【山口組組長16年ぶり交代 次期組長はナンバー2の若頭】
指定暴力団山口組(兵庫県神戸市)の渡辺芳則組長(64)が退任、次期組長はナンバー2ポスト若頭の篠田建市(通称司忍)弘田組組長(63)に内定したことが、7月27日、兵庫県警察の調べで分かった。
山口組組長の交代は16年ぶり。渡辺芳則組長は、名誉総裁など新設ポストにつくとみられるが、トップ交代を機に組織内で主導権争いが起きる可能性もあり、兵庫県警察などは警戒を強めている。
組長決定は、7月29日に神戸市の総本部で開く予定の臨時幹部会で正式に報告される見通し。
抗争相手と間違え組員に射殺された警察官の遺族が損害賠償を求めた訴訟で昨年11月、最高裁判所判決が渡辺芳則組長の使用者責任を認定。渡辺芳則組長は同月に休養宣言をしていた。
篠田建市組長は、拳銃を所持したボディーガードの共犯として、銃刀法違反罪で起訴され、懲役6年の実刑とした大阪高等裁判所判決を不服として上告中。今年5月に若頭になった。
以下、暴力団ミニ講座より抜粋
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5代目山口組は、兵庫県神戸市に本拠を置く、日本最大の広域暴力団組織で、その勢力範囲は、1都1道2府39県に及び、平成11年末現在で、その構成員(組員)と準構成員(準組員)をあわせると約3万5,100人に達するといわれています。
5代目山口組の沿革についてみますと、初代山口組組長の山口春吉氏が大正4年、約50人の沖仲仕を集めて、兵庫県神戸市内で山口組の代紋をかかげたのが始まりといわれています。その後、大正14年、山口春吉組長は、長男の山口登氏に跡目をゆずり引退しました。
2代目山口組組長を襲名した山口登組長は、新設された神戸中央卸売市場の運搬権を独占したほか、浪曲興行界にも進出してその勢力を拡大して行きました。しかし、山口登組長は、昭和15年、広沢虎造氏の興行権をめぐって、東京都台東区浅草で斬られた傷が原因で、昭和18年に死亡しています。
そして、戦後の昭和21年にいたり、田岡一雄氏が山口組の3代目組長を襲名しました。田岡一雄組長は、昭和56年7月に病死するまでの35年間、文字通り山口組のカリスマ的な支配者として君臨しましたが、とくに、昭和30年代から40年代にかけて、地元暴力団との間で数々の対立抗争事件を引き起しながら全国各地に勢力を拡大し、現在の広域暴力団山口組を築きあげました。これも、田岡一雄組長の抜群の統率力と組織力、賭博に依存しない資金源を確立した先見性と、この豊富な資金力と強力な戦斗部隊が全国制覇の原動力となったといわれています。
ところが、田岡一雄組長の死後、4代目組長選出をめぐって、山口組内部において深刻な対立が生じ、ようやくにして、昭和59年6月、竹中正久氏が4代目山口組組長を襲名しました。しかしながら、これを不服とする者が大量に山口組を脱退して『一和会』を結成しましたが、山口組と一和会は長期にわたり対立抗争を繰り広げ、結局その過程で、竹中正久組長は、昭和60年1月に射殺されてしまいました。
この、山口組と一和会との対立抗争が収拾をみた、平成元年4月、4代目山口組の若頭の地位にあった渡辺芳則氏が、5代目山口組組長に就任し現在に至っています。渡辺芳則組長が5代目山口組組長襲名後も、山口組は他の暴力団の勢力範囲に積極的に進出して勢力拡大を図っており、他の暴力団との間で多くの対立抗争事件を引き起してきています。
また、平成9年8月には、5代目山口組若頭の宅見勝氏が射殺されるなど内紛とおぼしき事件も起しています。なお、5代目山口組は、現在、暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律に基づく指定暴力団に指定されています。