どもの騒音がすごくて。

八月から聞いた音楽はというと、ここ最近はなぜか邦楽に偏っていて、そろそろ洋楽の旅に出たいところなんだけれど、こういうのはサイクルがあるから仕方ない。

スピッツにはじまり、ユニコーン、岡村靖幸、METAFIVE、RADWIMPSとめぐった後にいまはYMOとかスケッチショウとかレイハラカミとか。まあたぶんここからまたアンビエントやブラジル音楽に戻っていくのかな、と。
さいきん、いま自分が求めている音楽は無機質な音にいかにぬくもりを通わせるかみたいなところなのかな、とか思う。また一方では、自然と一体であるようなものとしての人間の音楽みたいなものにもやはり惹かれ、この二つの傾向はたぶん根っこでつながっているんだろうな、とも。
そういえば、先日どうにか時間を縫って見ることのできた『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』にはいっぱいフォークソングが出てくるんだけど、妙に染みた。なんだろう、自分も歳をとったということなのかな、とも思うんだけれど、身から出た埃みたいな音楽にもやっぱり惹かれるんですね。これはさっき言った二つの方向性とは明らかにちがう。人間の人間である証みたいなもので、でもフォークとぬくもりあるテクノとアンビエントだってぜんぶ根っこではつながっているとも言えるかもしれない。このへんはまたゆっくりどこかで話したいところではありますが。
何にせよたしかなのは、最近の僕、飽きっぽいねってことで。一週間くらい聞いてるとすぐ次のアルバムに移ってしまう。一年くらいリピートできるアルバムってないもんだろうか。それはさすがに無理かな。なんてことを言いながら、夜になるとどこかの外国の老人がぼんやり町を見ているだけの動画とかを漁ったりして、ぼーっと見たりする。そしてこれは不思議と飽きない。いったい自分は何に飽きて何に飽きないのか、そろそろ知りたいな、と思うけれども。

まあこんなことをいつまでも語っていても仕方ないので。今夜は『黒猫の約束あるいは遡行未来』の刊行に先駆けまして、「黒猫の遊歩」の第一話「月まで」のリミックスをお届けします。と言っても、黒猫も付き人も出てきません。美学もミステリ要素も排除して、物語が進んだかもしれないべつの方向性を示したいと思います。タイトルは同じく月まで。

それでは今夜はこれにてさようなら。来月の文庫、黒猫視点の断篇が巻末につきます。さらにQRコードから短篇がダウンロードできます! こちらもお見逃しなく。
それではおとどけします。「月まで」リミックス。どうぞ。

月まで

 

「ずっと殺したかったんだろ?」

彼は小意地の悪い笑みを微かに浮かべ、池の水面を眺めている。

夜は不気味なほど息を潜め、公園の池が霧を作り、その霧が道路のほうにまで浸食してきていた。彼は気まぐれに足を止め、後ろを歩くこちらを振り返って言う。

「少し公園でも散歩しようか」それからこちらの足下を見て、「スニーカーで正解だね。六月のこの公園は地面が常にぬかるんでいるから」

「そうね」

「『そうね』」口真似をして笑いながら、ポケットから単三の乾電池より少し長めの筒を取り出し、左目に当てる。よく見ると先端には水色のビー玉のようなものがはめ込まれている。

「何それ?」

「万華鏡」と筒を覗いたままこちらに顔を向け、笑う。

「僕の好きな眺めがここにある」

「ええ、どうせ私と一緒に見る風景なんかさぞ殺風景でしょーとも。万華鏡の世界へどうぞご遠慮なく」

何を怒ってるんだ、と言って彼は万華鏡を仕舞う。ちゃっ、ちゃっと微かに粘り気のある二つの足音が池の脇の小路を進む。湿った地面をスニーカーが優しく踏みつける。頭上で虫が鳴き始める。

水面。広がる波紋。亀が飛び込んだのか。池に映った月がゆらゆらと揺れている。池の周りの草木が生い茂る辺りで夏の虫たちが騒ぎ始めると、霧はいっそう濃くなっていく。

散歩途中の老夫婦が通り過ぎる。その輪郭を霧がうっすらと曖昧にする。池の対岸から、あるいは水底からゆっくり言葉を手繰り寄せるようにして彼は言う。

「なんで僕を責めない?」

「……だって仕方ないことだから」

キンヒバリが鳴き、紫陽花がそれに気を良くして色彩を増す。おいしそうに霧を吸い込み、顔のない誰かの夢を吐き出している。

空には星は一つも見えず月があるばかり。池の月は霧に隠れて見えにくく、空の月も、そのうち雲の向こうへ逃げ隠れそうだ。こんな日は気持ちまで薄い膜で覆われてしまう。

「でも、私はともかく、ミナ子の気持ち、考えたことあるの?」

「ない。君の気持ちも考えたことない。お腹空いた。帰ろう」

彼はミナ子の恋人なのに、その親友のこちらを口説いた。そして、あの夜──。

闇に蠢くホタルの光が夏の序章を飾っている。すっきりしない気分なのはたしかだが、そう言われれば確かにお腹はぺこぺこだ。

「部屋には行かないよ。ミナ子に悪いもん。もう、二度と会わない。公園出たら、それで私たちの関係はおしまい」

「ふむ。そりゃ残念だ。美味しいものを用意しているのに」

ずるい男だ。彼の料理の腕前は匠の域にある。とりわけ特製のポトフとサーモンのマリネは絶品だ。

「今日のメニューは?」聞かなければいいのに、聞いてしまった。

彼は「帰るんだろ?」と振り返って小意地の悪い笑みを浮かべた。

「そうだけど……」

前方を歩く男はほっそり伸びた脚を機敏に動かし、闇へ分け入ってゆく。その少し後ろを歩いていけば、怖いものなど何もないような気がしてくる。まやかしなのに。彼はミナ子と別れる気がない。この恋は、偽り。どこにもたどり着けない、偽の恋なのだ。

「……食べたら、すぐ帰る」

「もちろん」

 

所無のわが家に帰り着いたときは、すでに零時を過ぎていた。食べるだけって言ったのに、と愚痴を言っても始まらない。悪いのは、自分の弱い心。

研究者である母は家中の床に研究の書類を散らかして、明日の学会に備えているところだった。こういう日は触らぬ神になんとやら。抜き足差し足で自室に行こうとしていると、

「お帰り」

珍しいこともあるものだ。「お帰り」がどうというのではないが、母上が仕事の最中に、帰ってきたこちらに気づくというのが滅多にないことなのだ。長い髪を後ろで一つに束ね、眼鏡をかけて目のつりあがった仕事姿はちょっと近寄りがたいものがあるが、表情が和らぐと、どうしてこれがなかなかの美人だ。母は柔らかい笑みを浮かべ、眼鏡を外した。

「お茶にしようか」

「そうだね」

「あんた、ワイン臭いわね……やだ、顔も真っ赤じゃない」

呆れたように首を振りながら台所に向かう母はすらっと背が高く、急須にお茶の葉を入れる慣れない手つきがいっそう魅力的に見えてくる。こんな風に年を取っていきたい、そう思う。狭山茶を急須に入れながら、母は何事か考えているらしく少し遠くを見るような顔になる。彼女にはよくあることだ。いくつかの思い出が重なり合って現実の時間から母の心を奪って逃げて行く。少しの間のことだ。彼女はすぐに帰ってくる。こちらもそれは分かっている。だからどちらも何も言わない。女二人は、そうしてうまくやっていけるのだ。「明日は満月ね」と母が言った。

「そっか、愉しみ」

二人で笑い合いながらお茶を飲む。が、次の瞬間、長い沈黙が流れる。それからややあって、母が言った。

「苦しい恋をしているのね? あなたの顔を見ればわかるわ」

何も答えまい、と思った。けれど、そうしたら透明な雫が頬を伝った。気がつくと、母の胸のなかで声を上げて泣いていた。赤子に還ったみたいに。母は背中をさすり続けてくれた。やがて、こちらの涙が果てると、ゆっくりと口遊んだ。

「水無月の 夜ひそひそと 母娘」

「……実態から離れるけど、感じ出てるね」

鼻を啜りながら、何とか笑ってそう返した。母はもう一度だけ大きく背中をさすると、お茶を淹れ直すね、と言って立ち上がった。何も言えなかった。けれど、それでも母が新しいお茶をもってくる頃には、心の鉛が少しだけ小さく、軽くなっていた。

 

その翌日のこと。六限が終わると、大学校舎を早々と後にして、これまでとこれからを見つめ直すために一人で歩くことにした。もう感情のまま恋をしていい年頃ではないのだ。

無縁坂に差し掛かる。森鴎外の『雁』が好きではないからか、無縁坂に対してもあまりいい印象を持っていなかったが、そのゆるゆるとした傾斜を下っていると風情がある。

「鴎外ってナルシストだから嫌い」

不機嫌で言う声に振り返ると、そこにミナ子がいた。いつから尾けていたのだろう。大ぶりのサングラスが、ショートヘアとよく似合っている。ミナ子のエキセントリックなところに惹かれて付き合ううち、いつしか親友と呼べるまでの仲になった。

「無縁坂には昔、無縁寺というお寺があったらしいわよ」

無縁仏を弔う無縁寺。ゆかりのない孤独な死者を弔う場所。

「行く当てを失った魂、行く当てを失った恋──」

ミナ子はそう言ってサングラスを外し、こちらを見つめた。何もかもを見透かすような眼差しだった。彼女は知っているのかも知れない。いや、何も知らなくても、女の勘で察している可能性はある。それに今の言葉──。そうか、鴎外は報われない恋の死を無縁仏になぞらえたから、無縁坂を舞台に選んだのか。

「ミナ子、私……」

「バイトに急ぐから、またね。あ、そーだ、一つだけ。ずっと友達でいようね」

ミナ子は眩しすぎる微笑みを残して行ってしまった。最後まで、大事な言葉をこの身体から逃がすことができなかった。

無縁坂を降りて、今度は不忍池の北側を歩くうちに、上野公園の入口に着いた。

紫陽花が、不似合いな日差しを浴びて顔をしかめている。藍色の寄り集まった姿は、じめじめとした六月の美しさを知っているのだ。平日の上野公園は人気こそあるものの、妙にがらんとして淋し気だ。まるで、この世の果てまで歩いてきてしまったようだった。

どこまで歩いても、一人。行く当てを失った魂。行く当てを失った恋。ああ、自分は雁だ。でもせめて、撃ち落されても静かに生きながらえる、強い雁でいよう。

日が翳り、足下を風がくすぐり始める。空に薄闇が伸びてゆくと、そこにぽっかりと丸い穴が浮かび上がる。今日は満月だっけ。切り取られたように明るい真ん丸の穴。まるで地上に落ちた姫を求めて、何もかもを吸い込もうとするみたいに、今夜はひときわ大きい。

母もかつて恋をしたことがあるのだろうか。彼女がシングルマザーの道を選んだ理由をまだ聞いたことがない。今度、聞いてみよう。そして、その頃には自分の気持ちにも答えを出していたい。

そう思っていたのに──。

運命は残酷なものだ。帰りの電車で、また彼と一緒になってしまった。ほんのちょっと前の堅い決意が、いとも簡単にぐらつく。ああダメだなぁ。どうして今日会っちゃうんだろう?

「寝るから、駅着いたら起こして」と彼。

「自分で起きなさい」とは言ったものの、かくんかくんとうたた寝しはじめ、時折肩に寄りかかってくる彼のあどけない少年のような顔を見ていたら、結局S公園駅で起こし、一緒に降りてしまった。

「ああ、よく寝た」

「寝過ぎ。私の肩に涎つけたよ」

「ふん、誰が信じるか」

霧がより深くなる。すっかり陽の暮れた道路の向こうにS公園が見え始める。

「ねえ、今夜を私たちの一生にしてみない。今夜始まり、今夜終わる一生」

「いいね。明け方には俺もじいさんか」

彼が霧を吹き消すように口笛を吹く。曲名も分からぬその口笛に聴き惚れるうち、ユートピアの中を歩いているような気分に襲われる。そこにいくつものイメージが重なって複雑な色彩を造り出している。二人で月まで行ってみよう。月まで行ったら、帰ってこよう。心にそう言い聞かせて、一歩を踏み出した。

ここは今、遠近のないユートピア。

 

 

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