「ハワード氏の黄泉~天国への臨死体験を語る パート1」愛の為にしたことだけ覚えておられる | sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

★「愛の為にしたことだけ覚えておられる」(ハワード氏の臨死体験)2014-10-22

過去記事でアップした動画ですが
今回文字起こしすることにしました
覚えておられる方もいらっしゃると思いますが、もう一度読んでいただければ嬉しいです

神の恵みがありますように

感謝しますラブラブ



パート1
https://www.youtube.com/watch?v=res1ZJ07BoA

私は大学教授として、とても成功していました。
三年間教授の仕事をした後、終身雇用の正教授で20代になりました。
それは、稀なことでした。
自分の作品を展示するギャラリーも二つあり、
彫刻家としてケンタッキー州から大きな賞も受賞しました。

私の目標は有名な美術家になることで、人生でできる限りのものを手に入れて、
捕まらなければ何でもやり放題でした。 酒も多く飲みました。

実体論者でニーチェの『神は死んだ』の哲学を持ち、自分のやりたいように生きる。
人生は無意味だと。
苦難をできるだけ避け、快楽をできる限り体験しようとしていました。
快楽主義で、虚無主義でした。何も信じず、友人も皆そんな感じでした。

生徒たちとヨーロッパの美術旅行、最終日の前日、フランスのパリで
朝11時、小腸に穴が開き、全く予期しなかったことで
私が倒れると、医師がホテルに来て、すぐに手術が必要だと言われ
救急車が来て、パリの病院に連れて行かれました。

病室に入れ、手術医を探すと言われました。
でも、翌日まで執刀医が見つけられないと言われ、すでに8時半で、
9時間半も痛みに悶えていたので、そう伝えられたときに、
何時間もの苦しみの時間を、死なないように何とか生き残ろうとしていたけど、
もう死期が来たのだと知ったのです。

妻に別れを告げて、子供たちに私が愛していると伝えてくれと言うと、妻は泣きました。
妻が座ると、私の意識は無くなりました。
もうそうなりたかったのです。それが最後の感覚だと確信を持っていました。

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

次の瞬間、立っていることに気がつきました。それが最後の意識でした。
自分が寝ていたベットの横に立っていたのです。
次に気が付いたのは、痛みがなくなっていたことでした。
痛みが完全に無くなっていたので、とても嬉しくなりました。

本当に興奮しました。痛みが無くなっただけでなく今までで最高に気分が良くなっていることに
気付いたのです。より生き生きとして感覚が鋭くなり、これが現実かどうかチェックしましたが、
私の感覚は非常に鋭くなり現実が強烈なほどリアルだったのです。

床のでこぼこや割れ目までも感じることができ、自分は美術家なので空間の深さとかに
繊細に察知するのですが、手を近づけて見ると、その向こうのものまで焦点が合って
はっきり見えるのが、不思議でした。

また、人間の視野は普通160度の半径なのに、
自分の視野が360度の範囲で見えることに気が付きました。本当に奇妙でした。

ベットに人が横たわっているのを見ました。
その人を良く見ると自分のようでした。でも、自分だとは認めませんでした。
何故なら自分はかつてないほど、より生き生きとしているので、
このベットの上の自分に似た死体は、自分であるはずがないと認めたくなかったのです。

これが自分ではないと言うことを自分に言い聞かせようとして、病院が自分のマネキンを
作ったのだと考え、このフランスの病院が、私を狂人だと思わせようとしているのだと
結論付けました。

妻や病室の人と話そうとしたのに、彼らは私と話そうとしないので、とても腹が立ちました。
「何が起きているんだ?一体どうしたんだ?」と大声で叫んでもなんの返事もしないので、
私を怒らせるために無視しているのだと思って、更に腹が立ちました。

すると部屋の外で私の名を呼ぶ声がするので、見に行きました。
すると「早く行きましょう。待っていたんですよ」と言うと、
「私は病で何時間も手術を待っていたんです」と言うと、「全部わかっています」と言いました。
そして、廊下に行きました。廊下は気味の悪い薄暗いところでした。
私を呼んだ人たちは、その薄闇に隠れるようにしていました。
私に見られないように、近づかないようにしていたのがわかりました。

大人の男女ですべてが灰色で、彼らも灰色でした。
彼らと一緒に行きました。彼らは私を囲むように歩きました。
最初、廊下だと思ったのが、ただの空間だと言うことが分かり、そこは壁も何もなくて
歩いている表面だけがありました。
恐ろしく暗闇でした。「もうこれ以上一緒に行かない」と言って反抗しようとしたけれど
「もうすぐだから」と言って押したり、引っ張ったりし始めました。
彼らから逃れようと抵抗しましたが、失敗に終わりました。
何故なら最初は数だったグループが、今や百人以上にもなり、私は暴徒に囲まれてしまったのです。

彼らは彼らの世界観を私に叩き込もうとしました。
それは、世は何もない所で、世は希望もなく、愛もなく、光もないところだと・・・
彼らは悪霊でも、モンスターでもなく、
私がそれまで生きてきたのと同じような人生を歩んできた人たちでした。
残念ながら、彼らは自分にとって、馴染みがありました。
認めたくはないけれど、魂の友のようでした。
何故なら不幸にも、神を拒絶した彼らは、私たちが当たり前としているけど、
実は神が与えてくれたもの全てを拒絶したのです。

神は私たちに愛を与え、喜びや光を与え、希望も与え、世の被造物全てを与えたのに
彼らの世界にそれらは、皆無でした。
彼らが持っていたのは、自分を満たすことだけを求めていた。
自分自身のみで!
そこにいた人たちは互いに支配し、苦痛を与える対象を探して生きているのでした。

彼らは、感情を吸い取る吸血鬼のようで、私は牢獄に入れられた彼らの獲物でした。
私は深く傷付けられ打ちのめされました。恐ろしい見通しでした。

彼らと一緒に居たくなかったし、これ以上深みに行きたくなかったのに
どこにも行きようがなかったし、これで終わりだと思いました。


パート2~救い~

『信仰とは神の恵みの中に大胆に生きる自信であり、命を千回たくせるほど確実なものです』
                             ~マルチン・ルター~

やがて私は彼らにとって興味の対象でなくなりました。
反応できないほど傷付けられ、ただ横たわっていました。
ズタズタに引き裂かれ、肉体的にも破壊され、もっとひどかったのは感情的、心理的に
深く傷つけられたことでした。
横たわっている私を蹴ったりしても反応がなく、文句も唸り声も上げることすらできなかった。
すると声が聞こえてきたのです。
自分の声のようだけど違う声が聞こえ、どこから来るのかわかりませんでした。

「神に祈りなさい」と言うので「私は神を信じていないし、祈り方がわからない」と思っていると、
また「神に祈りなさい」と聞こえ、小さいころ祈っていたことを思い出しました。

でも、覚えていなかったので祈りを思い出そうとしました。
すると無意識に、その思い出せる祈りを呟きました。
すると周りにいた人たちが凄く怒り出したのです。
そして彼らの言葉で・・・それはあまりにひどい言葉なので真似しませんが・・・
「神なんかいない!誰も聞こえないぞ!祈ったらもっと傷付けるぞ!」と言いました。

でも、思い出して神に祈ろうとすることを諦めなかったのは、祈ることによって
初めて彼らを追いやることができたからでした。
彼らは怒鳴り、叫びながら闇に消えて行ったのです。

頭の中で無意識に脱出の道を探していました。
小さいころ、日曜学校で「イエスは愛しておられる」と言う歌を歌ったことを思い出したのです。
♪イエスはあなたを愛している♪
それは日曜学校の小さな椅子に座って歌う少年の自分でした。
この思い出で一番重要だったのは、
小さいころイエスが自分を愛していると信じていたことが客観的に分かりました。
100%完全な自信を持って信じていたのです。
イエスという人物がいて、その人は自分を愛してくれていて、
小さなときイエスに祈ると守っくれて、イエスは良い人で・・・


               パート2につづく