この翁 何処へ参ろうれんげりや

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明治から昭和にかけて、綺羅星の如く現れては消えて行った名人達の言葉を読むのが好きで、時々開いてはその時代にお邪魔した気持ちになっている。
そこに語られる名人上手の中でも、梅若万三郎師の著作「亀堂閑話、芸談」や、白洲正子による「(二世)梅若実聞き書き」、また観世華雪師の芸談に「亡父」もしくは「梅若の父(華雪は娘婿)」と語られる、初世梅若實師(五十二世梅若六郎)に心惹かれてやまない。
歴史上の人物で会ってみたい人はそれこそ数限りなくいるが、僕にとって最も憧れと畏敬の念を持って見つめざるを得ないのが世阿弥と、師匠の曽祖父にあたるこの初世梅若實師である。
(以下敬称略、「實」は紛らわしいのでわざと旧字体に)

~梅若實ストーリー~

まず梅若家の当主は代々「六郎」の名を襲名しており、「實」は「六郎」の名を譲ったあとの隠居名です。
梅が咲いて花が散ったあと実るという名前ですね。
ここに言う梅若實は初めての「實」を名乗ったので「初世實」と呼ばれます。(二世實が師匠のお祖父様)
梅若實は文政11年(1828年)4月13日、鯨井家という江戸の寺社等とやり取りをしている商売の家に生まれました。
その鯨井家に梅若家は莫大な借金をしており、当時の梅若六郎(五十一世)は非常な遊び人で跡継ぎも無く、その日も遊び仲間と一緒に鯨井に重ねての借金をしに来ました。
すると鯨井家の当主平左衛門は、跡継ぎも無く借金を返すあてのない梅若六郎に、自分の長男を養子に入れ跡継ぎとし、持参金を納める形で借金を棒引きにするという提案をしました。
そうして数え九歳にして能の家に養子に入り、五十二世梅若六郎として梅若家を継ぐことになったのが後の實です。
能の世界に身寄りもなく、前も後ろもわからないまま名家に入ってしまった實は反発を受け、非常な苦労をします。
弁当を開いたら灰が詰まっていたというような、少女マンガ顔負けのいじめも度々だったそうです。
芸は出来る人だったもののあてにならない養父にはなかなか稽古を受けられず、観世流内の様々な人に必死に頭を下げ、稽古を付けてもらい成長します。
文字通り血の滲む努力のすえ幕末の能楽界で頭角を現したものの、明治維新で幕府は倒れ、三百年間武家に養われてきた能楽師は全員職を失い散り散りとなり、能を離れていきました。
これは事実上の能の滅亡を意味します。
そんな江戸ではなくなった東京に独り残って、「能の火を絶やしてはならぬ」と苦しい暮らしの中でも能を続けていたのが、この梅若實です。
謡でも謡えば反動的だと石を投げられた文明開化の時代、風呂敷を継ぎ合わせた幕に杉の粗末な舞台で催される實の稽古能には、徐々に観客が付くようになってきました。
その当時は見に来てくれたお客さんに弁当やお茶を出していたそうです。(お客もそれじゃ悪いからと、少しずつ小銭を置いていくようになったのが、いまのチケット代の始まりだそうです。)
そうこうしているうちに岩倉具視ら明治政府の遣欧団が各国を巡業しクラシックやバレエを見せられるなかで、近代国家たるべき日本にもそういった国楽があるか?となったとき、唯一その任を負えそうな能はほぼ滅んでいました。
ところが独り東京で頑張っている梅若という者がいる!ということで白羽の矢が立ち、梅若家を中心に能の復興が始まります。
それからの手腕には、もしかしたら商売の家に育った素養や経済感覚が活きていたのかもしれません。
實は能を自派で独占するのではなく、散らばってしまった名手たちを集めて催しを行い、彼らが戻って来れる環境を作り、また武家の式楽として儀式張ってしまっていた能を、文明開化の時代の観客が古典芸能、娯楽として楽しめるように演出し直します。
その能力がものすごかった。
また、舞台の向かって右を東と定め、装束の着け方、囃子と謡との兼ね合い、足を揃えた立ち方、素足が見えないようパッチの着用、新聞に宣伝を載せるなどなど、大きなことから細かなことまで、今の能では常識となっていることは、實の改革によるものが多いのです。
自身役者として名人であっただけではなく、息子や弟子に数々の名人を育て上げ、能を発展させ次世代に遺していくために生涯を捧げたその功績によって、能は再び興隆を見たのでした。
仕事をやり終え死期近いことを悟った實は幾度か皆を集め「ゆるりと飲んでくれ」と酒をすすめました。
皆は落ちゆく巨星の残照を惜しみ、杯を手に言葉を詰まらせたそうです。


僕らがいま能の世界にいられるのは、梅若實のお陰であると言い切れると思う。
そして僕自身、その芸の流れの末にいるという幸せを思う。
万三郎その他の芸談を読んでいても、自身の思いや工夫が書いてあるのは一部であって、大部分は亡父(初世實)はこうやった、亡父からこう習ったという言葉が綴られ、師匠であり父である實への尽きぬ敬愛を語った書物であるとわかる。
であるから、名人万三郎たちの目線の向こうにいる名人初世實の風姿が、古きへの憧れと相まって僕を魅了してしまう。
それは何も明治の名人達だけの話ではない。
世阿弥の次男元能が著した、父の聞き書き書「申楽談義」に描かれる世阿弥の姿、そしてその世阿弥が語る亡父(観阿弥)の教えや絶対的な敬愛。
花伝書以降、世阿弥が構築していった能楽論も、亡父(観阿弥)に叩き込まれた土台の上にあることを、世阿弥は否定しないだろう。
短い人の命のなか、遥かにそびえる師匠の姿を目や耳に焼き付けていた彼らは、どれほど名人上手と名声を得ようとも決して驕らないし、語るのは師の教えの尊さなのだった。
そうして残された言葉の星々は、僕らをその時代へ軽々と招き入れる。

我々の師匠玄祥先生(五十六世梅若六郎)も僕らにお稽古を付けてくださる時に「六郎先生(先代)はこうした」「爺さん(先々代)はこう教えてくれた」と話される。(師匠にとって「六郎先生」はご自身ではなく永遠にご先代なのだろう)
その向こうにはやはり初世實がいる。
今の師匠は初世實ゆずりの革新性と能の本質を体現する花の大きさで、必ず後世に名人として語られる方だと思う。
僕自身がいかに半人前と言うのも恥ずかしい初心の者であっても、五十六世梅若六郎の舞台を直に見、その教えを直接に受けているのは僕であり、僕ら一人一人が遥か後代の後輩達にこの名人の教えと風姿を偲ぶよすがを残さなくてはいけない。
その歴史的な立場に居ながら、怠惰と非才で限られた時を無駄に過ごしていく自分が恥ずかしい。
役者バカというタイプの名人ではなく、能をいかに次世代に受け継がせ、素晴らしさを後世に伝えていくかという道に生きた役者としては、長い能の歴史の中でも世阿弥と梅若實が双璧だと思う。
信仰心の欠片もなく生きている僕だが、実は梅若實師の写真には毎朝手を合わせ線香をあげている。
一つはご冥福を、一つは能楽界と師匠家の発展を祈って、一つは自身の進歩を祈念して。
そして僕らが日々拘泥しているいざこざなど、實師が越えた時代の波からすればほんの些細なことで、もっと能の美しさとともに歩むべきだと、毎朝思いを新たにしている。
この写真は梅若能楽堂の鏡の間に掲げられた物で、裏に「明治四十一年四月 金婚式記念 五十二世六郎 一世梅若実 八十一歳」と墨書してあるオリジナルプリントだ。
空襲で焼けた厩橋の舞台にも掲げられ、息子や弟子たちの研鑽を見守っていたのであろうか。
この写真を大掃除のときに自分のカメラで複写した物を部屋に置いている。
實師は明治42年(1909年)1月19日に亡くなられたので本当に最晩年、この厳しくも柔和なお姿の向こうに、僕には世阿弥が見えて仕方がない。

辞世は
この翁
何処へ参ろうれんげりや
他へは行かじ
梅若の家

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養老

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能「養老」は、天皇の臣下が美濃の山辺から湧くという不思議な泉を訪ねると、泉を発見した親子に出会いその水の素晴らしさについて語るうち、楊柳観音そして山の神が現れ天皇の御代を寿ぐという物語だが、観世流でも他流でも、瀧を訪ねて行くのは雄略天皇の臣下となっているのに、梅若の本だけは元正天皇の臣下となっている。
雄略天皇は古墳時代、元正天皇は奈良時代の人である。
これは梅若の本を作った時に、養老の瀧に御幸をして年号を「養老」年間としたのが元正女帝であるという史実を加味して、改訂したのだと思われる。
ただ、能では臣下が勅命で瀧を訪ねたと語られるだけで、天皇自らが訪れた設定ではないし、年号を改めたというテーマもないので、僕自身はもしかすると、遥けき古代の画期的天皇である、雄略の御代とする方に魅力を感じるかもしれない。

実際養老の瀧を訪ねると、まず見えるのは豊穣な濃尾平野、そして平野を見遙かす養老山、その山塊の迫力は凄まじく、古代人が何か特別な山として仰いだのも頷ける。
神聖なる瀧の湧き出す山として、古くは多芸山と呼ばれたという。
山道にかかる辺りに元正天皇の行幸史跡の祠と石碑があり、梅若本を編んだ人々もここを見知っていたのだろうと、床しい気持ちにもなる。
表の道を上がると、いかにも古風な観光地然とした参道が瀧まで続き、まず古刹養老寺がある。
養老寺は元正天皇御幸の関わりから七堂伽藍を備え創建されたが、信長の兵火によって灰燼に帰した。
そののち場所を移して再建されるも、二年前老朽化によって本堂を失い、いまは小堂を一つ残すのみとなっており寂しいかぎりだ。
もともと能「養老」には、水波之伝のように後ツレ楊柳観音が出ていたのではないかと思われる。
「我はこの山、山神の宮居」「または楊柳観音菩薩」「神と言い」「仏と言い」「ただこれ水波の隔てにて」と、今はシテと地謡が掛け合うのも本来はツレであったろうし、それもこの養老寺が観音の霊場であったことに由来するのであろう。
数ある観音の変化身の中で世阿弥がこの能のツレを楊柳観音としたのは、楊柳の如く柔らかく衆生に寄り添うその名と、シテである山神の荒々しさを対比させるためだったのだろうか、もしくは「ようろう」と「ようりゅう」の言葉遊びだろうか。
養老寺の小堂に楊柳観音の姿はなかったが、本堂より文化財を移した宝物庫には、鎌倉時代の十一面観音(重文)が安置されていた。
養老寺より数分登ったところに、有名な湧き水の湧く養老神社がある。

水波之伝とは、仏が水であり神が波、つまり神も仏も同じ物の表れの違いに過ぎないという、(仏教上位の)神仏習合の理論「水波の隔て」を視覚化するために後ツレ楊柳観音が出る小書き(特殊演出)であるが、前述の如く楊柳観音はもともと登場していたのを、現行の演出では省いてしまったのだと思われる。
省略好きな芸能である能には、小書きに古演出が残っている例がままある。
また、シテの神舞が激しい急の位になり、キリの前に「水滔々として波悠々たり」と謡い橋掛かりに行き瀧を見上げる立ち回りが入るなど、常の演出とは大きく変わる。
装束も後シテの狩衣がスタイリッシュな衣紋という着け方に変わる一方、黒頭に芍薬の花を立てた大きな冠を戴く。
この冠になぜ芍薬を立てるのかは釈然としないが、漢方薬の原料になる芍薬の薬効を能で繰り返し語られる「薬の水」と掛けつつ、赤い花と黒や紺の装束との色彩効果を狙っているのかもしれない。

さてさて近く遠くの瀬音を辿って土産屋の絶えた山路をしばらく行くと、岩がちな森の高みの木の間に、その瀧は見えてくる。
瀧の姿は秀麗にして雄渾、またその響きは潔き怒涛の音楽、瀑布からは音符が譜面を舞うが如く飛沫が迸る。
集った老若はみなしばし言葉をとどめ、立ち尽くす。
豊かな濃尾平野を行き、雄大な山から湧き出る流れを遡って、この瀧に出会った古代人の畏れはいかばかりであったろうかと想像した。
滝壺の風を身に受けながら、激しく厳しくも圧倒的に美しい自然の懐に包まれたときの畏れ、感動を神仏に仮託して舞台化したのがこの能の後の場面であり、勅使の前に神や仏が現れたと言うより、瀧の姿や生み出す波動に神や仏を感じたというのが本当なのかもしれないと思った。
その感性こそが日本人の信仰の核心であり、そういった意味で、この能のシテが「~の神」ではなくて、ただただ「山神」と名のる心は深い。
巌苔むし木々天を突く山塊は山神の威容となり、濃尾平野から山並みの美しさは観音の優しい掌を思わせ、波立ち淀んでは漲り落ちる瀧の流れは神舞の急調となって押し寄せる。
生きとし生ける物を育む水、そのほとばしりである滝は、自然を巡らす巨大なエネルギーが露出した姿であろう。
この能のゆったりとしたキリは、臣下達がこの瑞祥を天皇へ報告せんと喜び、「君は船、臣は水」と歌いながら心勇んで都へ帰る道行きを思わせる。
聞くところによると足利義満は実際に養老の瀧を見物したそうで、この曲の作者が世阿弥であることを考えると、義満を古代のエポック天皇・雄略になぞらえ、その治世を讃える世阿弥の創作意図が思われる。
また、滝壺から少し離れた水源から薬の水が湧くという舞台設定にも、世阿弥が義満に近侍して現地を訪れた、もしくは現地の地理を取材して義満の記憶に違えないように配慮した形跡がある。
その意図がどうであれ、彼に始まるこの能の流れは絶えずいま僕らに伝わり、その作品に描かれる養老の瀧は太古から枯れることなく現代の我々の目を驚かす。
その有り難さ。
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にはあらず」、いま能の世界にいる僕らも、この瀧から漲り落ちた水の一滴に他ならないのだと思った。


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国立、谷保天神下の田んぼ

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中央線沿線のこの辺りでは、唯一残っている田んぼではなかろうか。
僕の育った小金井の貫井はその名の通り湧き水の豊かな土地で、あちこちに水田新田の跡地があるが、僕の頃には全て埋め立てられ平凡な宅地や商用地になっていた。
少年時代抱いていた田んぼへの憧れは、田んぼに棲む水生生物に対する強い興味もさることながら、日本人が二千数百年来生業としてきたという稲作の流れに、自分もつながっていたいという願いだった。
民話や身近な昔話に必ず登場する田んぼが身の周りに無いということが、日本人として自分をひどく不完全な物に思わせていた。
そんな小学校五年の頃、自転車探検でこの地を見つけたのだった。
谷保天神から湧き出す豊かな水が、美しい水路となって走り田を潤す。
それは集落に張り巡らされ水草が茂り、小魚が隙をついて疾駆する。
天神の森を始めとして周りにはこんもりとした雑木林が豊富で、正に思い描いたような里山の田園。
僕はユートピアに踏み込んだのではないかとさえ思った。

もういつ以来になるだろう、去年の秋ごろ久しぶりに訪ねた谷保には、建売住宅に圧倒されゆく水田の姿があった。
聞けば農家も高齢化する一方で、(全国的な流れだとは思うが)代がかわるごとにこの儲けの出ない農地を手放していくのだという。
そうは言っても面影の残っているのが嬉しかった。
稲穂を渡る風が懐かしく身体を包み、穂と葉のさやぎは心の一番渇いた部分を潤した。
ここに戻りたかったのだと五感が訴えかけ、自分が豊葦原瑞穂の国の住人であるという実感が身を包んだ。
それは稲の精霊と心を交わすようなしみじみとしたひとときであったが、ひとたび稲穂の波から顔を上げると、周りにはこの土地を付け狙う平成建築の群れが牙を剥いていた。

いま、この国において受け継がれてきた良い物や美しい物は、必定のこととして急速に失われゆく流れにある。
それは敗戦後、再優先の待遇で奉ってきた経済の事情という物に、我々が大人しく従ってきた結果なのだろう。
思うにこの経済の事情に服従する人の心と戦うために、僕は道遠い能の世界にいる。
敵が大き過ぎる無力感や、風車に挑む徒労感に草臥れきって転がり落ちた、いまならまだ間に合うだろうか、という問いに答えるように、谷保の稲穂は健気な頭を垂れていた。

今年も田植えが始まる。
どうか谷保の瑞穂が末永く秋を彩りますよう。
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