梅若の謡本

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梅若の謡本。
僕の所属する梅若(六郎)家は、観世流が統一の謡本を用いる中で独自の梅若本を使っています。
これは戦前〜戦後すぐにかけて梅若家が観世流の中で孤立する事態(観梅問題)が起こり、梅若流として分流せざるを得なくなった時に作った梅若本を、基本的にはそのまま使っているためです。
この梅若本は一世を風靡していた万六銕(梅若万三郎、六郎、観世銕之丞)を擁していた梅若流が、謡本の決定版として編んだ物でしたが、昭和初期に観世銕之丞家、続いて万三郎家が梅若流を離れ観世流に復帰してしまいます。
この観世流に復帰した万三郎師、銕之丞(華雪)師が要請を受け、当時の観世宗家(左近師)とともに作った新編の謡本が、いま観世流の使っている「大成版謡本」です。(大成版は檜書店、梅若本は能楽書林による出版)
大成版の特徴は観世宗家系、また分家銕之丞系、また能楽界の重鎮であった万三郎師の伝える梅若系の節の謡い方やリズムの取り方をすり合わせシンプルにし、素人普及に適するように表記を簡便にしたところにあります。
また、学者の意見や時勢に合わせて文句を直した部分もあります。
戦前は様々な出版社から乱立する形で発行されていた謡本を大成版にて統一することによって、謡人口の普及は爆発的に進む一方、謡本のシンプル化ということで、観世流の芸風自体が変わっていった面もあるかもしれません。
観阿弥世阿弥より元々大手だった観世流ですが、この謡本改訂以降に身につけた都会っぽさもあるのだと思います。
さて一方、梅若流を続けざるを得なかった梅若六郎家は当然そのまま自家の謡本を使い続け、戦後ようやく観世流に復帰して以降も大成版ではなく、慣れ親しんだ梅若本を使ってきました。
とういうわけで、梅若本は大成版よよりも表記や指示が細かく、のみならず実は観世流謡本の古態を留めているのです。
銕仙会の先輩から「木賊」の謡い方について、先代の銕之丞先生に本とは違う謡い方を習ったというメモを見せていただいたのですが、リズムや節の扱いが梅若本の通りだったので、ああ銕之丞家は梅若流だったから伝えが残っているんだなぁと思ったことがあります。(銕之丞家が観世流に復帰したのは先々々代です)
更に古い話をしますと、師匠の曽祖父にあたる初世梅若実師が梅若家に養子に入った幕末、養父が遊び人で稽古をろくに受けられなかったため、実師は当時の観世流の重鎮に必死に頭を下げて謡や型を習ったそうです。
その伝えが今の梅若家の根底になっていますので、観世流の他のお家のカッキリとした都会的な芸風に対する、梅若風とも言われる繊細で柔らかい雰囲気は、古い観世流のやり方を引き継いでいるとも言えます。
師匠が本当に若い頃京都で舞台に出たあと、見所にいた古老から「昔の観世流の謡を久しぶりに聞きました」と言われたそうです。

伝統的な習い事の分野はどこでもそうだと思いますが、お素人で能を習う人は敗戦やバブルを境に激減して、今後もその一途をたどることが明らかです。
非常に普及している大成版謡本も生産数をさらに減じていくと思いますが、梅若六郎家で習っている人間しか使わない、ある意味零細な梅若本は今後どうなっていくのでしょう。
能楽書林さんを盛り立てる一方、梅若の謡人口を増やして梅若本を買ってもらわないといけません。
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「舎利」舞います!

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7月17日(日)午後1時開演、梅若会で能「舎利」を舞います!
鬼と韋駄天が追いかけっこをする無茶苦茶面白い能なので初心者の方もぜひ!
いらっしゃれる方はご一報を!

「通小町」小田切康陽 鷹尾維教
「三井寺」角当行雄
「舎利」川口晃平 松山隆之

自由六千、指定七千円
いらっしゃれる方は僕までご一報を!!



「舎利」と聞くと能の題名としてピンと来ないと言うか、何か地味そう…という印象を受けるかもしれませんが、実際はめちゃくちゃ派手で面白いお能です。
舎利とはお釈迦様の遺骨のことで、インドでははじめ本物を分けてストゥーパ(卒塔婆)に納め信仰しておりましたが、後々はストゥーパに奉納された玉類などの希少な石を、舎利に見立てるようになりました。
そういった舎利の一つが、日本の泉涌寺に伝わった牙舎利です。

〜あらすじ〜

むかしむかしの古代インド、お釈迦様が亡くなって荼毘に付されたとき、不届きにもその歯(牙舎利)を盗んだ鬼がいた。
名前は足の速いことから足疾鬼、外道でありながらお釈迦様のファンなのでした。
舎利の中でも牙舎利は、お釈迦様の説法する口に関わるだけに貴重なものです。
許さじと走り出した足の速い韋駄天によって牙舎利は無事奪還されたのでした。
時代は下り、仏法東漸の流れのままにお釈迦様の教えはインド、中国を経て日本に伝わりましたが、その教えの廃れる末法の世となって、インド中国の仏教は下火となりやがて滅び行きます。
その中で独り仏教盛んなこの国の泉涌寺に、韋駄天の取り戻した牙舎利は伝わり寺宝となって納められたのでした。
ある日、出雲の美保関からこの牙舎利を拝みに旅の僧が訪れます。
普段は公開していない舎利でしたが、この日は開帳日でしたので寺男は舎利殿の戸を開け、僧を招き入れます。
僧がインド、中国と伝わった牙舎利を拝み感涙にむせんでいると、どこからともなく怪しい男が現れ、参拝に加わります。
男が仏法の廃れたインドを惜しみ、いま日本に伝わった舎利を有難がっているうち、にわかに空はかき曇り雷鳴が轟いたかと思うと、自分はかつて牙舎利を盗んだ足疾鬼の執心であると明かし、その素早さに人々が目を眩めているうち内陣に上がると舎利を盗み、天井を蹴破って逃げていきました。
驚いた寺男が祈るとお釈迦様涅槃のときのようにたちどころに寺を守る韋駄天が召喚され、足疾鬼を追い始めます。
後半はまず韋駄天から逃げる足疾鬼が登場しますが、振り返ると韋駄天の追い上げる気配、それを囃子と型で表現します。
とっさに隠れるもののすぐに見出され、そこからは天上界から下界まで、足疾鬼と韋駄天の鬼ごっこが始まります。



欲界、色界、無色界、化天、夜摩天、多化自在天、仏教宇宙を股に掛けた追跡劇でしたが、帝釈天、凡王天まで昇ったところで足疾鬼は下界に叩き落とされ、舎利は再び韋駄天によって無事取り戻されたのでした。

能が始まりますとまず舞台観客側中央に一畳台が据えられ、その上に舎利塔が置かれます。
つまり一畳台が舎利殿の内陣を表現します。
また、足疾鬼が舎利殿の天井を蹴破る体で、舎利塔を載せていた小さな台を踏み壊すと、今度は台は舎利殿そのもになり鬼は飛び降り逃げていきます。
後半、一畳台は仏教宇宙の中央にある須弥山となり、台に飛び乗ったり飛び降りたりすることで、足疾鬼が宇宙の階層を突き抜けて逃げ回る様を表現します。
能の手法をこれでもかと使ったエンターテイメント能です!
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東京大空襲で焼けた、初世梅若実師以来の梅若能楽堂跡地を求めて。

焼け出された梅若家は、焼け残った面装束を納める土蔵と、舞台を再建する土地を求めて中野に移り今にいたりますが、明治から大空襲まで存在した、浅草厩橋の舞台の位置は同門にもほとんど知られなくなってしまっています。
浅草区南元町29番地、台東区に問い合わせても「蔵前2~3丁目の辺りかと…」という答えでしたので、戦前からやっていそうな店を探して聞き込みをすることにしました。
蔵前神社の横にある「榊寿司」、チラッと覗くと老夫妻が仕込みをしていました。



ここなら間違いないと勇気を出して暖簾をくぐり、梅若能楽堂のあった位置を伺うと、「ここもあたしで三代目です。空襲で焼ける前は角にあったんですが、いまは神社に間借りしてまして」とおっしゃる大将はこころよく教えてくれました。



「梅若さんね。教会の横を抜けて川っぺりに出て、左に曲がって…もう古い人も誰もいませんがね…いまはマノーってマンションが建ってますよ」
そこはまさに厩橋のたもと。
いまはマノー蔵前リバーステージという大きなマンションが建っている位置に、維新を乗り越えた名人たちが神話を紡いだ舞台があったと教わった。



見渡しても、その証人は隅田川と、変わらず掛かる厩橋だけでした。

それから数年、榊寿司の大将を疑うわけではないのですが、本当にマノーの場所に舞台があったという確証を得たい気持ちは消えずに過ぎました。
先日三人の会が終わり、僕がお稽古をしている社中で梅若家の菩提寺や浅草、厩橋など、ゆかりの土地を回ったのですが、一緒に回ったお弟子の田中さんが図書館で地図や台帳など資料を調べてくれました。
まず、初世梅若実師が幕末から居を構えていたのが旧地名・浅草区南元町29番地で、そこに青山上野守が維新で手放した舞台を苦労して購入し、厩橋の梅若舞台としました。



その後息子が二人(万三郎、六郎)誕生し、29番地ノ1、29番地ノ2と、舞台はそのままに土地を二つに分けます。



台帳によると1が六郎、2が万三郎となってます。
万三郎師の著作にも25歳で独り立ちということで、玄関を新たに作ったとあります。



当初は江戸式に半屋外の舞台でしたが、実師の死後、大正8年に改装され屋内の舞台となり能楽堂となるものの、大正12年に関東大震災で焼失します。



大正14年に舞台を再建し、昭和4年には区画整理のため道を隔てて移転、土地割も変わりましたので、住所も「南元町29番地」から「蔵前3丁目32ノ1」となります。
また、震災後長男の万三郎師は高輪に住居を移しましたので、蔵前3丁目の舞台は梅若六郎の名前のみで載っています。



いま隅田川に架かっている厩橋も昭和4年に架けかえられたものです。
この頃から梅若家はいわゆる観梅問題で観世流から独立せざるを得なくなります。
ところが梅若流として一緒にやっていた観世銕之丞家、実兄である万三郎も観世流に復帰してしまい、孤立した中ではありましたが、六郎家の舞台として厩橋は一時代を築きます。
師匠の最も古いお弟子さんは覚えてられて、「隅田川までウッドデッキがのびていて、紳士が集うバーやレストランもあって、催しの日なんかは華やかだったのよ。本当に素敵だった、思い出すと涙が出るくらい」とおっしゃってました。
その厩橋の梅若能楽堂も昭和20年3月10日の東京大空襲で焼け、戦後梅若家はいま梅若能楽学院会館の建つ中野に移ることとなります。
昭和9年の地図を見ると、いまの蔵前神社が当時は道の向に建っており、石清水八幡宮とよばれていたことがわかります。



榊寿司の大将に「教会の横を抜けて…」と教えてもらった浅草聖ヨハネ教会はこの当時から建っており、塗り替えられてはいますが建物も当時の物で、空襲で焼き払われたこの辺りとしては最も古い建築なのではないでしょうか。



そしてこの地図と平成26年の地図を並べると、「蔵前3丁目32ノ1」は正に「マノー蔵前リバーステージ」と重なるのです。



これは感動です。。
榊寿司の大将の言っていたことが証明され、土地に残る伝承に感銘を受けました。
ところが先日蔵前神社に行ってみると榊寿司のあった場所には新築の住宅が建っており、老夫妻の立ち働いていた榊寿司は古く風情のある建物ごと無くなっていました。
平成26年の地図には僕が見た通り神社の隅に榊寿司の名があります。
もう一つ戦前と共通しているのが、厩橋のたもとに交番と公衆便所があることです。
この公衆便所が非常に「当時のモダン」みたいなデザインで気になりました。



極めつけはマノー蔵前リバーステージの管理人が川口さんだったことです。



そのうちマノーのオーナーや川口さんに厩橋の話をうかがってみたいと思います。
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