Mayulogue

La pensée et le discours sur la musique et la passion de Mayu


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2001年10月22日(月) lose one's energy

萎え・・・かなり萎え!モチベーションが維持出来ない。
負けてる・・・自分に負けてるよ。

早く実習も終わって欲しい。
でも、終わったからといって受験勉強するかといえば怪しい。
今日は訪問介護講座を開いている会社のボランティアに参加してきた。
お年寄りとのボウリング大会。
何故だか、めっちゃ鬱だった。
凄いやっつけ仕事をしている自分が情けなくなった。

でも家にいても全然勉強が捗らない。
今まで浚っていたことが、飛んでいってしまった感じ。

またまた鬱だ。
何かが心に引っ掛かっているんだと思う。

改めてナースを目指す動機というか志望理由を自問自答。
打算的なことしか思い浮かばない。

完全に駄目だ。
こんなくだらない事で気持ちが停滞するなんて。

堅実な道を歩むべきだろう。
来年の春、あたしは何処で何をしているのだろう。
どんな気持ちでいるのだろう。

想像がつかないのではなく想像する勇気がないのだ。
典型的な怠け者になっている。

何処でも良いから入れば良いと思っていたが、経済的な理由から制限と条件もついた。
来年の春からの事を考えて、子供の保育園の転園届けも出してしまった。
母には、子供の送り迎えの事で負担をかけるだろうな。

待てよ・・・あたしの子供じゃないんだよな。
でも、そんなのは言い訳というか仕方のない事。
誰の為の諸々の努力かといえば子供の為でもあるんだよな。
行く行くは甥っ子を自分の子として引き取りたいと思っている。
その為にちゃんとした大人にならなければという気持ちもあった筈なのだ。

やれるだけの事は精一杯やらなければ・・・
浪花節じゃいけないんだけど現実はそうせざるを得ない。

何処かでウマく折り合いをつけなければいけないのだ。
迷いがあるけれど、それは医療従事者になる事への不安や迷いではない。

子供と一緒に生きて行く将来のヴィジョンが描き切れていないから迷っているのかもしれない。
あとは曖昧な覚悟のせいだろう。




2001年11月10日(土) a heart

介護実習を終えて思った事と云えば、昔(20代前半の頃)教育実習で、ある中学校で3週間過ごした想い出。
あの当時は、実習を終えて最終日に生徒達から色々な色紙への寄せ書きやらアルバムとかビデオとか貰った。
でも、別れる事へ淋しさも何もなかったんだよね。

ピアノが下手糞だったあたしは、授業の準備とか練習でゆとりがなかったからなのかもしれない。
それとも、単にあたしが人間的に未成熟で幼かったからかもしれない。

でも、今回の老人保険施設で過ごした2日間で…たった2日間の事だったけどお年寄りと別れるのがとても辛かった。
実習の終わる僅かな時間であったが、ある利用者達から掛けられた言葉があった。

「アンタの手は暖かいねぇ…それに此処の先生達と違って優しい顔をしてるよ…今日帰るなら私も一緒に連れていっておくれよ」

此処の先生っていうのは介護職員のことである。

他の利用者さんもあたしの手を握りたがる。
軽度痴呆で入所している方々から「アンタの顔はキレイだねぇ…それにこんなに優しい子にあったことはないよ」と云われてもねぇ。

此れはまあ、お年寄りの社交辞令ですからね。(笑)

でも中には理学博士で元大学教授である女性入所者が居らっしゃって、とても痴呆で入所されているとは思えない学術的なお話を聞かされた。
こう振り返ってみると、やはりコミュニケーションっていうのが総ての基本であって、どんな事情や病態であろうと対等な人間同士の心のふれあいというのが如何に重要かということがわかる。

他の実習生は壁際でヴォケっと気だるそうに突っ立っているだけ。
入所者の方々と別れることを思い手を握っていると、すごく悲しくなって涙が零れてしまったのだ。

何故だろう?

もう2度と逢う事はないだろうし、確実に近い将来お亡くなりになられると思っているからなのだろうか。
以前、老研病院へ面接という事で出向いた3日間にはこんな事も考えはしなかった。
その時は婦長や看護部長との3日間の攻防と昼食を御馳走になった事くらいしか印象にはない。

医療の現場でターミナルケアという言葉があるが、あたしもいつかは直面するかもしれないし、今回の介護実習で得た事は大きい。
正(清)の部分も負(腐)の部分も、介護福祉や医療看護という仕事を抜きに考えても、この時期に経験したという事は、今後のあたしの生き方に於いて重要な意味をなすであろう。




2001年11月12日(月) Karma

今日、母の前で泣いてしまった。
妹の病院に毎週付添う事も、もう2年半になるが病状は一進一退。
ほぼ3ヶ月に1回の割り合いで自殺未遂を繰り返す妹の苦しみも充分に理解出来る。
別に彼女は死にたい訳ではないのだ。
総ての生きる望みというか見通しのくらい将来に悲観して、それから逃れたい一心なのだろう。

妹の無節操な一目を憚らない行動や言動から妹を恥じに思っていると云う事を初めて母に告白したのだ。
また、何故あたしがこうも看護職や医療または介護福祉の仕事にこだわるのか、母に対して初めて自分の心の内を語ったっていたら、やがて其れは嗚咽と変わっていったのだ。

あまり日記では語らなかったが、あたしは現在都内のGID外来でお世話になっている。
また、自分が己の生物学的な性に違和感があった訳でもなく、振り返ってみると自己否定から来る代償的自傷行為に過ぎないのだと自己分析している。

以前看護助手の面接を受けた際も、面接官に「なぜ在日系もしくは民医連・医療生共(共産党系)とかの病院や施設をあたられなかったのですか?」とかならずと云って良い程質問された。

何もかも過去を精算して、新しく人生をやり直したい一心なのだと母に訴えた。
新しい自分、そして新しい人生を構築し心穏やかに生きて行きたかったのだ。

それには、政治的な圧力や柵に翻弄されず、人として誇りある生きざま甥に示したあげたいと心から思っていたのだ。
あたしのセクシュアリティについては承知して居た母に初めて、自分がずっと死にたい思いで胸が一杯だったと事を告白した。
母は目を伏せて只々黙っていた。




2001年11月13日(火) Nursing file

最近あたしは、ある雑誌の手記に引用されていたマーガレット・ミードの言葉に触れて心が癒され、そして救われる思いがしたのだ。

『(中略)…今まで私は看護職にある人ならば誰もが行っている事をどのように定義したら良いのだろうか。また、看護職にある皆さんが私たち社会になさっている貢献をどのように言い表わしたら良いのだろうかと考えて来ました。そこで私の考えを申しましょう。皆さんは弱く傷付き易い者をかばい守っているのです。皆さんは、危険な状態にある、またはその可能性のあるすべての人の傍らに立って、どんな種類の危険からも…病気からも、心の張り詰めた状態からも、ショックからも、疲労からも、かばい守っているのです。(中略)…弱く傷付き易い人々ならば誰にでも、皆さんの手は差し伸べられて、その人々が社会から忘れ去られてしまったり、必要な世話が受けられなくなったり、充分な休息が得られなかったり、仰床せねばならないのにそれが出来なかったり、悲しみに沈んだ人々の訴えを聴く事が出来なかったり、安息出来る場所を見い出す事が出来なかったり…そういう事を許さない事を目標にして皆さんはこの社会で働いておられるのです。どの様に世の中が変わろうとも、弱く傷付き易い人々をかばい守る事はどうしても必要となるのです』

此れは滋賀医科大学医学部看護学科教授の岡部恵子さんが書かれた手記の中の一節で『性同一性障害は看護の対象である』という部分で引用された言葉なのである。
岡部教授の教え子が卒業研究にGIDをテーマにしたいと申し出た事から「性同一性障害が母性看護学の研究になるのだろうか?」といった疑問から悩んでいる時に思い出した言葉だそうだ。

学生の当事者である友人の幸せを願う故の強い思いを通じ、やがて当事者の苦悩について理解を進めて行く事で現状を知り愕然とし、様々な問題を提起することで看護の在り方、また共に社会に生きる人間同士の幸福追究に至るまでが手記で綴られている。

最近、自分の事で思い悩んで居た事も、此れに類し関連する事柄であって、それでGID外来でホルモン療法を受けているとマズいかなと不安になり、日本看護協会へお伺いを立てていたのだ。
答申があったのだけれど、う~ん・・・




2001年12月10日(月) make up for lost time

夕べからかなり激鬱で今日の午後まで何も出来なかった。
ネットで友達の日記を読んだりしていると、皆も頑張って生きているんだと改めて思った。

そうこうしている内に眠ってしまって其の時に見た夢が試験会場でのひとコマ。
夢から覚めて蹲っている自分の事を考えてみた。

もう、無駄な時間は過ごさない。
自分にプラスにならない事には、金輪際関わらないし振り回されない様にする。
たった1度の人生だもんね。
傷付いたり悔やんだり嘆いたり落込んでたりしている事よりも、前向きに自分の夢や幸せのを実現させる為に時間と労力を費やそう。
あたし…自分の為にもう1度だけ頑張ってみるよ。




2001年12月08日(土) Synchronism

起きても微睡みの中で夢の記憶が脳裏から焼き付いて離れない。
其れは、あたしの祖母が老衰で亡くなる瞬間を看取る夢だった。

不思議な感覚があった。
夢の中では静かに息を引き取った祖母の死亡診断をするドクター、そしてカーテン越しに後処置をするナース・・・
場所は記憶にない風景…其れも何処か見知らぬ片田舎の民家なのだ。

実際には有り得ない事が夢である証しなのだが、気に掛かる事があった。
不可解な事に老衰で亡くなった筈なのに、後処置をしてあたしの前に現れたナースの白衣に血液が付着していたのだ。
其れは何を暗示して居たのだろうか。

そして数時間後、妹の友達からあたしの元へ電話が掛かって来た。
妹が通算で数十回目の自殺未遂を図ったのだ。

今度は薬だけではなく傷も浅く出血も少なかったがリストカットまでしていたらしい。
あたしは狼狽する事もなく妹と同居している人に指示を出し、駆け付ける事もしなかった。

言葉では言い尽くせぬ近親者の臨終を看取る光景や現実に起きて居る家族の惨劇を虚ろな心で見据えて居る自分が何であるか。
そしてあたしの心の所在を確かめる術もなく1人部屋の中で佇んで居た。
其の事に対する自責の念は、決してあたしの空虚な心に宿る事はなかった。




2001年12月31日(月) see the old year out

ちょうど1年前の日記を読み返して診て気付いた事。
20代最後の暮と30代になって最初の暮に綴る言葉の違いに驚いてしまった。
実際此処1年で大分「らしく」なって来たような感じがする。

身勝手に奔走し七転八倒していたあの頃より誰かを大切に想い、また仲間達と一緒に築いて行く心の拠り所としてのコミュニティの存在・・・
何れを取っても今のあたしには大切な心のエッセンスなのである。

夕方、訪問介護の方で御一緒させて戴いた年上の女性から電話があった。
正月の食材を調達するため上野や近所を忙しく廻っていたため掛け直して貰う事にし、夕食も終わりマッタリしていると其の女性から電話が掛かって来た。

話を割愛して説明させて貰えば、彼女の用件とは自身が癌の告知を受け年明けに入院するとあたしに伝えたかったそうだ。
「市原さんから学び感じ取った事を伝えたくて…頑張って下さいね」

お互いに辛い事でもあたしを慕い頼り、またあたしの言葉や想いで救われる人々の魂の存在・・・
運命的なものや使命感さえ感じる日常のひとコマ。
人間の醜悪な欲求を排して純粋に生きる事、また其れを守り育む事の大切さを学んだ1年でもあった。


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30歳になった初めての年。

こんな事を思って生きていたんだぁ・・・と昔の日記を読んで少し心が痛くなるんです。

病や老齢の方々へ寄り添ってあげたい。

純粋にそれしか考えていなかったのに何故ナースの道を諦めてしまったのだろう。

2001年のの頃って精神科病棟のナースになりたいと考えていた時期だったんですよ。

音楽を心の片隅へ追いやっていましたから。

ターミナル・ケアとかQOLとかと真剣に向き合っていましたし・・・

読む本・読む雑誌も隔たっていましたよ。

先輩やナースの先生から謂われて徹底的に教え込まれた事。

「褥瘡つくるはナースの恥」とか「看護の意味は、手と目で護ると云う事です」とか・・・

えー!?あたしナースでもなければまだ看護学生でもないのに!

・・・とか思っていたんですけれど臨床では、家族もナースも学生も手を必要とされて居られる方にとっては誰も皆同じなんだと思わされたんです。

褥瘡(床ずれ)の原因になる様なベッドメイキングしたら何度もダメ出しされて出来るまで帰してもらえなかったり、寝たきりのご老齢の方の着換え(当然寝かせたまま)や体位変換とか涙が出るほど先生達も厳しかったですよ。

購読雑誌が「月刊ナーシング」 とか「プチナース」 でしたから。w


フルチン日記-月刊ナーシング


フルチン日記-プチナース


なんかね・・・

この時の甥っ子が今年小学校6年生。

何と現在、身長161cmで凛々しくも可愛い素敵な男の子になっていますよ。

振り返れば当時が懐かしいと云うか、自分もまだ健康だったんだなぁと微笑ましく思えました。

あたし何で今、音楽に戻っているのだろう?と今日も自問自答の日々です。

こうして壊れ者の音楽屋さん日記を綴る事も無く、おたんこナース日記を綴って居たかも知れないですね。

結局その頃はまだ
人と寄り添う事の躊躇いがあったんだと思います。


40歳のになった時ってあたし何しているんだろう?

自分の人生さえ分からん。w

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