中東倶楽部 歴史・文化のブログ -2ページ目

ガザのシュニッツェル

パレスチナ自治区ガザ地区。2002年にここを訪れてひと月ほど滞在したとき、毎日のようにシュニッツェルを食べていた。
 ちょうど第二次インティファーダが激しさを増していた頃で、ガザを訪れる観光客などいない。ガザ海岸沿いに建つ安ホテルに泊っている客は、たまにやってくるジャーナリストか、外出禁止令や道路封鎖で、自宅に戻れなくなった現地採用の国連職員ぐらいだった。

 そんなわけで、ホテルのレストランで出される料理はひと品だけ、それも毎日繰り返しシュニッツェルばかり。しかし、そのシュニッツェルが何ともいえず美味く感じられ、だんだんと夕食は外で食べずにホテルで済ませるようになった。
 アラブ料理の豆やオリーブオイル、脂の浮いた煮込みにだんだんと飽き、日本のカツに似たシュニッツェルの味と食感を、馴染みがあるように感じたからだった。

 そのホテルのシェフは若い頃、まだある程度自由にガザ境界を出入りできた頃には、テルアビブの高級ホテルの厨房やレストランで働いた腕前だと、他の従業員から伝え聞いた。
 ガザに限らず、西岸地区でもシュニッツェルは比較的よく食べられる料理で、もはや家庭料理の一つにもなっている。オーストリアやドイツの郷土料理とも言えるこの料理が、その頃パレスチナのホテルで唯一食べられるメニューだというのも皮肉だ。

 正式名称をWiener Schnitzelと言うように、この料理の出所はオーストリアである(発祥はイタリアだという説もあるが、ポピュラーさにおいてオーストリアやドイツが本場と言っていいだろう)。本来は子牛のカツレツだが、材料費も安く、また脂が多くて美味いことから、豚肉のカツレツが庶民には一般的にシュニッツェルと呼ばれているようだ。
 なので、子牛を使う場合にはあえてヴィエナー・シュニッツェルと呼ぶのだろう。

 ドイツでも一般化したこの料理は、もちろんオーストリアやドイツで暮らしていたユダヤ人にもよく食された。その当時多くいた世俗化していたユダヤ人ならもちろん豚肉のシュニッツェルも食べただろうし、戒律に忠実であれば豚肉の代わりに鶏肉を使ったそれを食べた。
 ヨーロッパを逃れてパレスチナにやってきたユダヤ人たちにとって、現地生まれのユダヤ人が普通に食べている、かつての自分たちの「先祖」が食べていたはずのアラブ風の料理よりも、生まれ育った国の味のほうが舌に馴染んだ味覚だ。

 イスラエルに来てからは、ユダヤ教を信じるユダヤ人ばかりが周囲にいる国の中では豚肉のシュニッツェルなど食えるはずもなく、材料は鶏肉一本になった。それでもシュニッツェルは、オーストリア人やドイツ人にとってだけではなく、その地を逃れたユダヤ人にとっても、イデオロギーや政治では割り切れない、ある種の「故郷の味」なのかもしれない。

 その味覚は、かつてイスラエルで安い労働力として飲食店で働いていた多くのパレスチナ人に受け継がれ、パレスチナ人の家庭料理の味にさえなっている。イスラエルによる占領下のガザで、西岸で育った子供が、昔母親が作ってくれた味の記憶として、あるいは何かの記念日に家族で出かけたレストランで食べたごちそうとして、シュニッツェルの味を懐かしく思うこともあるかもしれない。
 ドイツの、そしてイスラエルとパレスチナの歴史を引きずった料理シュニッツェルは、イデオロギーも政治も、戦争も抑圧も傍目に見ながら、時代と国境を越えて人々の胃袋に収まっている。

(R.FUJIWARA)

アニオタマルワン②

マルワンの家は、ガザの中心地から車で5分ほど走った、シファ通り沿いの高層アパート。外見だけ見れば「良い家に住んでるなあ」と言いたくなるのだが、一歩建物の中に入れば、廊下や階段、室内も、コンクリートむき出しの安普請で階段には照明もない。それに、経済封鎖によるコンクリート不足のため、建物の上層階は外枠だけは出来上がっているが、内部の工事は止まったままだ。それでもガザの感覚では、立派なマンションだ。
大学のIT系の学科を4年前に卒業したというマルワンだが、今も職に就けず、たまに知り合いのパソコンの設定や修理で小遣いを稼いでいる。国境が開けばすぐにドバイあたりの湾岸諸国に行って、IT系の職探しをしたいのだと話した。

家は4LDKほどの広さで、彼の部屋に入るとさすがにIT系らしく、パソコンが2台とハードディスクなどの周辺機器が散らばっていた。「すごいなあ、パソコン2台も買ったのか?」と聞くと、1台は新品を親に買ってもらい、もう1台はたまにアルバイトをしているパソコンショップで中古品を買ったらしい。「密輸トンネル経由でエジプト製の安いパソコンが入ってくるようになって、ずいぶん安くなったんだ」

一般的なグレードのノートパソコンの価格を聞くと700ドルぐらいだという。金持ちだなあと言うと、それを皮肉に感じたのか「兄が二人、スペインで働いてるから」とぼそっと言って、話を打ち切った。父親はファタハ支持者だから政権がハマスに変わってからは失業中だと話していたので、今はきっとその兄たちからの送金が家計を支えているのだろう。込み入ったことを聞くのは気が引け、わたしも話題を変えた。

パソコンが起動し、彼はいくつかの動画サイトを検索し始めた。「これこれ、これがすごいんだ」とわたしに見せたのは、バスケットボールのアニメ「スラムダンク」だ。登場人物たちは中国語を話し、画面には英語の字幕が出ている。 
それを見ながらアラビア語でしきりに歓声を上げているのを見ると、「20代半ばも過ぎてほんとにガキだな」と思うものの、日本の同世代や、自分自身のその頃を思い出してみると、まあ偉そうなこともいえない気がする。

「見たことある?カッコイイだろう。日本での評判はどう?」と次々と質問してくる。スラムダンクは見たことがあったので、何とか話題についていけた。
「今さら『スラムダンク』?確かに日本でも人気だったけど、でもこれ、10年以上前に終わったけどね」
「ええっ、もう終わってんの?」
彼は、大好きなアニメが10年以上前に放送が終わっていることにショックを受けたのか、とにかく落ち込んでしまった。
「そんなに好きなのに知らなかったのか?いいやん、古くても。今も伝説のアニメだよ」と慰めたものの、「そうか、『スラムダンク』は終わってたのか…」としきりに嘆いていた。

半年後、ガザ侵攻後の取材でシファ通りを車で走っているとき、そういえばマルワンが住んでいたのもこのあたりだと気付いた。彼には名刺を渡したものの連絡はなくそれっきりだったので、どうしているかと思い、家を探した。
彼の住んでいた高層アパートが見えたとき、唖然とした。建物の約3分の1ほどが、縦に裂かれたように崩れ落ちている。バンカーバスターのような爆弾が使われたのだろうか。一般家屋はさほど被害を受けていないガザ市中心部なのになぜここが、と思い近所の人に聞いてみると、ハマスの高官が住んでいたので攻撃されたのだろうとのことだ
彼の部屋のあたりは崩れずに残っていたが、それでも相当のダメージを受けたはずだ。もうここには誰も住んでいないという。わたしはマルワンの無事を祈った。

それから数日後、リマールのカフェで友人を待っていると、背後から「うだだーうだだー」と聴こえてきた。はっとして振り返るとマルワンだった。「お~無事だったか!」と嬉しくなったのもつかの間、再会の挨拶もそこそこに、彼はまた延々とアニメの話を始めた。何度も話を打ち切ろうとしてもお構いなく、わたしの友人が来るまでの30分ほど、一方的にアニメの話を喋り続けて帰っていった。

(R.FUJIWARA)


アニオタマルワン①

「うだだーうだだー、うだうだだー」。ガザ市の中心部、リマールを歩いていると、後ろから変な若い兄ちゃんたち3人が近づいてきた。見たところガラも悪くはない。ただ、少し後ろついてきては、「うだだー」と繰り返すのでイラついてくる。よく聴くと、どうも山本リンダの曲に聴こえる。「なんでそんな曲知ってるんだ?」と、つい立ち止まってしまった。

振り返ると待ってましたとばかりに、「分かる?この曲」と一人が嬉しそうに話しかけてくる。わたしの答えを待つまでもなく、「ふふっ、ちびまる子ちゃん」と自分で答えた。山本リンダではなかった。やつらに分からない話をして話をややこしくせずに済んでよかった。

日本のアニメが外国で人気なのは知っていた。ニュースでも欧米でのアニメオタクの話題が取り上げられるし、カイロの空港でアラブ人に、「(キャプテン)翼くーん!」と叫ばれたこともあったし、ベイルートでは毎週、「今週のJリーグ」という番組が放送されていた。また、イスラエルでは平日の夜は毎晩1時間、日本のアニメが放送されている。そのせいか、イスラエルのヘブライ大学日本語学科は今やアニメオタクの巣窟だと、以前そこを卒業したユダヤ人が嘆いていた。

しかし、まさかガザにもアニメ人気が広まっているとは思わなかった。「なんでちびまる子の曲を知ってんの?」と聞くと、ネットで見てるからだという。中国などの著作権無視の動画サイトで、日本のアニメはとことんチェックしているそうだ。その3人組は、日本の今のアニメ事情を知りたくて後をついてきたらしい。「今はどんなアニメが流行ってる?」と聞いてくるが、残念ながらわたしはアニメや漫画はあまり詳しくない。

適当に「う~ん、ONE PIECEかな」と答えると、「古いね~」とぬかす。
「じゃあ『NARUTO』とか」
「ああ、大好きでよく見てるよ。あれは映像がきれいだしストーリーも良いね。あとは?」
「ちょっと前だけど『犬夜叉』とか」
「あれもいいなあ。すごく日本っぽい」
などと、日本も知らないくせにそんなことを言う。
「日本っぽいって、アニメに出てくる日本の文化とか分かってんのか?」と聞くと、「分からないけど、それでも面白いのが日本のアニメなんだよ」

それにしても、こいつらはやたらと詳しく、「これ知ってるか?じゃあこれは?」と、わたしにはよく分からないアニメ作品をひたすら並べた。
「あんた、せっかく日本に住んでいるのになんにも知らないねえ。日本アニメの映像技術は最高だから見たほうがいいよ」
わたしには別にどうでもいいのだが、しかし、ただアニメに疎いだけでダメなやつみたいに言われると、ついなんとなく腹が立ってくる。
「じゃあお前がお勧めのやつ、ひとつ見せてみろよ」と大人気ないことを言い、彼らのうちの一人、マルワンの家に行くことになった。ガザの若い世代の生活を見てみたいという下心もあった。

(②へ続く)




ガザの健康ブーム

パレスチナ自治区ガザ地区に行くたび、禁煙熱が高まっていると感じる
取材を始めた頃はどこに行っても煙草を勧められ、日頃吸っているJTの煙草”キャスター”と交換などすると、「なんだぁこの煙草。女性用か?」などと、強いたばこを吸うことが偉いみたいなことをよく言われた。
それが2005年頃から、「また煙草か…。お前よく吸うなあ」などと言われだした2009年に訪れたときには、その数がさらに増えていた。

禁煙のきっかけは、「値段が高すぎて煙草が買えないから」だったガザ地区はイスラエルによる封鎖により、物資搬入が極端に制限されている2008年には、煙草ひと箱が最高値で20数シェケル(1ドル=約4>シェケルもして、まともに働ける仕事がほとんどないガザでは、とても簡単に煙草を吸える値段ではなくなっていたのだ。

その後、密輸トンネル経由で入る煙草が輸入過多でダブつきはじめ、またそれが密輸品ゆえに、税金がかかっていないのでとても安い(ひと箱5シェケル前後。2009年2月)。皮肉なことにイスラエルによるガザ封鎖が、煙草のような価格の半分近くも税金がかかる商品については、価格破壊を起こしたのだ。
ところが、煙草が安くなっても禁煙者は増えている。一旦禁煙をしたら、あることに気がついたのだ。金がなくて煙草が吸えずイライラしたが、慣れてくるとどうも喉の調子がいい。食後の一服の楽しみはなくなったが、煙草を吸わないために胃も荒れず、メシがやたら美味い。しかも、ちょっと動いても息が上がらない。

そうなると、健康ってこんなに気分のいいものかと、あれこれ次の手を考え始める。モノを考える時間だけはいくらでもあるからだ。
ガザ地区に限らず、アラブ人は甘いお菓子が好きだ。しかし昨年は複数人が、「これまでは甘いスイーツが当たり前だったけど、最近のガザじゃ砂糖少な目のスイーツが流行りなんだよね」と、自慢げに話した。

また、人の家を訪れるとたいていお茶を出してくれるが、そのときに「砂糖入れる?」と聞かれることも多くなって驚いた
「じゃあ砂糖入れて」と答えると、「気をつけろよ、あんまり甘いもの摂ると糖尿病になるぞ」と、余計なことを言う。以前は、グラスの底に飽和した砂糖が溜まるほど、甘ったるい紅茶しか飲まなかったにもかかわらず、である。
ガザ市の街中では、健康促進のために夜な夜なウォーキングをする集団さえ見かけた。停戦と封鎖と失業が生み出した、あまりにもいびつな健康ブームである。

(R.FUJIWARA)