2016-03-14 23:11:35

アスターナ古墓群

テーマ:少数民族
    アスターナ古墓群  Wikipediaより
 アスターナ古墓群(-こぼぐん、中国語: 阿斯塔那古墓群、英語: Astana Tombs)
この古墓群はトルファン市街区の南東36キロメートルのところにあり、18世紀ヨーロッパ人学者が発掘して以来、発掘は2013年現在も続いている。地下の各墓室へは斜めの参道で下り、墓室は上から見ると「甲」の字のようになっていて、奥の両側と正面に副葬品

1929年から今日までに、考古学者によって14回発掘が行われ、全部で500基の墓が調査された。そして文書、墓誌、絵画、泥俑や陶製、木製、金製、石製の器物、古銭幣、絹織物、綿織物、毛織物などの貴重な文物が1万点以上出土した。とりわけここから出土したミイラは、エジプトのミイラに匹敵するといわれる。1988年には全国重点文物保護単位に指定された。またアスターナから出土した文書類や百点を超える墓誌の研究を通じて、西晋泰始9年(273)年)に始まり、唐建中3年(782)にいたる文書の存在が確認されている。この期間は、晋から十六国にいたる第1期(3~5世紀)、麹氏高昌国の第2期(6~7世紀中頃)、および唐の西州に属していた第3期(7世紀中~8世紀)に分類されている。今日では両者あわせて数千基ともいわれる墳墓が発掘され、多数の文物が「新疆ウイグル自治区博物館」に展示されていて拝観出来る。アスターナは、ウイグル 語で「首府」と言う意味だそうだが、「休息」と「安眠」の意味もあるらしい。ちなみに、大谷探検隊が持ち帰った発掘品には、アスターナ出土のものと高昌古城(カラ・ホージャ)出土の物の、両方が含まれている。
入り口の広場にある、西域の伝説にもとづく石像。
十二支像もここから出土した俑をモニュメント化してある。私とWIFE、ガイドの董さんと、それぞれ自分の干支と並んだ。
董さんに「そりゃ豚かい?」とからかうと「似てますねぇ。」と笑っていた。己を知っていて非常に宜しい。
 この土の下すべてが、高昌王国の庶民達の墓である。勿論豪奢な生活を営んでいた貴人たちの墓も多い。
またここからは旧石器も発見されている。遙かな古代には人々が生活していた集落でもあったのかもしれない。
 三つの古墳を見学する。この一帯は乾燥地帯で、地下水位が低いことから出土品の保存状態が非常によく、高昌国の民族や歴史を知る上で重要な遺跡となっている。門を入っていくと、砂漠の中に土饅頭のような盛り土がいくつもあり、その中にいくつか地中へ潜って見学できるようになった古墳が口をあけている。幅 1.5mほどの墓道があり、石段やスロープ状に地下道が墓室まで伸びている。古墳の中は洞窟のようで、どの古墳も裸電球一つという設備である。
1959年、アスターナ北区302号憤から天馬文錦(上左)が出土した。この墓からは唐・永黴四年( 653)の墓誌銘も出土していて、その錦には円形の連珠文のなかに向き合った2頭の、翼を持った天馬が配置されていた。更に天馬を詳しく見ると、頭には冠を戴き、4本の足にはリボン飾りがついている。この天馬の足飾りの起源はどうやらササン朝ペルシャにあり、古くエジプトのアンチノエのエジプト人の墓から出土した天馬文錦(現在、リヨン織物美術館蔵。上中。)にも認められる。すなわち、 連珠文の中に一頭の立派な有翼天馬が左向きに大きく配置され、同じく冠を戴き足のリボンを付けている。ササン朝の天馬文錦の、イランにおける残存例は極めて希だが、その現物がエジプトに渡って発見され、またその意匠がトルファン・アスターナに伝わったのである。しかし、アスターナの302号憤にまで伝わるには、その前に幾段階かあり、まずソグドを介した事が確認される。サマルカンド近くのアフラシアブで宮殿遺跡が発掘され、その壁画に描かれた騎馬図(上右)の馬にこのリボンが飾られていたのである。馬には翼がなく天馬ではないが、盛装の貴人が乗り、リボン飾りはペルシャの天馬文から借用したものとみられる。そして面白いことに、この壁画騎馬図の意匠が、前述したソグド系の虞弘墓石槨浮彫画像にそのまま取り入れられていたのである。石槨には冠をかぶり頭光をつけた貴人が馬に乗って闊歩する光景が二面描かれており、その足にリボンが確認され
る。従って馬のリボンの意匠をペルシャからアスターナに伝えたのはソグド人であることがわかり、国際商人としてのソグド人の活躍が窺える「ソグド」の名前が歴史に登場するのは、アケメネス朝ペルシャのダレイオス大王(在位紀元前522~486)の碑文に、ペルシャの州のひとつとして、「Sug(u)da」とあるのが最初である。アレクサンドロス大王は、この地を征服するのに極めて手を焼いた。その後、『史記』や『漢書』では「康居国」として紹介されている。漢書によると、戸数12万、人口60万だった。また時代によっては、「栗特(ソグド)」、「?利(ソグド)」、「悉万斤(サマルカンド)」などとも呼ばれた。
ソグド人は、独自では大きな国をつくらず、他の民族の国家に政治的には属しながらも、経済的にはシルクロードの商人として活躍していた。玄奘の『大唐西域記』では、”力田(農民)と逐利(商人)が半ばしている”と記されている。
商人が人口の半分もあったとは、注目すべきことである。ソグド人は、中国にも集団で村を作って住み、出身地ごとに異なった姓を名乗っていた。石(タシュケント)、安(ブハラ)、何(クシャーニヤ)、曹(カブーダン)、康(サマルカンド)、米(マーイムルグ)、史(キッシュ)などが知られている。ソグド人は、独自の大国は持たなかったが、独自の「ソグド文字」を創造した。ソグド文字は、西方のアラム文字をもとに発展した文字で、この文字は東に伝えられ、後世のモンゴル文字や満州文字のもとになっている。ソグド人たちは、商品の移送だけでなく、文化や文字も伝えたのである。
唐の天宝14年(755年)、玄宗皇帝が重用した節度使の安禄山が、突如反乱を起こした。安禄山は、その姓からソグド人だったといわれている。安禄山は、ソグド商人たちを利用し、軍資金を貯えていたことが想像できる。安禄山が実子に殺された後を継いだ史思明も、同じくソグドの出身者である。763年、ウイグルの援軍を得た唐朝によって「安史の乱」は鎮圧された。
乱の後、唐ではソグド弾圧の嵐が吹き荒れた。「胡面の人間がことごとく誅された。胡人を殺した者には賞金が与えられた」と
伝えられている。同じ頃西方ではイスラムに侵略され、780年ころ、家を捨て山中に逃れようとした1万人以上のソグド人の集団が虐殺された。さらに北に逃れたが、ここでも同朋1万4千人が殺された。10世紀になるとソグドの文化は消滅した。
昨年(2005)、新聞に「中国でソグド人の古墓が発見された」という記事が掲載された。このことは、シルクロードを往来していたソグド人達が遥か中国の果てまで来て暮らしていたことを示すものだった。当然、古代から遣隋使・遣唐使たちが行き来していた中国と日本の関係であるから、商人であるソグド人たちが来日していないわけはない。しかも渤海使として日本を訪れた人々の中にも、ソグドの名前を持つものが多く存在したことは史料からも明らかである。彼らがもたらした品物や書物や文化は、当時の貴族や知識人たちの憧れの的だった。そして異国人との出会いは更に興味深かったに違いない。これらの出来事が その後の日本文学へ多大な影響を与えたことは、『竹取物語』『宇津保物語』『源氏物語』に反映されているという意見もある。
アスターナ216号墓の墓室に描かれた「四聖人屏風図」。
唐代の作。
“6つに区切られた画面中央の4人は、右から「玉人」「金人」「石人」「木人」と名づけられ、それぞれが特有の人格を表している。「玉人」は清廉潔白、「金人」は言を慎む、「石人」は物に動じない、「木人」は正直な人格の象徴で、儒教の教えを絵解きしたものだという”【新シルクロードの旅(講談社)】

アスターナの墳墓も盗掘にあっていますが、流砂で埋め戻され、それ以上墓室が荒らされるのが防がれたそうです。
そのため、比較的保存状態のよい墓室、多くの副葬品などの文物が今に残され、「地下博物館」となっています。
昔は、荒れ地に墓穴が点在するだけで、荷台にツアー客を乗せた軽トラックがすぐ近くまで乗り付けていました。
 “伏羲と女媧の父がかつて自身が閉じ込め、自分の子供たちによって解放された雷公と戦ったが、雷公が洪水を起こして攻めたために二人を残して人類が滅亡してしまう。兄妹は雷公を助けた時に彼からもらった種を植えて、そこから生った巨大な瓢箪の中に避難して助かり、結婚して人類を伝えたとある”【ウィキペディア】ということで、中国版「アダムとイブ」といった神話です。

アスターナ古墓群(-こぼぐん、中国語: 阿斯塔那古墓群、英語: Astana Tombs)
この古墓群はトルファン市街区の南東36キロメートルのところにあり、18世紀ヨーロッパ人学者が発掘して以来、発掘は2013年現在も続いている。地下の各墓室へは斜めの参道で下り、墓室は上から見ると「甲」の字のようになっていて、奥の両側と正面に副葬品

1929年から今日までに、考古学者によって14回発掘が行われ、全部で500基の墓が調査された。そして文書、墓誌、絵画、泥俑や陶製、木製、金製、石製の器物、古銭幣、絹織物、綿織物、毛織物などの貴重な文物が1万点以上出土した。とりわけここから出土したミイラは、エジプトのミイラに匹敵するといわれる。1988年には全国重点文物保護単位に指定された。またアスターナから出土した文書類や百点を超える墓誌の研究を通じて、西晋泰始9年(273)年)に始まり、唐建中3年(782)にいたる文書の存在が確認されている。この期間は、晋から十六国にいたる第1期(3~5世紀)、麹氏高昌国の第2期(6~7世紀中頃)、および唐の西州に属していた第3期(7世紀中~8世紀)に分類されている。今日では両者あわせて数千基ともいわれる墳墓が発掘され、多数の文物が「新疆ウイグル自治区博物館」に展示されていて拝観出来る。アスターナは、ウイグル 語で「首府」と言う意味だそうだが、「休息」と「安眠」の意味もあるらしい。ちなみに、大谷探検隊が持ち帰った発掘品には、アスターナ出土のものと高昌古城(カラ・ホージャ)出土の物の、両方が含まれている。
入り口の広場にある、西域の伝説にもとづく石像。
十二支像もここから出土した俑をモニュメント化してある。私とWIFE、ガイドの董さんと、それぞれ自分の干支と並んだ。
董さんに「そりゃ豚かい?」(亥 十二支)とからかうと「似てますねぇ。」と笑っていた。己を知っていて非常に宜しい。
 この土の下すべてが、高昌王国の庶民達の墓である。勿論豪奢な生活を営んでいた貴人たちの墓も多い。
またここからは旧石器も発見されている。遙かな古代には人々が生活していた集落でもあったのかもしれない。
 三つの古墳を見学する。この一帯は乾燥地帯で、地下水位が低いことから出土品の保存状態が非常によく、高昌国の民族や歴史を知る上で重要な遺跡となっている。門を入っていくと、砂漠の中に土饅頭のような盛り土がいくつもあり、その中にいくつか地中へ潜って見学できるようになった古墳が口をあけている。幅 1.5mほどの墓道があり、石段やスロープ状に地下道が墓室まで伸びている。古墳の中は洞窟のようで、どの古墳も裸電球一つという設備である。
1959年、アスターナ北区302号憤から天馬文錦(上左)が出土した。この墓からは唐・永黴四年( 653)の墓誌銘も出土していて、その錦には円形の連珠文のなかに向き合った2頭の、翼を持った天馬が配置されていた。更に天馬を詳しく見ると、頭には冠を戴き、4本の足にはリボン飾りがついている。この天馬の足飾りの起源はどうやらササン朝ペルシャにあり、古くエジプトのアンチノエのエジプト人の墓から出土した天馬文錦(現在、リヨン織物美術館蔵。上中。)にも認められる。すなわち、 連珠文の中に一頭の立派な有翼天馬が左向きに大きく配置され、同じく冠を戴き足のリボンを付けている。ササン朝の天馬文錦の、イランにおける残存例は極めて希だが、その現物がエジプトに渡って発見され、またその意匠がトルファン・アスターナに伝わったのである。しかし、アスターナの302号憤にまで伝わるには、その前に幾段階かあり、まずソグドを介した事が確認される。サマルカンド近くのアフラシアブで宮殿遺跡が発掘され、その壁画に描かれた騎馬図(上右)の馬にこのリボンが飾られていたのである。馬には翼がなく天馬ではないが、盛装の貴人が乗り、リボン飾りはペルシャの天馬文から借用したものとみられる。そして面白いことに、この壁画騎馬図の意匠が、前述したソグド系の虞弘墓石槨浮彫画像にそのまま取り入れられていたのである。石槨には冠をかぶり頭光をつけた貴人が馬に乗って闊歩する光景が二面描かれており、その足にリボンが確認され
る。従って馬のリボンの意匠をペルシャからアスターナに伝えたのはソグド人であることがわかり、国際商人としてのソグド人の活躍が窺える「ソグド」の名前が歴史に登場するのは、アケメネス朝ペルシャのダレイオス大王(在位紀元前522~486)の碑文に、ペルシャの州のひとつとして、「Sug(u)da」とあるのが最初である。アレクサンドロス大王は、この地を征服するのに極めて手を焼いた。その後、『史記』や『漢書』では「康居国」として紹介されている。漢書によると、戸数12万、人口60万だった。また時代によっては、「栗特(ソグド)」、「?利(ソグド)」、「悉万斤(サマルカンド)」などとも呼ばれた。
ソグド人は、独自では大きな国をつくらず、他の民族の国家に政治的には属しながらも、経済的にはシルクロードの商人として活躍していた。玄奘の『大唐西域記』では、”力田(農民)と逐利(商人)が半ばしている”と記されている。
商人が人口の半分もあったとは、注目すべきことである。ソグド人は、中国にも集団で村を作って住み、出身地ごとに異なった姓を名乗っていた。石(タシュケント)、安(ブハラ)、何(クシャーニヤ)、曹(カブーダン)、康(サマルカンド)、米(マーイムルグ)、史(キッシュ)などが知られている。ソグド人は、独自の大国は持たなかったが、独自の「ソグド文字」を創造した。ソグド文字は、西方のアラム文字をもとに発展した文字で、この文字は東に伝えられ、後世のモンゴル文字や満州文字のもとになっている。ソグド人たちは、商品の移送だけでなく、文化や文字も伝えたのである。
唐の天宝14年(755年)、玄宗皇帝が重用した節度使の安禄山が、突如反乱を起こした。安禄山は、その姓からソグド人だったといわれている。安禄山は、ソグド商人たちを利用し、軍資金を貯えていたことが想像できる。安禄山が実子に殺された後を継いだ史思明も、同じくソグドの出身者である。763年、ウイグルの援軍を得た唐朝によって「安史の乱」は鎮圧された。
乱の後、唐ではソグド弾圧の嵐が吹き荒れた。「胡面の人間がことごとく誅された。胡人を殺した者には賞金が与えられた」と
伝えられている。同じ頃西方ではイスラムに侵略され、780年ころ、家を捨て山中に逃れようとした1万人以上のソグド人の集団が虐殺された。さらに北に逃れたが、ここでも同朋1万4千人が殺された。10世紀になるとソグドの文化は消滅した。
昨年(2005)、新聞に「中国でソグド人の古墓が発見された」という記事が掲載された。このことは、シルクロードを往来していたソグド人達が遥か中国の果てまで来て暮らしていたことを示すものだった。当然、古代から遣隋使・遣唐使たちが行き来していた中国と日本の関係であるから、商人であるソグド人たちが来日していないわけはない。しかも渤海使として日本を訪れた人々の中にも、ソグドの名前を持つものが多く存在したことは史料からも明らかである。彼らがもたらした品物や書物や文化は、当時の貴族や知識人たちの憧れの的だった。そして異国人との出会いは更に興味深かったに違いない。これらの出来事が その後の日本文学へ多大な影響を与えたことは、『竹取物語』『宇津保物語』『源氏物語』に反映されているという意見もある。
アスターナ216号墓の墓室に描かれた「四聖人屏風図」。
唐代の作。
“6つに区切られた画面中央の4人は、右から「玉人」「金人」「石人」「木人」と名づけられ、それぞれが特有の人格を表している。「玉人」は清廉潔白、「金人」は言を慎む、「石人」は物に動じない、「木人」は正直な人格の象徴で、儒教の教えを絵解きしたものだという”【新シルクロードの旅(講談社)】

アスターナの墳墓も盗掘にあっていますが、流砂で埋め戻され、それ以上墓室が荒らされるのが防がれたそうです。
そのため、比較的保存状態のよい墓室、多くの副葬品などの文物が今に残され、「地下博物館」となっています。
昔は、荒れ地に墓穴が点在するだけで、荷台にツアー客を乗せた軽トラックがすぐ近くまで乗り付けていました。
 “伏羲と女媧の父がかつて自身が閉じ込め、自分の子供たちによって解放された雷公と戦ったが、雷公が洪水を起こして攻めたために二人を残して人類が滅亡してしまう。兄妹は雷公を助けた時に彼からもらった種を植えて、そこから生った巨大な瓢箪の中に避難して助かり、結婚して人類を伝えたとある”【ウィキペディア】ということで、中国版「アダムとイブ」といった神話です。
と書かれておりました。
この投稿は年配夫婦の旅行記のようである。
流石によく勉強されているようで、読んでいて、自分が旅行しているようであった。
この旅行記に感謝します。


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