虚構の掌「ニセモノ」

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例のゴーストライター問題が世間をにぎわせているようですね。
僕自身が、この一件で興味深く思ったのは、さてどこまでを自
己と捉えるかという問題。大衆の認識とか著作権がどうのこう
のの話ではなくてね。
たとえば、PCの前で、Wordを開いているときの僕は、
小説家、森晶麿。あるいは、どうにか売り物になる小説を書こ
うとあがく書き手、森晶麿であるのは間違いないだろうなと思
う。
では、ときおり受けるインタビューで作品について語っている
アイツは何者なんだろう、と思う時がある。いや、もちろんあ
れも森晶麿には違いない。違いないんだけど、書き手の森晶麿
としては「何だアイツは」なのだ。
人の苦心して書いたものをへらへらとさらさらと喋りやがって、と。
また、ブログの書き手である森晶麿に対しても、小説を書く森
晶麿は憤っている節がある。「またお前は宣伝か。いい気なも
んだな。俺が必死に書いたものでお金儲けか? ふざけるんじ
ゃねえよ」と。まったくである。ブログの書き手森晶麿はいい
加減なスポークスマンに甘んじている。ときにはくだらないジ
ョークも言い、一つ一つの発言の必然性も整合性もあんまり考
えない。小説を書く森晶麿としては、このブログの書き手たる
森晶麿を同じ森晶麿だなんて思いたくないに違いない。
僕だって信じられない。たとえば家庭に入って食器洗いだ洗濯
だ料理だ育児だと奔走している僕もいるけれど、やっぱりそい
つは別の森晶麿なんである。サムラナンチャラさんが影武者さ
んをどう思っていたのかは知らないが、相手にやらせておきな
がら自分のことのように語っているのは、案外そのときはホン
トに自分がやったような錯覚に陥っていたり(ある種のトラン
スみたいに)したのかもしれないな、などと思ったり。
じつはブログの書き手たる森晶麿やインタビューに答える森晶
麿も大した違いはないように思う。だってどう考えても、小説
を書いているときほど頭を使って喋っていない。あれこれ試し
てはみたけど、小説を書こうと思っている状態というのはあま
りに特殊な精神状態なので、通常とは違うのである。
受賞作なんて、8年前(9年だっけ?)の森晶麿の書いたものだ
から、はっきり言ってまったく別人の森晶麿のものだ。だから
受賞パーティーで壇上に上がるときはたいへん奇妙な気分だっ
た。パシャパシャカメラのシャッターを浴びながら「いやーす
いません、べつの森晶麿なんですが」と言いたい気持ちを押さ
えつつ「受賞の知らせはメイド喫茶で受けました」なんてしゃ
べっている。
25歳の青臭い文学青年が書いたものの恩恵を、文学なんか最近
じゃほとんど読まないテレオペだのコピーライターだの職を転
々としてきたならず者が受け取る。こんなことがあっていいは
ずがない。でも誰が反応してくれる?「僕は8年前の若い自分と
いうゴーストライターに書かせたので、僕自身は偽者なんです
ってば!」なんて必死で叫んでも、へえってなものだ。
誰もそれがそんなに大変なことだとは思わないし、悪いことだ
とも言ってくれない。なぜなら、しょせんどれも森晶麿だから
だ。そして、幸いなことにかつて僕の身体に存在していた森晶
麿によるものだったからだろう。
サムラナンチャラさんの場合は、肉体的にも独立した別の人間
を影武者にした。そこが問題なのであって、僕とは根本的に違
うかもしれない。でも僕は今でも本を書き上げた瞬間から、ニ
セモノ意識にさいなまれている。
「これを書いたのは先月の俺であって、もう今の俺とは何の関
係もない」本音で言えばそういうことだ。だから過去の作品を
褒められても貶されても何となく据わりが悪いのだ。本来褒め
られたりけなされたりされるべきは書いていた瞬間の自分以外
にはいないんじゃないかなという気がする。
ところで、あなたは自分がニセモノではないと言い切れますか?
僕はつねに作家になる前からいろんなニセモノ意識を感じてき
た。大学生の頃は、いま自分は大学生っぽいことをやってるけ
ど本当に大学生なのカナ、と思っていたし、小学生の頃だって
やっぱりそうだった。
半袖半ズボンなんか履いてるけど、実際のところどうだろう、と。
結婚して、子供ができてからも、大人としてのニセモノ感は満
載だし、それは同級生とか見てもそう感じた。しょせんみんな
「ごっこ」だ、と。いま、朝日新聞出版さんの雑誌「小説トリ
ッパー」連載の『偽恋愛小説家』の最終話の原稿を進めながら、
ふとそんなことを思ったのだった。
この話は、とある恋愛小説家にニセモノ疑惑が浮上するお話。
世界はさまざまなニセモノに満ちている。ちなみにいまこの文
章を書いている森晶麿にはそれはそれは長い牙と鋭く尖った鉤
鼻、黄色く光る眼がある。そしてもちろん本物だと主張しなが
ら、長い緑色の三本指で器用にキーボードを叩いている。
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