旧乃木邸の一般公開
日露戦争における旅順攻略戦で、指揮をとられた乃木希典大将の旧邸は、明治天皇の大葬の日に殉死されたご命日の9月13日に合わせて、年に一度一般公開されているそうです。
今年は、今日12日と明日13日の両日。午前9時半から午後4時まで。
是非、足を運んでみたいものです。
辞世
うつ志世を 神さりましし 大君の みあと志たひて 我はゆくなり
乃木神社(旧乃木邸隣接)http://www.nogijinja.or.jp/
/坂
日露戦争における旅順攻略戦で、指揮をとられた乃木希典大将の旧邸は、明治天皇の大葬の日に殉死されたご命日の9月13日に合わせて、年に一度一般公開されているそうです。
今年は、今日12日と明日13日の両日。午前9時半から午後4時まで。
是非、足を運んでみたいものです。
辞世
うつ志世を 神さりましし 大君の みあと志たひて 我はゆくなり
乃木神社(旧乃木邸隣接)http://www.nogijinja.or.jp/
/坂
公園向かって左の道は、大橋住宅(団地)に通じていて、「通り抜けできません」の看板もあるので、足が向かないのでしょう。そのため、こんなに大きいのにもかかわらず、「知る人ぞ知る」碑になっているのかもしれません。
左の坂道を、ほんの100メートルばかり登った道路脇右側ですから、すぐに分かります。お近くにお越しの際は、是非、お立ち寄り下さい。
傍らの由来記には、次のように書かれています。(句読点を補い改行を加えました)
記念碑天覧台は、明治天皇親しく此の台上より陸軍乗馬学校(後の陸軍騎兵学校)卒業馬術を明治二十五年(1892年)天覧なされてより延べ十一回、大正天皇におかせられても四回行幸なされた御聖徳を偲び、昭和三年十一月十四日陸軍輜重兵第一大隊が建立したものである。
以来部隊の象徴として日夜心身の練磨に努めていたが、昭和二十年八月復員発令に伴ない、題字及び碑文を抹消放置したまま三十有余年を閲した。
此の碑を心の糧として、軍の補給輸送に任じ祖国の平和を祈り異郷に散華された数多将兵の忠誠を顕彰し、併せて陸軍輜重兵第一連隊および関連部隊の栄誉を永遠に伝えるため、戦友相寄り相計ると共に、明治神宮宮司高澤信一郎先生の題字復元を得て修理を完成した。
昭和五十六年十一月十四日 天覧台保存会
/坂
写真の正面にある小さな公園「宮下児童遊園」で、二手に分かれている道の右側に、いつも資料探しの窓口に利用する目黒区大橋図書館があります。
会社から近くて便利なため、よくお世話になっております。ここ半年間でも、お借りした資料は100冊を下らないでしょう…。いつも駆け足で取り寄せた資料を漁っていっては、夜間返却ポストに返す事が殆どで、館内滞在時間は長くはありませんが。
さて、ある時偶然、行ったことのない公園左に伸びる道を登って行くと、道路脇に大きな石碑がありました。近寄ってみると「天覧臺」と書かれているではありませんか。こんなに近い所に聖蹟があるとは思いもよりませんでした。
夕暮れ迫り、辺りは薄暗くなっていたので、改めて見に行くことにしました。/坂
小説は歴史ではない
司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』が、今年の11月からNHK総合テレビのスペシャルドラマとして、3年間に亘って放映の予定だそうです。
この小説は、日露戦争を描いた歴史小説としては、おそらくは日本で一番有名でしょう。また内容も、読む人全てに「明治」という時代の躍動を伝えるすばらしいものです。多くの人々が、この小説によって明治の日本人の国づくりへの苦労を知り、歴史への関心を大いに喚起されたに違いありません。
しかし、『坂の上の雲』の描写がいくら精緻であっても、あくまでこれは小説であって歴史の事実とは違います。もちろん、大まかな事実関係は踏まえて書かれたものでしょうが、いくつかの点では大きく史実と異なっています。その一つが、乃木希典大将に関する記述です。
『坂の上の雲』では、乃木大将は、ロシア軍の難攻不落の旅順要塞に対して無謀な突撃を将兵たちに強いる「愚将」として描かれています。しかし、実際の乃木大将の戦術は決してそのようなものではありませんでした。
乃木大将の攻城法は無謀だったか?
明治37年(1904)7月26日、乃木大将を司令官とする第3軍は旅順要塞への攻撃を開始、8月19日には第1回総攻撃を実施します。この時、乃木軍は歩兵部隊の突撃の前に徹底した攻撃準備射撃を行なっています。使われた砲弾の数は実に榴弾約5万3千発、榴散弾6万4千発。これは、かつて世界戦史上皆無といわれるほどの砲撃でした。歩兵部隊の突撃はその後のことです。
しかし、第3軍の総攻撃は約1万6千名の死傷者を出して失敗しました。旅順要塞は、大量のべトンで固められた多数のトーチカ陣地と機関銃(※)や電気鉄条網等の最新装備で守られていました。そして、このように高度に近代化された要塞への攻略戦がいかに困難であるのか、当時は未だ多くの人が認識していなかったのでした。この後に起こる第一次世界大戦の要塞攻防戦で、ヨーロッパ諸国は旅順の戦いとは全く比較にならないほど多くの将兵を喪うことになります。
※機関銃は日本軍にもあった(当時日本軍では口径に関係なく「機関砲」といった)が、車のついた砲架に載せられたタイプであった。分解して輸送することができなかったため、主に防御用や騎兵隊の装備として使用されていたようである。
203高地陥落
旅順要塞への第2次総攻撃は10月26日から始まりました。乃木軍は、この日まで弾薬の補給集積を行うと同時に、坑道を敵陣地の下まで掘って爆薬で破壊し、またできるだけ敵陣近くまで塹壕を掘り進んで歩兵の突撃距離を短縮することにつとめました(いわゆる「正攻法」)。海軍の28サンチ砲も内地から運搬され、歩兵部隊の突撃を支援しました。
しかし、第2次攻撃も失敗でした。日本軍は約3千8百もの死傷者を出して敗退します。とは言っても、このときは旅順要塞の周囲に築かれた前進保塁群のほとんどが攻略され、ロシア側も日本軍とほぼ同数の死傷者を出しています。
そして11月26日、いよいよ最後の総攻撃(第3次総攻撃)のときを迎えます。まず初日には、第3軍隷下の各師団から選抜された白襷隊3600名が松樹山砲台付近に夜襲をかけました。しかし、夜半には白襷決死隊はほぼ全滅。乃木大将は、意を決し満州軍総司令部の許可を得ぬままに攻撃目標を東北正面の主陣地から203高地へと変更しました。そして、同高地に対し予備隊の第7師団までも繰り出して壮絶な攻略戦を展開するのです。この第3次総攻撃では、乃木大将の次男の乃木保典少尉も戦死しています。
第3軍は激戦の末、多くの犠牲を払って203高地を奪取することに成功しました。時に明治37年12月5日でした。
児玉源太郎の果たした役割とは?
ところで、『坂の上の雲』では、この203高地への攻撃目標の変更は、児玉源太郎(満州軍総参謀長)が乃木から指揮権を取り上げて強引に行なったことになっていますが、実際には児玉が旅順に到着した時には、既に203高地への攻撃は開始されていました。また、児玉は28サンチ砲等の配置転換も命じたことになっていますが、これも実際には行なわれていません。これ位のサイズの大砲になると当時は短時間で配置を変更できなかったようです。
児玉は友人の乃木が自決することを心配して旅順へ向かい、作戦の中途から乃木に協力したといわれています。
203高地は、周知のように旅順港が一望に見渡せる高地で、ここに観測所を設ければ湾内のロシア艦隊を正確に攻撃することができました。乃木は203高地攻略を足がかりとして、ロシア艦隊を砲撃、壊滅させると共に残りの保塁群も順次攻略し、翌38年の1月1日には旅順要塞を陥落させます。
その後、乃木軍は激戦の疲れを取るまもなく直ちに北上、ロシア軍主力の待つ決戦の地、奉天へと向かうのでした。
乃木軍こそ日本軍の主力と見たクロパトキン極東軍総司令官
要塞攻撃の難しさについて理解の浅かった日本側では、旅順攻略に5ヶ月もの期間を要した乃木大将の評価はあまり芳しくありませんでした。しかし、ロシア側のクロパトキン極東軍総司令官は、僅か5ヶ月で旅順を陥落させた乃木の第3軍こそが日本軍の主力部隊と考え、2月後半から3月初旬にかけて戦われた日露両軍の総力戦=奉天大会戦では、乃木軍に大兵力を集中することとなります。
かくて第3軍は、ロシアの大軍を相手に苦しい戦いを強いられましたが、その間に第1、第4軍が敵の背後を衝き、日本軍は勝利を得ることができたのでした。
こうして歴史事実を忠実に辿ってみると、乃木大将「愚将」論があくまで小説上の創作であることがよくわかります。要塞攻略の知識があまりなかった当時の日本において、乃木大将は実によくやったというべきではないでしょうか。
NHKのスペシャルドラマではこの辺がどのように描かれていくのか、一つ注目して観てみたいものです。
(浮羽博幸)
参考資料
◆名越二荒之助VHSビデオテープ(明成社)
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