中東倶楽部 歴史・文化のブログ
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「あんた、この国が好きか?」①

パレスチナ自治区西岸地区のラマッラからエルサレム市街に入る最後のチェックポイント、ベイト・ハニーナにある、イスラエル軍のアタホ検問所でセルビス(乗り合いタクシー)が停まった。

イスラエル兵が乗り込んできて、乗客一人ひとりのパスポートやIDカードをチェックする。そこで、何らかの不備があるパレスチナ人たちを強制的に降ろし、エルサレムに入れないためだ。理由はIDを所持していなかったり、何らかのブラックリストに名前が載っているなどの理由が明確な場合もあれば、理由も分からないまま降ろされることもある。
わたしのパスポートを見た一人の兵士が、バスを降りるように言った。「イスラエルの入国スタンプが押されていない。エルサレムに入れるわけにはいかない」

その頃、イスラエルの入国管理システムはしょっちゅう変更があった。空港や陸路国境のイミグレーションでパスポートのページへのスタンプ押印を望まないものには、それまではスタンプを押した別紙を渡すことで、入国スタンプの代用としていた。レバノンなど、イスラエルへの渡航の形跡がある場合、入国を認めない国があるからだ。
しかしわたしが入国したそのとき、空港の係官は「コンピューター管理のシステムができたので、別紙にスタンプを押す必要は無くなった」と話していた。
「どこのチェックポイントでも、パスポート番号を告げればコンピューターで確認できるから問題ない」

「悪いが荷物を持って降りてください」
オリーブグリーンの制服を着た陸軍の若い兵士が、そう言ってわたしをセルビスから降ろした。「確認をとるから、しばらく待っていてください」。その兵士は、コンクリートブロックで囲われた検問所の中で、階級が上らしい中年の男と話している。その男は陸軍ではなく、青みがかった国境警備隊の制服を着た気難しそうなやつだ。

日が暮れた路上で、寒さをごまかすために煙草を何本も吸いながら時間を潰した。30分経っても、エルサレム市内に戻る許可は下りない。
「なんでお前のパスポートには入国スタンプが押されてないんだ」
何度説明してもその国境警備隊の中年男は、空港でのいきさつを頭から理解しようとしない。
「密入国の可能性のある者を、エルサレムに入れるわけには行かない」
そればかりを繰り返し、埒があかない。

「お前がエルサレムにいたということを証明できない」
「泊まっているエルサレムのホテルに電話すりゃ分かるだろ」
「おれたちはサービス業じゃない。電話番号を調べてかけてやるようなサービスはしてない」
「じゃあどうしろと言うんだ。鉄条網や軍隊で国境線を固めてる国に、どうやって密入国できるんだよ。空港のイミグレーションにでも問い合わせてみりゃ、おれがまともに入国していることはすぐ分かることだろ!」
「お前にできることはふたつしかない。何時間でもここに突っ立っているか、自治区に戻るかのどちらかだけだな」

そう言ったきり、国境警備隊の中年男は無視を決め込んだ。
検問所をエルサレムに向かうセルビスや自家用車が何台も通り過ぎていく中、一人残されたまま煙草を吸い続けていた。こんなときに限って、携帯は電池が切れて使えない。唯一覚えているイスラエル内の取材で雇っているユダヤ人通訳の番号に、兵士の電話を借りてかけてみるが、何度かけても留守番電話にしか繋がらない。ホテルの電話番号も控えていない。

「あんた、この国が好きか?」②

「クソっ、このキチガイどもが!」
聞こえるように毒づいたものの、国境警備隊の男はまったくの無視。周囲のほかの兵士たちもこの男には逆らえないのか、見てみぬふりだ。
1時間も過ぎた頃、さっきの若い兵士が紅茶を入れて持ってきてくれた。
「寒いだろうから紅茶でも飲んでくれ。悪いが規則だからおれたちにはどうすることもできないんだ」
「ああ分かってるよ。これがお前たちのいつものやり方だもんな。そうやって人を困らせる仕事はきっちりするが、電話一本かけて事実関係を調べようともしない。まあ兵隊なんてそんなもんだから、お前のせいじゃない」

頭にきていたわたしが皮肉を込めて毒づくと、しばらく考え込むように無言でいた彼は、思いつめたような口調で言った。
「なあ…、あんたこの国が好きか?」
答えあぐねていると、予備役で1ヶ月間この検問所での任務についているというその兵士は、神妙な口調で続けた。
「分かってくれ、本当におれはパレスチナ人と仲良くやりたいと思ってる。好きでこんな仕事をしているわけじゃないんだ」

その、何かを訴えかけるような口調に、逆にわたしはカチンときた。
「お前らはいつもそうだ。自分たちも好きでやってるんじゃない、仲良くしたいができない、人間としていいことだとは思っていないが安全のためにはしょうがない、平和を望んでいる、テロを止めたら報復を止める…」
「外国人のあんたにおれたちの気持ちなど分かるわけないと思うが、おれたちだってどうすればいいのか悩みながらこんな任務についているんだ」
「悩むのはお前の勝手だよな。『この国が好きか』だと?そんなことを聞いてくるくせに、こっちが意見を言ったら『外国人には分からない』か。なら最初からそんな質問などしてくるな」
わたしもまた部外者の立場で彼を責めていた。そのことに自分でも嫌気がさしながら、でもこれ以上話す気にはなれず背中を向けた。

そんなやり取りをしているうちに、勤務時間が過ぎたのか国境警備隊の中年男の姿が見えなくなり、その若い兵士は通りがかったエルサレム行きのセルビスにわたしを乗せてくれた。別の場所で別の機会に、その兵士の心のうちをもっと聞いてみたらよかったと思ったのは、セルビスに乗って少し経った、やや冷静になったときだった。あんなことを彼に言っても仕方がないことだとは分かっていた。彼はイスラエル軍兵士としては、精一杯の誠実さでわたしに話しかけたのかもしれない。
しかし、目の前で何人ものパレスチナ人たちがバスを降ろされ、来た道を引き返したり、大荷物を抱えてその場に立ち尽くしている検問所の前では、彼の言葉を素直には受け入れられなかった。自分自身の感情にも、彼や国境警備隊の中年兵士の態度にもすべてに納得のいかない気持ちを、いつまでも引きずっていた。

ユダヤ人の「区分け」から思いつくままにつらつらと

イスラエルのユダヤ人の中でアシュケナジムと呼ばれる白人系(主にドイツ、東欧出身)ユダヤ人に対して、それ以外のものを広くセファルディムと呼ぶことがある。正確には、スペインにルーツを持つユダヤ人のことを指す。
(一般的に、彼らが元々話していた言語はアシュケナジムはイディッシュ語で、セファルディムはラディーノ語とされている)

スペインがレコンキスタによりイスラムからキリスト教への「回復」を行なったとき、そこに住むユダヤ人たちは「非キリスト教徒」ということで、ムスリムとともに迫害されたり、改宗(マラーノ、改宗キリスト教徒)を迫られた。
やがて彼らは、迫害や追放によってスペインから逃れていくのだが、そのときにオランダなど西欧に逃れた者たちと、北アフリカ地中海沿岸諸国に逃れた者たちとに、大きく分かれる。
後者はスペインを逃れたあと、北アフリカ地中海沿岸諸国に住み着いた。

アシュケナジムとセファルディムは、イスラエルのユダヤ人を語るときによく対比されてきた区分けだが、もうひとつ大きな区分けとしてミズラヒムというのがある。中東、アフリカ、アジアなど「オリエント」にルーツを持つ「オリエント系ユダヤ人」たちだ。
ややこしいのは、スペインにルーツを持つセファルディムとオリエント出身のミズラヒムは、一部出身地域がかぶっていることだ。

スペインを追われたときに北へ逃げずに南へ逃げた、北アフリカ諸国に住んだユダヤ人を区分けして呼ぶとき、アシュケナジムもそれ以外のユダヤ人たちも、状況によってセファルディムに区分けしたり、ミズラヒムに区分けしたりする。
近年、北アフリカやイラク、エチオピアなどにルーツを持つユダヤ人たちの地位が向上してきたこともあり、ヨーロッパ系ユダヤ人に対して示すアイデンティティとして、あえてミズラヒムを名乗るスペイン/北アフリカ系ユダヤ人もいる。

一方で、ヨーロッパ出身でないユダヤ人は、シオニズムやイスラエル建国のための過程に関与してこなかったではないか、といういわば「政治的に下に見られる」ことを嫌がり、北アフリカ出身であっても、ざっくりとセファルディムに自らを区分する(北へ逃れ、シオニズムにも関与してきた「スペイン系ユダヤ人」と同じルーツを持つ、ということを含ませておきたいため)場合もある。

いずれにせよ、ユダヤ人がユダヤ人を区分しようとするとき、それに政治的意味合いが含まれる場合は、微妙なバランスの上で語られることが多い。
近年、若い世代の中では自分たちのルーツを単純に「どこ出身」的に語る場合には、それらの「区分け」を言うが、あえてその質問をしても「おれはイスラエル人だ」と答えることも多い。社会の成熟とともに急速に増える「ノンポリ層」にとって、ユダヤ人であるということ以外のルーツは、もはや大して意味がないのだ。

しかし、若い世代であっても、政治的体質が強い人ほどそれらの「区分け」に非常にこだわる。
どの国でもそうだが、自分は「純粋」ではないと思う人ほど政治的や思想的には過激になりがちであり、したがってイスラエル建国に「関与」できなかった北アフリカ系セファルディムやミズラヒム、「送れてきた東欧ユダヤ人」である旧ソ連系の中に、ガチガチの強硬派が多くいる。


(R.Fujiwara)

フワーラにて

「そんなことより、日本の携帯持ってきてる?」
西岸地区のナブルスとラマッラの間にあるイスラエル軍のフワーラ検問所の行列に並んでいたとき、横にいたパレスチナ人の大学生、カマルが言った。
もう2時間ばかり検問所は閉まったままで、通過待ちの列は長くなる一方。しかし、人々は「いつものことだ」というふうに苛立ちを隠しながら、大人しく待ち続けていた。
暇を持て余していたわたしは、カマルと世間話をしたあと、こんな検問所で待たされるような占領下の暮らしやイスラエルについて、少し尋ねてみた。すると彼は、そんな質問はうんざりだという顔で強引に打ち切り、携帯の話を始めたのだった。

ほら見てくれという感じで、彼はポケットから自分の携帯を取り出して見せた。「日本の携帯ってきっと良いんだろ?どんな機能ついてんのかちょっと見せてよ」
3~4年前頃から気になっていた。パレスチナが抱える問題についての話題を若い世代のパレスチナ人に向けると、はぐらかしたり、嫌な顔をして話を打ち切る人が増えたような気がしていた。特に西岸では。
「そんな話うんざりだ」といった顔で、カマルはわたしの話を無視して携帯の話を一方的に続けた。
「金が貯まったらもっと多機能の携帯に買い換えようと思ってるんだよー。音楽とか映像とかに強いやつに。でもスマートフォン高いしなー。i-podも欲しいし、携帯は我慢するかなあ」。そう一人で喋り続けながら彼は、わたしの携帯をいつまでもいじくっていた。
 
近年、ガザを取材したあとに西岸地区に戻ると、あまりの落差に愕然とする。まるで、別のアラブの国に来てしまった気さえすることがある。特に、首都機能を持つ西岸のラマッラに行くと、どんどんインフラが整備され、小奇麗な家が増えている。
ガザが封鎖されているため、経済の格差があるのは仕方がない。しかし、あっという間に違ってしまったこの精神的な温度差は一体なんだろうか。
もうまるで、別のアラブの国の、別の人々の話だ。「パレスチナ」はもう、ある面においては西岸、ガザ、レバノンをはじめとする離散パレスチナ人という、3つの別々の存在として捉えて考えないといけないのかもしれない。

(R.FUJIWARA)

数字で見るヨーロッパのムスリム

 ヨーロッパの政治でよく話題になるのがイスラムだ。2004年に、オランダでイスラム批判の映画を撮った監督がムスリムに殺害され、それに反応してイスラム関連施設への放火も起きた。また、2005~2006年にかけてのデンマークの風刺画騒動はまだ記憶に新しい。最近では、スイスでミナレットの建造を禁止する憲法改正案が国民投票で可決され、フランスでは顔を覆うベールの公共の場(つまり私人宅以外の空間すべて)での着用を禁止する法律の可決がこの秋にも予測されている。ベルギーでも同様の法案が下院を通過した。この「反ベール」法は、地方自治体レベルではすでにベルギーなどで実施されている。これはもう汎ヨーロッパ的な動きになっていて、このまま行けば1年後にはまた違う国が、この「反ベール」法競争に名乗りを上げていそうだ。
 さて、ヨーロッパでムスリムの人口の割合が高い国はどこか?トルコ、キプロス、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナの主な民族構成にムスリムがいることは知られていると思う。上記の国を除いて、一位に来るのはアルバニア人が多く住むマケドニアだ。約60万人のムスリムは全人口の30%に当たる。次がロシアとブルガリア。2000万人とも推定されるムスリムが住むロシアのムスリム人口比率は14%、ブルガリアのムスリムは95~100万人で12~13%となる。
 西ヨーロッパではフランスがムスリムの人口比率が高く、約500万人で8.1%、多くのトルコ人が住むドイツは約340万人で3.9%、オランダが約75万人、4.6%、ベルギーは約38万人、3.7%、スイスは約31万人、4.3%、デンマークが約15万人、2.8%だ。ロシアやブルガリアで、ムスリムとの関係に問題がないと言うつもりは到底ないが、ムスリムとの軋轢を喧伝する西欧諸国のムスリム人口比率が意外と低いことに気づく。何をそんなに騒いでいるのと言いたくなるようなこれらの国の「イスラム問題」については、歴史や文明について議論する以前に、ここ数十年の間に新しくやって来た「異なる人たち」との共生という、移民問題のファクターを見逃してはならないだろう。
(旅人T)

人口統計は、Anna Stepien, Muslims in Europe: Unity in Diversity, UK Islamic Mission Dawah Centre, 2005, Birmingham、2009 Report on International Religious Freedom - U.S. Department of State (http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2009/index.htm)、およびウェブ上のメディア・団体等による推計を参考にした。