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   震災から5年が経ちました。






みくはいつも震災のことを
考えるとどう言葉にしたらいいのか
わからなくて、これだけ宮城を
大切に思ってるのにこれまで
全然向き合えてなかったなって
   5年目にしてやっと思った。





だから昨日は当時のことを
   思い出してたんだ。






   当時みくはねまだ高校生だった。
   2年生に上がるときの春休みかな。
震災が起こるって日もいつも通りに
   スロースタートな休日を過ごしてたの。







   起きて、今日なにしよーみたいな。






二つ年下の妹は当時中2で
ひとつ先輩の代の卒業式を終えて
   友達と出かける準備してた。






お父さんはとっくに仕事に
出かけていて家にはいなかったけど
お母さんは台所で
   朝ごはんの片付けでもしてたかな。






出はる準備を終えた妹が
「いってきまーす!」
って玄関の扉を開けた瞬間
ちょうどその時に
   大きな地震がきたんだ。






台所にいたお母さんが
少しパニック状態になって
   妹の名前を叫んでた。
みくもどうにか立とうとしても
床に叩きつけられるくらいの
   大きな地震だった。






長い長い地震は
終わった後も目眩がするほど
   大きくて、すぐに電気が消えた。
そこからどんどんライフラインが
使えなくなり気づいたら電話も
   繋がらなくなっていた。






すぐに通信手段がなくなり
まわりがどんな状況か
   全くわからなくなったんだ。






情報が知りたかったけど
うちにはラジオがなかったもんで
ガソリンが残りわずかだった
車のラジオをお母さん妹と
   3人で聞いてたの。






その時に地震のことや
同じ石巻市で大火災が起きていること
   災害の規模を少しだけ知った。
そこにはお父さんもいなくてお母さんが
終始パニックになっていたのに
   みくは変に冷静だったな。
携帯の電源をひとまず切って
   お父さんの帰りをひたすら願っていた。






ラジオを聞きながら
ぐちゃぐちゃになった家を
ぼーっと眺めてると雪が降ってきて
地面に積もり始めた頃に
   やっとお父さんが帰ってきた。







津波に追いかけられながら
帰ってきたと冷静に話しだした
お父さんのその姿を見ただけで
   お母さんも安心しているのがわかった。






その日はひとつの部屋を片付けて
どうにか家で寝ることに
したんだけど、あんなに寝るのが
   怖い日はなかった。
   静かすぎる夜。真っ暗で寒い。
家族全員でひとつの布団に寝たけど
余震も続いていて寝てる間に
また大きな地震がきてしまったら
   どうしようって眠れる訳がなかった。






そう考えているうちに
   次の日はやってきていた。
やっぱりどうしても
夢じゃなかったことに
   違和感しかない朝だった。






「私の分も食べなさい。」
と食べ物をさし出すお母さんは
   いつでもみくと妹のことを
一番に考えていた。







近所を歩いてみると
電信柱は倒れ道路から水が噴き出し
   津波の跡も見えて泥に覆われてた。







強盗に荒らされたであろうコンビニや
   ガソリンスタンドに並ぶ車の列。
   生きるのに必死な人間の姿を見た。






ライフラインが止まっていたけど
近くの浄水場で水がもらえることを知り
家族で並んだ。手がちぎれそうに
なりながら必死に運んだ。
時計も壊れて時間がわからない
毎日だったから、日が暮れたら眠り
毎朝明るくなり始める頃に起きて
   暗いスーパーに並んだりした。






知らない人ととにかく喋って
情報交換をし、みくは近所にある
自分の通ってた中学校が
   避難所になっていることを知った。
みんなの安否を知りたくて
  そこから毎日手伝いをしに通った。






石巻市で一番大きな中学校も
小さな子どもから
おじいちゃんおばあちゃん
ペットまでとにかく沢山の避難者で
   教室という教室が埋まっていたよ。






寒い教室や体育館は
「卒業式」と飾りが付けられたままで
常にピリピリとした空気が流れ
どこかで常に泣き声や悲鳴も聞こえてた。
その時だって無邪気に過ごす
この状況を何も知らない子ども達に
   怒鳴る大人も沢山いた。






石巻なんて狭いところだって
思ってたのにさ、そこへ何日通っても
なかなか会いたい顔に会うことが
   できなかったんだよ。人で溢れていたのに。






その間ももちろんお風呂には入れず
その時から伸ばしていた
   髪の毛をまとめて毎日過ごしてた。
自分の家はかろうじて立っているものの
亀裂が入り、部屋は割れたガラスや
倒れたものだらけでほとんど使えず
   食材も減っていく一方だった。







次第に救援物資が届き始め
避難所では小さく切った新聞紙に
おにぎり一つ、たくあん二つ
   を避難している人たちに配った。
1日2食。朝はデコポンだけの日もあった。






小さな子ども達には
新聞紙で箱を作ってあげて
   おにぎりを渡した。






「みくちゃーん!今日何する?!」
と掃除をするみくの邪魔をする
   子ども達が愛おしかったなあ。
自分のおばあちゃんも音信不通になったり
友達も無事なのかわからない
   沈んだ心をいつも明るくしてくれた。
漢字は違うけど同じ名前だった
   みくちゃん。今はもう小学生なんて
   早いよなー。また会いたいな。






教室をまわって皆に必要な
   物を聞いてまわったりもした。
有り難いことに食べ物以外にも
布団や服やカイロなど
   沢山の物資が届き始めていた。






その中で裸足で避難してきている
   おじいさんに出会った。
「足が痛い。スリッパをくれ。」
   そう聞いた私は走ってスリッパを探した。
必死に探して持っていった
スリッパがおじいさんの足よりも小さくて
「こんなスリッパを履かせる気か!?」
   と怒鳴られたりもした。






   そりゃストレスも溜まるよね。
色んな意味ですごく悔しかったけど
   みくは何故か冷静だった。
避難所はやはり常にピリピリしていて
笑顔なんてひとつも見えなかったし
勇気づける為だったとしても
笑っていいのかもわからなくなって
   笑い方は一度忘れた。






でもさ震災から3週間くらい経って
みんなの表情や空気が
   変わってきたのを感じたんだよね。






たくさん「ありがとう」を
   言い合うようになったの。






こんなに有り難みのある
「ありがとう」
   ってあるんだなと思った。






実は39ch.って名前も
ふざけてるように見えるかもですが
この震災でもらった「ありがとう」が
本当に心にまっすぐに入ってきて
沢山の人に「ありがとう」を伝えられる
人になりたいなと思って
39(サンキュー)をch.(発信)しようと
   付けた名前なんです。






東京に出てきてうまくいかない
ことがあってもう笑えないなって
思ったときも、その時の地元の人達の
「ありがとうね、頑張ろうね。」
っていう前向きな気持ちで
すごく頑張れる時があったりして
   本当に大切な気持ちをもらいました。






当時電気が付いた瞬間の感動や
   大切な人の顔を見れた安心感。
通ってた高校を米軍の人達と一緒に
   一生懸命掃除したこと。
沢山のアーティストや有名人の方々が
物資と勇気を届けようと
わざわざ海沿いの東北へ宮城県へ
石巻市へ足を運んでくださって
   くださったこと。
もう会えなくなってしまった顔もあるけど
   その分まで頑張ろうと決めた心。
すべての経験をちゃんと思い出して
またこの一年大切にまっすぐに
   生きていきたいって改めて思いました。






大丈夫。みくは意外と
強そうで弱くて、強い!!!






思ったことをずらずら書いたら
  長くなってしまった。







   読んでくれてありがとう。






今日も東京での出会いに
   感動ができました。
今みく人生最高に充実してるな!!!
みくに、39ch.に、関わって
くださってるすべてのみなさん
本当にありがとうございます!!!






これからもよろしくね!!!!






   
  んでまず。








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