2006-10-03

関 衆利忌(没後300年)

テーマ:我が家の家史

今日は、関衆利という人物の命日。

関氏ではあるが、森家に所縁の深い人物である。

ちょうど300年前の今日、備中西江原(岡山県井原市)で死去した。


衆利と書いて、その読み方は色々あるようで、「あつとし」と読んでみたり、「もろとし」と読んでみたり。または訓読みで「しゅうり」と読む人もいるが、学術的には確実な表現だろう。ちなみに私は「あつとし」を採っている。


彼は津山藩2代藩主・森長継 の末子で、もう少しで5代藩主の座に就く男だった。

今、「もう少し」という表現をあえて書いた。


その理由をこれから書き並べていくわけであるが、総括して彼は悲劇の人だったという結論に尽きる。


今から313年前の元禄10年(1693)6月20日、津山藩4代藩主・森美作守長成が、江戸の藩邸で静かに息を引き取った。享年27歳。


 長成公については以前にも書いたが 、若くして世を去った長成公には嫡子には恵まれなかった。 嫡子のない藩主が死去した場合、後継者は当然父方の兄弟、従兄弟へ家督の相続権がうつる。それも形式上は、養子ということにして。


長成公はかねてより結核の病に犯されており、毎年春と決められていた参勤交代も病のために引き伸ばしとなり、5月になってようやく江戸にやってきていた。 だがその直後に長成公の容態は悪化。藩の重臣も公の回復を断念して後継者を真剣に検討し始めた。長成公が亡くなる前に、幕府へ養子願いを出さなくてはいけないからである。 藩主の跡目相続は、既に一家の相続というレベルのものではなく、藩の存続、如いては藩士とその家族の生計に係る重大事だった。また、大名家の家督相続は、事前に幕府の許可を得ておくのが原則だった。藩主が死んでから届けを出すのは、末期養子とされて、改易の対象にもなった。


 ちなみに長成の父は25年も昔に死去。3代藩主となった叔父の長武も昨年死去していた。その他に長成公には長俊、長治、長基、長直、そして衆利といった叔父がいたが、それぞれ立場や事情があって藩主候補に適さなかった。


その結果、白羽の矢が立ったのが衆利だったのである。


衆利は藩主家に生まれながら、末子であるために津山藩家老・関家の養子となり、津山藩家老として領国の津山に居た。江戸の重臣が一方的に決めたこの知らせによって、衆利は直ちに実家へ復縁させられて森姓に帰し、長成の継嗣となった。


そして6月20日。


長成公の死去。その知らせは数日で津山にも届いた。


津山に居た衆利は「家督相続の御礼」という、将軍綱吉に拝謁する儀式のため一日も早い参府を求められ、7月4日に津山を出発、東海道を東へと急行した。


通常、大名家の旅行は宿の手配など先立つ準備が要るため、一定の準備期間が必要だった。6月20日の死から最低でも5日はかかって津山に知らせが届き、その十日後には出発というから、緊急事態ながらも驚異的な速さだったといってよい。


7月4日、津山を出発。旅は順調に進み、12日頃には桑名の縄生村までやってきた。


しかし、縄生村の宿所・信光寺で事件が起こる。詳細には何があったかは伝えられていないのだが、諸々の史料はここで衆利の異変があったことを告げている。共通することは「衆利の乱心」。失心とも書かれている。


この事件が発端となって津山藩18万石は改易となるわけだが、いくつかの史料を元に考察した私なりの見解を述べると、次のようなものだったと思われる。


 もともと激情家だったと伝えられる衆利。その気性はそれまでの職務でも散見されていた。年も25歳と若く、喧嘩っ早い気質だったのだろう。

 また、末子ということで養子に出され、後継者争いからは蚊帳の外に置かれて、平穏な上級藩士の生活を送っていたのが、藩の存続に係る危急の事態に突然引っ張り出されたことに、何がしかの不満やストレスは感じていたものと思われる。私だって会社の存続が危うい時に管理職に祭り上げられたら、同じような心境になるだろう。

 それが、滞在していた縄生村の宿所で、何らかの事情があってキレてしまい、側近を手討ちにしたらしい。

縄生村での乱心事件について、その事情はどの史料にも見られないが、幕府の公式記録である常憲院殿御實記(通称:徳川實記)には唯一、「近習に刃傷」という文言が見られた。


 だが、刃傷という文字だけでは、殺人か殺人未遂かはわからない。しかし、私は衆利が近習を切り殺してしまったのではないかと考える。正確に言えば、刃傷の数日後に、傷が癒えずに死に至ったというところだろう。

 また、その傷の手当てのために地元の医師はもちろん、遠く津山や江戸からも呼び寄せられた。

これで刃傷が即死のようなものでないことはわかる。しかし、殿様が泊まっている宿所に医師が盛んに出入りする風景はどう見ても不自然な風景である。そのため、当地を領していた桑名藩士がこれを藩に通報。 直ちに仔細が調べられ、その調査報告書が密かに幕府へ送られた。 


まだ医師の出入り位ならば、緘口令を敷き、病ということにすれば何とかなろう。それに刃傷した相手が近習という身内ならば、ある程度の情報を秘す事もできたはずである。だが、死に至ればそうはいかない。遺骸の処置が発生するわけで、こうなると外部に知れ渡る。桑名藩が報告書を書いたのも、こうした事態によるものかもしれない。


幕府はこの書類を元に、江戸の津山藩邸に出頭を求める。


だが、そのような報告書が届いているとは知らない、藩邸の重臣達。また、彼らにしても連絡待ちの状態で、遠く桑名で起こった事件の仔細は把握していなかったのだろう。



江戸城に出頭し、「衆利は発熱」と報告し、治り次第に江戸へ参府すると弁明した。


しかし、その後まもなく老中方から桑名藩の報告書を知らされ、乱心による刃傷であることに弁解の余地がないことを悟り、スゴスゴと江戸城を後にした。ここに、衆利は乱心ということで決した。


 発熱などの病気であれば、遅延も許されようが、乱心して刃傷沙汰とあれば、到底藩主になる器とは認められない。


だが、その衆利を後継者に指名したのは、前藩主・長成公であり、その長成公が亡き今、新たな後継者を指名することは叶わなかった。 つまり、跡目相続不能となり、断絶ということになる。


 乱心や失心とは心神喪失や発狂、躁鬱(そううつ)など、江戸時代には色々な意味で用いられていたが、その多くは今で言う「キレる」だ。考え方によっては発狂もその部類に含まれたかもしれない。この事件の数年後に忠臣蔵で知られる松の廊下事件があったが、これも浅野内匠頭がキレた事による。その後、これを乱心とするか私怨とするかは本人の意思次第でもあり、浅野の場合は自己申告によって私怨となったわけである。


 乱心と私怨では罪状も変わってくる。 当然ながら後者の罪は重く、乱心とした場合は、いわゆる心神耗弱者として親類に預けられ、余生を送ることになる。衆利も事件後は兄の家に預けられていることからも、やはり「乱心」として扱われた事がわかる。浅野の場合は江戸城中で抜刀したこと自体が大きな罪であり、乱心・私怨のいづれに転じても、重罪は免れない。それならばプライドを保てる私怨を選んだ、というのが浅野の本心だろう。


かくして、跡目が不在となった津山藩は改易となり、長成死去から一ヵ月半、衆利乱心から半月後の8月2日、幕府の上使・田村右京太夫が津山城に到着し、森家は城地を引き渡した。森宗家が消滅した瞬間である。


だが、衆利が「乱心」として片付けられたことは、不幸中の幸いをもたらした。



長成の祖父、衆利にとっては父である長継は89歳で存命しており、幕府は長継が津山藩内で領していた隠居料2万石を備中西江原に移して保護した。また、分家となって津山藩に支藩を持っていた衆利の兄、長俊と長治の所領も領地替えで保証された。後の三日月藩と新見藩である。

 そして衆利の身柄は父の長継に預けられ、西江原に蟄居することになった。これらは衆利が乱心として扱われたから実現できたことである。 仮に衆利が幕政を批判したり反社会的な主張をして、外に漏れたりしようものなら、すべては取り消されて家名すらも残されなかっただろう。


しかし、長継は事件後、衆利に会うことは無かった。

言い換えれば、衆利は父に対面することが出来なかったということになる。


89歳という、当時では驚異的な高齢と、江戸での隠居生活が長かった長継は、備中に所領を持ったまま江戸で暮らし、翌年に死去。衆利自身も桑名から津山へ引き戻され、更に西江原に移されたため、事件後江戸に行くことはついに無かった。そして、事件から8年後の宝永2年(1705)、西江原に蟄居したまま世を去った。享年33歳。


法名 壽仙院殿鶴林全松大居士


長継の所領を相続した衆利の兄、長直はその後、播州赤穂へ領地替となり、西江原を去っていった。


そのため、岡山県井原市にある永祥寺には、衆利の墓石が忘れ去られたように残されている。


 実は、事件が起こる数年前、犬公方とあだ名された綱吉の命によって津山藩は東京の中野に広大な犬小屋を造らされている。


衆利は総奉行、いわゆる総責任者としてこの任に当たった。とはいえ、当時まだ23歳。主要な業務は重臣が支えていたと思われる。


 だが、江戸や津山から呼び寄せた数十万人もの人夫を動員して、たったの2ヶ月で完成させたこの工事は、幕府の外様大名に対する扱いに少なからず不満や理不尽さを衆利の心に感じさせたことだろう。やっとのことでそのお役を終え、今度は藩主になれと求められ、辟易したというのも衆利の本音かもしれない。

 若さゆえに周囲の目を気にせず、平気で幕政批判をしていたとも伝えられる。桑名で刃傷を受けたのはそんな衆利を諌めた老臣だったのかもしれない。


18万石の大藩とはいえ、もはや決して財政豊かな藩ではないのである。先代・長成公の死も過労死同様だったと伝えられている。苦労することは目に見えているわけで、そんなストレスを抱えたまま、桑名での爆発。これらはすべて推察でしかないが、もしこの通りだったとするならば、誠に悲劇の公子だったというべきだろう。


森家を潰した人物、として片付けることは簡単かもしれない。 されど、わずか25歳の身に、ある日突然美作一国を担わされ、その課された重圧やプレッシャーは計り知れないものがある。これは当人の身にならねば理解できないだろう。



そう考えれば「潰した」は失礼。悲劇の人だったとするべきだろう。


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コメント

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2 ■■南心さん

関衆利については、事件が事件だけに、あまり詳細が伝えられていないのが残念です。
ですが、幕府や他藩の二次資料から見られる彼の記述は、やはり悲劇としか言いようの無いものを感じます。 歴史は勝者が自己に都合の良いように記す(表現する)ものですが、衆利のそれも、敗者として歴史に埋もれた代表例なのだと思います。

1 ■合掌

 私も近習を斬ったためだと思っています。それにしても衆利公は悲劇の人だったかも知れません。兄長直を差し置いて後継者に指名されたのは恐らく将軍家に拝謁していたからでしょうか(既に長俊・長治は別家していますので)。
 命日に因んで合掌。

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