最後の晩餐と都会の激情。 | 小薗学のブログ

最後の晩餐と都会の激情。

マックスエルンストとスピノザの太陽
時間と差別
胃潰瘍と堕胎
満月はフランシスコビーンが食べた
双子の人形が絵葉書に詰まっている
マックス・シュティルナーの孤独を食べ尽くした童話の中の猫の詩人と会話する俺は
無差別テロに汚された金塊を集め隔たる意識を官能的な商売道具に変えた君たちの偏頭痛のサディカリズム
脅迫罪で罪滅ぼしと天誅を下す掃き溜めの香水の中
フュージョンジャズと石鹸とバイオテロの雨で汚されたクロニック
万世にパンデミックする理性が無い独裁的なブラック企業のブラックボックスに暴飲暴食を続け
欲望だけで埋める暇などは何も埋まらない事実を奉還させ崩壊させているだけに過ぎない
帝王学を学ぶ俺は大団円で終わるような世界のアコーディオンを弾く大どろぼうホッツェンプロッツと
量子力学のカルマに科学と化学で産まれた答えなどは偽装された罪のようにしか思えない
屍の論理を追求しては事物を捕らえたと勘違いしている
真実は時間の後ろ姿を追うように横領している現代人の亜鉛を舐めるように
何故と破談した君は上空で非売品の明日をナチズムに売るような差別を繰り返す
刃物は要らないさ武器すらも不必要
この手さえ有れば何語も万事解決出来る物語の放射能汚染のゲリラに閑散とした記憶の銃殺を繰り返す
彗星に乗る俺は貧相と貧寒を抱えても
この生きた廃絶の都市に涙すら描けない
ギンズバーグは銀色の愛を降らせた悲恋に打ち砕かれる情報網にヘルダーリンも隠した日々の爪に
ピンクのマニキュアを塗るみたいだ
感性だけが人混みを超克する数億のゲシュタルトとに秘密警察たちが描く理想は粛清の後の血を舐める
ハイエナの前のライオンの獰猛さを知らないのだ

Rastafarianismに帰還するZionを探す財欲だけの森を越える
俺はニシンが降る最中
星空の中から君を探した鉄の処女の中で命乞いをすること無く
廃屋に住むペガサスに乗り白昼夢の朝を駆け巡るのだ
誰かの検疫を肥えた演奏家が分散するバイオリズムに永劫回帰のニーチェとワーグナーの亀裂
反権力を掲げてもその場しのぎの青春に狡猾な罪障に市民権は奪われ尽くすであろう
乳母車に乗る敗亡の情景が汚く連呼するジレンマは排除法の農場で粉々に砕かれる
クーデターを引き起こそうとした三島由紀夫の母胎に住む俺は二重奏の欠片に異常者的な演技では無く
本当に代価を求める騒人たちの欠乏症の暴威に願い事などを授けはしない
預けた機関誌の雑踏のコンビナートに乗り
俯瞰的なバイタルに印象的なアイロニカルな不死鳥に乗り
残像は記憶の過疎化を求める囚人服に着替え
幼稚な脱走を繰り返す不浄な気持ちでさえも嘯く物語に見え隠れする

在籍する不信任案は不妊症的で近親相姦的な家屋で滅亡する恋路のようだ
禍根に揺らぐ空席に座りヒステリックな解除法に促す画聖が描く無償の統治に
火星に座る不幸の怠慢を抱え円周率をずっと計算し続ける俺は
未収の愛人たちの光年を悟り
誘惑の胎児たちと詠唱する懐古の棺の中で微生物が暴れる色欲の雨に汚れ
荒廃している五月蠅い感情立ちも然りと
痕跡はhaimenが描いたヒューマニズムを食べたハイデガーが
鋭利な刃物で傷つける空母に母性愛の恐懼の唄を謳い続けるようだ

高齢化している苦肉の里親たちはアルコール中毒の中性子に乗って
自虐的な花のノイローゼを潰しにかかる
ニヒリストばかりが離散を求めるが
俺は闘争こそが正義だと悪に告げもしない
中庸に加算する現実味に溢れる理解者だけに届けば
俺は何者かだって事を証明し
散々な愛液に汚れた日々も枯渇され
金だけが踊る世界に何の感情も情感も感じない流離うだけに生きるように
同等な命の救世主のように陰謀説なんてものは妄想に過ぎない
現実だけが混沌と宝石箱の中で集約され搬送される出来事は晩餐会でリアリズムを無くしている
溶解している抗争に巻き込まれても答えなんて出るはずも無い
一つ一つの命が咲き誇らなければ意味も無くした火葬場で
均一な時代の声望も無くなるで有ろう

朗誦する労働と永久
矮星に促す生動を歩き静謐感漂う今を描き続ける
動脈は静かに脈打っている最後のビジネスを終え主観的で曖昧な欠乏症に
失楽園に向かう奴等など居ないであろう
童心だけでピルと鉛筆の軍隊を引き連れ
俺は無欲で無益で無責任な自由で道草ばかりで路肩の椅子に座り
先見の明で裏の裏の裏を読んでいる
IQは三千を超えた効率を促す人道的な道筋に硬貨など無く
降り積もる有形だけに有り難みを感じるのだ
答えなんて者は人が作るべきでは無く
答える者も惰性な廃棄処分の街並みに消え去り
何が何かを忘れる頃には年老いて使命を終え
ボロボロの身体にMorphineを打って運命を終えるだけだ
諸刃の今を改竄させもしない何も無い状態こそが最高だとさえ思うほどだ
退廃的に思えるが
この厭世観は厭世観では無い静寂に留まり今を見据え何が必要かをずっと見つけている。