「読書はしないといけないの?」という新聞の投稿に、私の大好きな歌人 ホムホムこと穂村弘さんが考えを寄稿していました。
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「読書は楽器やスポーツと同じように趣味の範囲であり、読んでも読まなくても構わないのではないか」という問いに「賛成」と答えることに不安と躊躇いを覚える、と穂村さんはいっています。
その理由として、読書という行為は言葉と密接にかかわっていることを挙げていました。
言葉とは、他者とのコミュニケーションに必要なだけでなく、一人でも無意識に言葉を使って生きている。
言葉を使って考えたり、悩んだり、悲しんだり、判断したりを繰り返している。
映画などで、親から出生の秘密を告げられた主人公がショックを受けるシーンでは、それまで信じていた世界が親の言葉によって覆る。
親が出生の事実を語る前と後とで血のつながりに変化はないから、正確に言うと、覆ったのは世界そのものではなく、主人公の心の中の世界像が変わったのだ。
エスカレータの横をガンガン大きな足音を立てて降りてゆく女性にイライラしていると、ある時、知人が言う。
「サンダルの構造上、ああなっちゃう、カスタネットガールという種族なんです。」と。
すると、不思議なことに、彼女たちに会うと「カスタネットガール」と面白く感じるようになり、自分自身が忍耐強くなったわけではないのに、一つの言葉を知ったことで世界像や感じ方まで変化している。
最近、私がはまって読んでいる、養老猛司さんも同じようなことを書いています。
戦争を体験し、8月14日と15日では、世界そのものは変わっていないのに、言葉一つで、世界像が変わってしまった。
正しいと信じていたものが、信じられなくなり、正しさがどこにあるのかわからなくなってしまった。
世界とは、人の言葉によって信じ込まされたものを見ているのだという経験から、モノだけをそのまま見るようになり、モノである「死体」を前に解剖学を専門とし、虫トリが趣味なのだそうです。
穂村さんの言葉にもどって。
私たちが一つの共通の世界に生きているというのは、実は錯覚で、本当は一人ひとりの内なる世界像を生きているのに過ぎないんじゃないか、そして、言葉はそのことに深くかかわってるらしい。
蜘蛛が自分の糸だけで編んだ巣の上で生きるように、我々も普段は意識しないけど、自らの内なる言葉(糸)が作り出した世界像(巣)の上で生きている。
つまり、人間は言葉の介在なしに、世界そのものを直に生きることはできないんじゃないか。
読書だけが、内なる言葉を養うわけではないけれど、本は言葉の、他者の世界像の塊である。
私が読書に特別な意味を見出したくなるのはそのためではないか、と考えた、
とあります。
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アーユルヴェーダですすめる瞑想は、そうした言葉による思考を止める時間。
眠ってしまうこととは違う、音や温度がそこにあるのは感じているけれど、それに対する感情を言葉で認識するスイッチを切っている状態。
そうすると、言葉で思考する状態を超えた「私」を感じることができるという時間です。
そうした行は、さまざまな形があります。
私が習慣にしている瞑想は、「マントラ」を唱え続けることで、自分の思考の言葉を止める瞑想ですが、ほかにも、別の何かだけに集中することで思考を止めるようにする方法があります。
念仏を唱える、座り続ける座禅などもそうです。
お茶を点てる点前に、亭主も客も集中する茶道も同じ空間を味わうことができます。
女性が、編み物やみじん切りなどの料理作業で、気持ちが落ち着くのも同じことではないかと思います。
一方、言葉で世界を知ろうとする読書とは、ビジネスや、対人関係をうまくするための会話術を身に着けるための情報集めのものではありません。
他者の世界像の塊に触れること。
そうして、言葉と五感がつながりあう体験、言葉を超えた体験を重ねることで、「五感」も鍛えられます。
自分が今まで気が付かないで見過ごしてきたことを、言葉で表現する人に出会うからです。
言葉にしないと「ないもの」と認識されてしまうけれど、言葉で表現することで「気づく」ようになる。
他者の言葉
感覚の体験
自分の内なる言葉
この3つの繰り返しは自分の生きる力、直観力となり、「たくましい巣=人生」を編み出すことができるのではないかと思っています。
失敗、痛い、悲しい、失う、などの体験も含めて、私たちの巣は、お日様や月の光に照らされてきらきら光る世界となるような気がするのです。
「読書」や「本」をテーマにした夜の茶会を開催したいと考えています。
他者の言葉
感覚の体験
内なる言葉の発信
その3つが茶室で味わえると考えると、わくわくします。
お好きな小説、気になる作家、テーマにしてほしい本などがありましたら、コメント、メッセージをお願いいたします。