ゆかし

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僕が考える女性の魅力は品と色気に尽きると思います。
品と色気はともにイマジネーションの産物だと思う。
姿形など脳に直接訴える魅力に対して、それはこちらのイマジネーションを「喚起させられる」ところに発生する、ややタイムラグのある魅力である。
僕の場合、品があるなぁとか色気があるなぁと思わされるのは、必ずその人の制御されたゆっくりとした動作を見た時だ。
ある姿勢からある姿勢へ、ある表情からある表情へ移り変わる間に、何か無ではない、透明でありながら丁寧に運ばれた一瞬が存在するとき。
それを言い換えるのなら所作の余白であり、姿勢の行間であると言えるかもしれない。
そういった「間」にその人の世界の把握の形が表れるのを見て、そこに美しさであったり、好ましさを思い描き、書き加えていくようにイマジネーションが喚起されるとき、僕はそれを品や色気と感じるようだ。
それは紙一重の「ゆかし」だと思う。
相手の心の奥をゆかしと感じた時は品となり、服の奥をゆかしと感じた時は色気となる。
そういった意味で、奥ゆかしい女性は魅力的だと思う。

能の世界に入ってから、数々のあわや大惨事の危機を乗り越えたり、後見など、舞台上で仕事をしながらも存在を消さなくてはならない場面に立たされたりする中で、昔は知らなかった集中の形を多少は身につけた気がする。
それが日常にも通じて何か出来事があったとき、転ぶ寸前に世界がスローモーションに見えるように、昔なら慌てて素通りするだけだった一瞬をいくつもに分解して、その猶予の中で自分をある程度整えて物事に向かうことが少しできるようになった気がする。
背筋を伸ばし身体を看板のように前に立て、呼吸を深くゆっくりにして意識の核を腰の辺りに持っていく、すると身体が空っぽになって集中が生れることに気づいた。
そのくつろぎの中で時の流れを細分化すれば、目の前で起こる事象に少し先んじて思考し、対処することができる。
呼吸が浅くなると瞬間が意識に定着せず、時は手から滑り落ちていってしまうから、慌て虫が出てきそうな際どい局面こそ、呼吸を緩慢にして深くする。
そういった身体感覚から類推すると、僕の考える女性の品や色気は、深い呼吸から生まれているに違いないと思われる。
深い呼吸は時を丁寧に扱うコツなのだと思う。
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舞茸の暴力

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少年時代、ゴジラ映画を崇拝と蔑みの両面の心で見なければならなかったのが辛かった。
荒ぶる神としてのゴジラに熱狂したい気持ちを地底まで叩き落とす、いらない人間ドラマシーンや安過ぎる筋書きは、日本は何をやってもダメな国というGHQ以来の洗脳を強化するのに役立った。
あのどうしようもない映画としての作りの悪さは、お子様を呼んで動員数を伸ばさなくてはならない怪獣映画の宿命的子供騙しと、会社上層部やらスポンサーやらの言う事を聞き過ぎて雁字搦めになった中での、製作サイドの最大公約数探しの結果だった。
子供騙しを見せられて一番腹を立てるのは子供だし、子供から見てもひどい数式で導き出された最大公約数は、愛国心や自尊心を大きく傷付けるものだった。

映画に限らず、僕が生まれてから見てきた限りで言うと日本は度々こういうお粗末をやらかす国だった。
その源泉にあるのは、和をもって尊しとなす寄り合い精神なのか、長い物には巻かれる農村気質なのか、意志薄弱の思考停止なのか。
シン・ゴジラが本当に名作だったのかは後世の判断を仰ぐとしても、今回僕は映画館に座っている二時間、こういった日本のお粗末なやり口に対する積もりに積もった鬱憤を、庵野ゴジラが破壊していく爽快感を味わい続けた。
初代以降、ようやくリアリティと必然性をもってゴジラが日本に現れた!と感じた。
初代ゴジラは南方に散って行った兵隊の魂の集合体が、水爆実験の火に焼かれたケロイドの皮膚をまとって、まるで戦争など無かったかのような顔で繁栄を謳歌する日本の、目を覚まさせに現れたのだと言われる。
だから東京湾に消え行く最期は果てしなく哀しい、。
そのゴジラが再び現れざるを得なかったのは、フィクションを超えて平成末期の日本人にとって、思い知るべき事があるタイミングだからなのだと思った。

そして、シン・ゴジラヒット以降、今までのような子供騙しや上層部の思惑をこねくり回したような作品は作り難くなるだろうとほくそ笑んだ。
シン・ゴジラに運び動員を伸ばす事は、選挙以上にこの国に変化を与える投票かもしれない。
が、日本とは元の木阿弥回帰の名手である。
3.11によって一人ひとりの意識が変わるかに見えたが、震災後の新しい生き方作り方という自画像をきっちり描く前に旧態に戻って、何も反省の無い日々を送ることになってしまっている我々。
同様にシン・ゴジラが無かったかのような上層部の動きや圧力はこれからもあるだろう。
それにノーと言える作り手の覚悟と、見る側の意識が育つかどうか今が正念場であり、それが成れば、シン・ゴジラは3.11を経た日本人の自画像として、歴史の中に打ち立てられるのだと思う。
どうしたって金が動く物作りの世界は、ひと世代前を引きずるスポンサー達の意識と、時代を敏感に呼吸する作り手達の意識のズレを宿命としている。
それはひと月遅れて来る海水温のように。
しかしシン・ゴジラを見ながら感じた爽快感は、かつて味わった高度経済成長〜ジャパンアズNo.1時代に疑問を持たない浮かれた世代が牽引していた時代の、終焉の兆しとも受取れた。

それにしてもエヴァからシン・ゴジラまで見てきて、庵野監督は本当に自分を世の中に受け入れられない、巨大で異形な存在と捉えているのだなぁと思った。
その自分を受け入れない世界を破壊する欲求が創作の源泉になっていて、冒頭の「自分は好きにしたから、あんたたちも好きにしろ」という置き書きと言い、最後の尻尾から飛び立ちかけている、明らかにエヴァのシトくさい生き物まで、庵野監督の個人的な映画だなぁと思った。
ゴジラをバネにまだまだエヴァやりまっせというメッセージのようにも受け取れた。
3.11があり、自身のエヴァが行き詰まっているタイミングでゴジラの企画が来るとは、やはり庵野監督は持っている人なのだと思う。
庵野監督にとって、僕ら日本人にとって、このゴジラとの再会は幸せな物だったと言える。
あとはお互いこれからどうするか?というところにかかっている。
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清掃員

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彼らの新幹線清掃に対するプロ意識は素晴らしいと思うが、頭に造花とか付いてるし変な格好だし、。
第一変な格好で似合ってないのが自分でもわかっていて、その羞恥心に耐えてる感が出ている。
小学二年の時に、女子のスクール水着を着せられて学芸会で踊らされたトラウマを持つ僕には、彼らの気持ちが痛いほど分かる。
そしておじちゃんおばちゃんに似合うはずのないこういうコスチュームをデザインさせ着せてしまう、運営会社のセンスに腹が立つ。(うちの弟には似合いそうだが、、)
日本の清掃員凄い!世界が注目している!というクールジャパン自意識も困る。
注目されたら日本のセンスの無さがバレるじゃないか。
今回どんなに日本人選手が活躍しても、東京オリンピックにこういうセンスやニュアンスが溢れ出るのが予見されて、素直に楽しめなかった。
日本がこうなってしまう、こうやってしまう源泉には何があるのだろか。
それを絶たぬことには枕を高くして寝られない。
心配した通りの開幕式だったらゴジラになって東京を破壊してやる。

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