掌の虚構「犬を縫う」

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ある朝、家の近くのオープンカフェで朝食をとっているときに、僕は彼女に尋ねてみた。
「ねえ、君、もしも獣医が休みの日に、うちのジョニーがけがをしたら
その傷口を縫うためには何が必要だと思う?」
僕たちの足元には愛犬のジョニー・グッドマンがいて、
愛くるしく尻尾を振っていた。
恐ろしく毛並みのいい彼の身体には現在のところ傷なんか存在しない。
だから、もちろんこれは仮定の話だ。もし、仮に、町の獣医がすべて休みをとり、
ハワイにでも出かけてしまった場合の話。
彼女は珈琲カップを片手に持ったまま本に目線を落としていた。
「何って、それはまず上等の肉がいるわね」
「上等の肉だって?」
「そうよ。大人しくさせなくちゃならないでしょ?」
「ああ、そうだね」
「ところで、犬を縫うのは誰がやるの?」
「もちろん僕だよ」
「そうなると、その間、私はかなり暇になるわけね」
「まあそうなるね」
「じゃあ私のためにパンケーキと紅茶と雑誌もいるわね」
「雑誌?」
「もちろん新しいワンピースを買うためよ。でも、新しいワンピースを
買うためにはこの靴じゃ駄目だし、このバッグでも駄目。
うん、絶対駄目だわ。ねえ、今から買い物に行きましょうよ」
彼女は本を鞄にしまうと、立ち上がった。ジョニー・グッドマンは彼女にじゃれつく。
「え……? いや、僕はいまジョニーの傷口を縫うために何が必要かって話をね……」
「だからショッピングよ、わからない人ね。何はさておき鞄と靴がなくっちゃ
どうにもならないわ」
どうにもならない……その言葉の逞しさの前では、
どんな災害想定も塵に等しい。
彼女はあらゆる災害に備えて、まず鞄と靴を買うに違いない。
「ごめん、でもこれは仮の話で、ジョニーは怪我なんかしていないし……」
「備えあれば憂いなし。まずは鞄と靴よ」
今やそれがたった一つの真実であるかのように
彼女は玄関へ向かっていた。
僕は諦めて立ち上がると、レジへ向かって会計を済ませた。
そして思った。もちろん買い物は鞄と靴だけでは済まないだろう、と。
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