2006-11-30

森光治忌

テーマ:我が家の家史

本日は、久留里森家の初代となる、森五郎兵衛光治の祥月命日。

今から遡ること、298年前の今日、下館城内の屋敷にて死去した。その歳、わずか18歳。


 久留里森家は、三日月藩初代藩主・森對馬守長俊の庶子から始まる家で、その庶子である光照の子孫である。光治は光照の長男であるが、森家の家譜では光治を初代とし、光照は元祖とか、先代と称している。故に私もこれに従うものであるが、本来ならば、光照が分家した初代、光治が2代と続き、以後私に到るまで一代繰り下がることになる。


光治は幼名を鶴松と呼ばれ、元禄3年3月8日に江戸に生まれた。

 鶴松と書くと、歴史に詳しい人は、秀吉の嫡男と目されて夭折した子供を思い浮かべる人もいようが、勿論まったくの偶然。

 母は藩主・黒田直邦の実家でもある中山氏で、これは水戸藩の付家老であった中山備前守信吉の養女と伝わる。すなわち光照の妻であるが、これには矛盾もある。


13歳のとき、下館城主・黒田豊前守直邦の小姓組となり、40石取りとなるが、まもなく、父光照が城代として下館城に行くことになり、小姓役を解かれて父と共に下館へ移った。その2年後の宝永5年11月30日、下館城内で死去した。 18歳の年齢からするに、病死であろう。

法名は實明院光治日閑大居士

江戸に運ばれて、深川の浄心寺に葬られた。


 いつの頃からか判らないが、光治には若い妻が居た。年齢から考えれば、死の直前と考えても良かろう。中山家に府川民英という家臣がおり、その娘であると書かれている。

 中山家は先述の通り母の実家であると共に、主君の実家でもある。森家の嫡男であり、そうした縁筋から妻を迎えるという事からしても、将来を期待された青年だったのは明らかである。


 若くして未亡人となった妻は実家に帰り、森家の家督は弟の光仲が継ぐこととなった。2代森清太夫光仲である。


こう書いてみると、一つの疑問に指しあたる。

光治は父である光照に先立って死した。 その光照は隠居前であり、立派に城代の役職を勤めていた。 つまり、家督は継承前であり、光治が初代に数えられるのは、不自然なのである。


 そして、後々の家督は弟の光仲が継ぐことになった。彼は2代目に数えられている。 原本となる家譜が書かれたのは幕末の天保13年のことであり、著者は六代光厚。 光厚が書き間違えたのか、それとも光治に対して追号の意を込めたのかは定かではないが、先人がこのように書き記したゆえ、私もこれに従うことにしている。


 若くして亡くなった光治については、この程度の記録しか残されていない。しかし、元々が300年近く前の記録である。これだけ残されていたことが奇跡といえよう。来年は300回忌となる。(回忌は1年繰り上げて計算されるため)


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